透明な世界
一章 小さな眼鏡
教室の窓から差し込む春の光が、机の上で踊っている。
「ねえ、貸して貸して!」
休み時間のチャイムが鳴るやいなや、クラスメイトたちが私の机に殺到した。目当ては、私の顔にかかっている、小さな眼鏡だ。
「俺にもかけさせてよ!」
「私が先!」
「順番順番!」
賑やかな声が飛び交う。誰もが物珍しそうに、私の眼鏡に手を伸ばしてくる。
小学一年生で眼鏡をかけている子どもなど、このクラスには私しかいなかった。いや、この学年全体を見渡しても、おそらく私だけだっただろう。
「はい、じゃあ順番にね」
私は、作り笑いを浮かべながら眼鏡を外した。途端に、世界がぼやける。クラスメイトたちの顔が、水彩絵の具を水で溶かしたように滲んでいく。
「うわ、なんか気持ち悪い!」
「全然見えないじゃん!」
「これかけて歩いたら酔っちゃいそう!」
次々と眼鏡を試着しては、大げさに驚く子どもたち。私の眼鏡は、いつの間にかクラスの玩具になっていた。
本当は嫌だった。
眼鏡は大切なものだ。母に高いお金を出してもらって作ってもらったものだ。ぞんざいに扱われたくない。レンズに指紋がつくのも嫌だし、落とされて傷がつくのも怖い。
でも、断れなかった。
クラスの隅っこで小さく生きてきた私にとって、「嫌だ」と言うことは、とてつもなく勇気のいることだった。せっかくクラスメイトが話しかけてくれているのに、断ったら嫌われてしまうかもしれない。また一人ぼっちになってしまうかもしれない。
そんな恐怖が、いつも私の喉の奥に「嫌だ」という言葉を押し込めていた。
「はい、次」
私は、戻ってきた眼鏡をまた次の子に渡す。そうやって、休み時間が終わるまで、眼鏡の貸し借りは続いた。
授業が始まるチャイムが鳴って、ようやく眼鏡が私の手元に戻ってくる。そっとかけ直すと、ぼやけていた世界が、また輪郭を取り戻していく。
黒板の文字がくっきりと見える。先生の顔も見える。
ああ、やっと戻ってきた。
私は、小さく息を吐いた。
二章 暗がりの読書
目が悪くなった原因は、分かりきっている。
暗いところで本を読んでいたからだ。
私は本を読むのが好きだった。いや、正確に言えば、母が私を本好きに育てたかった、その結果だった。
母自身は、本をほとんど読まない人だった。家にあるのは、料理本と育児書くらい。小説や エッセイの類は、ほとんど見たことがなかった。
「本をたくさん読む子に育てたいのよ」
母は、よくそう言っていた。本好きへの憧れがあったのだろう。自分が持っていなかったものを、子どもに託したかったのかもしれない。
母の思惑は、見事に成功した。私も弟も、本の虫になっていった。
週末になると、母は私たち姉弟を連れて図書館に行った。児童書コーナーで、私は何時間でも過ごせた。『エルマーのぼうけん』『モモ』『こまったさんシリーズ』『はてしない物語』──次から次へと、物語の世界に飛び込んでいった。
街に買い物に行くときは、必ず一冊は本を買ってもらえた。書店に入ると、私と弟は真っ先に児童書売り場に駆け込む。
「上下巻の本、どうする?」
弟が、小声で囁いてくる。
「じゃあ私が上巻買うから、圭くんは下巻買って。家で交換しよう」
私たちは、そうやって共謀して、一回の買い物で二冊分楽しむことを覚えた。母は気づいていたかもしれないが、黙認してくれていた。
「くれぐれも暗いところで本を読んだらダメよ! 目が悪くなるからね!」
母は、本を買い与えるたびに、そう釘を刺した。
私は、その言いつけを破り続けた。
毎晩、毎晩、暗いところで本を読みまくっていた。
──結果は、推して知るべし。
でも、私には理由があったのだ。
三章 留守番電話の女性
我が家には父親がいなかった。
……というより、父だけ単身赴任で遠くに行っていたので、母のワンオペ育児状態だった。
父に会えるのは、年に数回程度。お盆と正月、それからゴールデンウィークに数日だけ。たまに帰ってくる父は、どこか「お客さん」のような存在だった。
三歳だった弟は、父のことを父だと認識できていなかった。
「ばいばい、おじちゃん!また来てね!」
帰り際、弟が無邪気に手を振った。
「違うでしょう!『お父さん、いってらっしゃい』でしょう!」
母が慌てて訂正したが、弟はきょとんとしていた。父は苦笑いを浮かべて、「まあ、しょうがないよな」とだけ言って、玄関を出ていった。
父がいない家で、母は必死だった。
朝から晩まで、私たちの世話に追われていた。食事を作り、洗濯をし、部屋を片付け、宿題を見て、寝かしつける。休む暇もなく、次から次へと家事が母を呼んでいた。
母が唯一、ほっと息をつける時間。それが、お風呂だったのかもしれない。
「いい?お母さんがお風呂に入ってる間、二人で静かにしててね。喧嘩しないのよ」
母は、私と弟にそう言い聞かせて、浴室に消えていく。
残された私たち姉弟は、リビングでぽつんと取り残される。テレビをつけることは許されなかった。
私は、なんとなく落ち着かなかった。母がいないと、家の中が妙に広く感じられた。妙に静かに感じられた。
そして、何より。
『只今、電話に出ることができません──』
留守番電話の、あの機械音声が怖かった。
母は風呂に入る前、必ず固定電話を留守番電話に設定した。万が一、電話がかかってきても出られないからだ。
時々、本当に電話がかかってくることがあった。
プルルルル、プルルルル。
古い電話機の、甲高いベル音が鳴り響く。
『只今、電話に出ることができません──ピーッと鳴りましたらお名前とご用件をお話しください──ピーッ』
機械的で、抑揚のない女性の声。
私は、その声が恐ろしくてたまらなかった。人間なのに人間じゃない声。感情がないのに、言葉を話す声。どこか冷たくて、どこか遠い声。
留守番電話の女性は、どこにいるんだろう。電話機の中?それとも、電話線のずっと向こう側?
私の想像は、どんどん膨らんでいった。暗い部屋で、一人きりで、ずっと同じ言葉を繰り返している女性の姿。そんなイメージが、頭から離れなかった。
怖い。
怖くてたまらない。
私は、毛布を頭からかぶった。そして、机の下に潜り込んだ。
机の下は、私だけの秘密基地だった。毛布がテントみたいになって、外の世界を遮断してくれる。
そこで、私は本を読んだ。
懐中電灯を持ち込むこともあったけれど、大抵は薄暗い光の中、目を凝らして文字を追った。リビングの明かりが、毛布の隙間からわずかに漏れてくる。その僅かな光だけが頼りだった。
物語の世界に入り込めば、怖さは消えた。
留守番電話の女性も、一人で留守番している不安も、全部忘れられた。
ページをめくる音だけが、静かに響く。
「お姉ちゃん、何してるの?」
時々、弟が毛布をめくって覗き込んでくる。
「本読んでるの。邪魔しないで」
「暗いところで本読んだらダメだって、お母さん言ってたよ」
「大丈夫だから。あっち行ってて」
弟を追い払って、また本の世界に戻る。
そうやって、母が風呂から上がってくるまで、私は机の下で本を読み続けた。毎晩、毎晩。
当時の私には、それしか恐怖から身を守る術がなかった。本を読んでいれば、怖いものが遠ざかっていく気がした。物語の中では、私は安全だった。
──でも、その代償は、すぐにやってきた。
四章 責められる
「黒板の字、見える?」
ある日、授業中に先生が私に尋ねた。
「……見えません」
正直に答えると、先生は困ったような顔をした。
「お母さんに伝えてね。一度、眼科に行った方がいいって」
連絡帳にその旨が書かれた。
家に帰って、恐る恐る母に連絡帳を見せた。
母の顔が、みるみる険しくなっていく。
「……眼科?どうして?」
「黒板の字が、見えないから……」
「見えない?いつから?」
「分かんない。でも、ずっと見えにくかった」
母は、大きくため息をついた。そして、私を眼科に連れて行った。
検査の結果は、近視。しかも、かなり進んでいるとのことだった。
「眼鏡が必要ですね」
医師の言葉に、母の表情が曇った。
帰り道、母は黙り込んでいた。私も何も言えなかった。車の中に、重い沈黙が流れる。
家に着いて、やっと母が口を開いた。
「どうして暗いところで本を読んだの?あんなにダメだって言ったでしょう!」
怒りと落胆が混ざったような声。
「……ごめんなさい」
私は、うつむいて謝ることしかできなかった。
本当のことは言えなかった。留守番電話が怖かったなんて。一人でいるのが不安だったなんて。そんなこと、言えるわけがなかった。
言ったところで、理解してもらえる気がしなかった。「そんなくだらないことで」と言われる気がした。
「眼鏡、高いのよ。知ってる?小学一年生で眼鏡なんて……」
母は、それ以上は言わなかった。でも、その沈黙が、何よりも重かった。
子ども心にも、わかっていた。眼鏡は高価なものだ。そして、我が家にそんな余裕はない。
父が単身赴任で、母一人の収入でやりくりしている家庭だ。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
胸が締め付けられるようだった。
私が、机の下で本を読まなければ。
私が、もっと我慢できていれば。
でも……当時の私には、そうするしかなかったのだ。
五章 怖いものたち
眼鏡を作りに、専門店に行った。
「可愛いフレームがたくさんありますよ」
店員さんが、にこにこしながら子ども用の眼鏡を見せてくれる。ピンクのフレーム、水色のフレーム、赤いフレーム。
でも、私の目には、どれも同じに見えた。
どれをかけても、私は「眼鏡の子」になる。それだけは、はっきりとわかった。
結局、店員さんおすすめの、ミッキーマウスが小さくあしらわれたピンクのフレームに決まった。
視力検査をして、度数を合わせて、一週間後に受け取りに来ることになった。
その一週間は、妙に長く感じられた。
眼鏡をかけた自分。クラスのみんなは、どう思うだろう。笑われるだろうか。からかわれるだろうか。
不安ばかりが膨らんでいった。
そして、眼鏡ができあがった日。
鏡に映った自分を見て、私は固まった。
これが、私?
眼鏡をかけた小さな女の子が、鏡の中にいる。
「似合ってるわよ」
母が、慰めるように言う。でも、その声には元気がなかった。
当時の私には、怖いものがたくさんあった。
留守番電話の機械音声。一人で留守番すること。暗い部屋。
そして──お風呂。
幼い弟と二人でお風呂に入るのが、日課だった。
弟は、身体を洗うのもそこそこに湯船にダイブする。おもちゃの船を浮かべて、「しゅっぱーつ!」なんて言いながら遊んでいる。
私は、丁寧に髪を洗い、身体を洗う。母に教わった通りに、ちゃんと泡を流す。
「お姉ちゃん、もう出るね!」
弟が、先に出て行こうとする。
「待って、待って!」
私は、慌てて弟を呼び止める。
「一緒に出よう?ね?」
「やだ。もう出たい」
「お願い!待ってて!」
でも、弟は聞いてくれない。バタバタと脱衣所に駆け出していく。
一人、取り残される。
浴室に、私だけ。
お湯の音がやけに大きく聞こえる。換気扇の音が、不気味に響く。
怖い。
何が怖いのか、自分でもわからない。でも、とにかく怖い。
濡れた身体もそのままに、私は急いで浴室を飛び出した。
「お姉ちゃん、びしょびしょだよ」
弟が、呆れたように言う。
「……うん」
タオルで急いで身体を拭く。心臓がバクバクしている。
今となっては、なんであんなものを怖がっていたんだろう、と思う。
留守番電話も、お風呂も、暗い部屋も。
大人になった今では、どれも怖くない。
でも、あの頃の私にとっては、それらは本当に恐ろしいものだった。世界中で一番怖いものだった。
そして、誰もそれを理解してくれなかった。
「そんなの怖くないでしょ」
そう言われるのが怖くて、誰にも言えなかった。
だから、ただ一人で耐えるしかなかった。
六章 珍しがられる眼鏡
眼鏡をかけて学校に行った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
教室のドアを開けた瞬間、何人かの視線が私に集まった。
「あれ?眼鏡?」
「本当だ!いつから?」
ざわざわと、教室がどよめく。
私は、顔を赤らめながら自分の席に向かった。眼鏡が、やけに重く感じられた。
最初は、本当に珍しがられた。前述の通り、休み時間のたびに、クラスメイトが群がってくる。
「かけさせて!」
「次、俺!」
「私も!」
眼鏡は、格好の遊び道具になった。
でも、一ヶ月もすると、みんな飽きてきた。眼鏡は「当たり前のもの」になり、もう誰も珍しがらなくなった。
そして、私はただの「眼鏡の子」になった。
「ねえ、眼鏡」
名前ではなく、「眼鏡」と呼ばれることもあった。
「眼鏡、これ読める?」
遠くの掲示物を指差して、からかうように聞いてくる男子もいた。
私は、そのたびに小さくなった。
眼鏡は、私の一部になった。そして、私を縛る鎖にもなった。
七章 ダサいもの
眼鏡がダサいものだと気づいたのは、いつだっただろう。
小学校高学年になる頃には、すでにそう思っていた気がする。
クラスの女子たちが、おしゃれに目覚め始めた。
可愛いヘアピン、可愛いヘアゴム、可愛い筆箱。
「ねえ、これ見て!お母さんに買ってもらったの!」
女子たちが、キラキラした目で新しいアイテムを見せ合っている。
私も、その輪に入りたかった。可愛くなりたかった。
でも、眼鏡が邪魔だった。
近視の私は、眼鏡をかけると、実際の目よりも目が小さく見える。レンズが目を縮小して見せてしまうのだ。
クラスの可愛い子たちは、みんな目が大きかった。ぱっちりとした二重で、まつ毛が長くて、目が大きい。
目は大きい方が可愛い。
それが、絶対的な真理だった。
そして、私の目は、もともと小さかった。さらに眼鏡で小さく見える。
鏡を見るたびに、がっかりした。
眼鏡のせいで、私は野暮ったい。
そう思うようになっていった。
八章 コンタクトという希望
中学生になった頃には、コンタクトへの強い憧れがあった。
雑誌で見るモデルたちは、みんなコンタクトをしているように見えた。眼鏡をかけているモデルなんて、ほとんどいなかった。
「お母さん、コンタクトにしたい」
中学一年生の時、勇気を出して言ってみた。
「ダメよ」
即答だった。
「どうして?」
「だって、コンタクトなんて目に直接入れるものでしょう?恐ろしいじゃない。目を傷つけたらどうするの」
母は、頑として首を縦に振らなかった。
「でも、みんなしてるよ。クラスにも何人かいるし」
「うちはうち、よそはよそ。ダメなものはダメ」
それから何度お願いしても、母の答えは変わらなかった。
諦めきれなかった私は、交渉することにした。
中学三年生の秋。受験勉強に追われる日々の中で、私は母に提案した。
「ねえ、お母さん。漢字検定三級と、公立高校に合格したら、コンタクト買ってくれない?」
母は、少し考えてから言った。
「……両方とも、よ」
「うん。両方とも合格する」
「本当に?」
「本当」
母は、溜め息をついた。
「わかったわ。でも、約束よ。どっちか片方だけじゃダメだからね」
「うん!」
私は、必死に勉強した。
漢字検定の問題集を何度も繰り返し解いた。受験勉強の合間を縫って、漢字の書き取りをした。
そして、冬。
漢字検定三級、合格。
公立高校の入試、合格。
両方とも、クリアした。
「……すごいじゃない」
母は、驚いたような顔をした。でも、どこか嬉しそうだった。
「約束、守ってくれる?」
「……わかったわ。コンタクト、買いに行きましょう」
やった。
ついに、念願のコンタクトが手に入る。
九章 新しい世界
眼鏡屋兼コンタクトショップで、初めてコンタクトレンズに挑戦した日のことは、今でも忘れられない。
「じゃあ、まず練習してみましょうね」
優しそうな男性店員さんが、レンズの付け方を教えてくれる。
「人差し指の先に、レンズを乗せて。そうそう。で、反対の手で目を大きく開いて、そっと目に乗せるんです」
言葉で聞くと簡単そうだった。
でも、実際にやってみると──。
目に、指を近づける。
近づける。
近づける。
……怖い。
反射的に、目を閉じてしまう。
「大丈夫、ゆっくりでいいですよ」
店員さんが、励ましてくれる。
何度も何度も挑戦した。でも、どうしても目に触れることができない。
「あの、ちょっと質問していいですか?」
店員さんが、優しく聞いてきた。
「目を、直接触ったことはありますか?」
「……ありません」
当然だろう。
目玉なんて、触る機会なんてない。
いや、そもそも目って、触ってはいけない場所だと思っていた。デリケートで、繊細で、少しでも傷つけたら大変なことになる場所。
「そうですよね。じゃあ、まず目を触る練習からしましょうか」
店員さんは、鏡を私の前に置いた。
「まず、白目の部分を、指で優しく触ってみてください」
恐る恐る、指を目に近づける。
触れた。
……あ、意外と平気かも。
「慣れてきたら、黒目の部分も触ってみましょう」
少しずつ、少しずつ。
目を触ることへの恐怖が、薄れていった。
そして、三十分後──。
「入った!入りました!」
店員さんが、拍手してくれた。
コンタクトレンズが、私の目の中にある。
鏡を見る。
……すごい。
眼鏡なしで、くっきりと見える。
「どうですか?違和感ありませんか?」
「……大丈夫です」
少しゴロゴロする感じはあったけれど、それ以上に感動が大きかった。
これで、私も眼鏡から解放される。
十章 二つの世界
高校生活は、コンタクトレンズとともに始まった。
毎朝、コンタクトをつける。慣れてくると、十秒もかからずにつけられるようになった。
学校では、誰も私が眼鏡だったことを知らない。新しい環境、新しい私。
もちろん、相変わらず目は小さかった。でも、眼鏡で縮小されることはない。それだけで、少しマシに見える気がした。
野暮ったさは、完全には消えなかった。それでも、以前よりはマシだと思えた。
家に帰ると、すぐにコンタクトを外した。
「コンタクトは、長時間つけちゃダメですよ。目も呼吸してるんです。五、六時間が限度だと思ってください」
店員さんの言葉を、守るようにしていた。
でも、学校にいる時間だけで、軽く五、六時間は超えてしまう。
だから、せめて家では外そう。目を休めよう。
家では眼鏡。外ではコンタクト。
そんな生活が当たり前になっていった。
そして、気づいたことがある。
コンタクトの矯正視力は1.0。眼鏡の矯正視力は0.4。
眼鏡は、目に優しいようにと、わざと度数を落として作られていた。
1.0の世界と、0.4の世界。
見える範囲が違うのは当然として──驚いたのは、世界の色合いまで違って見えることだった。
1.0の世界は、鮮明だ。輪郭がくっきりしていて、色が鮮やかで、細部までよく見える。物の色も鮮やかに見える。
0.4の世界は、少しぼやけている。でも、柔らかい。優しい。どこか夢の中のような、ふんわりとした世界。物の色も薄く見える。
同じ景色を見ているはずなのに、視力が違うだけで、こんなにも世界が変わって見える。
──ふと、思った。
人が見ている色は、微妙に違っている。
私の見ている「赤」と、あなたの見ている「赤」は、本当に同じなんだろうか。
私の見ている世界と、あなたの見ている世界は、同じなんだろうか。
図らずも、私は自分の身体で、それを体験していた。
皆、見ている世界が違う。
同じ場所にいても、同じものを見ていても、見えている世界は、一人一人違う。
エピローグ
三十代になった今でも、眼鏡で外出することはない。
理由は二つ。
一つ目は、眼鏡が野暮ったく見えること。これは、もう拭えない思い込みだ。
二つ目は、0.4の世界で外を歩くのが怖いこと。1.0に慣れてしまった今、0.4の世界はあまりにも頼りない。
ちなみに、裸眼の視力は0.01だ。
眼鏡もコンタクトもなければ、私は何も見えない。世界は、ぼんやりとした色の塊になる。
小学一年生で眼鏡をかけて以来、私は一度も「裸眼」で生活したことがない。
朝起きて、最初にすること。それは、眼鏡をかけること。もしくは、コンタクトをつけること。
見えるようになって、初めて一日が始まる。
時々、思う。
もし、あの時、母がお風呂に入るときに留守番電話にしなかったら。
もし、あの機械音声が怖くなかったら。
もし、私が机の下で本を読まなかったら。
私の視力は、もっと良かったんだろうか。
でも、きっと違う。
私は、本を読むのが好きだった。暗い場所でなくても、きっと本ばかり読んでいただろう。
そして、怖いものがたくさんあった。それは、暗い場所で本を読むこととは関係なく、私の中にあったものだ。
あの頃の私は、ただ必死に生きていた。
怖いものから身を守るために。孤独から逃れるために。
眼鏡は、その代償だったのかもしれない。
でも、眼鏡があったからこそ、私は気づけたこともある。
人それぞれ、見ている世界が違うということ。
同じ景色でも、見え方は人によって違うということ。
そして──誰もが、それぞれの「怖いもの」を抱えて生きているということ。
今、私は眼鏡もコンタクトも、どちらも持っている。
状況に応じて、使い分けている。
1.0の世界と、0.4の世界。
どちらも私の世界だ。
そして、どちらの世界も、かけがえのないものだ。
小学一年生の、あの小さな眼鏡から始まった物語。
それは今も、続いている。
【完】




