逃走
走り続けて、角を二つ曲がったところで、俺はようやく足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
三歳の肺は、正直すでに限界だ。
「ちょ、ちょっと……! ソラ、速すぎ……!」
クレアも壁に手をつき、肩で息をしている。
さっきまであんなに落ち着いてたのに、今は完全に年相応の五歳だった。
「……ついて、きてる?」
俺が耳を澄ます。
足音はない。
……が、それが逆に怖い。
「今のところは……たぶん」
「よ、よかった……」
クレアはその場にぺたんと座り込んだ。
「ちょっとだけ……休憩……」
「いやいや、ここ通路だし! 敵来たらどうすんの!」
「だって……さっきの魔法……雷……音……こわかった……」
「俺だって怖かったよ!」
(中身高校生でも怖いもんは怖い)
しばらくして、呼吸が落ち着いたころ。
「……そういえば」
俺は思い出したように言った。
「ちゃんと自己紹介、してなかったよな」
「……今?」
「今」
クレアは少しだけ考えてから、姿勢を正す。
「……クレア。五歳」
それだけ言って、じっと俺を見る。
「……ソラ、だったよね?」
「うん。ソラ。三歳」
その瞬間、クレアの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
「……ソラ、って」
「?」
「……ううん、なんでもない」
すぐに話題を切り替えるように、首を振る。
(今の、なんだ?)
でも深く突っ込む前に、クレアが胸を張った。
「年上だから、私がお姉さんね」
「いや五歳と三歳でそこ張る?」
「張る!」
「じゃあ道案内して」
「……分からない」
「お姉さんとは」
「気持ちの問題!」
小声で言い合っていると――
「……そこまでだ」
低い声が、背後から落ちてきた。
空気が、一気に冷える。
振り返ると、フードを被った男が立っていた。
「見つかっちゃった……」
クレアが俺の袖をぎゅっと掴む。
「子供が夜中に出歩くものじゃない」
男の手に、魔力が集まる。
「おいおい……子供相手に何してんだよ」
思わず言うと、男が一瞬だけ眉をひそめた。
「……それは、お前もだろ」
「ぐっ」
正論やめろ。
男は淡々と詠唱を始める。
「――穿立つ、光名」
空気が震えた。
(やばい、これ……)
「《ナバルブ・ガルーブ》」
放たれた光は、廊下を一直線に貫く――はずだった。
だが。
ズドォン!!!!!
壁が吹き飛び、瓦礫が舞い上がる。
「……っ!?」
俺とクレアは、奇跡的に無傷だった。
「な……外れた?」
男自身が、目を見開いている。
「今の、当たれば建物ごと消し飛ぶ威力だぞ……?」
(いや今のでも十分やばい)
クレアが震えながら囁く。
「……あれ、1種級魔法……」
「五歳で何知ってんの!?」
再び魔力が集まる。
もう一発来たら、さすがに終わる。
――その瞬間。
空気が、止まった。
音が、遅れた。
「……?」
男が違和感に気づいた時には、遅い。
「そこまでだ」
静かな声。
いつの間にか、俺たちの前に男が立っていた。
黒衣。長身。
ただ立っているだけなのに、世界の方が一歩引いた感覚。
「……誰だ」
「シバ・クエス」
その名を聞いた瞬間、追手の顔色が変わる。
「……王級……」
「子供を追う趣味はないが」
シバは、ちらりと俺を見る。
(……?)
なぜか、背中がぞわっとした。
「子供を巻き込む大人は、嫌いだ」
次の瞬間。
男の魔法が――空間ごと、切れた。
音もなく、存在だけが消える。
「……な」
追手が動揺した瞬間、時間が、わずかにズレる。
一拍遅れて、男は吹き飛ばされた。
「戦う意思があるなら、相手を選べ」
シバは一歩も動いていない。
「……撤退は?」
男が呻くように言う。
「許可しない」
追手は歯を食いしばり、再び構える。
(……始まる)
俺は、なぜか確信していた。
――この人は、今の俺じゃ絶対に届かない。
シバは、俺を一度だけ見て、静かに言った。
「……君」
「は、はい」
「普通ではないな」
それだけ言って、前を向く。
戦いが、始まろうとしていた。
クレアが、そっと俺の手を握った。
「……あとで、ちゃんと話そう」
「……ああ」
まだ知らない。
この夜が、
俺たちの“始まり”になることを。




