遭遇
修練場を出る頃、空は夕焼けに染まり始めていた。
「いやー、久しぶりに体動かすと気持ちいいな!」
ヨハンは上機嫌だったが、俺の頭の中には別のものが残っていた。
――浮かび上がった文字。
――スベーロの、意味深な忠告。
「忘れた“ふり”をしろ」
胸の奥に、かすかな違和感が引っかかったまま消えない。
ギルドの入口にはシオンが待っていた。
「おかえりなさい。ソラ、疲れてない?」
「……ううん」
答えながら、俺は無意識に自分の手を見つめた。
何かが変わった気がする。でも、まだ言葉にできない。
「宿に向かおうか」
俺たちは夕方の王都を歩き始めた。
露店の明かりが灯り始め、人の流れはさらに増していく。
俺は周囲の景色に目を奪われながら歩いていた――その時。
「きゃっ!」
前から走ってきた小さな影と、正面からぶつかった。
ドンッ。
バランスを崩し、俺は尻もちをつく。
「ご、ごめんなさい!」
顔を上げると、俺より少し年上くらいの少女が、慌てた様子でこちらを見ていた。
淡い金色の髪。澄んだ青い瞳。
服装は街の子供と変わらないのに、どこか場違いな雰囲気。
「だ、大丈夫です」
俺が答えると、彼女はほっとしたように息を吐いた。
「よかった……」
だが、その直後。
俺の胸の奥が、わずかにざわついた。
――まただ。
魔法式を見た時と似た、“説明できない感覚”。
彼女の周囲だけ、空気がほんの少し違って見える。
「ソラ、大丈夫?」
後ろからシオンが声をかけてきた。
「うん」
ヨハンも軽く笑う。
「子供同士、よくあることだな」
二人はそれ以上、特に気に留めていない様子だった。
だが――
少女は一瞬だけ、周囲を素早く見回した。
誰かを探すように。
それでいて、誰にも気づかれないように。
俺だけが、その小さな動きに気づいた。
「……クレア」
小さく名乗る。
「私はクレア。ただの……えっと、街を見に来ただけだから」
言い訳のような言葉。
それなのに、目は妙に落ち着いていて、覚悟のようなものが宿っていた。
「……じゃあね」
そう言って、彼女は人混みの中へと紛れていった。
宿に戻ると、木の床のきしむ音と、夕食の匂いが鼻をくすぐった。
「ふぅ……今日はよく動いたな」
ヨハンは伸びをしながら椅子に腰を下ろす。
「ソラ、手洗ってきなさい」
シオンに言われ、俺は素直に水場へ向かった。
冷たい水で手を洗いながら、昼の光景が頭に浮かぶ。
雷のぶつかり合い。
浮かび上がった文字。
そして――クレア。
(なんだったんだろ……あの感じ)
鏡に映る自分の目が、少しだけいつもより鋭く見えた気がした。
夕食は普通だった。
パンとスープ、肉の香草焼き。
ヨハンは模擬戦の話を楽しそうに語り、シオンはそれを穏やかに聞いている。
「ソラも、もう少し大きくなったら訓練だな」
「……うん」
返事はしたが、頭の中は別のことでいっぱいだった。
――俺は、何を“見た”んだ?
食事を終え、それぞれの部屋へ戻る。
ベッドに腰掛け、天井を見上げると、静かな夜の音が耳に入ってきた。
遠くの馬車の音。
人の話し声。
王都の、平和な夜。
それなのに。
胸の奥だけが、落ち着かなかった。
目を閉じると、自然とあの文字が浮かぶ。
『ラムズ・フェローチ』
誰にも教わっていないはずの言葉。
なのに、なぜか“知っていた”。
(俺……本当に普通なのか?)
眠気がゆっくりと意識を包み込む。
まぶたが重くなり――
その直前。
一瞬だけ、脳裏にクレアの姿が浮かんだ。
夜の城壁。
冷たい風。
振り返る少女の、不安そうな目。
どれくらい眠っていたのか分からない。
ふと、意識が浮かび上がった。
――静かすぎる。
王都の夜は本来、完全な無音にはならない。
遠くの馬車の音、酔客の笑い声、風の音。
それらが、すべて消えていた。
(……?)
目を閉じたまま、耳に意識を集中させる。
そして。
「……来た」
誰かが、廊下を歩いている。
足音がしない。
だが“気配”だけが、まっすぐ俺の部屋へ向かってきていた。
ドアノブが、ゆっくりと回る。
――カチャ。
鍵をかけたはずなのに、抵抗なく開いた。
(父さん……? いや、違う)
空気が、変わった。
冷たく、重い。
俺は布団の中で身を固くする。
暗闇の中、黒い影が部屋に滑り込んできた。
顔はフードで隠れている。
だが、目だけが――異様に光っていた。
「……やはり、反応している」
低い、抑えた声。
俺の胸が跳ねる。
(なにに……反応?)
逃げようと体を動かした瞬間。
体が、動かなかった。
見えない何かに、空間ごと押さえつけられている感覚。
「暴れるな。壊したくはない」
影が近づく。
その瞬間。
俺の視界に、また“文字”が浮かんだ。
意味は分からない。
だが、本能が叫ぶ。
――危険。
(やばい……!)
必死に抵抗しようとした瞬間、胸の奥が熱くなった。
だが。
「……やはり覚醒前か」
影は、小さく舌打ちする。
次の瞬間、冷たい布が口元に当てられた。
甘い匂い。
視界が、ぐらりと揺れる。
(くそ……意識が……)
俺は必死に、声を出そうとした。
父さん。
母さん。
だが、喉が動かない。
最後に見えたのは。
窓の外に広がる、王都の夜景。
そして、遠ざかっていく――俺の“居場所”。
意識が闇に沈む直前。
あの声が、はっきりと聞こえた。
「――王女と同時に、鍵も手に入るとはな」
(……王女……?)
その言葉の意味を考える前に。
俺の意識は、完全に途切れた。




