厄介
第二講堂前、退避通路。
崩れ落ちた異形のタペストは、完全に沈黙していた。
砕けた三核。
外殻は粉砕。
魔力の脈動もない。
教師の一人が深く息を吐く。
「……終わったな」
生徒たちの間に、ようやく安堵が広がる。
クレアは壁にもたれかかり、肩で息をしている。
ルカはその場に座り込んだ。
ソラはレオンを支えたまま、周囲を警戒していた。
レオンの魔力は完全に枯渇。
教師陣も限界に近い。
だが、生きている。
守れた。
――その瞬間。
黒い残骸が、微かに震えた。
ソラの視線が落ちる。
「……待て」
空気が、重くなる。
砕け散った核の破片が、音もなく浮き上がった。
黒い粒子が周囲から集まり始める。
床。
壁。
天井。
学園を構成する魔力が、薄く剥がれていく。
「……何をしてる」
教師の声が震える。
残骸の中心に、黒い光が凝縮する。
圧縮。
収束。
形成。
新たな“核”。
一つ。
ただ一つの、巨大な黒核。
その表面は、滑らかな鏡のように光を反射している。
そこに映るのは――
自分たちの姿。
「進化……?」
クレアが呟く。
次の瞬間。
黒核から四肢が伸びる。
先ほどよりも洗練された形状。
無駄のない構造。
そして。
鏡面の外殻。
融合体は、静かに立ち上がった。
ソラの脳内で式が走る。
(違う……供給経路が変わってる)
中心棟ではない。
もっと広い。
もっと深い。
世界式そのものに接続している。
学園の基礎構造。
空間維持式。
防護結界。
それらに付与されている“基礎魔力”を直接吸収している。
「周囲の世界式から……魔力を奪ってる」
ソラの声が低く落ちる。
教師の顔色が変わる。
「そんなことが可能なら……」
実質、魔力無限。
この空間にいる限り、供給は尽きない。
進化体の鏡面が波打つ。
重圧。
空気が軋む。
生徒の何人かが膝をつく。
クレアは杖を構えるが、魔力はほとんど残っていない。
ルカも同じ。
教師陣も立て直せない。
レオンは動けない。
ソラは唇を噛む。
(止める手段がない)
進化体が、ゆっくりと片腕を掲げる。
空間に式が浮かぶ。
長文構造。
節が連なる。
七。
八。
九。
3種級。
国家戦争級。
この狭い廊下で放てば、全滅。
「……逃げろ!」
教師が叫ぶ。
だが、逃げ場はない。
廊下は狭く、背後には負傷者。
進化体の核が深く脈動する。
世界式からさらに魔力を吸収。
詠唱が最終節へ。
空間が歪む。
壁に亀裂が走る。
光が収束。
絶体絶命。
その時。
廊下の奥から、足音が響いた。
一歩。
また一歩。
一定のリズム。
進化体の鏡面が揺れる。
収束していた3種級の式が、わずかに乱れる。
「……随分と派手だな」
低く、落ち着いた声。
生徒たちが振り向く。
そこに立っていたのは――
シバ。
白衣を翻し、ゆっくりと歩いてくる。
その目は静かで、底が見えない。
進化体が腕を振り上げる。
3種級が完成する。
放たれる――
その瞬間。
式が、崩れた。
音もなく。
詠唱構造そのものが解体される。
魔力が霧散。
鏡面が激しく波打つ。
シバは立ち止まらない。
「俺の仕事は」
淡々と告げる。
「誰も死なせないことだ」
空気が変わる。
進化体が、初めて“後退”した。
ソラの心臓が強く鳴る。
(……きてくれた!)
昔救われた様に、ソラの心が落ち着く。
シバはソラの方をちらっと見て、
右手を前に出す。
詠唱は短い。
構造は簡潔。
二種級。
クレアが息を呑む。
「二種級……?」
ルカが小声で言う。
「今のあれ、二種級でどうにかなる相手じゃ――」
だが。
ソラの目が見開かれる。
(違う)
魔力が、異常。
シバの周囲の空気が震える。
密度が増す。
圧縮に圧縮。
二種級の器に、あり得ない量の魔力が流れ込む。
式の骨格は二種級。
だが出力は――
3種級に匹敵。
いや、それ以上。
教師の一人が呟く。
「……なんだ、あの魔力量」
クレアの喉が鳴る。
「同じ二種級なのに……」
ソラの思考が高速化する。
(器の強度を変えず、魔力だけを極限まで純化してる……?)
無駄がない。
暴走もない。
純粋な、完全制御。
進化体が後退する。
鏡面が軋む。
本能が理解している。
“これを受ければ終わる”。
シバが淡々と告げる。
「終わりだ」
右手が、振り下ろされる――
その瞬間。
「それは困るなー」
軽い声。
場違いなほど、軽い。
全員の視線が、進化体の背後へ向く。
暗がり。
崩れた壁の影。
そこに立っていたのは、
美しい黒髪を靡かせる少年。
ゆるく手を振る。
「やっとここまで来たんだよ?」
「ここで棚上げされたら、努力が台無しじゃん」
にこり、と笑う。
その笑顔に悪意を全く感じない。
それなのに、心が本能が、悪だと訴える。
進化体の鏡面が、少年に反応した。
少年は片手を軽く掲げたった一言。
「はいはい、もう自由行動は終わりだよー」
進化体が、歪む。
巨大だった身体が崩れ始める。
四肢が霧散。
鏡面が縮小。
魔力が圧縮。
世界式から吸い上げていた魔力ごと、
一点へ。
そして――
少年の掌の上に、
先程まであった巨大な黒いタペストは、
手のひらほどの大きさのの、黒い玉へと完全収束。
静かに脈打つ。
学園全体の圧が、一瞬で消える。
教師たちが絶句する。
「……なんだ、あれは」
シバの目が細まる。
右手の二種級魔法が、なお展開されたまま。
撃てば、確実に消せる。
そのはず。
「消えてもらう」
シバが放とうとする。
だが――
発動しない。
式は完成している。
魔力も満ちている。
だが、
発動できない。
シバが困惑の表情を浮かべる。
少年が、楽しそうに笑う。
「だめだよ、シバ・クエス」
指を一本、立てる。
その瞬間、シバの魔法陣が凍りついたように停止する。
発動不可。
生徒たちは動けない。
教師も、硬直。
空気が止まっている。
少年は黒い玉を軽く弄ぶ。
「ま、今日は回収だけ」
くるり、と背を向ける。
去り際に、振り返る。
「おっと、名前くらい言っとこうか」
にっこりと笑う。
「アバン」
「またね、みんな!」
背後の暗闇が、揺らぐ。
そこに、穴のような闇が開く。
アバンは軽い足取りでその中へ歩き、
そのまま消えた。
闇も閉じる。
次の瞬間。
シバの魔法が、霧散する。
完全に遅い。
廊下には静寂だけが残る。
ソラの背中を、冷たい汗が流れる。
(……あれは何だ)
世界式を遮断した。
シバの魔法を止めた。
進化体を掌で圧縮した。
クレアが震える声で言う。
「今の……何?」
シバはしばらく無言だった。
やがて、低く呟く。
「厄介だな」
その目は、静かに燃えている。
「想定より、ずっとな」
シバの表情が崩れるのをソラは初めて見た。




