出発
目が覚めた瞬間、天井がやけに近く感じた。
見慣れた木目。
小さな傷。
何度も数えた節の形。
(……ああ)
思考が完全に動き出す前に、今日が何の日かを思い出す。
――王都学園へ行く日だ。
布団の中で、少しだけ丸まる。
起きてしまえば、もう戻れない気がして。
外から、朝の音が聞こえる。
鍋の蓋が触れ合う音。
木の床を歩く足音。
(母さん、もう起きてるな)
しばらく目を閉じていたが、結局、観念して身体を起こした。
「……はぁ」
息を吐くと、胸の奥がじんわり重い。
服を着替えようとして、手が止まる。
今日着るのは、少しだけちゃんとした服。
シオンが昨日、何度も埃を払っていたやつだ。
「……変な感じ」
袖を通すだけで、いつもより背筋が伸びる気がする。
荷物は昨夜のうちにまとめてあった。
でも、もう一度確認する。
着替え。
本。
小物。
そして、一番下に入っている小さな袋。
(……これ)
シオンが夜遅くまで縫っていたのを、俺は知っている。
気づかないふりをしていただけだ。
袋をそっと撫でてから、鞄を閉じる。
部屋を見回す。
この部屋で、何度眠って、何度考え事をして、何度――怖い夢を見ただろう。
(……帰ってくるけどさ)
でも、“同じ”じゃない。
階段を降りると、朝食の匂いがした。
「おはよう、ソラ」
「……おはよう」
シオンは、いつもと同じ声だった。
でも、目は少し赤い。
ヨハンはすでに席に着いていて、腕を組んでいる。
「早いな」
「……目、覚めちゃって」
「そうか」
それだけ言って、何も聞いてこない。
朝食は、いつもより少し豪華だった。
焼きたてのパン。
スープ。
果物。
「いっぱい食べなさい」
「……うん」
味は、ちゃんとしているのに、喉を通るのが遅い。
「緊張してる?」
「……ちょっと」
「そりゃそうだ」
ヨハンが短く笑う。
「俺だって、初めて遠征に出た日は眠れなかった」
「父さんも?」
「ああ」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
食べ終わる頃、外から車輪の音が聞こえてきた。
一瞬、全員が黙る。
「……来た、かな」
誰が言ったわけでもないのに、分かった。
家の前に出ると、白い馬車が止まっていた。
王都の紋章。
現実が、目の前にある。
御者が降りて、丁寧に頭を下げる。
「ソラ・オクタス様。迎えに参りました」
「……はい」
声は震えなかった。
それが、少しだけ誇らしい。
荷物を渡し、馬車へ向かおうとした時――
「ソラ」
シオンが呼ぶ。
振り返ると、しゃがんで目線を合わせてきた。
「忘れ物は?」
「……ない」
「体調は?」
「大丈夫」
「……うん」
それから、ぎゅっと抱きしめられる。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
ヨハンが近づき、ぽんと頭に手を置く。
「帰ってくる場所は、ここだ」
「……うん」
馬車に乗り込む。
扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返った。
二人が並んで立っている。
小さくなっていくその姿を、目に焼き付ける。
馬車が動き出す。
揺れの中で、俺は静かに目を閉じた。
(……始まるんだ)
王都学園。
知らない世界。
知らない自分。
でも――
(逃げない)
そう決めて、目を開けた。
馬車は進む。
幼少の時間を置き去りにして、
ソラ・オクタスという人間は、次の世界へ向かっていた。




