前章:転生
真夏の暑さがまだ残る朝。
ミシミシと軋むベッドの上で、俺は目を覚ました。
古部天。それが俺の名前だ。
難関国立高校――関東第一高等学校に通う高校一年生で、特進コースの成績は学年一位。全国模試では歴代総合得点一位を記録している。
世間からは「天才」と呼ばれてきたが、自分では特別優れているという実感はない。
ただ、一度見た公式や概念を忘れない。それだけだ。学者曰く「瞬間記憶能力」らしいが、正直どうでもいい。
そんな俺にとって、高校一年生で迎える最初で最後の――1月15日が始まった。
「ああ、もう7時か」
目覚める時間はいつも決まっている。目覚ましなど必要ない。
支度をして家を出れば、学校に着くのは8時頃。変わらない日常だ。
「そういえば今日は……中学3年の学校体験会だったか」
着替えながら予定を思い出すが、特に意識するほどの行事でもない。
部屋を出ると、右手に朝はやけに長く感じる階段があり、その先がリビングだ。
「天ー、今日も朝ごはん食べながら行くのー?」
「うん、いつも通り」
高校に入ってからは、少しでも長く寝るために、朝食は登校中にスムージーで済ませている。それが俺の日課だった。
「はい、スムージー。気をつけて行ってきなさい」
「ほーい」
――この会話が、母との最後の会話になるとは、まだ知らなかった。
ガシャン、と玄関のドアが閉まり、俺は学校へ向かって歩き出す。
「あ、あれは5:7……こっちは1:5か」
登校ルートにある建物や看板を、俺は無意識に数字や比率に置き換えている。
理由は単純だ。俺の視界には、見たものが数式や構造として浮かび上がってくる。
特殊能力ではない。
脳が勝手に視覚情報を処理してしまうだけらしい。
「今日のスムージーはリンゴか……蜂蜜が少し。うまいな」
そんな独り言を漏らしながら歩いていると、隣から足音がした。
「あなたも、関東第一?」
突然話しかけられ、思わず変な声が出た。
振り向くと、同じ制服に身を包んだ少女が立っていた。誰もが目を奪われるほど整った容姿だ。
「あの……?」
「あ、すみません。い、一応関東第一です」
見惚れてしまい、返事が遅れた。
同じ高校のはずなのに、見覚えがない。
「私、今日から編入なんです。たぶん、これからよくお会いすると思います」
「なるほど……どうりで」
この難関校に編入するということは、相当優秀なのだろう。
ほんの少しだけ、これからの日々が楽しみになった。
――だが、その“これから”は、あまりにも唐突に奪われた。
「お名前、伺ってもいいですか?」
答えようとした、その瞬間。
学校前の横断歩道に差しかかる。信号は青。俺たちは歩き出した。
ちょうど中央に差しかかった時だった。
横から、異様な速度で突っ込んでくる大型トラックが視界に入る。
減速する気配はない。むしろ、速度を上げている。
「きゃ――!」
悲鳴とブレーキ音が交錯する。
次の瞬間、俺は彼女を突き飛ばしていた。
そして――正面から、トラックと衝突した。
身体中を貫く激痛。
彼女が駆け寄り、何かを叫んでいる。口の動きは見えるが、音は聞こえない。
わかっていた。
この衝撃で生きていられるはずがない。体感的には、高さ25メートルから落下したのと同じだ。
彼女の涙が、視界の端で零れる。
だが、それを認識する力すら、もう残っていなかった。
意識が遠のくその瞬間でさえ、俺の目には世界が数式として映っていた――。
―――世界式ノ認識ヲ確認。
―――『式眼』ノ付与ヲ了承。
眩い光に包まれ、俺は再び目を覚ました。
ぼやけた視界の中、人間と思しき男女の顔が見える。
「元気な男の子よ、ヨハン」
「よく頑張ったな、シオン」
気づけば、西洋風の建物の中。
俺は女性に抱かれていた。
鏡が目に入り、そこに映った姿を見て理解する。
――赤ん坊だ。
混乱する思考を整理する。
この建築様式、衣服……間違いない。ここは、元の世界ではない。
ふと、かつて読んだライトノベルを思い出した。
「異世界転生」
俺は事故で死に、この世界に生まれ変わったのだろう。
不安はある。
だが、それ以上に――。
目の前に広がる、無数の未知の文字列。
その存在に、俺の心は抗いようもなく惹きつけられていた。




