最後のチャイムが鳴るまで
春の風が、校舎をすり抜けていく。
桜は満開にはまだ早く、蕾が揺れる音だけが遠く聞こえた。
今日で今年の三年D組は、解散する。
それは、普通の卒業式とは、少し違っていた。
教室には、生徒たちの姿が並んでいる。
だが誰も声を出さない。足音も、呼吸の音もない。
それでも、みんな”そこにいる”。
月嶋先生は、静かに教壇に立った。
白いチョークを取り、黒板に「卒業式」と書く。
ぎし、と床が鳴る音にさえ、どこか温かみがあった。
「......皆さん、三年間、お疲れ様でした。最後の出席を取る前に皆さんでこの黒板を彩りましょう」
教室の空気が、わずかに震える。
一人、二人と前に出てきて全生徒が教壇に立つ。
好きなアニメのキャラを描くもの、感謝の言葉を書くもの、自分の名前を書くもの。
それぞれの個性が分かれ、黒板の隅まで色々なもので埋め尽くされる。
みんな満足をして、自分の席に戻る。
「この景色、きっと一生忘れません。では、最後の出席を取ります」
ペンの先が震えていた。だが、呼ばないわけにはいかない。
これは、彼らのための”儀式”なのだから。
「浅井裕翔くん」
「......はい」
ひとつ目の返事が、かすかに響いた。
その声に、涙が滲んだ。
「石井美桜さん」
「はい」
「佐伯徹二くん」
「はい」
声が返ってくるたび、教室が”光”に包まれていく気がする。
それは蛍のように淡く、記憶の残り香のように切ない。
「咲良瑞希さん」
彼女の席に置かれた赤いリボンが少し揺れる。
「佐伯徹二くん」
「はい」
「白石結衣さん」
風がそっと吹く
「西川碧くん」
彼の席のノートが捲られる
「秦野麗美さん」
「はい」
「三村和真くん」
彼の席のサッカーボールが転がる
返事がくるたび、教室が”光”に包まれていくような気がする。
それは蛍のように淡く、記憶の残り香のように切ない。
先生はゆっくりと名簿を読み上げていった。
みんなを送り出すために。
先生は今年度の生徒を読み上げ切った。
「これで今年度は全員ですね」
そう言った瞬間、窓が開き、春の風が入ってくる。
席に視線を戻すと、空白の席に少年少女が座っていた。
制服姿のまま、穏やかな表情で、先生を見つめていた。
「先生」
「......はい」
「ここで過ごせてよかったです」
そう言って、彼らはにっこりと笑った。
「ずっと、ここにいたかった。でも、もう大丈夫です」
先生は、何も言わなかった。ただ、名簿に「出席」の印をつけた。
赤ではなく、金色のインクで。
それが旅立ちの証だった。
少年少女が一歩、前に踏み出した瞬間ーー
チャイムが鳴った。
聞いたこともない、柔らかい音だった。
まるで、何かが終わり、何かが始まるような音。
生徒たちが、ひとり、またひとりと立ち上がる。
誰も言葉を交わさない。
それでも笑っていた。泣いていた。
生きていた時と同じように、優しく、賑やかに。
月嶋先生は、教室の扉を開け放った。
そこには、真っ白な光の廊下が続いていた。
どこまでも、どこまでも。
「行ってらっしゃい。......卒業、おめでとう」
その声に導かれるように、生徒たちは歩き出した。
椅子がひとつ、またひとつ、空になる。
教室は、どんどん静かになっていく。
やがて、最後の生徒が光の中に消えた。
白石結衣が、振り返る。
「先生は?」
「私はまだ、ここにいますよ」
「どうして?」
先生は、微笑んだ。
「まだ、呼んでない子が、いるんです」
「......そっか」
彼女は一度だけ、深く頭を下げた。
そして、光の中に溶けていった。
去り際に「先輩たちも、元気で」と言って。
黒板の「卒業式」の文字が、風に溶けるように消えていく。
夕暮れが差し込む教室で、月嶋先生は一人、別の名簿を開き名前を呼び上げていく。
「椎名渚さん」
「......はい」
スカートがよく似合う少女が元気よく声をあげる。
「柊涼太くん」
「はい」
彼の柔らかく澄んでいる声が教室に響く。
そうやって、卒業をせず、この教室に残っている生徒たちを呼んでいく。
最後に先生が、私の名前を呼ぶ。
「九条真緒さん」
私は口を開こうとしたけれど、声が出なかった。
そのとき、教室の窓に映った自分の視界が、どこかぼやけていることに気づいた。
ああ、そうか。私は、泣いているんだ。
あの日、雨の屋上で滑ったときーーその時から何年も経った。
それでも、先生は私の名前を忘れないでくれた。
だから、私は今ここにいる。
「……はい、出席してます」
小さく、でもはっきりと答えたその声は、先生には届いたようだった。
先生は微笑んで名簿を閉じて、口ずさむ。
「...... 今日も、欠席なし」
窓の外で、桜の蕾がそっと揺れた。