誰も欠席させない先生
最初の欠席は、雨の日だった。
四月の終わり、黒板に湿気がまとわりつくような朝。
三年D組の担任になって、一ヶ月も経たない頃。教室にはまだ新しい匂いが残っていた。
「出席を取ります」
まだぎこちない挨拶を終え、出席を取り始める。
「朝倉祐子さん」
「はい」
「石井悠太くん」
「はい」
いつも通りの声。いつも通りの返事。
けれど、ひとつだけ、違っていた。
「......椎名渚さん」
誰も返事しなかった。
私の目は、自然と彼女の席を追った。
窓際、前から3番目。窓から入ってきた春風にカーテンが揺れ、その陰に少女の面影が見えた気がした。
だが、そこには誰もいなかった。
「......椎名さん、欠席ですか?」
生徒たちは静かにうなずいた。
それきり、誰も話そうとせず俯いた。
昼休みに、職員室で椎名渚のことを調べると、そこにあったのは死亡通知だった。
朝の通学中、踏切事故に遭ったという。ちょうど出席をとっている時に死亡を確認されたそうだ。
私は手帳に彼女の名前を書いた。
きちんと、今日の日付と「欠席」の印を。
だが、夜になっても朝から離れなかった。
朝、私は確かに返事を聞いた気がした。彼女の声で。
次の日から、私は椎名渚の名前を呼ぶのをやめなかった。
「......椎名渚さん」
すると、一瞬だけ、教室の空気が揺れる。
返事はない。けれど、”いる”という気配だけが、はっきり残る。
最初は怖かった。だが、それ以上に思った。
彼女は、ここに戻ってきたのだと。
春の風にスカートを揺らしながら笑っていた少女を、私は見た気がしたのだ。
その年、柊涼太という生徒が、夏休み中に遊んでいた川で命を落とした。
足を滑らせて流された彼は、助け出された時にはもう手遅れだったらしい。
報せを聞いた日の放課後、私は名簿を開いたまま、教室で一人座っていた。
すると、廊下から誰かの足音が聞こえた。
「......柊くん?」
返事はなかった。ただ彼の席の窓辺で、どこからともなく歌声のような風の音が響いていた。
あの柔らかく澄んでいるが、どこまでも届くような声。彼だけのものだった。
その日から、私は欠席ではなく、出席を記録するようになった。
この教室に戻ってきた彼らを、「いない」とは言いたくなかった。
「はい、柊くん。今日もいい声だね、だけど授業中は静かにね。」
たとえ返事がなくても、それは大事な”日常”だった。
年を追うごとに、生徒たちは何人も「向こう側」に渡った。
事故、病気、自殺......さまざまな理由で、この教室に戻れなくなった子たち。
それでも、私は名前を呼び続けた。
「おはよう。君もきたんだね。新しい生徒が入ったよ。仲良くしてあげてね」
「......大丈夫。君のこと、私は忘れていないよ」
やがて、不思議なことが起き始めた。
亡くなったはずの生徒たちが、自分の席に座っているように感じる。
教室の空気に、ふっと重さが増す瞬間がある。
彼らは、ここに”いる”。
忘れられない限り、この教室に通ってくるのだ。
私は、誰も欠席させたくなかった。
時折、放課後に生徒が質問をしにやってくる。
自分が死んだことに気づかない生徒が。
ある日突然、教室の中で呆然と立ち尽くし、「どうして誰も話してくれないのか」と問う声。
そんな時、私はやさしく声をかける。
「大丈夫、君はまだここにいるよ」
「私は君を忘れない。だから、今日も出席だ。」
そうすれば、少しずつ彼らは安心した顔に戻る。
笑い、座り、窓の外を眺める。
”それ”だけで、彼らの心は少し軽くなるのだ。
私の仕事は、彼らを見守ること。
この教室は、「忘れられたものたち」静かに通う場所となった。
記憶が残る限り、名簿にその名がある限り、ここに”いる”ことができる。
教師である限り、私は呼び続ける。
西川碧くん。
咲良瑞希さん。
三村和真くん。
九条真緒さん。
そして、今日もまた新しい名前が一つ増えた。
「......白石結衣さん」
名簿に赤い線を引くと、風がそっと吹いた。
私は微笑む。
「はい、出席ですね」
返事はない。
けれど、それでいいのだ。
ーー私は、”ここ”に生徒が来る限り、誰も欠席させない。