うちのクラスの担任はどこかおかしい
「それじゃあ、出席取るよ」
四月の教室。まだ冬の残り香が漂う空気の中、月嶋先生の声が静かに響く。私たちは新しいクラスの席に座り、緊張と期待が入り交じった表情でただひたすらに前を向いていた。
順番に名前が呼ばれ出席をとっていく。
「西川碧くん……」
一瞬の沈黙。
誰も返事をしない。
「……はい、元気そうで何より」
微笑みながら、先生は何事もなかったかのように次の名前を呼んでいく。
その瞬間、背筋がひやりとした。西川碧は、もうこの世にいないはずなのに。
彼は三日前、マンションの屋上から身を投げて命を落とした。遺書も理由もなかった。事故とされたけれど、皆どこかで違うと思っていた。
月嶋先生は今年の担任。柔らかい口調、丁寧な言葉遣い、いつも微笑んでいて、完璧な教師だと思われていた。だけど。
「どこかおかしい」――そう思ったのは、あの日だけじゃない。
放課後、私は日直の仕事で黒板を消していた。ふと後ろを振り返ると、先生がまだ教室に残っていた。
「……今日も、全員出席だったね」
先生はそう独り言を呟きながら、生徒名簿を丁寧に閉じた。
全員?
私は思わず立ち止まる。だって今日、欠席者がいたはずだ。風邪で休んだ佐伯くんと、入院中の秦野さん。先生も知っているはずなのに。
けれどそのまま何事もなかったように立ち上がり、教室を出ていった。残された名簿の表紙が、ぱたりと揺れた。
その違和感が、日に日に大きくなっていく。
先生は、出席を取るたびにいない生徒の名前を呼ぶ。しかも、それは「昔このクラスにいた」生徒ばかり。
たとえば、咲良瑞希。去年の冬、校外学習のバス事故で亡くなったと聞いた。
でもある日、先生は笑顔で言った。
「今日も赤いリボン、似合ってるよ、咲良さん」
その瞬間、私は震えた。咲良瑞希は、赤いリボンがトレードマークだった。
誰もいない隣の席に向かって、先生は話しかけていた。
十月、私は倒れて保健室で目を覚ました。辺りはもう薄暗く、学校はほとんど無人だった。
帰ろうとしたとき、ふと廊下の奥で光が見えた。職員室の灯りが、ほのかに漏れている。
興味本位で覗いた私は、言葉を失った。
――月嶋先生が、一人きりで名簿を前に座っていた。
「……大丈夫だよ。まだ、忘れてない。ちゃんと出席、取ってるからね」
その手元にあったのは、生徒名簿ではなかった。
死亡者名簿だった。
表紙には、確かにこう書かれていた。
《第三学年D組 在籍記録(特別継承)》
そして、そこには西川碧、咲良瑞希、他にも何人もの「名前」が書かれていた。
先生は、それをなぞるようにして、ひとつずつ声に出して読み上げていた。
その声はまるで、祈りのようだった。
ある日、私は先生に聞いた。
「先生、いつからこのクラスにいるんですか?」
「ん? ずっと昔からだよ。十年前も、二十年前も、ずっとね」
冗談のような口ぶりだった。でも、先生の瞳は冗談ではなかった。
「ここは、不思議な教室なんだ。忘れられた人を忘れない場所。生徒はいつだって、全員いる。たとえ姿が見えなくても」
私は言葉を失った。先生は優しい笑顔のまま、こう続けた。
「でもね。たまに、自分が“どっち側”か分からなくなる生徒がいるんだ」
その視線が、私を射抜く。
卒業式の日。私たちは式を終え、教室に戻ってきた。
先生はいつも通り、前に立ち、出席を取り始めた。
「佐伯徹二くん」「秦野麗美さん」――そして、亡くなったはずの「咲良瑞希さん」「西川碧くん」……
すべての名前を呼び終えて、先生は静かに言った。
「これで全員ですね」
誰も返事をしなかった。
けれど、私は知っていた。
この教室には、“全員”がいた。
最後に先生が、私の名前を呼ぶ。
「九条真緒さん」
私は口を開こうとしたけれど、声が出なかった。
そのとき、教室の窓に映った自分の姿が、どこかぼやけていることに気づいた。
ああ、そうか。私も、あの日死んでいたんだ。
あの日、雨の屋上で滑ったとき――誰も気づかなかったけれど、私はもう戻れなかった。
それでも、先生は私の名前を忘れなかった。
だから、私は今ここにいる。
「……はい、出席してます」
小さく、でもはっきりと答えたその声は、先生には届いたようだった。