赤いドレスのプリンセス
自動ドアが開くと、風と共に軽快な談笑がやってきた。
「あ、小暮センセー、こんばんは」
「こんにちは、ではないですか?こんばんは、は夜の挨拶ですが?」
その指摘を受け流す少女と、その隣で参考書を取り出すもう一人の少女。
“小暮センセー”と呼ばれた男は、少し悩みながらもこんにちは、と返事をした。
「今は昼と夜の間だからね。どっちかっていうと、まだ明るいからこんにちは、ですかね?」
目的のページを見つけた様子の少女が、該当箇所を指さす。
「こんにちはですよ!こんにちはです!」
「えー!こんばんはダメ?」
唇を尖らせて駆け寄った少女に、彼は首を振ってこたえる。
「どっちも使っていいってことだよ」
「いい!わたし、こんばんは使いまーす」
「使っていいのこと、ここに書きますよ」
いいんですよね?と念押しされた。勉強熱心な少女はさっそく、日本語の挨拶のルールを書き込んだ。
隣にいたはずのもう一人の少女は、そんなことはお構いなしに喜びながら出席表に丸印をつけている。
小暮センセー、と呼ばれた彼、小暮鳴道はこの神崎日本語学校で講師を担当している。と言っても、大学院生である彼は所謂アルバイトの立場であって、彼自身もこの場所で日本語教育を学んでいる。
ルームシェアをしている留学生のユゥシーさんとハヌルさんは、鳴道が時折教壇に立つAクラスの生徒だ。
生徒カードを受付に提出したユゥシーさんは、突然鳴道に向かって「あっ」と声を上げた。
「小暮センセー、見ましたか?プリンセスいましたよ!」
理解が追い付かない鳴道の背後から、ハヌルさんが答えた。ユゥシーさんと仲良しの彼女も大概マイペースで、ゆっくりとリュックに荷物を仕舞っていた。
「今、見たんですよ。公園にプリンセスの人がいました。赤いドレスのプリンセス」
「俺が来るときは気付かなかったな……何かの撮影ですかね?」
「ううん、一人です。話はしなかったですけど。ここで勉強する人ではないんですね?」
詳細は分からないが、赤いドレスのプリンセスが新しく生徒登録した知らせは回ってきていなかった。
リュックを背負い直したハヌルさんは、ドンコッショ、と独特な掛け声で姿勢を整えた。ここ最近ハマっているようで頻繁に使っている。受付を済ませた二人は、エレベーターを待たずに階段を上がっていった。
「……で、小暮くんの用事は?」
「え?……あ、そうだ、自習室の使用スケジュールを見たくて」
担当の女性に声をかけてもらわなかったら、彼は目的を忘れて教室に戻っていっただろう。生徒を迎える受付カウンターに来たのはその理由だった、と思い出し、バインダーを受け取りながらも、先ほどの会話が思い起こされる。
赤いドレスのプリンセス……普通に考えて、コスプレイヤーか何かだろう。もしくは着飾った娘を連れて公園に遊びに来た家族、だが、一人でいたと話していた。後者でないならおそらく変わり者の大人だ。
外はほのかに薄暗くなっている。
二人と話していた時はまだ夕暮れ前だったが、今はもう“こんばんは”の空だ。ここ数日で急に日が短くなったように思う。
「小暮くん、今日はもう終わりじゃなかった?」
「急遽なんですけど、能力試験受けたい生徒さんがいて……自習室の使用確認してあげたくて」
「バイトなのに熱心だねぇ」
「そりゃあ、講師によって学ぶ機会が変わったら申し訳ないじゃないですか」
お給料ももらってますし、と冗談交じりに付け加えた。
この時代、日本語学校というものの普及はそれほど進んでいない。言い換えれば、日本語教師として働く先も多くないということだ。
鳴道が受け持つ生徒は10代の学生から親世代までと幅広い。ひらがなの書き方を覚えるクラスから、敬語やビジネスマナーを含めたレベルの高い日本語を習得するクラスまで、学習目標も様々だ。
彼はこのアルバイトを始めてから度々考えている。大きな地球の中で、この小さな島国の言葉を学ぶ人がいるということ。言語だけではなく文化もひっくるめて、彼ら、彼女らは、日本に興味を持ってくれていること。そんな大切な学びを提供する側として、自分はどれだけ貢献できているのか……手助けができているのか。
この国での生活をなんとか乗り切る、以上に、もっと良い知識を伝えたいと思うのだった。
楽しそうに通ってくれるユゥシーさんとハヌルさんも、当初は自分たちが生きていくための日本語を習得することで精一杯だった。
言葉が使えれば、体験できることの幅が広がる。生活の質が大きく変わることを間近で見守っていた。
「言葉のせいで孤独になると、それを伝えることも難しいから」
自習室まで生徒を送るつもりが、ついつい勉強に付き合って1時間ほど業務が伸びてしまった。各教室では引き続き授業が行われているが、そろそろ終わる頃だろう。
生徒が退出してくる前に帰ろう、と伸びを一つして玄関に向かう。
すっかり暗くなった空の下、公園横を通り過ぎる。そうだ、赤いドレスのプリンセス……こんな公園にいたら確かに目立つだろう。夜は特に静かで、毎日誰が集まることもなく自動販売機だけが稼働しているくらいだ。
そう、こんな感じに暗くて静かで――
「……マジ?」
静かに辺りを照らす自動販売機のそばに、見慣れない何かがいた。もしも見間違いでなければ、確かにあれは、赤いドレス以外の何物でもない。
ベンチに座って俯く彼女は、事前情報がなければ逃げ出してしまうような異質な姿だった。
1時間以上ここに、何もせずに座っていたのだろうか。
思わず、ショルダーバッグの持ち手を握り込む。
正義感、とまではいかない。ただ、鳴道はこういう場合に「見なかったフリ」をすると、先1週間はことあるたびに思い出して自分の行いを省みるのだ。
「あの、すみません……」
なんとか声を絞り出した。
女性は顔を上げなかった。
もしも、仮に、万が一、この人物が問答無用で襲い掛かってきても、この服装なら勝てると踏んでいる。話しかけたとたんにふっと消える可能性もある。大丈夫だ。ここまで想定できたのだから、何があっても叫び声をあげない自信がある。
「俺、そこの日本語学校の人間なんで、そのっ、怪しいものじゃないんだけど」
「私はオーフォンテから来たルル・ベリットです」
「へ?オー……フォン?」
「分からないなら話しかけないでください」
膝の上で両手を握りしめたまま、彼女は流暢に話した。
冷たく突き放したその声に、鳴道は聞き覚えがある。とてもすらすらと話しているけれど、この言語に対する孤独が込められているように思えてならなかった。
鳴道はその場にしゃがみこんだ。
ルルは目線だけでその動きを追った。
「な、なんですか……」
「ルル・ベリットさん、って言いましたよね。ご自分の住所、わかりますか?」
「ここにはありません……」
何らかの事情がある、そう考えた鳴道は立ち去ることができない。
「あっちの出口から出て右に曲がって進むと、交番があるんです。そこに行けば、助けてもらえると思います」
助け、という単語に反応したルルは鳴道と目を合わせる。
「こうばん、ってどういうものですか」
鳴道はその返答にほっと息をついて、力を貸してくれる場所だと説明した。彼女が帰りたくない人ではなく、帰れない人ならば、声を掛けたのは間違いではなかった。
「――すぐ近くだから送りますよ、って、あ……あっ!」
重なった真っ赤なレースのどこかから艶やかな糸が引っ張られて、バッグの金具と繋がっていた。鳴道とルルがそのほつれを見つけたのはほぼ同時だった。
「すみません!どうしよう、すみませんっ」
「……いいえ、もういろんなところが破れちゃってるんです」
金具から外された長い糸を手に取り、ルルは続ける。
「助けようとしてくれて、ありがとうございます」
日本に来たルルの、初めて微笑みだった。
歩道に出てから、すれ違った何人もがルルを二度見する。鳴道はその視線に気付きながら隣を歩いていた。
「ここまでで大丈夫です。その、お名前は……」
「小暮鳴道です」
「コグレナル?」
「あーっと、小暮、鳴道」
「コグレさま。ありがとうございました」
さま、という思いがけない敬称に動揺しつつ、鳴道はすぐに会釈を返した。あそこまで日本語が上手なのに、名前の仕組みを知らないなんて珍しい。
ゆっくり歩道を渡っていくルルを見送る。信号が点滅しだしてもなおゆったりと歩く姿にヒヤリとしたが、無事に交番に入っていったようだった。