侯爵家②
■SIDE 侯爵家
食事も元に戻り安堵した数日後、執事長が数枚の辞表を持ってきた。
「旦那様、屋敷の数名が一身上の都合により退職を願っております」
爪を磨いていた私は並び置かれようとする辞表届をチラ見する。
(何故たかが使用人の雇用状態を気にせねばならん。
…と、そういえば最近、マリーとエリアが新しいドレスを欲していたな)
食事が元に戻ったとはいえ、二人は流行に敏感だ。
それでも私の”代わり”に社交をしている二人の為に”ドレス代”を作るのもアリだろう。
そう考えた私は中を見るまでもなく答える。
「たかが使用人だろ?何人でも辞めても構わん」
たかが使用人が何人やめようが構わない。
寧ろその分の金が浮くというものだ。
それに足りなくなったら使用人なんて平民から雇えばいい。
平民なんて貴族の倍以上にいるのだから。
ピカピカになった爪を眺めていると、呟きのような音が聞こえた気がした。
「ん?何か言ったか?」
「いいえ。それでは私は失礼させていただきます」
てっきり目の前の男が何かを言ったのかと思ったがどうやら違うようだ。
否定し頭を下げて部屋を出ようとする執事を呼び止める。
「待て、今後はいちいち私に許可を求めなくてもよい」
「…………、畏まりました」
そして出ていく執事。
私は爪やすりを反対の手に持ち替えたのだった。
◇
「じゃあ僕は今日限りで辞めますね」
執事長が屋敷で働く使用人たちが集まる部屋に戻って先程の事を伝えると、後悔を微塵にも感じさせないように一人の男性が答えた。
「じゃあ私も辞めようかしら、お嬢様が心残りで辞めないで残っていたけれど…、そのお嬢様もいなくなってしまったし」
そういう女性はアニーの母のミーシャがまだ存命だった頃から務めていたメイドだ。
当主だったミーシャは忙しい合間を縫ってアニーと過ごしてはいたがそれでも大半は仕事でアニーとの約束を果たせなかったことも多く、また現当主のアニーの父親であるダニーはふらふらとどこかに出かけることが多かった。
一人だったアニーの為に、クッキーやマフィンを焼いたり、一緒に人形遊びもしていたことが懐かしい。
それでも使用人たちにも優しかった前当主のミーシャと、可愛らしいアニーが大好きで、辞めずに今までやっていた。
「それにあの人たちの暴力にももう限界よ」
「ええ…この前つけられた痣も消えていないのに…」
「本当よね。今すぐにでも辞めたいわ」
「ここを辞めても次に働く場所は用意してもらってるしね」
アニーに暴力を振るってきた二人は感覚が抜けていないのか、それとも元からの気性からなのかアニーだけではなく今度は身近なメイドや使用人たちにも暴力を振るっている。
そんなメイド達に、アニーの専属メイドとして公爵家に行ったミーラから手紙が来たのだ。
内容については次の二つだ。
アニーはほぼ確実に公爵家に嫁ぐこと。
”ほぼ”というのは今留守にしている現公爵の決断が下されていないからだ。
だが公爵夫人もアニーの事を認めている為確実に近いことは確か。
そしてその公爵夫人がアニーの為に、侯爵家で働いている者たちの希望があれば公爵家で受け入れるというもの。
これに関しては公爵夫人直々の文も同封されていたために、ミーラの妄言でもなんでもないことを意味していた。
だから今までアニーが居たからこそ働き続けていた者たちは辞める決意を固めていたのだ。
そしてマナビリア付のメイドや、メイド長、そして先程侯爵当主に会っていた執事長の名前を書いた辞表届を机の上に並べていったのだ。
中でも執事長は”出来損ないの現当主”でもなんとか侯爵家を維持させようと、懸命に頑張ってきた。
アニーの母が亡くなり、まったく形にもなっていない侯爵の仕事ぶりを影ながら支えて二年半。
遂にどうしようもなくなりアニーに頼る形になってしまったが、それでも執事長なりに頑張ってきたのだ。
だからこそ一番近くで働いてきた執事長の名前を見て、なにかしらの反応を見せてくれるのではないかと、期待した。
だが返ってきた言葉は
【たかが使用人だろ?何人でも辞めても構わん】
だった。
別に使用人でも同じ仕事仲間だ。
階級に非難するつもりもないが、わざわざ侯爵に見える形で名前を表側に書いた辞表届をチラ見したのに、執事長である自分の事も奥様付きのメイドの事も、そしてメイド達を束ねているメイド長の事も”たかが使用人”で終わらせたのだ。
更には目の前に辞めたいと辞表届を渡した本人に向かって、【今後はいちいち私に許可を求めなくてもよい】とまで言ったのだ。
明らかにどの立場の者が辞めたいのか把握していない自分の雇用主に失望した瞬間だった。
そもそもアニーの母のミーシャが今の旦那様ダニーと結婚を決めたのは、クラベリック侯爵が長子相続をとっていたからだ。
だがミーシャには一人の兄がいた。
通常であればその兄がクラベリック侯爵を継ぐべき存在なのだが、親も頭を悩ませるほどに出来が悪く、また性格も悪かった。
人を蔑むことしか頭の回らない長男に侯爵を継ぐ資格はないと考え、結果は見えてはいたがあくまでも形の為兄弟で後継を競わせた。
何に対しても優秀だったミーシャに分があったが、当時女性に学は必要ないという考えと女が嫁ぐものという考えが強かった為、婿として手を上げるものがなかなか見つからなかったのだ。
そこでミーシャの両親が婿として声をかけたのが、今の旦那様のダニーだった。
旦那様の実家もクラベリック侯爵からの提案は大変有難かったようで、すぐに籍を入れ、二人は結婚した。
最初は大人しかった旦那様は、クラベリック侯爵夫婦が不慮の事故で亡くなるとすぐに”遊び”に夢中になった。
問題のある旦那様の行為だったが、ミーシャがなにも咎める様子がないことで誰もなにも苦言を呈する者がいなかった。
それでも年に数えるほどだが、旦那様がプレゼントをする姿を見て、まだ大丈夫だと思っていたのだ。
まもなくアニーが生まれ、旦那様の”遊び”は続いていたが、問題もなくアニーがすくすくと成長していった。
そしてアニーが学園に入学し数年後、”原因不明”でミーシャが亡くなってしまった。
(あの事件はかなり衝撃でした…)
以前から気分が悪そうにしていたミーシャだったが、激務が原因だと医師からも診断を受けていたのだ。
睡眠をよくとってください。
栄養価のあるものを召しあがてください。
執事長も邸の事は任せてほしいとミーシャに訴え、ミーシャの仕事量も多少は減った。
酷かったクマも薄くなり、これからは順調によくなっていくと思われたある日、いきなり血を吐き出し倒れたのだ。
それからはどんな治療を施してもよくなる傾向はみられなく、程なくしてミーシャは亡くなってしまった。
そこからだ。
派手でまるで娼婦のような格好の女性がアニーとあまり変わらない年頃の女性を連れてやってきた。
それだけではなく、あろうことか旦那様は派手な女性を新しい妻として迎え入れた。
新しい奥様であるマナビリアは何を考えているのか、まだ卒業できる年でもない学生のアニーを呼び寄せた。
それからアニーに何を言ったのか、アニーに邸を任せた女は自分の娘と贅沢三昧。
今まで辛い思いをしてきたからと、ドレスを買い、宝石を買い、身に纏う物はいつしかアニーよりも多くなった。
侯爵家の事業の運営がうまくいっていないことに気付いた途端雇っていた使用人たちを次々と解雇した。
アニーが成人に近づくと、今度はあからさまに冷遇し始める。
顔を見るだけで殴り、何かにつけて叱りつけ、まるでアニーが自ら侯爵家を出て行かせようとしているように見えた。
そしてアニーの婚約話。
心から従いたいと思える人間がいなくなり、もう疲れたと執事長は思った。
いや、執事長だけではない。
メイドも使用人も、誰もが思った。
◇
太陽が真上に上がる頃の事だった。
「は!?あいつらどこに行ったのよ!?」
全ての使用人が姿を消した侯爵家には、状況が分からず怒り狂っているエリアの声が響き渡る。
とはいっても前日の夜には「本日をもって辞職させていただきます」とエリア付きのメイドが挨拶をしているわけなのだが、記憶にもないようだった。
「お母様!…ママ!ママ!!」
懐かしい呼び方でマリーを呼ぶエリアに、頭を抱えながらマリーが自室から姿を現した。
「どうしたのよ…騒々しい…」
「それどころじゃないのよ!誰もいないのよ!屋敷に誰も!」
「は…?」
マリーの目が点となった。
「誰も起こしに来ないし、廊下にも誰もいない!掃除する人もよ!?
腹が減ったから食堂に行っても何もないし、調理場に行っても誰もいなかった!
意味が分からないわ!!!」
「…ちょっとまって、まず整理させて頂戴…」
「整理って…見てわからないの!?
この屋敷で働いていた全ての使用人が辞めたっていってるじゃない!!
ていうかどうするの!?私友達にここでお茶会するって誘っちゃったのよ!?
ママだって知ってるでしょ!?」
話に困惑するマリーに掴みかかろうとするエリア。
そこにいいタイミングで侯爵が姿を現した。
勿論出てきたのはマリーと同じ部屋の扉から。
「なんだ、朝から騒々しい…」
「パ…お父様!」
エリアの注意をマリーから侯爵に向けたことで、マリーに伸ばされた手が離れていく。
「使用人がいないのよ!!!どうして!?」
「どの使用人なのかわからないが、昨日付けて辞めているだろう?」
平然とそう告げる侯爵にエリアが目を見開いた。
「辞めさせたのはお父様ね!!!?
なんで辞めさせたのよ!?意味が分からないわ!!!」
「何故そう腹を立てる?訳を話しなさい」
「私は今週末この侯爵邸でお茶会を開くのよ!?
なのに使用人全てを辞めさせたら準備もできないじゃない!!
これが怒らないでいられるわけがないじゃない!!」
顔を真っ赤に染め上げて、元々釣り目気味だった目をさらに吊り上げて鋭くさせるエリア。
「ま、待て…”全て”だと!?
私はそんなの許可していないぞ!?
執事はどこだ!?」
「だからいないって言ったでしょう?!」
バタバタと邸を走り回る男一人に、女二人。
辿り着いたのは仕事場である書斎だった。
「これね辞表届!お父様!これ誰の辞表届なの!?」
執事長が置いたままの辞表届けがそのまま机の上に置かれていたのをエリアが見つけて手に取った。
そして”誰”の辞表届けか尋ねるが、侯爵は答えない。
いや、答えられない。
「って、ちょっと待ってよ…なによこれ…お父様これ全てに許可を出したの!?ありえないわ!!!」
エリアが見たのは、テーブルに置かれていた書面だった。
ずらりと書かれた名前に、【解雇】という文字が連なっている。
「わ、私はそんなもの書いていない!!」
「ちゃんと侯爵家の家紋が押されてるじゃない!?
というか、お父様以外の誰が書いたって言うのよ!?」
エリアの問いに侯爵は一人の人物の顔を思い浮かべた。
執事長として数枚の辞職届を持ってきたあの男の顔を。
「あいつだ…、あの男の仕業だ!!!!
クソ!!仕事を押し付けられた腹いせにこんなことをしでかすとは!!!!」
怒り狂う侯爵に、今までずっと沈黙だったマナビリアが寄り添った。
「…アナタどういうこと?」
「昨日あの執事長が数枚の辞職届を持ってきたから、これからはお前の判断に任せると言ったんだ!
それをあの男!!些細な仕事を振られた腹いせに屋敷の者全て解雇しやがって!!!」
「…そういうことでしたか…」
クソが!と今にも物に当たりそうな侯爵からマナビリアが離れる。
そして
自分の娘を見て、不敵な笑みを浮かべるのだった。