マーメイド
休日の午後、麻衣は朝昼兼用の食事をすませて、テレビを消してテーブルを立ち、流しに向かっていつも食べたら即やってしまうことに決めている洗い物をしているうち、ぼんやりしていたというわけではないものの、誤って手から洗剤のついたまま滑りやすくなっている平皿を取り落とし、とっさにぎゅっと目をつぶると同時に鈍い音をききつけ、おそるおそる薄目をひらいてみると、流しの中に落ちただけの皿は割れてはいなくて、もとの形を保ってはいたものの、もともと脆い素材のものだったのか、それとも経年により年季が入ってひびが走っていたのだろうか、これとよく似た花柄の安物の平皿を少し前におなじような調子で落として割ってしまったことが頭をよぎり、麻衣は嫌な気持ちになりながら、今日は運が良かった、とほっと安堵の胸をなでおろして、割れなかった皿をまだこわごわした指先で拾い上げて残りの皿とフライパンとグラスといっしょに丁寧に洗い流し、水切りかごに載せて、それからそばの冷蔵庫にマグネットで取りつけたタオルリングに掛かる買ったばかりで真新しいラベンダー柄のタオルに濡れて冷えた手をぬぐい、手先をひらひらさせながら部屋に帰ってテレビをつけるとまだ手が湿っているので部屋着にこすりつけ、パソコンを立ち上げてECサイトをひらいた。
検索欄にブランド名を打ち込んでクリックし、電池式のワイヤレスマウスをスクロールするまもなく前々からそれとなく目をつけていたマーメイドスカートを見つけてページをひらくと、腰回りから膝上にかけてさりげなくも殊更に体の線を強調するような美麗なシルエットがあいかわらず艶やかで、それとともに、膝下から裾広がりにふわりとフレアになりながら柔らかなプリーツが緩やかに波打つさまがとても可愛らしく奥ゆかしくて、でもそれだけなら、選り好みさえしなければ五千円程度の予算があるなら買えそうなものの、このマーメイドスカートには、生地の色から浮き出ないような控えめな色合いで花柄が一面に刺繍されているのが特徴で、それがこのスカートの印象をとても優しく淑やかに見せているのだ、と麻衣は思いながら、ふと目を移すと、税込一万四千円弱という価格にもかかわらず、色違いサイズ違いともに「在庫なし」「残りわずか」という小さな黒い文字が目につき、そのまま在庫ありのものを放っておくと、その記載も変わってしまいそうな気配である。
とりあえず急いでログインしたのち、気になっているブルーグレーの真ん中のサイズをカートに入れてもう一度ページにもどり、端整で可愛すぎるモデルが着た全身像をながめながら、わたしにもきっと着こなせるよね、と自分を勇気づけてしばし自惚れ、ふと気になるままページの下部に進んで見つけたモデル情報によれば、ウエストはもともと普段から気を使って痩せている自分と同じくらいで、お尻の感じも見たところだと似たようなものなので、ますますこれはわたしのためにあつらえられたものなのだ、と思い込みたくなったけれども、身長が一六五センチと麻衣より四センチ高いそのモデルが身に着けているスカートのサイズが00、0、1とあるうちの1なので、そこではたと迷ってしまった。
カートに入れた通り0にするべきだろうか、と麻衣はいぶかり、なおよくサイズ詳細をみてみると、1から0に下げると、総丈が三センチ短くなるのはまあ許せるとしても、ゴムありと括弧で記載されているとはいえ、ウエストがなんと四センチもすぼまり、ヒップも四センチ縮まるということなので、仮に身に着けることは出来たとしてもそれがぴっちりしすぎていた時には、周りの冷笑の的になり、というより、たぶん友達も彼もそこまでは気づかないだろうからそんな酷いことはおきっこないけれども、やっぱりこのモデルみたいにはなれなかったと後から独りで憤って、悲しくなって、と、ここまで思い及んで、麻衣は我ながらまたいつもの悪いくせがでるまま話が大仰になっているのに心づき、するとそんな自分が嫌になり、頭を横に振って思い直し、冷静に返りながら悩むまもなく出た結論は、0にしておけば間違いなく、似合うに決まっているし、とのことで、急に居直って自信をつけた麻衣が画面へ目をもどすと、その清楚な黒髪のモデルがあまりにも惚れ惚れと可愛すぎて、最早一ファンになるままうっとり見つめてしまう。
浮き出た鎖骨がなめらかで美しいし、もみあげも後れ毛もすべて残らずかけた形の良い耳はすこしだけ大きくみえるけれど、それも赤くリップを塗ってふっくら潤った唇と釣り合っているし、若くてきれいな肌は張りがあって傷ひとつないし、大きなとか切れ長とか、そういう形容ではとらえきれないバランスよく配置された端整な目もとと、目から距離の近いアーチ眉に、中央にしとやかにたたずむ高くてすっきりした鼻。
でもわたしのほうが色は白いだろうか、と麻衣は自惚れてみるものの、白すぎない白さの肌は、女から見ても爽やかで淑やかな色気を感じるし、なんかこう凛としているし、実際この服装、ブルーグレーのマーメイドスカートに、襟ぐりの広い白の七分丈のカットソーをタックインするこの上なくシンプルな合わせ方は、美人でスタイルがよく、なおかつ清楚で品のある女性にしか決して真似は出来ないし、してもいけないし、まあ、もっとごまかしのきく合わせ方をすれば、それはそれで可愛らしく仕上がることは分かってはいるけれども、でもこの腕周りの柔らかく緩やかな、だからこそ華奢な女性らしさを演出するカットソーがこのスカートの魅力を高めていることも明らかで、それよりも何よりもこのモデルの女の人よりもこのマーメイドが似合う女なんてそうそういるはずもないし、と決めつけるまま憧憬なのか嫉妬なのか一概には決められない思いに悶々としているうち、可愛らしい通知音が鳴り、ラインかなと浮き立ちながら見渡してみると、カーペットに座っている麻衣のそばには見当たらず、仕方なく立って探してみてもベッドにもその下にも隠れておらず、小説や漫画のならんだ縦に長くて自分の背丈を越す本棚にも見当たらなくて、それから駄目もとでその棚の一番上に手を伸ばしてみてもやっぱりないし、台所かなあとつぶやきながら、でもあそこから聞こえたわけでもないし、といぶかりつつもう一度部屋を見回した折から、不意の光に目もとをやられて、思わず片手を瞼にかざすままその方をのぞくと、窓辺に置かれたスマホが昼下がりの穏やかな太陽光線を反射して麻衣の目を打った。
これはまずいと思うまま窓辺へ寄り、スマホを救出すると、特別熱にやられているわけでもなくどうやら大丈夫そうなものの、カーペットではなんとなく温まってスマホに悪そうなので、ナイトテーブルの上に置こうとして、やっぱり手帳型のカバーに変えるべきだろうか、でも好きなのを探すのも面倒だし、とぶつくさ言ううち通知の事を思い出し、改めて画面をみるとアプリのニュースに過ぎないので、それは見ぬままベッドに畳まれたラベンダー柄の毛布の上へほうると、昼食後の眠気にふとうつらうつらしてきて、そのままベッドへ倒れ込んだ。
夢の中遠く着信が鳴りひびいて、麻衣は寝惚けまなこをこすりそのまま腕を伸ばしたはずみに機器をはじいて落とし、それにはっとするまま、けれども半ば怠惰に枕から顔を持ちあげるとカーペットに衝撃を吸収されたスマホの画面はなお光って鳴り響き、麻衣は彼の名前をそこに認めてふっと口もとをほころばせるまま引き寄せると、もう駅だから、そろそろ着くよ、との事。
うん、わかった。なんか元気ないじゃん、寝てた? 寝てた。そう。うん、でも来て、早く来て。わかった、急いでいく。待ってる、と愛情たっぷりに返す麻衣の言葉に返事はなく電話は切れて、麻衣は画面を見つめて頬をぷっくりふくらませた。
それからスマホをナイトテーブルに置きながらかたわらの手鏡を取り上げて顔をみると、後ろが盛大に寝乱れているので、えっ、と唖然とするまま急いでブラシを拾ってとかしながらパソコンの前に落ち着くと、先程あれだけ惹かれたスカートがべつに急ぎではない気がして、でも一応カートには入れたままパソコンを閉じ、着替える必要もないので昨日洗ったばかりで真新しい部屋着のまま点けっぱなしにしていたテレビを見るともなく見ているうちドアホンが鳴り、麻衣はすぐさま笑みを浮かべて静かに立ち、いそいそとそこへ向かおうとした途端、テーブルの脚にしたたか靴下をはいた小指を打ちつけ、その瞬間激痛とともに目の前が朦朧とするなかモデル女性の耳に垂れ下がったイヤリングの先のまあるい銀色がキラキラまたたいて、それがゆらゆらするまま麻衣を呼ぶ音が遠く近く鳴っていた。
読んでいただきありがとうございました。