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バタフライプリンセス  作者: 深水千世
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Barロータス

 それからしばらくは遼にとって憂鬱な日々が続いた。

 大学構内で連れ立って歩く太一と美香を見かけるたびに、思わず逃げるように道を変えた。自分の欲しいもの、手に入らなかったものをまざまざと見せつけられているようで惨めだった。

 遼をさらに落ち込ませたのは、周囲の目だ。

 「いつかこうなると思ってた」とか、「あんな男みたいな女より、あの子のほうが可愛いもんね」などと言われているかも知れないと思うたび、こんなに惨めな思いをするくらいなら、太一に告白するんじゃなかったと悔いた。彼の穏やかな笑顔に惹かれて好きになった。でも、そもそも自分が太一とつき合うこと自体が間違いだったのだ。

 そう思うたびに自分の卑屈さを思い知る。いくら思い返しても、太一に可愛らしいところを見せた記憶が思い当たらない。「会いたい」「寂しい」といった言葉を口にすることが、恥ずかしかったのだ。「今日、予定ができて会えなくなった」と言われても、「わかった。じゃあ、また今度ね」と返すことが常だった。少しでも拗ねると、うざい女と思われそうで怖かったのだ。

 遼は自らの可愛げのなさに途方に暮れた。かといって、相手の都合も顧みず、しかも可愛らしく「会いたい」などと言えるとは思えない。女の千夏にも言えないのに、どんな顔をして惚れた男に言えばいいのだろう。

 出口のないトンネルを彷徨っている気分だった。


 ある日、図書館でレポートの調べ物を終えた遼は、夕闇の中を帰っていた。

 俊介が「今日は出かけるから、夕飯は一人で好きにしろ」と言っていたことを思い出し、あれこれ食べたいものを思い浮かべる。だが、結局はコンビニ弁当で済ませようかという結論に達しそうになったところで、ふと飲み屋街の近くにさしかかったことに気がついた。夕闇の中、ビルから突き出た看板の明かりが毒々しいまでの賑やかさを醸し出していた。咄嗟に、目があの赤い看板を探していた。

 あの女性オーナーは「変わりたくなったら、ここにおいで」と、言った。

 遼は自分の中で、ロータスへの好奇心がむくむくと膨らんでいるのを感じていた。変われるものなら、今すぐにでも変わりたい。ロータスに行けばそれが叶うのだろうか。あの言葉にどんな意味があるのか、まるでミステリーだ。思えば、そこがどんな店かもわからないのだ。なにせ、営業時間に顔を出したことが一度もないのだから。

 ブーツのつま先は、自然に飲み屋街の大通りを目指していた。

 夕闇の中、ロータスの赤い看板はルビーのように輝いていた。木製の扉は琥珀色にライトアップされ、そこだけ夕暮れが取り残されたようだ。

 おそるおそる扉を開けると、「いらっしゃいませ」と複数の男の声が飛んでくる。

 店には二人の男が立っていた。それぞれバーテンダーの格好をしているが、シャツの色や襟の形が違う。

「お一人ですか?」と優しく声をかけてくれたのは、痩身で背が高い男だった。明るく染めた髪をワックスで整え、陽気そうな笑みを浮かべている。

 遼がおずおず「はい」と答えると、バーテンダーは「こちらへどうぞ」とカウンターに案内してくれた。

 遼は椅子に座りながら、バーテンダーの顔を盗み見た。明るい笑顔は一見すると軽薄そうだが、物腰自体はとても落ち着いていて嫌な気がしない。

 続いて「どうぞ」とカウンターの中からおしぼりを渡してくれたのは、柔和に微笑む外国人だった。流暢な日本語を話しているが、ブロンドの髪とブルーの瞳が鮮やかだ。

 ブロンドのバーテンダーに「何になさいますか?」と問われて、遼は戸惑った。カクテルのことは何もわからない。答えに窮しながら手を拭いていると、彼は「本日はいいライムが手に入りましてね。シンプルにジン・トニックはいかがですか」と快活に提案してくれた。

「あ、じゃあ、お願いします」

 そう答えるやいなや、彼らは慣れた様子で動き始める。一人はカウンターの奥に消えていき、もう一人はグラスを取り出した。

 遼はじっくり店内を見回した。控えめな照明の店内は、天井が吹き抜けになっていた。壁もカウンターも椅子も木目で、それが落ち着いた雰囲気を作り出している。カウンターの向こうに並ぶボトルは、数える気になれないほど多い。

 こんなに素敵なバーで寝ていたのかと思うと、遼は思わず首をすぼめてしまった。

 今日は『ノブ』というバーテンダーはいないようだ。彼も端正な顔立ちをしていたが、ここにいる二人も負けないくらい、女性にもてそうな顔をしている。もしかしたら、ルックスも採用基準なのかと首を傾げたときだった。奥から戻って来たブロンドのバーテンダーが、真っ白に凍っているジンのボトルを遼の目の前に置いた。もう一人のバーテンダーがライムを切っている。どうやらカクテルを作るのは、ブロンドのバーテンダーのようだ。

 タンブラーに氷を入れ、ライムを絞ると皮ごと中に放り込む。メジャーカップでジンを入れると、グラスに透明な波紋が泳いだ。プシュッと心地よい音がしてトニック・ウォーターが開けられる。昇る泡を、遼は半ば惚けるように見ていた。

「どうぞ」

 遼は差し出されたカクテルを注意深く口に運ぶ。心地よい炭酸の刺激とライムの香り、そしてジンの風味が一気に体中を巡り、鬱屈した心を洗い流してくれた。

 遼が思わず「美味しい」と呟くと、ブロンドのバーテンダーが頬を朱に染めた。

「ありがとうございます」

 笑うとなんだか可愛い。そう思って微笑むと、彼はもっと微笑んでくれた。

 遼は荒んだ心が和らいだと感じた。二口目を味わいながら、こういう店もいいものだと思った。

「カクテルはお好きなんですか?」バーテンダーが青い目を細めて話しかける。

「いえ、全然わからないんですけど、なんとなく、ふらっと来てしまいました」

 遼がそう言うと、彼が人なつこい笑みを浮かべた。

「じゃあ、是非、好きになってくださいね」

 すぐに返事ができなかった。好きになるのは自分とちぐはぐなものばかり。太一にしろシフォンのスカートにしろ、いくら好きになっても結局は似合わない。またそんな思いをしたらという恐れに言葉をなくしていた。

「好きになるって、楽しいですよ」

 途端に、彼が眩しく見えた。遼は今まで好きになって楽しいことなどあっただろうかと自分に問う。そんなことを思ってしまうのは、好きになっても自分のものにならなくて苦しい思いばかりしているせいなのかもしれない。だが、透明な泡が音もなく浮き上がるのを見つめていると、訳もなく笑みがこぼれた。酔いも手伝ってか、たまには素直になってみようかという気にさせられる。

 しみじみ、「そうですね。楽しめたらいいです」と呟いたときだった。扉が開いて、バーテンダー二人が「おはようございます」と、声をそろえた。

 “いらっしゃいませ”ではないことを不思議に思い顔を向けると、そこにはいたのはオーナーと呼ばれた、あのショートヘアの女性だった。

「おはよう、キラ。Good morning,Bill」

 流暢な英語でそう言うと、彼女はカウンターにいる遼を見つけて「あら」と、嬉しそうな声を上げた。

「この間のさなぎちゃんね! 来てくれてありがとう」

 遼は苦笑しながら「田村ハルカです」と言って立ち上がり、「その節はすみませんでした」と深々と頭を下げた。

「いいのよ、私は何もしていないし、いただいたお菓子も美味しかったしね」

 そう言った彼女は、バーテンダーの格好をしていた。細い体を締めるサロンが様になっている。

 そのとき、厨房から一人の男が「ちょっと、いつになったらお通し取りにくるの」と、顔を出した。彼はあどけない顔立ちのせいか、かっこいいというよりは可愛い印象だ。オーナーに気づき、「あ、おはようございます」とのんびりした声を上げた。 

 『キラ』というらしいバーテンダーが皿を受け取り、「どうぞ」と遼の前に差し出す。クラッカーにチーズやピクルスが乗っているだけのお通しだが、盛りつけのセンスがいい。

 ふと、オーナーの女性が遼に向かって言った。

「私、上杉志帆といいます。一応、ここのボスよ。そこの茶髪がキラで、金髪がビル、ぼんやりしているのがワタル。うちのバーテンダーたちよ。よろしくね」

 呆気にとられている遼の向かいで、キラが「おおざっぱな紹介ありがとうございます」と苦笑いしている。

「ノブは休みだけど、ゆっくりしていって」

 志帆の言葉に、ワタルがきょとんとする。

「なんだ、ノブの知り合い?」

 志帆が「例の酔っぱらいちゃんよ」と笑う。

 そのことは早く忘れて欲しい。遼が思わず顔を紅潮させると、ワタルがにやりと笑みを浮かべた。

「ふぅん。べろんべろんだったって聞いたけど」

 何度すみませんと言えば済むのだろうか。遼は針のむしろにいるような気分のまま椅子に座り直す。

 ふと顔を上げた遼は思わず目を見張った。志帆がカウンターに立つだけで、一瞬で空気が変わったのだ。さっきより格段にバーの雰囲気が締まって見える。さすがはオーナーの風格というところなのだろう。

「ハルカちゃん、ジン・トニック? せっかくだから、もう一杯いかが?」

 残り少なくなったグラスを見て、志帆が微笑む。

「あの、すみません。カクテルって知らなくて」

「じゃあ、お任せでいいかな? この前はノブが無愛想で気分悪かったでしょ? お詫びに御馳走するわ」

 志帆はエネルギッシュとか溌剌という言葉がよく似合う女性で、背中に太陽を掲げているように眩しい。

「いいんですか?」

「お近づきの印よ。甘いのがいい? 辛いのがいい?」

「じゃあ、甘いので」

 辛いのは恋愛だけで沢山。咄嗟にそう考えて、苦笑する。

「かしこまりました」

 志帆は笑みを浮かべ、カクテルグラスを取り出した。キラが氷の入ったアイスペールを彼女に差し伸べ、ビルはやや離れて食い入るように彼女の動きを目で追っている。

 さっきは出番のなかったシェーカーが銀色に輝く。彼女はグラスに氷を入れ、くるくると長いバースプーンで器用に回した。素早く氷をアイスペールに戻したかと思うと、今度はシェーカーに氷を詰める。その手つきは早送り映像かと思うほど素早い。

 そして幾つかのボトルからメジャーカップで酒を入れると、蓋をしめたシェーカーが振られた。ドラマなどで見る姿よりも、ずっと力強い。真剣な顔の志帆は女の遼から見ても、文句なしにかっこよかった。リズミカルに響く音が次第にゆっくりになり、残像を残す腕が止まる。そしてグラスにカクテルが注がれた。

「アレキサンダーです」

 志帆が差し出したのは、まるでミルクティーのような優しい色をしたカクテルだった。ゆっくり口に運んだ遼の頬が思わず緩む。カカオの風味と生クリームの柔らかさが舌でとろけていくようだ。

「甘くて美味しい」

 うっとりしていると、志帆がふっと笑う。

「その顔、いいね。そういう顔もできるんじゃない」

「どんな顔ですか?」

 きょとんとした遼を見て、志帆がキラに「ねぇ、この子、いいと思わない?」と、問いかけた。

「オーナー、本気ですか?」驚いた様子のキラが片方の眉を上げた。

「だって、きっと化けるわよ。面白いじゃない」

「オーナーも好きですね。まぁ、お任せしますけど」

 ビルは嬉しそうな顔をして遼を見つめている。

 何の話なのかわからずに思わず辺りを見回す遼に、志帆は身を乗り出して囁く。

「ねぇ、うちで働かない?」

 唐突な誘いに、遼は思わず何度も首を横に振った。

「あの……大学生なんで」

「週に三日くらいのバイトでいいから」

「どうして私なんですか?」

 怪訝そうに訊ねると、志帆はにやりとして「あなた、つまらないって顔してるから」と、答えた。

「つまらない……ですか?」

 身に覚えがないわけではない。苦笑すると、志帆はカウンターに両手をつき、口の端をつり上げている。

「そのカクテルね、イギリス王妃に捧げられたカクテルなの。うちのプリンセスになってちょうだい」

「はい? プリンセス?」

「ほら、うちって男ばかりでしょ。私も忙しいから店に出られないことが多いし、女手が欲しくって」

「でも、私、女らしくないですよ」

「ほら、そこがね、いいのよ」

 志帆がケラケラ笑うのを横目に、いつの間にか厨房から顔を出していたワタルが口を開いた。

「女らしくないほうが助かることもあるんだよ」

 そう言ったワタルに、志帆が頷く。

「ワタルもいいわね?」

「決めるのはオーナーでしょ。まぁ、悪くないと思うよ。女として見られないだろうしね」

 可愛い顔をしてワタルは辛辣な言葉を吐いた。

 すると、ビルが「でもノブは? いいの?」と首を傾げる。

「いいの、いいの。大体、この子を見つけてきたのはノブなんだから」

「へぇ、ノブがねぇ」キラの顔が面白そうだと言わんばかりににやついた。

「というわけで、どう?」

 カウンターの四人が一斉に遼を見る。まるで蛇に睨まれた蛙のようで、遼は生唾を呑み込んだ。一瞬、兄に訊いてみるべきかとも思ったが、二十歳のくせに保護者の了解を待つなんて子どもじみたことを言えるわけがない。

 遼はしばらく考え込んでいたが、目の前で微笑んでいる志帆に向かって「変われますか?」と、切り出した。

 遼は膝の上で拳を作り、まっすぐ志帆を見つめて「ここで働いたら変われますか? こんな私でも、さなぎから出られますか?」と、問いかけた。

 すると、志帆の目の奥にあたたかい光が宿った。いたわるような視線が、記憶の彼方にいる母親のようだと、遼の胸を打った。

「もちろんよ。あなたさえその気になれば」

 その口調は優しくもあり、なんとも力強い。遼の空っぽの心に、それはとても強く響いた。ちょうど空っぽだったからかもしれない。けれど、確かに彼女を動かした。

「わかりました。やってみます」

「本当? 良かった。これからよろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 こうして遼は週に三日、バーテンダーとして働くことになった。給与や勤務時間について話してから、志帆が唇をつり上げる。

「バーテンダーの服はこっちで用意するから。明日、四時くらいに店に来て」

「はい。わかりました」

「じゃあ、お楽しみにね」

 どういう意味だろう。きょとんとしながらも、遼は「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 ビルが「よろしくね」と微笑んでいる。彼の声は響きが柔らかく、人を和ませる。

 次いでキラが遼の頭をぐりぐりかき回す。

「俺、妹分が欲しかったんだよな。すぐに逃げ出すんじゃないぞ」

 彼は陽気だった。一見すると軽薄に見えそうだが、決して品が悪いわけではなく、親しみやすい。

 最後にワタルがのんびりと笑みを浮かべていた。

「面白くなりそう」

 彼は可愛い顔をしていても、その目は笑っていない。けれど、そこがミステリアスな魅力を放つのだ。

 会計を済ませた遼を、志帆が店の外まで見送ってくれた。

「強引でごめんね。こういうところ、旦那に似ちゃって」

「旦那さん、いらっしゃるんですか」

 志帆は独身でも違和感がないほど生活臭がない。遼が思わず驚くと、彼女は照れくさそうに笑う。

「ここの本当のオーナーは旦那なんだけど、今は海外の友達のところに長期滞在中なの。私よりずっと腕のいいバーテンダーよ」

 そう頬を染める彼女は、まるで少女のようにはにかみながら夫の話をしている。

 あぁ、可愛いな。遼は素直にそう思った。こういうところが、きっと自分にはないのだろう。

「あの、改めて、よろしくお願いします」

「うん。あのね、あなた、きっと変わるわ。昔の私みたいだから」

「え?」

 志帆はそれ以上語ることなく、手を振って店に戻っていった。

 遼はふうっと一息つき、歩き出した。

 自分にバーテンダーなんてつとまるのだろうか。そして何かが変わるんだろうか。不安はあるが、なぜか胸が躍っていた。

「やってみなくちゃ、わからないわよね」

 思わず独りごちた。太一のことでいつまでも沈んでいるよりは、新しい世界に飛び込んでみたほうがいいかもしれない。給料も少しは家計の足しになるだろう。兄には、機嫌がよさそうなときに切り出そうと決めた。

 ふと空を見上げると、満月がぷかりと浮いている。眩しい光が、心を満たしてくれた。

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