終わりと始まり
「どうしてだと思う?」
居酒屋の喧噪の中、ジョッキを片手にぼやく。親友の千夏はその真向かいで、苦い顔をしていた。
千夏は映画を観に行きたかったようだが、遼に会った瞬間、居酒屋に連れて行くほうがいいと思ったらしい。とはいえ、遼がまとう負のオーラに耐えかねたのか、目の前にある空のジョッキを見回し、後悔の念をこめてため息をついた。
「リョウ、あんた飲み過ぎ」
そう言われた途端、遼は「私は遼って書いてハルカだってぇの。女だってぇの」と、ぼやいた。そして呂律のまわらない口で、「惨めってどういうこと? 私といると男って惨めなの? そんな理由でふられるのって何度目か知ってる?」と千夏に詰め寄った。
千夏は呼び止めた店員に空のジョッキを運ぶよう頼んでから、遼に向き直った。
「あんた、そこらへんの男より男前だから」
「私はね、女よ」
「そうね。でも、世間が求める女の姿からはほど遠いのよ」
そう言って、千夏は遼をしげしげと見やる。
「身長百七十センチのモデル体型、実家は空手道場で腕っ節もたつ。性格も潔し、化粧嫌いでほぼスッピン。ショートヘアにしないのが勿体ないくらい大きな目をした綺麗な顔。そんなのが隣にいたら、大抵の男が怯むわ」
「ショートなんかにしたら、ますます男みたいじゃない」
「まぁね」千夏が遠慮なく肯定し、「あんた、宝塚にでも行けばよかったのに」と頬杖をついた。
「無理よ! 『清く正しく美しく』なんて、うちの道場だけでお腹いっぱい」
遼は肩を落として、焼き鳥の串をぶらぶら揺らす。
「なんで泣けないのかな?」
「そうよね……。太一君のこと、大好きだったはずなのにね」
首を傾げる千夏に、遼は「ふん」と鼻を鳴らした。
「どこか覚悟していたのかもね」
遼が同じ理由でふられることは三度目だ。高校生のとき初めてつき合ったクラスメイトも、以前のバイト先の後輩も、太一と同じ言葉を残して逃げていった。
「どいつもこいつも、いくじがないわ。立ち向かって来いってぇの」
遼が虚ろな目で毒づくと、千夏が哀れみに満ちた目をした。
「そういうところ私は好きだけど、恋愛には向いていないのかもね」
千夏はそう言い捨てると、伝票を手にしてコートを羽織った。
「ほら、リョウ。もう帰ろう。私があんたのお兄ちゃんに叱られる」
またも『リョウ』と呼ばれ、遼は鼻を鳴らす。
「私はハルカだってば」
「あぁ、もうわかりましたよ。面倒くさい女ね」
千夏はぶつくさ言いながら遼にもコートを着せると、会計まで引っ張っていった。
外に出ると、北海道らしい冬の匂いで溢れていた。ここ千歳市は札幌市のほど近くに位置している。石狩平野の南端にあり雪は比較的少ないが、一年を通して風が吹く街だ。
不思議と雪が降ったほうがかえって温かく感じるもので、こんな星空の見える夜はキンと凍る空気が火照った頬を刺す。日中に少し雪が溶けたためか、夜の冷え込みで道はスケートリンクと化していた。
飲み屋街の雑踏の中、足取りがおぼつかない遼の腕を千夏が支えている。だが、身長差のせいか、それともアイスバーンのせいなのか、なかなか苦心している。
「しっかりしてよ、もう」
ぼうっとする頭で、遼は何度かそんな声を聞いた。しかし、彼女の脳裏にあるのは一生懸命選んだ誕生日プレゼントを見ることもなく去って行った太一の背中だった。
本当なら、今頃は太一のアパートで肩を寄せ合っているはずだったのに……。そう唇を噛みしめたときだった。
「ねぇ、おねえさんたち、どこ行くの?」
遼たちが振り返ると、見知らぬ男二人がニヤニヤしながら立っていた。
一人は金色に近いほど染め抜いた髪で、両耳に太いピアスをしている。連れは帽子を深くかぶったひげ面。どちらも軽薄な印象だ。
「いえ、もう帰りますから」
苦笑いする千夏に構わず、彼らは歩み寄る。
「そっちのおねえさん、フラフラしてるよ。立てる? どっかで休む?」
虫酸が走る。そう言い返そうとしたが、酔いが邪魔をした。
「今日は寒いしさ、この近くにいい店があるから休んでいこうよ」
「私たち、帰りますから」
今にも泣き出しそうな千夏を、男たちは面白がっている。
「いいじゃん、ちょっとくらい」
金髪男の手が千夏の肩に置かれたのを見て、遼の頭に血が上った。
千夏が「リョウ!」と叫び、遼の二の腕に必死にしがみつく。だが、彼女の動きを止めたのは千夏ではなかった。
「お客さん、やっと見つけましたよ」
突然、背後から声がしたかと思うと、背の高い男が歩み寄ってきた。服装からすると、どうやらバーテンダーらしい。穏やかな笑みを浮かべているが、毅然とした態度だった。
「君たち、悪いけど今日は諦めてね。こっちのほうが先だから」
バーテンダーがさりげなく金髪男の手を払うと、千夏がほっと胸を撫で下ろした。しかし、面白くないのは二人連れの男たちだ。
「なんだよ、お前」
今度はひげ面の男が睨めつけるが、バーテンダーは臆することなく肩をすくめた。
「いや、このお客さんたち、うちでツケがたまっててね」
ツケとはなんのことだろう。そもそもこのバーテンダーは誰だろう。きょとんとする遼たちに、バーテンダーが目配せをする。街灯が彼の左にある泣きぼくろを照らしていた。
バーテンダーが笑みを浮かべ、「それとも君たちが肩代わりしてくれる?」と言った。
軽薄男たちが顔をしかめると、すかさずバーテンダーが「十二万五千七百円」と、囁く。
軽薄男たちは舌打ちし、遼たちを睨みながら「行くぞ」と、退散していった。
「あの……ありがとうございました」
千夏がバーテンダーに礼を言ったとき、遼の視界がぐにゃりと歪んだ。
「リョウ!」
千夏の声を聞きながら、遼は意識を手放した。
目を覚ましたとき、遼は思わず低く呻いた。頭が締めつけられたように痛む。それでも違和感を覚えて目を開けると、そこにあったのは、見知らぬ天井だった。梁がむき出しになっていて、シーリングファンがある。ここはどう考えても自分の部屋ではないと思い焦って跳ね起きたものの、吐き気がこみ上げてきた。
「気持ち悪い……」
「完全に二日酔いだな」
驚いて声がしたほうを見ると、一人の男がマグカップ片手に遼を見下ろしていた。肌は白く面長の顔をした男だった。涼しげな目の左側に泣きぼくろがある。綺麗な顔をしているが、表情は冷たい。
「へ?」
辺りを見回すと、どうやらバーのようだ。男が手をついているのは分厚くて立派なカウンターで、その向こう側にはボトルの並んだバックバーがある。
遼とこの男の他は誰もいない。どうやらテーブル席のソファに寝ていたらしく、誰のものかわからない黒いコートを毛布代わりにしていた。
「あの……ここは?」
そしてあなたは? そう言いかけて、思い出した。昨日、自分たちを助けてくれた男だ。
「あっ! 千夏は?」
「ああ、あの子なら帰ったよ。ずっとオロオロしてたけど、俺の名刺を渡して心配いらないって言っておいたから」
男はそう言って、目を細めた。
「君、田村ハルカでしょ?」
「え? なんで私の名前を?」
名前を知っていただけではなく、きちんと『ハルカ』と呼んだことに遼は驚いた。『遼』と書いて『ハルカ』とすぐ読める人はほとんどいない。男らしい性格も手伝って、友人からも『リョウ』と、呼ばれるのが定着している。
遼はまじまじと男を見たが、まったく見覚えがない。どこかで会ったことがあるか記憶を手繰ろうと眉をひそめるが、昨夜の記憶すらもあやふやだ。
「あっ、もしかして千夏が話したの?」
すると男は、「覚えていないかな」と言って眉を下げた。
だが、男はすぐに無表情に戻ってマグカップをカウンターに置いた。
「君もコーヒー飲む?」
「あ、いえ……」
戸惑うばかりの遼に、男が「参ったよ」と肩をすくめた。
「君の友達、千夏ちゃんだっけ? 一人じゃ運べないっていうしさ、君は起きないし。責任もって目が覚めたら家まで送るからって帰ってもらったんだよ」
「すみません。ご迷惑をおかけしたようで……」
恥ずかしさで顔を上げられなくなった遼に、男は容赦なく続ける。
「おかげで一時には帰れるところを、残業六時間だ」
一時から残業六時間。ぼんやりと反芻した遼の顔から、すうっと血の気が引いていく。慌ててジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、そこには『AM7:09』という表示の他に、兄からの不在着信が十二件という通知があった。
遼は頭を抱え、思わず「やっちゃった」と、呟いた。
「俺は何もしてないぞ」
「そのやっちゃったじゃなくて!」
兄に叱られる。そして大学の講義に遅れる。遼は慌てて自分の荷物を探すと、テーブルの上に置かれたコートとバッグが目に入った。
「あの、すみませんでした。私、帰ります! 帰らなきゃ」
「あっ、お、おい」
呆気にとられている男を尻目に、遼は急いでコートを羽織った。どんなに急いでも一講目は間に合いそうにない。頭が真っ白になりながらも、「あの、お礼はあらためて来ます。すみませんけど」と早口でまくしたてる。
バッグを手にしたところで、はたと男を見やり、首をすぼめる。
「ところで、ここってどこですか?」
男は一瞬きょとんとしたが、すぐに「ふっ」と声を漏らして噴き出した。涼しげで端正な顔が眉を下げて笑うから、遼は思わず見蕩れてしまった。
「面白い奴」
彼はそう目を細めると、ポケットから一枚の名刺を取り出して遼に手渡した。
「ここは『ロータス』っていうバーだ。定休日は日曜」
「あ、ありがとうございます」
名刺をバッグにしまいながら扉まで駆け出し、ふと振り返る。
「あの、本当に何もなかったんですよね?」
男はコーヒーに伸ばしかけた手を止めて、ふんと鼻で笑う。
「それくらい、自分でわかるだろ」
「ですよね。あの、すみませんでした」
深々と礼をして走り出した遼の背中を見送り、男の口角がすっとつり上がる。バタンと音をたてて閉ざされた扉に向かって、彼はかすかな笑みを漏らしていた。
外はすっかり朝の光に満ちていた。飲み屋街は昨夜の賑やかさが嘘のように静まりかえり、ほとんどの店でシャッターが下りている。清廉な冷たい空気が二日酔いの体にしみて、遼はぶるっと体を震わせた。
携帯電話には千夏からメールが届いていた。三十分前の着信で『昨日は大丈夫だった? 講義は代返しておくから、二講目からおいで』とある。ありがたい、持つべきものは友である。遼は心からそう思うと、少しばかりほっとしてタクシーを停めた。
タクシーに飛び乗ると、運転手に「田村空手道場まで」と伝え、車のシートに背中を預けた。心配事の一つは解消されたが、もっと厄介なことが待ち受けている。
真面目で心配性の兄だ。何を言われるか想像しただけで身震いした遼は、思わずバッグを引き寄せて「あっ」と声を漏らした。バッグの中に淡いベージュ色をした名刺が見える。手触りのいい紙に蓮の絵がプリントしてあって、『Barロータス』と書いてあった。その店名の下に『バーテンダー 陣内信幸』と記されている。月明かりに照らし出された凛々しい顔と、さっき笑った顔のギャップに胸がざわついた。
名刺を戻そうとすると、太一への誕生日プレゼントが目に入り心臓が凍りそうになった。中身は彼が欲しがっていた腕時計だ。しかし、今となってはブランドやメーカーをリサーチし、必死にバイトしたこともすっかり無駄になってしまった。
胸に鈍い痛みが戻るのをごまかすように、遼は視線を車窓に向けた。流れていく街路樹の向こうに見える人波には、出勤途中のサラリーマンたちや部活動のバッグを手にした学生がいる。いつもだったら、自分もその中の一人だったはずだ。それなのに、失恋して飲んだくれた挙げ句、見知らぬ人に迷惑をかけて、こんな時間に家に帰っている。
不思議なことに、そのとき思い起こしたのは別れ際の太一ではなく、『覚えていないかな』と言って、眉を下げたバーテンダーの顔だった。奇妙なことに、その少し寂しげな顔を思い出すと、なぜか失恋でうずく胸が少しおさまるような気がした。しかし、大学に行けば太一を思い出さずにはいられないだろう。遼の唇からため息が漏れ出た。