始まりと終わり
翌日、藍良は夫と共に東京に戻った。
近々カウンセリングを受けようかという話も出ているが、夫婦で話し合いを繰り返し、だいぶ落ち着いている。そう言ったノブも、どことなく嬉しそうだった。
遼は少しだけ、藍良の気持ちに寄り添えるようになっていた。本当は夫を愛しているからこそ、未練がある自分に苛立つのかもしれない。時々、自分が太一のことで胸を痛めるときがあるように、誰だって後ろを向きたいときがあるものだ。
キラは藍良たちを送ってロータスに戻ったが、ワタルに報告すると一杯おごってもらったと笑っていた。
「失恋確定で、ご愁傷様ってとこだろ」
笑って話すキラに遼が思わず「ごめん」と俯くと、頭をつつかれた。
「わかってたことだよ」
「……ありがとう」
遼は静かに微笑んだ。キラに甘えてばかりだったが、確かに救われていたのだ。
ノブは父親のレストランの手伝いと、ロータスのシフトの合間に、遼と一緒に過ごすようになっていた。
これからは穏やかな毎日が訪れる。ロータスのオーナーが帰ってくるという連絡が届いたのは、そう思った矢先のことだった。
その日は風が強く、葉桜をざわつかせるような天気だった。夜になっても風はやまず、客は乱れた前髪を気にしたり、背を丸めながら足早に店に入ってくる。
ロータスのシフトはワタルとノブ、そして遼だった。混み合っていた店が一段落したとき、厨房からワタルがひょいと顔を出す。
「あぁ、そういえば、おじさんが帰ってくるってさ」
ノブがぴくりと眉を上げる。
「おじさんって、暁さんか?」
「うん。他に誰がいるの」
けろっとしたワタルに、ノブがため息を漏らす。
「お前ね、あの話はどうするんだよ」
遼が思わず口を挟んだ。
「暁さんって、ロータスのオーナーの?」
「うん」と、ワタルがあくび交じりに答える。
「俺のおじさん」
「えぇ?」
素っ頓狂な声を上げた遼に、ノブが「知らなかった?」と意外そうな顔をした。
「暁さんはワタルの母さんの弟だよ」
「じゃあ、ワタルさんは志帆さんの義理の甥っ子なんですか!」
「まぁね」
ワタルはまるで他人事のように淡々としている。
「人づきあいの下手な俺を心配して、バイトしろって半ば強制的に迫ってきてさ。それ以来ここにいるんだけどね」
ノブが『やれやれ』と言わんばかりに眉を下げる。
「こいつ、この店をずっと経営していかないかって誘われてるんだ。留守の間に決めろって言われてるんだよ」
「どうするんですか?」
これからはワタルがオーナーになるかもしれないということだ。だが、彼は飄々と肩をすくめるだけだった。
「さぁね。とにかく、来週の木曜に帰るらしい。金曜の夕方五時に全員集合でミーティングだってさ。予定大丈夫?」
「大丈夫です」
遼が二つ返事で答えると、ワタルはため息混じりに呟いた。
「面倒だなぁ。おじさんは嫌いじゃないけど、暑苦しいんだよね」
遼は志帆が頬を染めて夫の話をする姿を思い出していた。一体、どんな人なのか想像もつかなかった。
その日の帰り道、遼を車で送るノブは苦笑いを浮かべた。
「暁さんも昔は人見知りだったらしくてね。それでワタルをなんとかしたいって思ってるらしいんだけど、人見知りだったなんて信じられないくらいパワフルな人だよ」
「へぇ」
ノブがハンドルを切りながら唇をつり上げた。
「会うのは一年ぶりかな。楽しみだ」
遼はノブの横顔が少年のように見えて、思わずふっと笑ってしまった。この頃、ノブの笑顔は朗々としたものになってきていた。
「なに?」
怪訝そうなノブの声に「なんでもない」と答えると、彼は「なんだよ」と笑みをこぼす。遼には、こんな他愛もない時間が心から愛おしい。
オーナーと会える楽しみと、目の前にある時間に思わず胸が膨らんだ夜だった。
金曜日、遼たちは開店前のロータスにいた。遼とノブとビルは壁に背を預けて立ち、ワタルとキラが椅子に腰掛けている。
「……来たね」
ワタルがぴくりと眉を上げる。大きなエンジン音が店の前で止まり、やがてドアを閉じる音が二度した。
「揃ってるわね」
笑顔で入ってきたのは志帆だ。もともと快活なイメージの彼女だが、夫の帰国がよほど嬉しいらしく、機嫌がいい。
「お疲れ様です」
それぞれが声を上げると、志帆はまっすぐ遼の前に歩み寄る。
「うん、遼はもうさなぎじゃないみたいね。すごくいい顔つきになったわ」
「あ、ありがとうございます」
面映ゆそうな遼に、志帆が「うちのプリンセスはシャイね」と、笑い声を上げたときだった。
「お疲れさん。久しぶりだな」
朗々とした声がしたかと思うと、小脇に段ボールの箱を抱えた男が店に入ってきた。
「お久しぶりです」
メンバーが一斉に頭を下げた。
「元気そうでなにより」と、白い歯をのぞかせて笑うこの男こそ、志帆の夫である上杉暁だった。浅黒い肌に引き締まった体つき。陽気そうな口元と優しげな目をしている。
暁はすぐに、惚けた顔の遼の前に歩み寄った。
「君がリョウ?」
「は、はい。よろしくお願いします」
「よろしく。……なるほどね。志帆好みだな」
彼はまるで品定めするかのように視線を走らせる。けれど、少しもいやらしくなければ、変な重圧もないところに、無邪気な性格が表れていた。
「これ、お土産」
暁は抱えていた箱をカウンターの端に置いた。
「なんですか、それ?」
キラが目を輝かせると、暁が「よくぞ聞いてくれました」と唇をつり上げた。箱から取り出して見せたのは、銀色に輝く球体の置物だった。
「月球儀だよ。地球儀の月バージョン」
嬉々とした暁の声とは裏腹に、キラは落胆して「なぁんだ、店の備品ですか」と唇を尖らせる。
「ごめんね、この人ったらそういうことに気が回らなくて。なにせ、私にもお土産がないくらいなんだから」
志帆が苦笑しながら、手にしていた袋からボトルを二本取り出した。一本はカナディアン・ウイスキー、そしてもう一本はワインだった。ノブがワインを手にとって、しげしげと見つめた。
「へぇ、アイスワインじゃないですか」
通常なら秋に行われる葡萄の収穫を冬まで待ち、凍った完熟葡萄で作るのがアイスワインだ。ドイツで偶然に生まれたワインだが、カナダのアイスワインも有名で甘みが強く、人気が高い。
「どんどん稼いでくれよ」
にこやかに笑う暁に、キラがすっかり呆れ顔だ。
「店にはお土産があるけど、俺らにはないの?」
「俺の笑顔だ」
「げぇ」
ワタルが苦笑している。
「この人は店のことで頭がいっぱいなんだよ、どこにいても昔から」
ふと、暁がワタルの真向かいに椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。その目にすっと真剣な光が宿り、瞬時に顔つきが引き締まる。
「それで、俺が留守の間、店はどうだった? もう決めたか?」
その場にいた誰もが、一斉にワタルを見つめる。彼はいつもの飄々とした顔で口を開いた。
「おじさん、俺はね、今のメンバーの店が一番気に入ってる。いい仲間だ」
ワタルは遼たちを見回し、ふっと笑う。
「で、俺が気づいたことは、この仲間のほうが店よりも好きだってことだ。おじさんみたいにどこにいても仕事のことで頭が一杯にはなれない。俺が海外に行ったなら、店により仲間にお土産を買うだろうな」
ワタルが肩をすくめて、暁を見据えた。
「だから、俺は店をやるには向いていない。十年後のここに今のメンバーが誰一人残らないなら、今のままでロータスの記憶を留めておきたいんだ。俺はいずれ別の仕事を探すよ」
暁が「そうか」としんみり頷いた。
「人との関係を築くことを放置してたお前が、そこまで大切に思う仲間に会えただけで、俺はいいよ」
その言葉は、オーナーとしてではなく血縁としてのものだろう。どこかほっとした響きがあった。
暁が月球儀を指さした。
「あれはカナダの骨董屋で見つけたんだが、俺はここをあの月のような店にしたいと思ってる。月の海って知ってるか?」
ビルが「lunar mare……玄武岩でできた月の平原だね」と、頷く。
「そう、本当は水なんてないのに『海』を名乗る嘘っぱちだ。だけど、誰もが嘘だと知りながら夢を見る。酒だってそうだ。『こんなもんか』って現実に疲れた人にロマンをくれる。本当に月に海があるんじゃないかって夢見心地の時間を過ごせるバーにしたい」
暁の目が輝きを増していく。まるで冒険に胸を膨らませる少年のようだ。
「お前たちがここにいる間だけでいい。この店をそんな場所にするために力を貸してくれ。そして、どうか人間味を深めてからこの店を出て行って欲しい」
暁は月球儀に歩み寄りながら、こう続けた。
「酒ってのは水鏡みたいなもので、飲む人の人生や想いがこめられる。それはまるで映画や小説みたいに、目の前にあるけれど自分では経験できない、もしかしたら自分が経験するはずだったかもしれない一場面だ。人の一生は短い。なんでもかんでも経験できるわけじゃない。だけど、そこにある誰かの一場面を垣間見て、自分の糧にできる。それがバーテンダーの醍醐味の一つでもあるし、腕の見せどころなんだ」
そして、月球儀の表面をつるりと撫で、遼たちを見渡した。
「お客様に月の海を夢見てもらい、とびっきりの水鏡を差し出してほしい。人は誰もがいなくなる。だからこそ、そのときそのときを大事にしてな」
暁が笑う。
「ロータスはお前たちのさなぎだ。ここから飛び立つときまで、俺の夢につき合ってほしい。その間、思い思いの色の羽を身につけてほしい」
彼の言葉は荒々しくもなく、淡々としていた。けれど、誰も口を挟むことはなく、瞬きすら忘れそうな時間だった。先のわからない明日を生きるのは誰だって不安なのだろう。
遼は唇を噛みしめた。たとえ先が見えなくても、無駄なことなどないのだ。思いっきり進めばいい。そう拳を握りしめる。
遼はふと隣のノブを仰ぎ見る。視線に気がついた彼は目を細めて微笑みを返す。
暁の『人の一生は短い』という言葉の意味を噛みしめる頃には、遼が広げた羽はところどころ切れたり、汚れたり、しわだらけになっているかもしれない。だが、変わらず同じ手の中で羽を広げている自分の姿が目に浮かぶのだ。そう、あの左の泣きぼくろにキスを落とせば、どんなに傷ついた羽でも、いくらでも飛べる気がした。




