素直になれない
2020.7.22 高橋修のTシャツに『たまるんの壺』を登場させました。(猫屋敷たまる様にご許可をいただきました)
『たまるんの壺』はこちら↓↓(猫屋敷様の割烹)
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1751619/blogkey/2600019/
引っ越しの荷解きをしていたら、古いアルバムが出てきた。それを、なんとはなしに開いてみる。写真屋で現像時にサービスでもらえる、一頁に二枚分のポケットがある薄くて安っぽいアルバムだ。
その中に。
奇妙な黒い写真があった。撮った本人でなければ、うっかりシャッターを押した失敗作にしか見えないそれに、目を凝らす。薄らぼけた黒――夜闇の中、微かに緑色の粒子がぼんやりと映りこんでいた。
◆◆◆
「滝川栞さん、今日からこのクラスで一緒に勉強する友達だ。滝川さん、自己紹介を」
山際にある市立中学の教室で、三十数人分の視線を一斉に浴びた栞は狼狽えた。内気な栞にとって、大勢の前で自己紹介しろとは拷問に等しい。緊張から手が震え、指先が冷たくなってゆく一方、顔からは何も言えない恥ずかしさで火が出そうだった。
「(名前とよろしくだけでいいよ)」
不幸中の幸いは、傍らに立つ担任が優しかったことか。
「滝川栞です。よろしくお願いします」
消え入るような声でペコリと頭を下げる。ポニーにした髪の幾本かが汗ばんだ首筋に張りつき、栞は微かに眉をひそめた。
◆◆◆
H県F市は山と海が近い。場所によっては、急な坂道と階段ばかりの土地もあるが、栞の越してきたS町は、山際にあれど傾斜はさほどでもなく、道を歩いて息切れるということはなかった。
山の麓にある中学校も、校庭から校舎までの急坂を除けば、足を悩まされるほどでもない。
開け放たれた教室の窓からは、植木とは異なる葉をつけた低木が細腕を伸ばす山の斜面が見える。時折、山から迷い込んできた蝶や蛾が頭上をヒラヒラと舞い、風が吹けば、植物の青い匂いが漂う。
校舎に行き交う生徒たちのジャージもまた、深緑を思わせるグリーンだった。
(う…私だけ…)
栞は、制服の購入が間に合わず、前の学校で使っていた臙脂色のジャージを着ざるを得なかった。緑色の生徒たちの中で、臙脂は浮く。自分が異分子だとアピールしているようで、栞は酷く惨めな気持ちになった。
「都会はこんなん着るんか?」
「意外とダッサ」
「ばーか。緑ジャージがかっけぇかよ」
「緑のオッサン!」
「ギャハハハハ…」
ゲラゲラと笑いながら、男子生徒たちは古びたアスファルトの道を登っていく。
この中学校には、校庭が複数ある。陸上部や野球部は一番下の広い校庭を、テニスとバレーは校舎のすぐ上の校庭を、バスケはさらに坂道を登ったところにもう一つ校庭があるのだ。
「あっちに墓地あんだろ?出るぜ?」
不意に真横を通り過ぎた男子がそんな耳打ちをしていった。
◆◆◆
帰宅したアパートの部屋は暗かった。両親はまだ帰っていない。喘息っ気のある娘のために、都会の本社からF市の支社へ異動願いを出した父。母は、車で隣町へパートに出ている。二人が戻るのは夜になるだろう。
宛がわれた自室のベッドに寝転がった栞は、ヘッドホンで音楽を聴き始めた。そして、転校初日の疲れもあってか、そのまま眠ってしまった。
目を覚ますと、既に窓の外は真っ暗だった。両親はまだ帰っていない。
ぐぅ…
鳴ったのは、栞のお腹だ。時計を見ると夜八時をまわっている。冷蔵庫をのぞいたものの、生憎めぼしいものは入っていなかった。都会育ちの栞が、夕食を買いに行こうと決めたのも自然なことだった。
田舎の夜道は、都会とは比べものにならないほど暗かった。靴の形さえ、目が慣れないと見えないのだ。道の先に蟠る濃い闇に一瞬怖じ気づいた栞だが、目指すコンビニまでは車道沿いの歩道を、十分ほどまっすぐ行くだけだ。街灯もある。栞は、意を決して歩きだした。
誰とも、車とも出会うことなく、栞はコンビニに辿り着いた。煌々とLEDの白い光が溢れるコンビニは、暗闇の中のオアシスのようだ。
店舗の前に数台しか停まれない小さな駐車場があり、今は黒々とした大型バイクや原付が数台並んでいた。その脇に、ドライバーであろう茶髪や金髪の不良っぽい若者がしゃがんで煙草を吸っている。
まあ、まだ夜八時過ぎだ。駅も近いし、人通りもある時間帯に滅多なことはしないだろうと、栞はそのままコンビニへと歩を進め…
「オラ!!」
横合いからの突然の恫喝に、短い悲鳴をあげて尻餅をついた。
見上げると、ジーパンにドクロプリントの入った黒いシャツの上に、サラサラした髪を薄い金髪に染め、赤やピンクの派手なピンでサイドを留めた不良少年。その顔は意外にも色白で、驚くほど整っていた。アーモンド型の切れ長の目に、凛々しい山形の眉、スッと通った鼻筋に薄い唇。左耳の、ドクロを模したピアスが鈍く光を反射する。
少年は栞を見下ろし、意地悪そうに唇の端を持ち上げた。鋭い眼差しと栞の視線がぶつかる。と、突然不良が片脚を振り上げる素振りを見せ、栞はびっくりして手をついて蹌踉けつつも後退った。何だかわからないが、一人でいてはマズいことは理解できる。
コンビニ……店員に助けを求めれば…
などと考えていた栞を、マフラーを違法改造したエンジンの爆音が現実に引き戻した。
「……は?」
思わずそんな声が出た。
ドルルン ドゥルルルン
パフォーマンスのようにエンジンをふかすバイク。ヘルメットをつけていないドライバーの横。たむろしていた不良少年たちが取り出したのは…
LEDを反射してギラリと凶悪に光る、ナイフ。
不良映画のワンシーンのような光景。不良少年たちは、栞にはわからない方言で、興奮気味に何やら話している。そのギラついた目が、チラッ、チラッと栞に向く。
頭の中で警鐘が鳴る。ヤバい…
逃げないと、と思うのに。心臓がバコバコと、急かすように拍動するのに。足が、地に縫いつけられたように動かない。
ドッドッドッドッドッ ドゥルルルン
と、その時。原付とは思えない爆音が急接近してきた。
「オラオラ!轢くど!」
さっき恫喝してきた不良が、あろうことかバイクに乗ってまっすぐ栞に向かってきたのだ。恐怖に顔を引き攣らせる栞に、不良少年は意地悪く唇を歪めた。
「オラ!」
手が伸びてきて、栞の後頭部を小突くように押す。身体が傾き、反射で足が前に出る。
「あ…」
「ヒャハハ!逃げぇ逃げぇ!」
途端に現実に引き戻された栞は、脱兎のごとく駆け出した。
◆◆◆
とんでもない目に遭った。
死に物狂いで走って躓いて転び、アパートを行き過ぎて戻って……
あのコンビニは、夜は不良のたまり場なのだ。
後で知ったことだが、店の前でも彼らはビール瓶や鉄パイプを振り回して騒ぎ、警察沙汰も珍しくないとか。駅があるから人通りがあると踏んでいた栞だが、駅は駅でも無人駅で、夜間ともなるとカツアゲやおやじ狩りがあるとかで、むしろ人気がないのだという。
この田舎は、存外物騒なところのようだ。
ショックで寝つけず、ぼんやりした頭で登校した栞。
「よっ!起きとるかぁ?」
ぬっと現れた人物に、ムッとして顔をあげて。次の瞬間、眠気がぶっ飛んだ。
金髪に染めたサラサラの髪。赤やピンクのヘアピン。そして、鋭い眼差しと意地悪そうな薄い唇。ムカつくぐらいに整った顔は…
「昨日の不良っ!」
思わず叫んで後悔した。相手が能面のような真顔になったからだ。怖い。
「あ゛?」
カクッと傾いた顔には、確かな怒気がある。栞は縮み上がった。緊張を孕んだ沈黙――
「ばーか」
威嚇するような捨て台詞。
そして、
「痛っ!」
額にデコピンされた。
◆◆◆
自分はよほど運に見放されているのか。翌日、ホームルーム前の僅かな時間。
「滝川ァ!ハサミ貸して」
大声で人の名前を呼んだのは、あの顔だけはいい不良。
なんと同じクラスだったのだ!そいつが今度は呑気な顔でハサミを貸せという。
どうする…。
浮かんだのは、昨日の能面のような顔。断るのは怖い。
今日のヤツのTシャツが、若者に絶大な人気を誇る猫のゆるキャラ、『たまるんの壺』プリントでもダメだ。無理。
恐々と席を立って、廊下側の机でたむろする男子たちに近づく。アイツは男子の中でも一段と制服の着崩しが酷くて、学ランのボタンは全開、ズボンはヒップハング、腰にはどこにつながっているのかチェーンがジャラジャラしていて、足許は上履きですらない。素足に、女子も恐れをなして履かないような、ショッキングピンクのクロックス。
「どうぞ」
「おっ、サンキュー!」
上機嫌でハサミを受け取ったアイツは、当たり前のように鞄から菓子の袋を取り出した。
言っておくが、この中学の校則は厳しい。当然、『おやつ』の持ち込みは言語道断である。それを、アイツは躊躇うことなく袋の口を切った。
「ほい返す」
「あっ」
ポイッと放られたハサミを両手で受けとめ、
「食え」
「?!」
サブレを口に突っ込まれた。と、ガラッと開く扉。担任が入ってきたのだ。
「ヤベッ!センコーだ。滝川、これおまえンな?」
「え?え?」
押しつけられた菓子の袋。そして…
担任と目が合った。
◆◆◆
どうも私は標的にされたらしい。
あの後、担任に職員室に連行されてこってり絞られた。巻き添えの濡れ衣なのに。だって、口に突っ込まれたサブレをクラスメイトの前で吐き出すとか……中学生として、それ以前に女子としてアウトだ。
ちなみに真犯人は、担任に睨まれるや窓から華麗に外へ飛び出し逃走した。
「フォウフォウフォ~~ウ!!」
という、裏声の雄叫びと、クロックスがリノリウムの床を打つ派手な音、男性教師の怒号、掃除用具入れを倒したような音、それからやや間が開いて、原付のエンジン音が遠ざかっていった。
◆◆◆
揶揄われていると気づいたら、だんだん腹が立ってきた。栞にだって、怒りの感情くらいはある。声に出せないだけで。
(何考えてんの、アイツ…)
栞はアイツが嫌いだし怖いが、アイツは栞を面白いオモチャとでも思っているのか、ちょくちょく声をかけてはおちょくってくる。今ではクラスメイトから、同情の眼差しをもらうくらいだ。助けてはくれないけど。
通い始めたばかりの塾からアパートへと急ぎながら、栞は心の中で不良少年を盛大に罵倒した。
土曜日の昼過ぎだというのに、田舎の道には人っ子ひとりいない。引っ越してきてわかったことだが、この町では学校に行くか、町に一軒しかないスーパーに行くか、もしくは夕方以降『歌声喫茶ゆうゆう』に行くかしないと人に出会わない。民家は軒を連ねるほどにはあるし、中学も一学級に三十数人いることから、それなりに人口は抱えているはずなのだが、不思議なものだ。
まあ、表通り――といっても片側一車線のたまにしか車が通らない幹線道路だが――を歩けば、三人くらいは人がいたりする。表通り沿いに学校への一本道も、スーパーもコンビニもあるため、栞の歩いている道幅の広い裏通りを敢えて通る選択をしないのかもしれない。
自転車、欲しいなぁ…。
自転車が買えないほど、栞の家の経済状況は悪くない。問題は、歩いて行ける範囲に自転車屋がないことだ。自転車を買うには、車で隣町のホームセンターまで行かねばならない。田んぼ沿いの道をてくてく歩きながら、栞は唇を尖らせた。
そこへ、チリンチリチリチリチリン!としつこいにもほどがある自転車のベル。嫌な予感しかしない。
「た~きがわぁ~」
……出た。
「じ~みこぉ~」
うるせぇ。
ぶすくれる栞の前に、蛇行運転のママチャリが急停車。通せんぼした。そして、栞の塾鞄を見つけるや、アイツは無駄に秀麗な顔をニヤリと歪めた。その目がチラッと栞の後方を見たような気がしたが…
「地味子じゃけぇガリ勉か?あ?」
すぐ、いつもの調子に戻った。
「……。」
経験からわかる。真面目に答えたら揚げ足とられて、ヤツを愉しませてやることになる。無反応ならそのうち飽きていなくなるだろう。アレはイケてる顔した猿だ。
しかし。ヤツはよほど退屈していたらしい。
「オラオラ!逃げんと轢くど!田んぼに落ちぃ!」
栞の反応がないとみるや、自転車で後ろに回りこみ、追い立ててきた。
「きゃあっ」
いや、相手にしたら愉しませるだけだ。わかっているけど、ヤツなら女子を田んぼに突き落とすくらい、平気でやるだろう。結局、逃げ回る羽目になった。
だが今回、神様は栞を見捨てていなかったらしい。
「こら!何をしている!」
後方に停車していた白いミニバンの扉が開いて、三十代くらいの男性が出てきてくれたのだ。助かった!と、栞が期待に目を輝かせて男性を振り返った瞬間。
「も~らいっ!」
塾鞄をヤツにかっ攫われた。鞄には財布も入っている。
「獲ったど~」
今度は、自転車で逃げるアイツを栞が走って追いかける羽目に陥った。車の男性は……ぶっちぎってしまった。
散々揶揄われて、表通りに出たところで「ほい返す」と、輝くような笑顔で鞄を返された。まるで「遊んでくれてありがとう」と言われたようで癪に障る。ヤツが去った後、汗だくになった栞は自販機でサイダーを買い、一気に喉に流し込んだ。
「ああっ!腹立つ!」
◆◆◆
明けて翌月曜日。
朝のホームルームで担任が顰め面で教壇に立った。
「この中の何人かは知っとるかもしれんが、ここ数日、女子生徒に声をかけて、身体に触ろうとする変質者が出たと、何件か通報がありました。三十代くらいの男で、白いミニバンに乗っとると」
もし、それらしい男に遭うたり話しかけられたりしたら、走って逃げる、大声を出す……
担任が注意を促すように、生徒一人一人に目をやる。
「高井の方で出たんじゃって」
「やだぁ。怖~い」
知っているのだろう。女子生徒たちの何人かがヒソヒソと囁き合う。田舎はSNSなどなくても情報の伝達が早い。
「車でこっそりつけてくるんよ」
「うわ。キモ~」
「滝川さん、家、高井の方じゃろ?大丈夫?」
「え…」
喉から出た声は、間抜けなほどに掠れていた。思い当たることがありすぎる。
「嘘!遭ったん?」
「なぁ、ウチも方向同じじゃし、一緒に帰ろ?」
心配そうにこちらを見てくるクラスメイトにぎこちなく頷きながら、ふとアイツの席を見た。
まさか……ね。
ヤツは例のごとくサボりで、空っぽの机があるだけだった。
◆◆◆
それからしばらくは平穏な日々が続いた。例の変質者事件をきっかけに女子グループの一つに入ることができ、彼女たちの輪に入っている限りは、ヤツは近づいてこないのだ。
女友達とは、素晴らしき防壁である。
ちなみに、この段になってようやく私はヤツの名前を知った。高橋修、というよくある苗字に真面目っぽい名前だ。
「この辺って高橋多いんよ。女子も合わせたら、ウチのクラスだけでも五人おるし」
「中林と宮田も多いよねぇ」
そうそう、と雨の音をBGMに他愛もない話で笑い合う。栞は、ようやく新しい制服に袖を通した。紺色に三筋の白線の入ったセーラー襟の下は半袖の白ブラウス。リボンの色は、濃いグリーン。窓の外でシトシトと降り続く雨に濡れる、山の木々のような色だ。紺のプリーツスカートのベルト部分を折り込んで膝丈にすれば、他の女子生徒とさして変わらない見た目になった。
◆◆◆
この中学校では、夏休み前に合唱コンクールをする。コンクールと銘打っているが、都会のように全国大会にエントリーするのではなく、あくまでも学内の行事である。一応、どのクラスの発表がよかったか投票させるので、ぼんやりとした順位はつくという。
歌う曲は、各クラスで好きな曲を選ぶため、合唱用の曲ではなく、オリコン上位に輝く流行歌が選ばれることが多い。
そして、栞のクラスでは。
勢いで人気曲を選んだはいいが、歌い出しがラップだった……。なんと無謀な。
伴奏係に選ばれた佐野君が、出だしの和音をジャン!と鳴らしても、あるのは沈黙のみ。サビはシャウト系でカッコイイのだが、合唱できるかと問われれば、不適格だと言わざるを得ない。
「みんな、歌おうやぁ…」
大人しい彼が勇気を出して発破をかけるものの、生徒たちは現実逃避に忙しく、ゴソゴソと私語をしたり、片隅ではクラスのリーダー格の女子グループが勝手にサビを歌ってふざけている。
学校行事の恐ろしいことは、一度決めたら変えられないこと。つまり、後戻りはできないのだ。
だが……個々は臆病な生徒たちに、『YouknowhatImsayin,baby~♪』と、早口でキメるなんて、無茶振りもいいところだ。練習はぐだぐだになるばかり。見かねた担任が介入して、下手くそな見本をやったり、歌詞に振り仮名やアクセントを振る涙ぐましい努力をしたが、残念ながら笑いを取っただけで終わった。
時は無情だ。
あっという間に本番の日を迎え、生徒たちは皆浮き足だっていた。冒頭のラップ部分は、今だ一度も成功したことがない。しかし、おろおろしていても順番はやってくる。
「二年一組、曲は……」
紹介を終えた生徒会の司会者がマイクから離れる。
二秒……三秒……
グランドピアノの前に座った佐野君と指揮役の荒本さんが、緊張に顔を強張らせる。
(「いけそう?」)
(「無理」)
(「できない」)
(「どうしよう……」)
無言の問いかけには、不安げな眼差しがあるばかり。
六秒……七秒……
明らかな練習不足、逃避……聞き役の生徒たちが、奇妙な沈黙にざわめき出す。
「YouknowhatImsayin,baby!」
突如、歌が始まった。
「The time is always right to do what is right……isn't it?Yeah」
(あ!)
舞台のど真ん中に、ドクロのピアスに金髪、ショッキングピンクのクロックスを履いた校則違反てんこ盛りの不良少年が現れた。
「You're the king of the worldーー!!」
ラップ部分のラストを、イナバウアーもかくやと胸を反らしてシャウトする。その手には……さっきまで生徒会の子が使っていたマイク。アイツの――高橋修のラップは、教師たちに叱責を忘れさせるほど上手くて、堂々としていた。
「Hang in there…」
そして。ラップの結句を歌い終わるや、アイツは舞台から聴衆の生徒目がけて、マイクを思いっきりぶん投げた。
ゴドッ
キィイーーーン
ハッとしたように指揮棒が振られ、ピアノが鳴る。生徒たちが歌いだす。まるで停まっていた時が動き出したように。
練習の時にはなかった不思議な一体感。戸惑いと驚きに目を瞠る生徒たちの声は、はじめこそ乱れたものの、サビに入る頃には驚くほど揃っていた。
なんとなく……普段不良扱いして白々しいとわかってるけど、アイツが背中を押してくれたんだ……
きっと……いや間違いなく、それに似た想いが生徒たちを突き動かしていた。
サビを尻目に、原付のエンジン音が遠ざかっていった。
コンクール翌日の教室。珍しくアイツは不良以外のクラスメイト大勢に囲まれ、褒め言葉を浴びていた。ヤツの顔は、Tシャツのゆるキャラ、『たまるんの壺』にそっくりな、ふにゃりとしたそれになっている。
「高橋君、歌上手いね!マジでかっこよかったよ!」
目を輝かせているのは、伴奏係の佐野君。
「ええっ照れるなぁ……。付き合っちゃうゥ?」
アイツも褒められてまんざらでもないらしい。ふざけてそんな冗談を言っていた。担任の気配を感じた途端、窓から逃げたが。
日常が戻ってきた。
アイツは相変わらずサボりで授業にはほとんど出ない。期末テストにも結局姿を現さず、栞たちは夏休みを迎えようとしていた。
◆◆◆
七月に入ると、白い紙垂を下げた細いしめ縄を、通りという通りに張り巡らす。連休に祇園祭という一大イベントがあるのだ。
友達からその情報を聞きつけた栞は、早速親に強請って浴衣を買って貰うことに決めた。S町に、若者の服を売っている店はない。若者向けの店は、地元の鈍行列車で四十分のF市まで出なければない。
買いに行く気満々だった栞だが、
「駅前にもあるじゃない?着物売ってるとこ。そこにしなさい」
日曜日の朝、母親に近くで済ませろと言われて愕然とした。
「え?電車くらい……」
「ダメよ。栞、季節柄喘息の発作、出やすくなってるし。何かあったらどうするの」
言い縋った栞だが、持病のことを指摘されて黙り込んだ。
ここに越してきてから、喘息の発作は驚くほど減った。車通りも少なく、空気が清涼なこの地は、栞の身体に優しかった。けれど、治ったわけではないし、喘息持ちが発作を逃れられない時期というモノはある。
台風だ。
七月の終わりから秋にかけては、毎年、栞にとってはイヤな季節だった。
「ここで買いなさい」
と言われれば、肯く他なかった。
駅前の呉服店は、着物の他にも化粧品、通いものの箱菓子に帽子に、はたまたカシミヤの靴下や磁気ネックレスまで……老婦人のための萬を何でも取り扱っている。
(う、うわ~~)
ショーウィンドウの向こうに、フクロウのちりめん細工や折り紙で作ったくす玉が飾ってある時点で、若者向けの店ではないとわかる。貼ってあるポスターは、いつの時代のヤツだよ、と思える年代物。こっそり覗くと、奥のトルソーが着物を着ていた。訪問着と言うヤツである。不安しかないぞ。
でも、友達に浴衣で行くと言ってしまった手前、何としてでも手に入れなくてはならない。
(大丈夫よ。浴衣ないです~て言われれば、F市で母さんにデザインを任せて買って貰えばいいもん。あるかどうか、聞くだけだから!)
都会と違う、個人経営のお店、且つ店にとって明らかに場違いな栞がそこに踏みこむにはかなりの勇気が要る。
意を決して自動ドアの『軽く触れて下さい』の文字をタッチする。
(店員さん、いないんだけど?)
奥のカウンターは無人。随分不用心だ。万引きとかされないんだろうか。カウンターの上に、『御用がある方は鳴らして下さい』との書き置きと、小さな銀色のベルがある。恐る恐るそれを鳴らしてみたが……
誰も出てこない。
(え?休みなのかな?)
けれど、自動ドアは開いたし、店内は明るい。冷房も効いている。目をパチパチしていると、後ろで開閉音がして腰の曲がった小柄なお婆さんが入ってきた。彼女はカウンターにやってくると、
「こんにちはぁー!おられますかぁー!」
結構な大声で奥へと呼びかけた。
そして、栞の存在に気づいて、「あらま、先客さんがおったわ」と皺だらけの口角を上げた。
「ああ……鐘は聞こえんのんよ。おばあさん、耳が遠いけぇな」
「は…はぁ」
先ほどとは打って変わってお婆さんの声量は普通。カウンター近くにあった椅子に、よっこらしょと腰かけるあたり、店の常連なのかもしれない。
「若いねぇ。どこの子ねぇ?」
ニコニコと皺に埋もれかけたつぶらな目を細めて、お婆さんは栞を見上げた。
「お名前は?」
「……滝川です」
「滝川さん……聞かん苗字じゃねぇ」
「今年引っ越してきましたので」
「あ、ああ。荒本マンションの子か」
さすがド田舎。余所者の情報は瞬く間に広がるらしい。この間の変質者も、初犯の翌日には身元がほぼバレていたというから、田舎のジジババネットワークとやらは侮れない。
「中学生?」
「はい」
「学校は楽しい?」
「ええ……まあ」
お婆さんの質問に曖昧に答えていると、バタバタと音がして、暖簾の奥からふくふくと肥った白髪の老婆が出てきた。
「あら、キエさん。お待ちどおさん」
「どうもお邪魔しとります。わしよりこの子が先客さんじゃ」
キエさんというお婆さんに言われて、白髪の老婆が私を見る。
「こんにちは」
「こんにちは」
ペコリと頭を下げると、「あら、お行儀のいい子じゃねぇ」と老婆はニコニコと笑った。
よかった……優しそうな人で。
幾分ホッとして、
「あの、浴衣って、ないでしょうか」
と、尋ねると。
「浴衣?あるよ。祇園に行くん?」
なんと……。浴衣、売っていた。
◆◆◆
祇園祭の夕方。栞は浴衣を着て、友達数人と祭り会場である神社へとやってきた。
「栞ちゃん、浴衣きれいじゃねぇ」
「ほ、ほんと?可奈ちゃんこそ、レースとか超カワイイ。色気ある。姫」
「マジィ?嬉しー!」
友人の可奈は、今風の和と洋を融合させた丈の短い浴衣だ。胸元が大きく開いており、襟や袖口に黒いレースが縫いつけてある。全体にはピンク色なのに、体型を寸胴にしないせいかどこか大人っぽくて妖艶。足許は下駄ではなく、サンダルだった。
栞はというと、紺地に白や薄紫の花が染め抜かれた昔ながらの浴衣だ。駅前の店には、今風の上下セパレート式の楽チン浴衣もあったのだが、店の老婆がこれを強く推したのだ。
「栞ちゃんは背ぃも高いし、大人になっても着れるけぇ。これにしぃ」
地元民からの強い勧め。気の弱い栞に断る話術はなかった。
買った後で、「着付けどうすんの?!」と蒼白になったが、相談した友人が、「ウチも昔の浴衣なんよ。婆ちゃんに着付け、頼んだげるわ」と、救いの手を差し伸べてくれたのだ。感謝してもしきれない。持つべきものは友。
歩道のない旧道沿いの神社は、道路との間に幅一メートルほどの水路があり、その所々にかかる石橋から境内に入れるようになっていた。普段はがらんとして木々が生い茂るだけの境内は、カラフルな看板を掲げたテキ屋がひしめき、甘い匂いや香ばしい煙を吐き出している。既に多くの地元民が集まり、あちこちに空色や紺地、赤や紫などの法被に白い股引きに地下足袋の男衆の姿が見えた。
そこへ。
ズゥン、ズゥン、と低い響きが聞こえてくる。
「あ、トラック来る」
「トラック?」
「太鼓。お囃子よ。あ!きた!」
可奈が指さした方向に、ヘッドライトが光る。それはゆっくりこちらに向かってくる。
ピーピーヒャララ ピーヒャララ
横笛の音。拍に重い大太鼓の響きが重なる。
「清和会じゃ。あれ?高橋君じゃん?」
ドン ヒャラ ドン ヒャラ ドン ヒャララ
「え…?」
ドクン、と胸が鳴る。
神社の前をトラックがゆっくりゆっくり通過する。荷台の上に木材を組んで舞台を設え、ビニールシートで簡素な天幕が張られている。屋根の下には、ぐるりと提灯が吊され、夕闇の中にぼんやりと暖色の光が浮かび上がり、紅白のテープが巻かれた木材を照らしていた。荷台周りには、ぐるりと紅白の幕が下がっていた。
「ほら、あれ」
舞台上の前後に大太鼓が一基、側面に小太鼓が二基、小さなドラのような鐘が吊り下げられ、紺地の背に紅で『祭』と染め抜かれた法被姿の若者たちがそれらを叩いていた。太鼓を叩く度、舞台が震動で揺れる。
「前よ、前」
「あ…」
金髪に紺地の法被を着た少年が、こちらに背を向け、舞台の低い柵に腰かけ、片手で紅白の柱に捕まっているが。
ドン ドン
お囃子の調子が変わる。
「ヨイセー ヨイセー」
男衆の掛け声、太鼓に合わせて掲げられる提灯。栞たちの前を通り過ぎ、人の波をかき分けながら神社へと入っていく。やがて、後部に括りつけられていた笹の枝が、塀の向こうに消えた。
「違うたね」
「うん。高橋くんじゃなかった」
チラと見えた横顔は別人だった。ホッと胸をなでおろす一方で、残念だとも思うのはなぜだろう。
「なぁなぁ、中でお囃子やるんよ。見よ見よ」
可奈に手招きされて境内へと入る。テキ屋が途切れた少し先で、さっきのトラックが停車しており、お囃子を披露していた。
「支部ごとに法被が違うんよ。清和会は愛好会ね?」
「へぇ」
余所者の栞には、わからないことばかりだ。
テキ屋で買った焼きもろこしにかじりついていると、またお囃子が。舞台の仕様は似たり寄ったりだが、法被の色は、白。裾の部分に赤で市松文様が染め抜かれている。その中に、一瞬金色の髪にヘアピンを留めた頭が、見えたような気がした。
そのトラックも、神社前の道をお囃子を披露しながら、先ほどのトラック同様、境内の中へ入っていく。自然と、栞の足はトラックを追う――だって……
少しだけ、少しだけ見てみたいの。法被を着たアイツを……
「おい!落ちるぞ!」
鋭い声にハッとした瞬間、逞しい腕がガシリと栞の腹に回され、引き寄せられた。トラックを目で追っていた栞は、石橋の端ギリギリを歩いていたと、このときようやく気づいた。
「とっれぇのぅ、滝川」
「え?!」
よく知った声に、心臓が跳ね上がる。
久々に見る顔は少し日焼けして、学校にいるときとは違う眩しい笑顔に、図らずも目を奪われ。チラリと視界の端に映った、腹に回された腕にゼロ距離を自覚して。栞の顔はみるみる赤く染まった。
「……。」
心臓がバコバコとうるさい。なんで……
呆然としていると、アイツはその体勢のまま、軽々と栞を石橋の中ほどに立たせ、何事もなかったように身体を離した。肩に感じていた熱がなくなる――
「……。」
「……。」
無言で互いの顔を見つめる。
「さわりましたッ!」
不意に神妙な顔つきで選手宣誓よろしく右手を挙げるアイツ。
はい??
「柔らかかったですッ!」
「は?!」
目を剥いた栞に、ニカッと白い歯を見せてアイツは境内へ逃げていった。
「栞ちゃ~ん、高橋くんと何しょうたん?」
「あたし見たわ。高橋くん、トラックから颯爽と飛び降りて栞んとこ走ってったん!」
キャーッと、友人の奈穂が黄色い声をあげる。
え……?アイツ、飛び降りたの?私のために……?
「きゃあ!恋する乙女になっとる!」
「顔真っ赤じゃん?うわ、これは何があったか聞かんといけんね」
ニマニマする友人たちに、栞はぶんぶんと手を横に振った。心臓が暴れて胸が痛い。
「え?ええっ?!そ、何にもないよ!」
必死で否定しても、友人たちのニマニマは止まらない。
「ほ、ほら!お囃子見りゅん」
……噛んだ。
「ええよ、ええよ。高橋くん、太鼓叩くんじゃろ?」
「行こ行こ~♪」
悪ノリした友人に、あれよあれよという間に、トラックの前まで連行され……
「ころべェころべェ、またころべェ……そォーれッ!」
舞台の上。嗄れた掛け声を合図に、祇園囃子が始まった。
その中に――
ドン ドン カーンカーン
アイツがバチを振っていた。
ドン カーン ドン カーン
清和会と違って横笛はいない。太鼓と鐘が独特のリズムを刻む。アイツの……一切の迷いのないバチが、身体の芯に響く、ズシンと力強い音を鳴らす。
ドン ドン
カカーン カカーン カカーン
お囃子の調子が変わる。拍と拍の間隔が開き、ゆっくりに。
つい先ほど栞を抱きとめた逞しい腕が、しなやかに振られ――
ドン ドン カカ ドン ドン カカ
ドン カカ ドン
「サァーッサァデ!!」
勇ましい掛け声を合図に、拍が速く、力強く響く。
ドド カカ 「サァーッサァデ!!」
ドド カカ 「サァーッサァデ!!」
この男衆の掛け声に、アイツの声も入ってる――聞き取れないかと、耳を澄ませ。トクン、トクンと胸が早鐘を打つ。
ドンドンドン カーン
ドンドンドン カーン
また、拍子が変わった。
「すごいなぁ。全部覚えとるんじゃねぇ」
可奈がハア、と感心の溜息をはいた。
「うん」
きっと、たくさん練習したに違いない。
授業はサボってふざけてばかりの不良少年が。
「カーッカカデ!!」
バチを振り上げ、掛け声を叫ぶアイツの顔は凛々しくて。法被からのぞく胸板に汗が光っていた。
ドンドンドンドン
太鼓の拍子が速く、速く、
ドン「サァー」ドン「サァー」ドン「サーサーデ!」
男衆の声が熱を帯び、お囃子が佳境を迎える。アイツも――
一心にバチを振る姿はひどく真剣で、格好良くて……
ずっと見ていられたらいいのに。
アイツなんか大嫌いなのに、どうして涙が溢れそうなのだろう。胸が苦しいのだろう。心臓が暴れて、言うことを聞かないのだろうか……。
◆◆◆
お囃子奉納を終え、男衆がトラックから降りてくる。休憩時間なのか、会場へ散っていく男衆から離れて、アイツがまっすぐ向かってきた。
「見とったんか」
「高橋くん、格好良かったよな!栞!」
可奈がニコニコと栞を押しだす。ぎこちなく頷くと、ヤツは真面目くさった顔になると、なぜか横を向いた。そして、横目で栞を見ながらわざとらしく咳払いをすると、頬を人差し指でちょいちょいと指さした。
「??」
怪訝な顔をすると、なんとヤツはタコチューのような唇をしやがった!ちょっと!
「はあ?!」
栞が目を剥くと、ヤツは正面を向いてとぼけた顔で人差し指を自分の唇に当て、「こっち?」とばかりにこてんと首を傾げた。
……コイツ、面白がってる。
「し、しないからっ!」
なんだかメチャクチャ恥ずかしくなって栞が叫ぶと、ヤツは腹を抱えて笑い出す。やっぱり……コイツはこういうヤツなんだ。
ひとしきり笑って。
「おう滝川、今日テレビ見ぃよ?俺、山上がるけぇ」
目尻の涙を拭いながらアイツが言ってきた。
「は?」
何言ってんの、コイツ。
「高橋くん、怪我せんのんよ?」
「気ィつけてなぁ」
「??」
あれ?私だけ話についていけてない。疑問符をとばす栞に、アイツは「知らんのか」と薄く笑った。
◆◆◆
浴衣を、着付けてもらった奈穂の家で脱ぎ、そのまま奈穂の部屋でテレビをつける。こんな山あいの田舎の祭りなのに、『けんか神輿』という荒っぽい名称ゆえか、テレビ中継されるのだという。祭り二日目の今夜は、重い神輿を担ぎ、山に登るんだとか。
「もぉな、み~んなべろんべろんに酔っぱろうて山に上がるけぇ、見にいかん方がええ。酒臭いオヤジに揉みくちゃにされるもん」
「へぇ。でも。大丈夫なん?そんな……べろんべろんて」
奈穂のママ曰く、神輿は500キロ近くあるという。それを担いで山の急斜面を無理やり登るのに、担ぎ手が泥酔状態とか。
「まあ、みんながみんな飲んどるワケじゃあないけど。でも、怪我人は毎年出るし、死人も……」
「ええ?!」
そんな……危ないところへアイツは行ったのか?だから「怪我しないように」とか「気をつけろ」と言ったのか。
テレビでは、地方局のアナウンサーが興奮気味に祇園祭の説明をしている。
「二日目の今夜は、各地区の神輿がここから傾斜四十五度の急な斜面を登る『御旅所』、そして明日の夜はいよいよ、神社に戻って勇壮な神事、『けんか神輿』です!」
カメラは今、山の入口付近を映している。見物人でどこが道路なのかわからないほどごった返した登山口に、提灯を灯したお囃子のトラックが数台停まっており、その周辺では忙しくたくさんの赤い誘導灯が振られていた。
そこへ。
ホイッスルに先導されて、ついに黄金色の神輿が姿を現した。
「エッサ ホイサ エッサ ホイサ」
太い檜の担ぎ棒の下に割り込むように身体を傾けた男衆の掛け声が幾重にも重なる。黒山の中心に、金色のがっちりと堅牢な神輿がある。黒い屋根に金の宝珠を戴き、屋根の四隅にはくるんと丸まった太い金の蕨手。隅木から垂れる瓔珞の向こうに見える堂の色は、緑。地区によって、堂の色が違うのだ。
緑の神輿が、登山口からコンクリート舗装の道を登っていくが、途中から舗装路を外れて道なき斜面に無謀にも踏みこんでゆく。担ぎ棒にロープが結んであり、上からも引っ張っているようだが、不安定な足場に早くも神輿が大きく傾く。
「ああっ!傾きょうる、傾きょうる…」
神輿本体の下から、幾本も男衆の腕が伸びて持ち直そうとするが、500キロの重みに負け神輿が黒い海に沈みそうになる。
あの場に、もしかしたらアイツもいるのだろうか。
「エッサ ホイサ エッサ ホイサ」
鳴り響くホイッスル。
急斜面をゆく男たちは時に手をつき、前を行く者の背を押しあげたり、傾く神輿を支えんと手を伸ばす。
誰かが「エッサ!」と言えば、誰かが「ホイサ!」と応える。
神輿が再び、黒山の上に浮上する。
そして、また道なき坂を登りはじめた。
様々な色の法被が入り乱れ、白い地下足袋が斜面の茶色い泥に汚れ。あの中で、アイツも神輿を支えているのだろうか。
テレビ画面に映る無数の男衆の中から、アイツの姿を見つけることは、ついにできなかった。
◆◆◆
午前零時をまわった真夜中。
表通りは、祭りから帰る見物客の最後尾がまだ歩いている。
アパートに帰った栞は、二階のベランダから団扇片手にぼんやりと外を眺めていた。
連休から夏休みは既に始まっている。夏季補習はあるので、登校はするのだが、サボりのアイツは来ないだろう。そう思うと、たったひと月しかない夏休みがいやに長く感じられた。
空には細い三日月が浮かび、栞の心境を嘲うかのように見下ろしている。
ドゥルルン ドゥルルルルン
家路を辿る見物人も数を減らしてきた。深夜は暴走族の時間だ。長い直線が続く表通りは、ヤツらのいい遊び場である。それを見たいわけでもない。
「寝るか……」
シュルトトトトト……
「た~きがわぁ~」
踵を返そうとした栞は、下から聞こえた大声にびっくりして目をまん丸にした。
アパートの下に、いつぞやの真っ黒な原付がいる。乗っているのは、白いヨレッとしたTシャツに黒いズボンを穿いた不良少年――アイツがまっすぐに栞を見上げていた。
いても立ってもいられなかった。
後先も考えずに、栞はアパートから階下へと駆け下りた。
「とりあえず乗れや」
「へ?」
勢いだけで降りてきた栞に、座席の後部を指さすアイツ。栞は目をぱちくりさせた。
え……えっと??
「おら、はよせぇ」
周りを気にするアイツ。誰もいないけど。
「え、えっと、ヘルメットは……?」
「ねぇよ、そんなもん」
バッサリとまあ。お巡りさんに捕まるよ?
「逃げきるに決まってんだろ。とっとと乗れ」
舌打ちするアイツ。ほんの少し前は怖いとしか思わなかったのに、なぜか今はかわいいと思ってしまった。
「掴まっていい?」
「おう」
恐る恐る原付に跨がり、アイツの腰に腕をまわす。自分は、いつからこんなに大胆になったのだろう。
走りだした原付は少しだけアンバランスで、栞は思いきってアイツの背中にキュッと身体をくっつけた。
「当たってるぜぇー!!」
「う、うるせぇ!」
寝る前だったから、我ながらとんでもない格好だ。色褪せたペラい半袖シャツに、ミニ丈のキュロット。快適さだけを追求したファッションは、白い太腿が丸見えである。エンジンをふかす原付が風を切り、乾きかけの栞の前髪を遊ばせた。
「イエッフ~~イ!!」
S町の表通りに裏声の雄叫びが響いて、テールランプと一緒に夜の闇に消えていった。
◆◆◆
「なぁ。どこ行くん?」
もうすっかり染みついた方言で、アイツにたずねた。
原付は中学校をぐるりと周り、テニスコートも通り過ぎて山道を登っている。カーブを慎重に曲がりながら、どんどん上へ。この先に何があるのかは、栞もさっぱり知らない。尋ねた背中は、呑気に鼻歌など歌っている。教えてくれる気はないらしい。
やがて、トラック一台がギリギリ停まれそうな広い路肩に原付を停めると、
「着いた。来いや」
ヤツが掴めとばかりに左手を差し出した。恐々とその手を握り返すと、ヤツは栞の手を引いて山の中へと分け入っていく。
ザクザクと、枯れ葉や枯木を踏みしめる音だけが聞こえる。視界は真の暗闇だ。頼りになるのは、繫いだヤツの手だけ。
「そこ、溝あるで」
「うん」
時折、足許を注意されつつ、どれくらい歩いたのだろうか。長いようで、短いようで、記憶は定かではない。
やがて。
「ここ」
少しだけ明るい。目が慣れたのだろうか。
いや、違う。
「わぁ…」
この場所だけ、山の木々が途切れていて。町の灯りに邪魔をされない夜空には、満天の星。
「綺麗じゃろ」
「うん!」
オリオン座、あとそれから……
あ、オリオン座しかわからない。
でも、名も知らない星が幾つも幾つも瞬き、夜空を彩っている。都会では絶対に見ることが叶わない、贅沢な空だ。暗闇に目が慣れると、屹立した枯木とこの場を取り巻く木々の黒いシルエットが、まるで自然の額縁のよう。幻想的な光景に、しばし見とれ――
「?」
ふと、星とは異なる光を見つけて目を移す。
「高橋くん!あれ!なんか光ってる!」
「あ?」
アイツの熱が近づいて、ボッと顔が茹で上がったけど、この暗闇じゃわからないだろう。見られていないことをいいことに、光を指さす。枯木の先端を点々と彩る、蛍光グリーンに近い、半月型の光――
「あー……キノコじゃね?」
「キノコ?!」
「喰ったら死ぬ」
真面目くさった物言いに、思わず噴きだした。
「ンだよ……キノコにウケてんのか?」
「フフフッ。秘密」
笑いながら、アイツの手をこっそり握り返して引き寄せた。
◆◆◆
真っ黒な写真は、あの時ガラケーで撮ったものだ。光るキノコどころか枯木も星空も、ぼやけてさっぱりわからない。でも――
不意に足音がして、私の後ろに誰かが座った。何してるんだ、と問う声に淡く笑みを返す。
「思い出していたの」
と。
了
【お題:おどかし】
シューマンの《子供の情景》第十一曲より着想を得て
お読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)m