32 魔術師への贄
深い水の底から浮き上がるような、息苦しさと圧迫感。
リュシアン・エスタークスの目覚めは、そのようなものだった。
「ああ、起きたか、リュシアン!」
すぐ傍に、こちらを覗き込むエルフリードの顔があった。安堵の笑みを浮かべようとして、しかし少女の顔は泣きそうに歪んでいた。
「心配、したのだぞ」
エルフリードはずっとリュシアンの手を握っていたらしい。両手で包み込んだ少年の左手を、少女は己の額に持っていた。
「っ!」
だが、それだけの行為にリュシアンの体は悲鳴を上げていた。反射的に、彼女の手を振りほどいてしまう。
「す、すまん。どこか痛むのか?」
エルフリードは慌てたようにリュシアンの顔を覗き込んだ。
「問題、ない……ぃつぅ!」
何とか体を起こそうとして、リュシアンは全身を走る激痛に顔をしかめた。
「馬鹿者! 無茶をするな!」
エルフリードは激痛に硬直するリュシアンの体を無理矢理押しとどめた。枕代わりにエルフリードが敷いてくれていたらしい荷袋に、再び頭が押し付けられる。
「ごめん」
「謝らんでいい。じっとしていろ」
ほとんど命ずるような真剣さで、エルフリードは言った。
横になったまま、リュシアンは周囲を確認していた。
空にはまだ星々が散りばめられているが、月の位置が意識を失う前だいぶ変わっている。焚き火の炎は未だ野営地を薄暗く照らしていた。
「……どれくらい、気を失ってた?」
「三時間は」
「そう」
だとすれば、今は日付が変わって午前零時過ぎか、一時頃だろう。
「墜落してから三日、体に負担が掛かっていたのではないか?」
自責の念に駆られたように、エルフリードは問うた。リュシアンに負担をかけていたのは、自分自身だと思っているのだろう。
ようやく彼女の心が落ち着きを取り戻そうとしていたところで、このザマである。リュシアンは自分自身を呪いたくなった。
「違うよ。これは、そういうんじゃないんだ」
億劫そうに、リュシアンは言葉を紡ぐ。全身を包む苦痛と倦怠感の所為である。
「ならば、どういうことなのだ?」
疑わしそうな、そして後ろめたそうな目線を、エルフリードはリュシアンに落とす。気を遣われたくはないのだろう。
「……」
真実を話すべきか、リュシアンは少しの間、躊躇した。真実とはいっても、自分の推測混じりのものでしかないのだ。しかし、説明しない限り、エルフリードは納得しないだろう。そして、いつまでも秘密にしていることも出来ない。
「……エルは、さ」
ゆっくりと、リュシアンは語り出した。
「何で俺と君の婚約が決まったか、理由を知っている?」
リュシアンとエルフリードの婚約が決定したのは、互いが六歳の時である。当然、当人たちの意思がそこに介在する余地はなく、完全なる政略結婚に分類される婚約であった。
「何だ、藪から棒に?」
今何故そのような話になるのか理解し難いといった口調で、エルフリードが尋ね返した。声が固いのは、はぐらかされているように感じたからだろう。
「いいから、答えて」
だが、リュシアンは答えを促した。エルフリードは少しだけ怪訝そうな顔をしたが、やがて口を開いた。
「政治、であろう? 王国内でも有力な魔術師の家系であるエスタークス伯爵家の忠誠を、王家に繋ぎ止めておくために。それに、お前の伯父のモンフォート公爵には実子がいない。公としては、もしかしたら公爵家も継ぐことになるかもしれんお前の権威付けのために王女の降嫁を欲しているという面もあろう。それに公自身も王家との繋がりが出来、政治的地位の向上にも繋がる」
「それは、国王陛下や伯父さんたち王侯貴族の論理だね」
「それ以外に、理由があるのか?」
「俺は魔術師なんだから、魔術師、あるいは王室魔導院という視点も必要だよ。王女と婚約者になれば、魔導貴族の中でエスタークス家だけが突出した政治的地位を持つことになりかねない。それに彼らとしては……まあ、これは俺の父上も当てはまるけど……優秀な後継者を生める魔術的な体質が優秀な女性を婚約者としてあてがいたいと普通なら思う。魔術というのは代々受け継ぐべきものっていうのが、魔術師たちの共通認識だからね。優秀な魔術師の血統を後世に残し、より魔術を発展させてこの世の真理を探究する。それが、魔術師っていう生物の性みたいなものだから」
「つまりお前は、私とお前の婚約には魔術的な思惑もあると言いたいのか?」
いまいち理解出来ないという表情で、エルフリードは考え込む仕草をした。
少なくとも、彼女自身は魔術師ではない。そうであれば、この逃避行の中で自身の無力感に押し潰されそうになることもなかっただろう。
そして、ロンダリア王家たるベイリオル家もまた、魔術師とは無縁の家系である。
だからこそ、エルフリードの反応は当然であるともいえた。
「魔術っていうのは、思念によってこの世の理に働きかける技術。科学が物理的手段によってこの世の理に働きかけるのと対照的に」
「それは、知っている」
「だから、魔術師たち……父上や王室魔導院と言い換えてもいいけど……は疑問に思ったんだ。国民から尊崇の念を向けられる王家の人間に本当に魔術的素質がないのかどうか、ってね」
「本当も何も、実際、私は魔術なんぞ使えんぞ」
やはり、魔術師ではないエルフリードには理解が出来なかったようである。これは彼女が無知であるというよりも、単純に魔術師と常人との認識の違いだろう。
「この場合、王族が魔術を使えるかどうかは関係ないんだ。というよりも、どうでもいい」
「どういうことだ?」
「そうだね……」
そこで一端、リュシアンは言葉を区切った。しばらく、エルフリードの表情を見つめた。焚き火に照らされる黒髪の少女の顔は、真面目そのものといってよかった。
リュシアンの説明を一言も漏らさずに聞きたいのだろう。
何故ならばそれは、自分たち二人の関係性そのものに関わることだからだ。
だからリュシアンも、覚悟を決めた。
「彼らがエル、君に求めているのは魔導具としての価値なんだ。王族の身体が魔術的にどのような利用価値があるのか、彼らは知りたがっている」
「……詳しく説明しろ」
エルフリードの声が、途端に険しくなる。彼女にとって、それは“エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオル”個人を蔑ろにする行為だからだ。それを、この少女は許容しない。
一方で、それが壮絶な矛盾であることも、彼女は気付いている。エルフリードはリュシアンという少年を、己の栄達のための道具として見ている面もあるのだ。個人の存在を蔑ろにしているのは、エルフリード自身でもあった。
「“王の奇跡”っていう、伝承は知ってる?」
「ああ、王が病人の体に触れると、たちまちその病が癒されたというものであろう?」
「そういう伝承は各地に残っている。つまり、ある一定の時代まで人々はそう信じていたわけだ。まあ、中にはどこかの王様が本当に魔術師だったっていう例もあるんだろうけど。ともかく、無数の人々による“信仰”という精神的な動きが、王の体に向けられた。その結果がどうなるのか、魔術師たちは疑問に思った。長い間、無数の人々の思念が向けられた遺物には、その思念が集合した結果、魔術的な価値が生まれてくる。王族の体にも同じことが起こっているのではないか、連中はそう考えた。君という存在の魔術的価値、そして君から生まれるだろう子供にどのような魔術的特性が宿っているのか、魔術師たちはそれを知りたいと思っている」
「それが、王室魔導院が私とお前の婚約を認めた理由というわけか」
「国王陛下も、一枚噛んでいる。最近は共和主義思想の流入で、王権の絶対性が揺らいでいるからね。“王の奇跡”を体現出来る子供が生まれれば、それだけ王権の権威付けに役立つ」
「その目論見を、お前はどこで知った?」
「父上の遺書と、俺が勅任魔導官に任命された直後に王室魔導院院長から」
「そうか」
エルフリードは黙り込んでしまった。彼女なりに、リュシアンの話を自分の中で整理しているのである。父親や貴族どもは相も変わらず自分を政治の道具と捉え、魔術師たちは自分を魔導具として、そして優秀な魔術師を生むための母体としてしか捉えていない。
多少の例外的人物はいるのだろうが、気に喰わないことだけは確かであった。
とはいえ、いずれは玉座を得るために利用しようと考えている連中である。向こうが自分を利用しようとするのならば、自分もまた彼らを利用すればいいのだと納得することにした。
リュシアンさえエルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオルという人間のことを見ていてくれるならば、それで満足すべきだろう。
だって、そのリュシアンからの理解すら、身勝手な自分が求める資格があるのか判らないのだ。彼が自分の理解者でいようとしてくれることすら、自分には過ぎた贅沢なのかもしれない。
エルフリードは目を閉じて、長く息を吐き出した。それで、一端心を落ち着ける。
「……それで、肝心の説明がまだだぞ。それと、今のお前の状態にどう繋がる?」
「俺の体の不調は、体内の魔力循環に急激な変化が起こったから。これはまあ、今までも何度か経験しているから自分でも判る。言ってみれば、魔術師にとっての成長痛みたいなものだよ。問題は、何で今この瞬間に起こったのかってこと。それも、気を失うほどの急激な変化が、ね」
「……」
エルフリードは黙って続きを促している。
「明確な確証は持てないし、俺としてはあって欲しくない可能性だと思っている。魔術にとって、体液ってのは有力な触媒なんだ。血で魔法陣を描くことなんてのは、よくある話だからね。そして俺はさっき、エルの唾液を体内に取り込んだ。つまりはそれが、君の体が持つ魔術的特性ということになる。あくまで、推測の域を出ないけど」
「私の唾液が、お前の体内で魔力に変換されたということか?」
「多分、そうなんだろうね」
リュシアンの声には、肉体の痛みによるものとはまた違う、深刻な苦悩が含まれていた。
「魔術師でもない常人がそんな特性を持つなんて、決していいことじゃない」少年は吐き捨てるように言った。「魔術師の中には、そういう人間を実験動物として魔導実験の道具に使う奴もいる。そうして廃人同然の姿になった人間を、俺はクラリスに師事しながらずっと見てきたんだ」
普段の感情表現に乏しいリュシアンにしては珍しいほどに、その表情は嫌悪感に溢れていた。彼はクラリス・オズバーンに師事して数年、人殺しを続けるだけでなく、魔術の持つ負の側面を見続けてきたのだ。
「そうか」
一方のエルフリードは腕を組んでしばらく考え込む姿勢を見せた。
バチリと焚き火の枝が爆ぜる音が一度、やけに重々しく響いた。
「……リュシアン、質問をいいか?」
「どうぞ。この件については、俺とエルで情報を共有しておいた方がいいだろうからね」
リュシアンはあまり躊躇わなかった。エルフリードにも、自分自身の魔術的特性を理解しておいてもらいたいと思っているのだろう。
「ならば、お前の予測で構わん。私の魔術的特性について、どう考えている? 発現した理由や、効果の持続性などはどうだ?」
「いつ発現したか何て判るわけないじゃないか。でも、何で発現したかは判る。エルはさっき、何をしようとした? 体を差し出してもいいと思うほどに、俺の力になりたいって思っていたんでしょ?」
「ああ。そして、それは今も変わらんがな」
「魔術っていうのは、何度も言うけど思念に左右される技術なんだ。エルがそう思ってくれている限り、君の体に魔術的特性は宿り続けると思う」
「それとお前はさっき、『血』と言ったが、体液によって効果は違うのか?」
その問いに、リュシアンはちょっとだけ眉を寄せた。あまり、答えやすい質問ではなかったのだろう。
「触媒としての体液は、生命に直結する体液ほど効果が高い」諦めたような口調で、白髪の少年は続ける。「だから唾液なんかよりも血液、それと、ちょっと言い辛いけど生命に直結する体液って、男も女もそれぞれ持っているでしょ」
「あー……」
エルフリードは何ともいえないばつの悪そうな表情になった。彼女もリュシアンの言う“体液”が何であるのかを察したのだ。
「んんっ、それで」咳払いをして、エルフリードは話の方向性を変えた。「お前にとって、私のこの体質の発現は望ましいものではなかったのか?」
「当たり前だ」
リュシアンは強い口調で断言した。
「もし魔導院がこのことを知れば、エルは連中の実験動物に貶められるかもしれないんだ。そうなれば、君が女王になる道はおろか、今ある軍人としての地位すら失いかねない。王族としてどころか、人間としての尊厳すら奪われるかもしれないんだ。俺は絶対に、そんなことは嫌だ」
彼の口調の中にある恐怖に、エルフリードは気付いていた。リュシアンは会話の中で、常人を実験動物として扱う魔術師について言っていた。恐らく、自分がそうした運命を辿ることを恐れているのだろう。
エルフリードの体質はリュシアンにとっても都合の良いものであろうに、彼は頑なにそれを拒否しているのだ。
その優しさを王女たる少女は嬉しく思う一方、別の感情も抱いていた。
「私は、良いと思うぞ。私はこれでようやく、本当の意味でお前の役に立つことが出来るのだから」
浮かれているわけではない。ただ、熟した果実を収穫したような満足感が、エルフリードの胸の内にあった。その果実が禁断の実であっても、少女は躊躇わず丸呑みにしただろう。
それは、ずっと自分の欲していたものなのだから。
「……」
リュシアンは何も言わなかった。いや、言えなかったという方が正しいのかもしれない。
自分とエルフリードとの間にある認識の隔たりに、衝撃を覚えていたのだ。
別に、エルフリードがリュシアンの話を理解していないというわけではないのだろう。理解した上で、自らの肉体に宿った魔術的体質を肯定的に受入れているのだ。
そしてリュシアンもまた、魔術師としての思考から彼女の体質の有用性を判ってしまっている。
人の心を歪め、人を魔導具に貶めることを躊躇わない魔術師の倫理観を、リュシアンは嫌悪している。しかし一方で、自らもまたそうした魔導の負の側面を体現する側であるという矛盾を抱えているのだ。
「だからな」
そんなリュシアンの自己嫌悪を、エルフリードは理解していた。だからこそ彼女は、少年の罪悪感を軽くしてやりたいと思った。
「お前も、必要ならば私を魔導具として利用してくれて構わんのだ。私がお前を自らの手駒として利用するように、な」
それはエルフリードにとって、代償なのだろう。自らがリュシアンを道具に貶めようとしているのだから、その逆をされても何を言う立場にはないという、少女なりの覚悟なのだ。
律儀な女だ、とリュシアンは思う。
そうした心の持ち主だからこそ、世界の色を失ってしまったリュシアンの瞳の中で、彼女だけ色を識別出来るのだ。
自分はエルフリードの言うように、いざという時に彼女を魔導具として扱えるのだろうかとリュシアンは自問する。
考えるまでもなかった。
きっと自分は、必要ならばそうするだろう。
大切な少女を守るためならば、自分は禁忌を犯すことすら躊躇わない。




