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王女殿下の初陣  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第二部 敵中横断編

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30 夜の水辺にて

 腱が切断し、出血する右肩に治癒魔法を掛けながら、リュシアンはエルフリードのいる木の根元へ向かった。

 オリヴィエ・ベルトランの反応を見る限り、一時的にせよ、自分たちへの追跡を中止させられたと見ていいだろう。

 彼らが自分の言葉を完全にはったりだと確信するまで、最低三日は時間を稼げたと思う。これ以上の呪詛を恐れて、軍や警察の捜索隊も一旦、捜索を中止しなければならないだろう。

 本当に呪詛をかけても良かったのだが、その場合、相手の反応はアルデュイナの森を燃やした時以上のものになるだろう。断乎としてリュシアン・エスタークスという魔術師を討ちに来るであろうし、何よりもエルフリードの専属魔導官として、彼女の名を汚すことになる。それは避けなければならなかった。

 警戒は必要であろうが、ここまでの行程に比べてだいぶ逃避行が楽になるだろう。何より、食糧と詳細な地図を確保出来ていることが大きい。

 それに比べれば、右肩の負傷など安いものである。二、三時間もすれば腱も傷口も回復するだろう。

 念の為、魔術的な追跡がなされていないか魔眼で確認し、さらに慎重を期して森の中を迷走するように歩いた。

 そうしてようやく、エルフリードの元へと辿り着く。


「リュシアン……!」


 こちらの姿を認めたエルフリードが、安堵の声を上げる。


「戻ったよ、エル」


「良かった、無事だったの……だな?」


 エルフリードの顔に、陰が宿った。リュシアンの服に染み付いた血の臭いに気付いたのだろう。

 魔術で服に染み込んだ血を飛ばしたとはいえ、完全に血を拭い去れたわけではない。


「まあ、完全に無傷ってわけじゃないけど、無事なことに変わりはないよ」


「すまぬ、私のために……」


「存外、骨のある奴だったから仕方ない」


 リュシアンは健在な左肩だけで器用に肩をすくめてみせた。あの魔剣士の自分に向ける敵意には妄執じみたものを感じているが、それをエルフリードに言っても仕方がない。


「それよりも、また歩こう」


 懐中時計の蓋を開ければ、時刻は三時半を回ったところであった。完全に日が暮れるまで、まだ五時間以上ある。


「連中から地図も手に入れたから、夜営出来そうな場所に見当がついている。多分、日暮れまでには着けると思う」


「……判った。お前に任せる」


 少し躊躇いがちに、エルフリードはそう言った。

 二人で、木の根元に置いておいた荷物を背負う。逃避行の中で命を繋ぐための、貴重な食糧だ。多少疲労していようが、重いなどと言っていられない。

 リュシアンに続いて、エルフリードもまた歩き始めた。


  ◇◇◇


 途中、何度か休息を挟みつつ、午後の八時過ぎには目的の場所に辿り着いた。

 日暮れまであと一時間ほどであるが、森の中ということもあり、すでに周囲はかなり暗くなっている。


「なるほど、これは……」


 エルフリードは突然、目の前に広がった光景に感嘆と安堵の息を漏らした。

 何時間も歩けば流石に気が滅入るような森が途切れ、目の前に湖が広がっていた。いや、広さ的には泉といった方が正しいだろうか。

 泉は南側の水際が人の背丈の倍ほどの崖になっており、そこから幾筋も水が注いでいた。水辺はいささかひんやりとしており、涼しく感じられる。恐らく、雪解け水が流れ込んで構成される湖なのだろう。


「地図で確認すると、人里からもかなり離れている。まあ、ひとまずは安心出来そうな場所だろうね」


 そう言って、リュシアンは水辺の少し開けた場所を夜営場所と定めた。

 恐らく、午後だけで十五キロ以上は距離を稼げているはずである。

 翼竜を撃墜され、敵地に不時着してから三日目の夜を迎えようとしている。翼竜では国境を越えて数時間の地だというのに、歩くとなればそれなりの日数がかかるのだ。そもそも、翼竜は地上の障害物など無視して直線的に飛行することが出来るのだから、徒歩と比べることが間違っているのだろうが。

 墜落地点からここまで、今夜もまた六分儀で確認してみないことには判らないが、おそらく直線距離で五十キロ以上は進んでいるはずである。

 となれば、行程の三分の一、上手くいけば二分の一は進めた計算になる。

 このまま追撃がなければ、三日から五日後にはロンダリア国境に辿り着けるだろう。

 二人で倒木の丸太を運んだり、焚き火のための枝を集めたりして、夜営の準備を整える。


「火を焚いてしまっても大丈夫なのか?」


 枝を集めたはいいものの、心配そうにエルフリードは尋ねた。


「少なくとも、今日明日は連中の追跡はないよ」


 その枝に魔術で火を点けながら、リュシアンは答えた。荷を解き、食糧を取り出そうとする。


「それは、私にやらせてくれ」


 せめて何かしらの役割が欲しかったのだろう、エルフリードはそう申し出た。


「じゃあ、お願いするよ」


 食糧の入った麻袋を、リュシアンは彼女に手渡す。パンや肉を切るためのナイフも、同じく渡した。

 二人分のパン、塩漬け豚肉(ハム)酢漬け野菜(ピクルス)乾酪(チーズ)。恐らく、これまでで一番豪華な食事だろう。火で炙った肉とチーズをパンに挟み、二人してかぶり付く。

 舌に感じるハムの塩味ととろけたチーズの甘みが、自分たちがまだ生きていることを実感させてくれる。


「なあ、どうして今日明日の追跡はないと言い切れるんだ?」


 パンを半分ほど食べたところで、エルフリードは問うた。リュシアンを信じていないわけではないが、それでも不安はある。

 歩いている最中はお互いに距離を稼ぐことしか頭になく、わざわざ息を乱してまで長々と会話をするような状況ではなかった。だからエルフリードはリュシアンが何をやったのかを疑問に思いつつも、それを問うようなことはしなかったのだ。


「ああ、ちょっとはったりをかましておいたんだ」


「はったり?」


 両手でパンを持ったまま首を傾げたエルフリードにリュシアンは説明した。北ブルグンディアの宮廷魔導師の二人に対して、捜索隊に呪詛をかけた可能性やエルフリードとの魔術契約を示唆することで、数日間は呪詛の調査と解呪にかかりきりならざるを得ない状況に追い込んだことを、かいつまんで伝える。


「……呆れた奴だな」エルフリードは少し可笑しそうに唇の端を持ち上げていた。「嘘八百で一〇〇〇の捜索隊を足止めしたというのか」


 だが、そうした感情は続くリュシアンの言葉によって吹き飛んでしまった。


「まあね。俺は、魔術師だから」


 白髪の少年にとっては、何気ない一言だったのだろう。

 だがエルフリードには、焚き火の炎に照らされてリュシアンの紅い瞳が妖しく光ったように思えた。一瞬、畏怖にも似た感情を覚えて、ごくりと唾を飲み込む。

 自分にはあまり見せようとしない、“魔術師”としてのリュシアン・エスタークス。

 それは、まだ二人が幼かった頃、目を輝かせて魔術のことを語っていた少年が考えていた魔術師とは、まったく違ったものなのだろう。

 そう思うと、エルフリードの胸に疼痛のようなものが生じてくる。それは、この逃避行の中でリュシアンの力になれない無力感と混ざり合い、自責の念を少女の心の中で広げていった。


「……当面、北ブルグンディアの追跡はないのだな?」


 念を押すように、エルフリードは問う。


「絶対といえるか判らないけど、当分は」


 リュシアンの答えは、実にあっさりしたものだった。己の策に自信があるというよりも、単に魔術師としての冷静な状況分析の結果、そういう結論を導き出したのだろう。

 実際、少年の声には熱がない。策が成功したことに対する喜びも、それを成し遂げた自身への自惚れじみた感情も感じられなかった。

 ただいつも通り、どこか素っ気ないぶっきらぼうな口調のままだ。


「……そうか」


 リュシアンの言葉を噛みしめるように、エルフリードは呟いた。


「なあ、リュシアン」


「うん?」


「少し、水浴びをしたい」


「あー……」


 リュシアンは納得したともしていないとも受け取れる、曖昧な声を出した。

 確かに、二人とも汗をかいている。その所為で、いささか体が痒くなっている場所もあった。服にも当然、三日分の汗や体の汚れが染み込んでいる。

 村で食糧を確保した時に、服も確保しておくべきだったかと、今さらながらにリュシアンは思う。


「水浴びをするには水温が冷たいと思うけど……まあ、俺の火焔魔法で体を温めればいいか」


「いいのか?」


「気分転換は必要でしょ? ただ、暗いから足下とか水深に気を付けて。あと、風邪引かないようにも」


「すまん、迷惑をかける」


「いいよ、このくらい」


 別に、リュシアンは迷惑だとは思っていない。エルフリードのそれは、我が儘と呼ぶには微笑ましいものなのだ。

 それに、少しでも彼女の気晴らしにでもなればいいと思う。


「まあ、何かあったら叫び声を上げてくれれば、すぐに駆けつけるから」


 そう言って、リュシアンは脱いで丸太に掛けておいた大外套をエルフリードに放り投げた。


「体拭く布がないだろうから、それ使って」


「いいのか?」


 流石に戸惑いの表情をエルフリードは浮かべた。これが魔術師の霊装であることを、彼女も知っているのだ。

 特にこの〈黒の法衣(ブラック・ローブ)〉は、リュシアン・エスタークスの防御霊装なのだ。そう簡単に他人に貸し出せるものでもないはずだろうに。


「後で乾かせばいいから」


 そういう問題でもないような気もするのだが、エルフリードとしても風邪を引いてリュシアンを困らせたいわけでもないので、素直に使わせてもらうことにした。


  ◇◇◇


 軍服や下着を脱いで、エルフリードは一歩、水の中に足を踏み入れた。リュシアンが渡してくれた松明を水辺に置いておく。

 確かに、水は冷たかった。だが、澄んだ水に身を浸すことは、ひどく心地よくも思えた。

 ひんやりとした水で汗と体の汚れを流し、両手で掬った水でぱしゃりと顔を洗う。


「ふぅ……」


 そうして、エルフリードは深く息をついた。

 水面に、無数の星々が浮かんでいた。見上げれば、夜空に星が瞬いている。ひどく幻想的ともいえる光景であった。

 ここが敵地であり、自分たちが追われる立場であることを、一瞬でも忘れさせてくれるような美しさであった。

 ただ、それでもエルフリードの心は落ち着かなかった。自分の存在は、リュシアンにとってどれほどの価値があるのだろうか。そのことが、頭から離れないのだ。

 しばらく浅い場所で、エルフリードは両膝を抱えた姿勢で水に体を浸していた。

 ようやく体が寒さを覚えたのか、ぶるりと震えた。あまり長くは浸かっていられないようだ。

 立ち上がり、最後にもう一度、顔を水で洗う。

 パン、とそのまま両手で己の頬を打った。

 そして表情を引き締めたまま、エルフリードは湖から上がった。


  ◇◇◇


 リュシアンは湖畔にあった岩の上に登り、六分儀で月と星の位置を確認していた。


「……」


 墜落地点の正確な位置を調べられてはいなかったが、だいたい六〇キロ程度は東に進めているようだった。

 鬱蒼とした森の中を進んでいるために歩みが遅くなっているが、それなりに進めていると見ていいだろう。

 問題がないわけではないが、今日くらいは落ち着いた心で夜を過ごしたいものだった。

 リュシアンは六分儀を仕舞うと、焚き火の熾してある場所へと戻った。枝を追加して、火焔魔法も使って火の勢いを強める。

 エルフリードが戻ってきたときに、少しでも暖をとれるようにしておきたかった。

 その火の明かりを頼りにして、リュシアンは地図を開く。やはり、詳細な地図というのはありがたい。

 しばらく地図を見て明日以降の行程を考えていると、背後から水辺の砂利を踏む足音が聞こえてきた。


「……戻った」


 背中に、妙に強ばったエルフリードの声が掛けられた。


「……」


 何か不穏なものを感じて、リュシアンは地図から顔を上げる。

 エルフリードはリュシアンの横を通り抜けると、焚き火の反対側に回った。体に大外套をまとっただけの姿のようだった。

 エルフリードは軍服や下着を丸太に引っ掛けた。流石に気持ち悪く感じて、服も洗ってきたのだろうか。

 もともと、濡れた大外套を乾かす予定だったので、それは別に構わないのだが……。

 それよりもリュシアンは、妙に動作がぎこちない彼女の方が気掛かりであった。水で体がかじかんでいるようでもない。


「エル、どうしたの?」


 不安になり、リュシアンは声をかけた。ビクリと肩がはねて、エルフリードがゆっくりと振り返る。

 焚き火の炎に照らされた黒髪の少女は、どこか危うい悲壮感を湛えた表情をしていた。そのまま、エルフリードは体ごとリュシアンに向き直った。


「……」


 少女は琥珀色の瞳で、じっと切実そうにリュシアンのことを見てくる。手で外套の合わせ目をきつく握りしめているのが判った。


「エル……?」


 少女の態度に戸惑いと不安、そして緊張を覚えて、リュシアンはもう一度、名を呼んだ。


「……」


 エルフリードは唇を引き結んだままで、無言だった。言いたいことがあるのに、言う踏ん切りが付いていないような、そんな態度であった。


「……」


「……」


 バチリと、焚き火の枝の爆ぜる音が二人の間に響く。

 緊張感を湛えた沈黙。

 不意に、少女が動いた。何も言わぬまま、自らがまとう大外套に手を掛ける。

 するりと肩から流れるように落ちた布が、地面に広がった。

 バチリと、再び焚き火の爆ぜる音。

 風で舞い上がった火の粉が、少女の白い裸身を照らしていた。

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