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王女殿下の初陣  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第二部 敵中横断編

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29 魔術師の駆け引き

 己の手が白むほどの力で、エルフリードはエッカートG38を握りしめていた。


「無様だな……」


 口からは、虚ろに響く自嘲の声が漏れていた。


「王になりたいと抜かしておきながら、結局はこのザマか……」


 今、エルフリードは一人だった。

 リュシアンは国境に辿り着けるように心を砕いているというのに、自分は何も出来ない。この逃避行の中で出来たことといえば、勝手な行動を取って彼の足を引っ張ったことくらいだ。


「くそっ……!」


 王女にあるまじき言葉を吐きながら、少女は拳を地面に叩き付けた。

 誰かに守られるだけのお姫様になど、なりたくはない。そんな惰弱な人間が、王になれるはずがない。

 だというのに、現実はエルフリードの思い通りになってくれない。魔術師でない彼女は、ただの無力な一人の小娘でしかないのだ。

 今の自分は、リュシアン・エスタークスという少年に頼らなければ敵の虜囚になるしかない、ちっぽけな存在だ。

 確かに、彼に出逢った頃の幼い自分は、あの少年を自分のために利用しようとした。それは今だって変わっていない。

 あの魔術師の少年を、自身の功績を立てるための道具として扱っている自分は、確かに今も存在している。

 でも、決して彼の重荷になりたいわけではないのだ。

 リュシアン・エスタークスの隣に、エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオルは立っていなければならない。

 だって自分は、リュシアンの罪と罰の共有者なのだ。彼が自分を守るために初めて人を殺めたその日から、それは未来永劫変わらずに自分たちを縛り続ける鎖となっている。

 いや、単に自分がそう思い込むことで、リュシアンを自分の傍に繋ぎ止めておきたいだけなのかもしれない。

 身勝手にもほどがある。

 彼に守られて、彼の功績をかすめ取って、彼に残るのは魔導の神秘性を汚したという悪名のみ。

 そんなひどく身勝手な自分は、一体、リュシアンに何を返すことが出来る?

 果てしない自問の中に、少女は一人、取り残されていた。


  ◇◇◇


「戻ったよ、エル」


 リュシアンは木の根の隙間に掛けた偽装用の幻術を解いた。


「ああ」


 エルフリードの声は固かった。その目元が、少し赤く腫れぼったくなっている。


「……」


 泣いていたのか。

 エルフリードの精神的負荷も、限界に近いのかもしれない。しかし、矜持の高い彼女のことだ。リュシアンの目の前で、己の無力感に打ちひしがれて泣き叫ぶことも出来ないのだろう。

 しかしむしろ、リュシアンとしては泣いてこちらを(なじ)るくらいに感情を爆発させてくれた方がいいと思っている。その方が、もしかしたらすっきりするかもしれないのだ。

 人の心とは、そういうものだ。

 エルフリードはリュシアンに迷惑をかけまいと必死なのだろうが、それが自身の感情を抑圧して逆効果になっている可能性もある。


「エル」


「何だ」


 エルフリードの声には、手負いの獣のような追い詰められた刺々しさがあった。泣いていたことをリュシアンに指摘されたくないのだろう。そうやって、彼女は自身の矜持を守ろうとしているのだ。


「……相手の配置が、ある程度判った。それと、捜索隊の人数も」


 結局、リュシアンは慰めの言葉一つ言うことは出来なかった。


「そうか」エルフリードは言葉少なに頷く。「移動しながら話してくれるか?」


「いや、移動はしない」


 立ち上がりかけたエルフリードを、リュシアンは手で制した。


「向こうの魔術師が慎重に俺の魔力反応を探っているなら、さっき、俺が出会った捜索隊にかけた幻術を探知されている。移動するだけ無駄だよ」


「この間の二人を相手にするつもりなのか?」


 オリヴィエ・ベルトランとリリアーヌ・ド・ロタリンギアのことを言っているのだろう。


「ああ、そのつもりだよ」


 リュシアンは気負いなく答えた。

 もっとも、新たな宮廷魔導師が加わっている可能性もあったが、それは言わなかった。別に、エルフリードを不安がらせる必要はない。


「……」


 そのエルフリードは、案ずるような視線を魔術師の少年に向けていたが、結局、自分に出来ることなどないと思い、何も言うことが出来なかった。


「……じゃあ、それまでの間、お前が得た情報について教えてくれ」


 結局、エルフリードが訊いたのはそれだった。


「やっぱり、逆探知はされていた」リュシアンは言う。「村を基点に放射状に捜索隊を展開させつつ、東側を重点的に探しているらしい。捜索隊は全体で千人規模。村周辺に展開しているのは、そのうち二〇〇人くらい」


「千人……」


 絶句したように、エルフリードは呻いた。千人というのは、小規模編成の連隊に匹敵する人数である。そこから逃げ延びなければならないとなれば、確かに衝撃を受けるだろう。

 例え村周辺に展開している二〇〇人の捜索網を突破することが出来たとしても、まだ八〇〇人の追跡を逃れなければならないのだ。


「でもまあ、良い情報もある」


「良い情報?」


「国境付近にロンダリア軍が集結して、示威行動を取っているらしい」


「ああ、なるほど」


 軍人としての教育を受けてきたエルフリードは、それだけでおおよその事情は察したらしい。説明する手間が省けて、リュシアンとしても楽であった。


「では、国境守備隊が見える位置まで逃げ切れれば、何とかなるというわけだな」


 エルフリードの言う通りであった。

 国境付近まで逃げ切れれば、逃げるリュシアンとエルフリードを、追っ手が下手に銃撃することは出来ない。流れ弾がロンダリアの兵士に当たれば、それだけで国境紛争が再開されるほどの外交問題となる。

 両軍が睨み合っている間を、自分たちは通り抜ければいい。

 もっとも、その前に宮廷魔導団の二人をどうにかしなければならないが。正直、高位魔術師さえ追っ手に加わっていなければ、リュシアンとしてはどうにかなると思っている。


「ちょっと飯を食っておこう。多分、向こうの宮廷魔導師が俺たちを見つけるまで、まだ三十分から一時間くらいはあると思うから」


 そう言って、リュシアンは麻袋から堅焼きビスケットを漁ると、エルフリードの隣に腰を下ろした。

 どの道、今はやることがない。というよりも、こちらを見つけてもらわなくては困る。それまでは、適度に腹に何か入れておいた方がいいだろう。

 空腹では、流石に心許ない。


「……お前」


 虚を突かれたのか、呆れているのか、エルフリードは唖然としていた。

 高位魔術師の追っ手が迫っているかもしれない状況で、暢気に飯を食っているリュシアンの図太さに、少女の張り詰めた精神が少しだけ緩んだ。


「……そうだな、少し腹に入れておいたほうがよかろう。私にもくれ」


「ん」


 ビスケットを囓りながら、リュシアンは麻袋を差し出した。


「うむ」


 エルフリードも一枚取り出し、ビスケットを囓り始めた。

 そうして二人でしばらく、ビスケットを囓り、干し肉をしゃぶっていた。

 あれほど恐れていた追っ手だというのに、それを待つとなると以外に長く感じるものだった。


  ◇◇◇


 一時間と少しして、リュシアンの張った警戒用結界に反応があった。

 数は二人。魔力反応もある。


「……来たみたい」


「そうか」


 リュシアンの心は落ち着いていた。自分の策が成功するかどうかなどという不安も抱いていない。

 別に、成功する確信があるわけでもないし、自棄(やけ)になったが故の諦観でもない。

 覚悟を決めたが故の冷静さというのとも、少し違う。

 多分、魔術師としての駆け引きが出来ることを、心のどこかで楽しんでいるかもしれない。

 自分でも、意外な感情であった。

 そう思いながら、リュシアンは立ち上がった。腰の後ろに交差させるように差した二振りの魔剣〈モラルタ〉、〈ベガルタ〉の柄を撫でる。


「……今度は、邪魔をしたりせぬ」


 リュシアンを見送ろうとしているのか、エルフリードもまた立ち上がっていた。


「邪魔だとは、思っていないよ」


 これで三度、エルフリードはリュシアンに置いていかれることになる。それだけに、彼女を苛む無力感は大きかった。

 だがリュシアンは、エルフリードを戦いの邪魔になる存在だとは一度として思ったことはない。


「俺は、君の魔術師だから」


「よい」少年の言葉を遮るように、エルフリードは首を振った。「私は、足手まといになりたいわけではないのだ」


 その声には、頑なな自虐の色があった。


「別に、足手まといなんて思ってないよ。俺は、エルを守りたいからやっているだけなんだから」


「守るべき存在ということは、つまりは足手まといということではないか」


「守りたいものと足手まといは違うよ」


「違わ、ないっ……」


 エルフリードの声は、途中から涙声になり始めた。今、この瞬間の問答ですら、リュシアンの足枷になっているように感じたのだろう。


「―――っ、何でっ、私はお前の力になれないのだ……っ!」


 それでも、少女は自分の感情を抑え切れなかった。溢れ出てしまった涙を、袖で乱暴に拭う。


「うっ……くっ……」


「泣かなくていい。俺は、エルがいるから戦えているんだから」


 だから、リュシアンは彼女を邪魔だと感じたことなど一度もないのだ。


「そんな慰めなど……」


「慰めなんかじゃないよ」そう言って、ちょっとだけリュシアンは迷う素振りを見せた。「……何て言えばいいのかな、自分の守りたいもののために戦えるのは、悪い気分じゃない。それがエルならなおさら」


 リュシアンは右手をエルフリードの頬に伸ばした。そっと頬に触れ、親指で涙を拭う。


「だから、君は俺に守られていて欲しい。これは俺の我が儘だから、エルが気に病む必要なんてないんだ」


 もしかしたら自分の言葉は、エルフリードにとっては気休めに過ぎないのかもしれない。それでも、それは紛れもないリュシアンの本心なのだ。


「……お前は、ずるいなぁ……」


 涙の滲んだ目を伏せながら、エルフリードは悔しそうに呟く。とん、と少女の拳が軽くリュシアンの胸を叩いた。


「……無事に、帰ってきてくれ」


「ああ」


 触れたときと同じような繊細さで、リュシアンは少女の頬から手を離した。


「じゃあ、行ってくるよ」


  ◇◇◇


 リュシアンは二人の寝床にしていた木から離れた位置までやってきていた。

 結界が捉えた侵入者たちの、ちょうど針路上にあたる場所で、木の幹に背中を預けて待っていた。


「……やっと来たみたいだね」


 やがて、土と枯れ葉を踏む足音がして、リュシアンはそちらの方に顔を向けた。

 思った通り、墜落当日に遭遇した北ブルグンディアの宮廷魔導師の二人。オリヴィエ・ベルトランとリリアーヌ・ド・ロタリンギアである。

 少女魔剣士の方は、即座に斬りかかってきそうなほど剣呑な目付きをしていた。だが、それをベルトランが一歩前に出ることで防いでいるようだった。


「……随分と落ち着いているな」


 ベルトランが声を掛けた。ほとんど無防備ともいえるリュシアンの態度に、不審を覚えているようだった。声には警戒感が滲んでいる。


「まあね」


 リュシアンは素っ気ない口調で応じた。表情からも口調からも、相手に内心を悟らせない。


「観念した、というわけでもないのだろう?」


「俺は姫を守るためにいるんだからね。観念するわけないでしょ。そういうそっちこそ、いい加減、停戦合意を守って欲しいものだよ」


「未だ我が国とロンダリアの間では、正式な停戦協定は結ばれていない。よって、現地軍同士の停戦合意に、我々が従う理由もない」


「まあ、問答は無駄、ってところかな」


 特に失望もなく、リュシアンの口調は淡々としていた。寄りかかっていた幹から背中を離す。

 その動きに過敏に反応したのか、リリアーヌが一歩前へ出ようとする。


「ああ、そっちの子を抑えといて。俺は、あんたと話がしたいんだ、“水の哲学者”オリヴィエ・ベルトラン」


「ベルトラン様、この者の話など聞いてはなりません!」


 大声で、リリアーヌが怒鳴る。リュシアンは外套の下で双剣の柄を握っていた。いつでも、二振りの魔剣は抜ける。


「別に、俺はここで殺し合いをしてもいいけど、それだと困るのはあんたらだと思うよ」


「戯れ言を!」


「ロタリンギア魔導師」


 ぴしゃりと叩き付けるような声で、ベルトランが制した。


「交渉の類であるならば、我らの一存では決められんぞ」彼はリュシアンに向かって続けた。「だが、仲介は出来る」


「勘違いしているみたいだから言うけど、俺はあんたらとの交渉が成立するとは思ってない」


 リュシアンの言葉に刺々しさはなかったが、それよりも体を刺すような冷たさがあった。


「あんたらの国は、使節団を襲うような国だからね。俺は何も期待してないよ」


 そう言うと、ベルトランは眉に皺を寄せた。彼も彼で、使節団の襲撃に関しては思うところがあるらしい。とはいえ、敵であるこの魔術師の心情をくみ取ってやる必要性を、リュシアンは認めていないが。


「……ならば何を?」


 ベルトランは問うた。


「呪詛を仕込んでおいた」


 端的なリュシアンの言葉に、北ブルグンディア宮廷魔導師の二人の表情が強ばった。


「それは、どういうことだ?」


 いつでも術を発動出来るように体内の魔力循環を活性化させながら、ベルトランは慎重に問う。

 呪詛は、一般の人々が魔術師に抱く負の印象の代表格ともいえる術式であり、同じ魔術師にとっても厄介な代物であった。

 呪詛は基本的に、どの国家においても人に害をなす魔術、つまりは“黒魔術”とされ、その使用は法的に禁じられている。


「あんたらの捜索隊、俺たちの足跡を追っかけたりしただでしょ? 後は、俺が幻術を掛けた連中もいたね。村の奴らとか、さっき俺が出会った捜索隊とか」


「貴殿はまさか、それら全員に呪詛を掛けたとでもいうのか?」


「さあ?」


 固い声で詰問し、魔力で威圧するベルトランに、リュシアンは特に動じた様子もなく首を傾げた。


「俺も誰に呪詛が掛かっているかなんて判らないよ。俺たちの足跡を追った連中の誰かに、無作為に掛かるように罠を仕掛けておいたから」


「この卑怯者がっ、恥をお知りなさいっ!」


 歯軋りすら聞こえそうな声で、リリアーヌという少女魔剣士が呻く。すでに彼女は魔導剣を抜いて構えていた。


「ベルトラン様、やはりこの魔術師はここで討滅しなければ、我が国の民にまで被害が及びますわ!」


 強い口調で、彼女はベルトランを促した。


「呪詛など、術者を討滅してしまえば解けます!」


「ああ、それだとエルフリード王女も死ぬよ」


 リュシアンは感情の籠っていない声で指摘した。


「姫はあんたらの捕虜になるくらいなら自決すると言っていてね、俺が死んだら姫も死ぬような魔術的契約を結んでおいた」


「はったりだ」


 戦慄を覚えつつも、ベルトランは冷静に指摘した。

 捜索隊に対する呪詛の件も、王女との魔術的契約の件も、確たる証拠はない。単に、この少年が言っているだけだ。

 呪詛の調査によって自分たちが時間を浪費すれば、目的であるエルフリード王女に逃走の時間を与えることになりかねない。

 これまで彼らの足跡を追跡した者、村の者、そうした者たちが呪詛に掛かっていないかを調べるために、いったい何日かかるだろうか。

 それだけではない。捜索隊がこれ以上呪詛に掛かる危険性を避けるため、リュシアン・エスタークスの言葉が完全な虚偽であると判明するまでは捜索隊による追撃を中止しなければならない。

 そして、呪詛を解消するために術者である少年を討っても、エルフリード王女を捕らえることは出来ない。

 どちらも、この少年とエルフリード王女にとって都合の良い話だ。簡単に信ずるわけにはいかない。

 だが、この少年の性格は判らずとも、エルフリード王女は自身の頭を撃ち抜こうとした前科がある。魔術的契約の話は、本当かもしれなかった。

 少年の話のいやらしいところは、口から出任せの可能性がありつつも、それを肯定する材料も否定する材料もまるでないことだ。

 ベルトランは九割方はったりだと感じてはいるが、残り一割の不安を拭い去ることが出来なかった。


「まあ、そう思うならそっちの勝手にすればいい」


 彼を悩ませている張本人であるリュシアンの口調は、突き放すような淡々としたものだった。


「一応、こっちは停戦合意に配慮して、呪詛の発動までの期間は七日にしてある。すぐに死ぬわけじゃないから、気長に解呪にかかればいいと思うけどね」


「ふざけた真似を!」


 剣を構えたままであったリリアーヌが、わずかに腰を落とす。


「別に。ふざけてないよ」


 白けた視線を、リュシアンは魔剣士の少女に向ける。自分も随分と恨まれているものだな、とどこか他人事のように思う。

 別に、特に思い入れのない人間から自分がどう思われていようと、リュシアンはさして気にしない。ましてや、このリリアーヌという少女は敵国の人間である。なおさら、白髪の少年にとってはどうでもよかった。

 一方、ベルトランは二人の様子を交互に見遣っている。

 リュシアン・エスタークスの態度は、十代半ばの少年とは思えないほど冷静だった。こうした生死のかかった状況に対して、場慣れしているといってもいいかもしれない。

 いったい、ロンダリアの連中はこの少年に何を教え込んだのだ?

 正体不明の悪寒のようなものが、一瞬だけベルトランの背筋を貫いた。

 少なくとも自身より十以上は年下であろう魔術師だが、ベルトランはまったく油断する気になれなかった。

 呪詛というたった一つの言葉でこちらを疑心暗鬼に陥らせ、追撃を一時的にせよ中止させるその判断力。

 魔術師という存在の特殊性を、十二分に理解しているが故の策であった。

 未だ追う側と追われる側の立場が逆転したわけではないが、少なくともこの少年に主導権を握られしまったことだけは確かだろう。

 ベルトランは、一時的な敗北を認めざるを得なかった。


「……やむを得んか」


 ただ一方で、彼はどこか安堵している自分自身がいることに気付いていた。

 この追撃戦は、不毛だ。

 すでにこちらはアルベール魔導師を失っている。ロンダリアの外交姿勢も、王女が行方不明であるというのに、まるでそのような事実がないかのように、ただ使節団襲撃の責任だけを追及しているという。

 停戦交渉のための手札としてのエルフリード王女の価値は、ひどく疑わしいものとなっている。

 さらには爆裂術式などの罠で手足を失った捜索隊の兵士もおり、捜索部隊の士気は決して高いとは言い難いものだった。

 リュシアン・エスタークスの呪詛を口実として、なし崩し的に王女の追跡を中止させられるかもしれない。

 誰もが面子にかけて中止を言い出せないこの泥沼の状況を、少年の一言が救ったとは皮肉としか言い様がないだろう。


「ロタリンギア魔導師、一旦下がるぞ。呪詛に掛かっている人間を見極めねばならん」


「ベルトラン様!」


 リリアーヌは剣を構えたまま、抗議の声を上げた。


「この場の先任は私だ。勝手な行動は許さん」


「……」


 リリアーヌはなおも刺すような視線をリュシアン・エスタークスに向けていたが、やがて憤懣やるかたないといった調子で剣を鞘に収め、構えを解いた。


「それでいい」


 まったく宮廷魔導師の仕事に子守は入っていないはずだがな、とベルトランは内心で嘆息した。

 これならば、どれほど得体が知れずとも、リュシアン・エスタークスの相手をしている方が楽である。彼は少なくとも、エルフリード王女を守るという目的の上に立っている。その行動基準は極めて明快だった。


「こっちは追撃しないから、安心して帰っていいよ」


「……」


 感情の起伏を感じさせないぶっきらぼうな声で言う少年に、やはりどこか得体の知れない怪物を見るような思いを抱きながら、ベルトランが踵を返そうとした。

 その刹那だった。


「―――〈彼方(かなた)此処(ここ)へ、我は万里を超越する者〉」


 詠唱と共に、魔力の旋風が森を駆け抜ける。


「なっ!?」


 振り向いた時にはもう、ベルトランの視界からリリアーヌは消えていた。反射的に、彼はリュシアン・エスタークスの方を見る。


「……なるほど、空間跳躍か」


 表情をかすかに苦痛に歪ませながら、リュシアンは呟いていた。

 リリアーヌ・ド・ロタリンギアという少女魔剣士の顔が、すぐ近くにあった。いつの間にか抜けれていた魔導剣が、リュシアンの右肩に突き立てられていた。


「それが、あんたが宮廷魔導師に選ばれた理由ってわけだ」


 手が裂けることも厭わず、リュシアンは左手で己の右肩を貫く剣の刀身を掴んでいた。


「黙りなさい、下郎」


 殺気に満ちた少女の目が、リュシアンを見据えていた。だが、その目からは血が流れ、鼻からも血を垂らしている。

 肉体が空間を跳躍する負荷に耐え切れていないのだった。

 この少女魔剣士にとって、空間跳躍は一撃必殺の奥の手だったのだろう。

 だが、リュシアンはわずかに身を捩らせて剣の軌道から心臓を逸らしていた。

 空間を跳躍されては、自動防御霊装たる〈黒の法衣(ブラック・ローブ)〉もただの大外套でしかない。展開速度が空間跳躍術式に追いつかないのだ。


「……」


「……」


 力を込めて腕を断ち切ろうとするリリアーヌと、それを防ごうとするリュシアンとの間で無言の攻防は、だが長くは続かなかった。

 ぐちゅり、と肉が裂けて血が飛び散った。

 肩に刺さった剣を、リュシアンが強引に上に逸らして引き抜いたのである。肩の腱が切断され、右腕が垂れ下がる。

 それと同時に、跳躍。近くの木の上に着地した。


「逃げるのですか、この卑怯者!」


 目線だけでリュシアンを追いながら、リリアーヌは叫んだ。


「……」


 そんな少女魔剣士の姿を無感動な虹色の瞳で見下ろして、リュシアンは更に跳躍した。逃走に移る。

 魔眼で見たところ、少女の体内の魔力循環は相当乱れていた。空間跳躍魔術による肉体的負荷で、しばらく身動きは取れないだろう。

 オリヴィエ・ベルトランがリリアーヌ・ド・ロタリンギアを叱責する声を聞きながら、リュシアンはその場から速やかに姿を消した。

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