序 戦場の王女
そこは数日前まで、新緑の香りが風に乗って漂う美しい場所であった。
河で東西に分けられたなだらかな丘陵地帯に背の低い木が生い茂り、草原と小麦畑の広がっている、牧歌的といって差し支えない場所であった。
しかし今、その牧歌的風景に相応しくない黒煙が各所で立ち上り、緑豊かな地面と実りをもたらしてくれるはずの畑は、無残なまでに土の色をのぞかせていた。
そして本来であれば農夫が行き交っていた場所は、物々しい装備に身を固めた兵士たちの行き交う場所へと変わっている。
この日、何度目かの砲声が広く澄んだ空の下に響き渡っていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
諸君、我らの任務は極めて単純だ。
友軍の到着まで、このレナ高地を死守すること。
私は諸君に、祖国のために死ねとは言わん。むしろ、敵を祖国のために死なせてやるのだ。
「……とは言ったものの」
アルフレッド・ライガー大佐は地図をのぞき込みながら、ぼそりと呟いた。
そこに書かれた戦況は、彼らロンダリア連合王国騎兵第一旅団第十一連隊にとって決して芳しいものではなかった。
「まったくもって、難儀な仕事を押し付けられてしまったものだ。そうは思わんか、少佐?」
「まあ、これぞ“男の花道”、そう言うべきでありましょうな」
第十一連隊麾下の砲兵大隊を率いるマッケンジー少佐が諧謔と共に応じた。
現在日時は大陸暦五三八年五月十五日。
彼らの依るレナ高地は現在、北ブルグンディア軍と対峙する位置にあった。
レーヌス河の流れが湾曲している近くに存在する高地。辛うじて河を通して右岸の友軍との連絡線は維持出来ているが、艀や筏で渡せる物資の量などたかが知れている。それすら、対岸の北ブルグンディア軍の砲兵隊による妨害を受けているのだ。
現在、高地の斜面のいたる所に毛細血管のごとく塹壕が張り巡らされ、さらには砲兵陣地が構築されていた。
高地の頂上付近、敵の死角となる高地の背面に設けられた、木材を組み合わせた上に土を被せただけの簡素な掩体壕が、現在、連隊の司令部となっていた。
「我々は英雄になれるだろう、まず間違いなく。それがこちらの世界でのことか、あの世のことかは保障の限りではないがな」
「まあ、敵の攻勢が始まっても数日は陣地で粘れるでしょう。騎兵科の大佐殿には不本意でしょうが」
「私は多趣味な人間なのだ、少佐」ライガーはにやりと笑った。「たまには歩兵のように、塹壕を掘ってそこに潜る楽しみを味わいたいのだよ」
そう言いつつも、内心でライガーは騎兵が塹壕に籠もらざるを得なくなる原因を作った西部方面軍と第二十三師団を呪っていた。
騎兵の強みは機動力にある。だというのに、連隊は臨時に編入された砲兵大隊と共に陣地を固守する状況に陥っているのだ。すべては、先日の戦闘で無残にも敗走した第二十三師団が原因であった。
掩体壕に新たな人影が現れたのは、その時であった。
「ベイリオル騎兵少尉、命令に応じ出頭いたしました」
硬質だが、凛とした声が薄暗い空間に響く。
ライガーと同じく、騎兵科将校の出で立ち……黒の生地に袖口に銀の刺繍のある上衣に黒のズボン、そして長靴、腰には鋭剣……をしている。
しかし、その軍衣も今はすっかり泥で汚れている。ズボンや裾には、生地が黒くてもはっきりとわかるほど、泥がこびりついていた。
「ご苦労、少尉」
敬礼する少尉に対して、ライガーは答礼する。相手は、顔に若々しい麗しさの残る少年だった。
外見は十代前半といったところ。実際、士官学校を卒業したのが十三の時で、今年の八月で十五だという。士官学校を卒業して二十年近くが経つライガーにとっては、親子ほどに歳が離れている計算になる。
華奢な体格の少年だが、馬の扱いが上手く、そして意外と体力があることをライガーは知っていた。
黒く長い髪に琥珀色の瞳が印象的な、本当に年若い将校。
「先ほど、右岸から艀で物資が到着した。少尉は帰還する艀に同行し、この報告書を方面軍司令部に届けてもらいたい」
「……」
封筒を突き出したライガーを、少年少尉は訝し気というよりも拒絶の意思のある目で見返した。
「届けた後は、原隊に復帰せず、そのまま方面軍司令部の指揮下に入るように。この中に、その旨を記載してある」
「それは、私への配慮でしょうか?」
少年は暗にライガーが自分を逃がそうとしているのか、と聞いているのだ。
「ええ、そうです」ライガーは丁寧な発音で言った。「あなたはこのような場所にいられるべきではない、エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオル王女殿下」
その瞬間、目の前の少尉の目に雷光が走ったようにライガーは思った。
「自分が王族であるからという配慮はご無用に願います」口調は外見と同じく、少年じみた硬質さを持っていた。「むしろここで王族たる私が逃げ出したとあっては、士気に影響します」
だが一方のライガーも、王女の言葉に怯むことなく相手を睨むように見返す。
「これは命令である、少尉」
「大佐殿が王族として私を扱うのであれば、例え将校とは言え王族に命令する権利などありません」
きっぱりとした口調で言い切る少年の出で立ちをした王女。
二人の硬質な視線が交差する。
折れたのは、ライガーだった。
「……まったく、強情なお方だ」不遜にも、面白がるような響きがライガーの口調にはあった。「そうまでして地獄の舞踏会に参加したいとは」
「民が血を流して国土を守っているのに、そこに王族の血が入っていないのは私の矜持が許さない。そんなところです」
生真面目な口調で、エルフリード王女は答えた。
「本当の舞踏会であれば、殿下と一曲踊れる栄誉に浴することが出来たでしょうに。残念ですな」
「私には婚約者がいますので、大佐殿のご要望にはお応え出来兼ねます」
ライガーの諧謔味たっぷりの言葉を、真面目に返すのはこの王女の性格だろう。
しかし、王女に婚約者がいたとは。
宮中事情に疎いライガー大佐にとっては、この王女が誰と政略結婚をさせられようと知ったことではないが、意外な感じは受けた。
この、いかにも男勝りを体現しているような王女が婚約者の話を持ち出すなど。
「なるほど、それは失礼した」
ニヤリ、と笑ってライガーは返答とする。
「では、配置に戻りたまえ、少尉。我々は戦争をしているのだ」
エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオルの抱いている感情は、ライガーの抱いているものと大差がなかった。
つまり、敵情判断を誤った第二十三師団司令部および、西部方面軍司令部への憤りである。
騎兵による陣地防御。
頭の中で唱えてみればみるほど、異様な響きを持った言葉である。
彼女は今、乗るべき馬を馬用の掩体壕に潜ませ、自身は塹壕の中で鋭剣と騎銃を抱えてうずくまっていた。
エルフリードら騎兵第十一連隊の将兵の置かれた現状のすべては、国境警備隊同士の衝突から始まっている。
もともとレーヌス河流域の国境線画定問題は長年にわたってロンダリア連合王国、北ブルグンディア間の問題になっていたことであり、特に河が東部に湾曲している地域は両国間で紛争の火種になっていた。
ロンダリア側は河の湾曲部の西側も自国領と主張しているのに対して、北ブルグンディア川は河そのものを国境線と主張していたのだ。ただ、現実には湾曲部西岸(左岸)地域を支配しているのはロンダリアであり、長年にわたってそれは既成事実と化していた。
最初の衝突は大陸暦五三八年四月十一日。
故意か偶然か、ロンダリア側の主張する国境線の東側に北ブルグンディアの小規模部隊が侵入、国境警備部隊と銃撃戦になり、ロンダリア側はこれを撃退した。
しかしその二日後の十三日、北ブルグンディア側はより大規模な騎兵部隊を以てロンダリア側主張の国境線を「越境」し、ロンダリア側国境警備隊の者たちに攻撃を加えた。この攻撃により、国境警備隊には六名の死者が出ている。明らかに、北ブルグンディア側の報復措置であった。
この時点で、現地部隊同士による停戦協定の締結が不可能となるほど、情勢は悪化していた。
ロンダリア陸軍参謀本部は、事件の不拡大方針を西部方面軍司令部に再三にわたり通達、同時に外務省が停戦協定成立のために動き出していた。
しかし、現地はこの方針に従わなかった。
実際に北ブルグンディア軍が出動し国境を侵犯した現実がある以上、国土防衛のために軍が行動するのは軍の役割から当然であるというのが、彼らの主張であった。事件の不拡大方針に従って、戦わずして北ブルグンディアに屈服することになったらどうするのか、彼らはそう考えたのだ。
四月二十三日、この地域の守備を担当するロンダリア陸軍第二十三師団は「国境警備隊に危害を加えた北ブルグンディア人への膺懲」という名目で、ロンダリア側が主張する国境線すら「越境」して歩兵二個連隊による攻勢を仕掛けた。
しかし、敵兵力を一個大隊強と判断していた師団司令部の想定は覆され、実際には一個師団近い北ブルグンディアの兵力に迎撃されて二個連隊は壊滅的被害を受ける。
そこから、状況はロンダリア側にとって坂道を転げ落ちるようにして悪化していった。
三十一日、第二十三師団司令部は部隊の撤退を決意。レーヌス河西岸で防御する態勢に切り替えた。
だが、北ブルグンディアは最初の衝突直後から兵力を増強しており、五月十二日、およそ三個師団による攻勢を開始して第二十三師団を壊走させてしまった。
今、ロンダリア側が領有を主張していた西岸地域で確保出来ているのは、騎兵第一旅団騎兵第十一連隊の依るレナ高地のみ。
第十一連隊の属する騎兵第一旅団は、そもそもは近衛師団の所属であり、第二十三師団とは指揮系統が別であった。
西部方面軍や第二十三師団司令部としても、王族の配属されている部隊を前線に出すつもりはなかったのだろう。そのため、第二十三師団の攻勢に際しては予備兵力として後置され、第二十三師団による攻勢の際にはレナ高地に留め置かれた。
それが結果として、第二十三師団潰走後、唯一、レーヌス河左岸地域を確保している部隊という運命に見舞われることとなったのである。
だからこそ、第二十三師団司令部も西部方面軍司令部も高地の死守にこだわっているのだ。
いや、とエルフリードは思った。今となっては、参謀本部も外務省も引くに引けなくなっているに違いない。現状での停戦協定の交渉は、北ブルグンディア側に有利な条件で進むことになるだろう。何しろ、今はほぼかの国の主張する国境線で両軍が対峙している状況にあるのだから。
連合王国の誰もが、自分たちの第十一連隊の奮戦を願っている。自分たちの稼いだ時間で西部方面軍は兵力を整え、国境線の回復のための攻勢を起こすだろう。
自身の経験する初めての戦争が、まさかこんな形で行われることになるとは。
だが、彼女には軍上層部への不満はあっても、置かれている状況に不満はない。自分はロンダリア連合王国の王女であり、軍人なのだ。そうである以上は義務が生じる。
今の場合、その義務とはここで泥と硝煙にまみれながら陣地防衛に従事すること。
その義務を遂行することに、エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオルという少女は一片の疑問も抱いていなかった。
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