ネオマヤン
私は引退を決意した。生涯現役であることが当たり前だったヴァルボワ国にあっては、前例のない異例な交代劇だった。後継者を使命し、特に仕事の業務には、何の差し障りもないことをアピールした。思ったよりも、たいした騒動にはならなかった。世間から離れてみると、実に色んなことがよく見えた。みな馬鹿みたいに日々同じことしかしていないアリのように見えた。国家プロジェクトというものを、俯瞰して眺めてみた。次第にこれは我々を飼いならすための、ただの道具ではないかと思うようになってきた。絵や彫刻そのものには、実はまったく意味などなく、ただ我々に、決まりきった綺麗な道筋をつくるためだけに、存在しているような、張りぼてに見えたのだ。
そもそもこの国は、金融業で国庫のほとんどを稼ぎ出していた。それを宗教関連の国のプロジェクトに投資し、我々の多くは給料として、金を受け取るシステムだった。我々がそれぞれ、自分で何かを決め、動き出すことで生まれる、複雑で多様な世界を作り出さないために、国家は国民をシンプルな形で、コントロールする必要があった。ということは考えられないだろうか。一度そんなふうに考え始めると、本当にそのように見えてくる。偏見による盲信は、避けたかったが、私はもっと、この社会の裏のことを知りたいと願うようになっていった。と同時に、こんな見せかけの、どうでもいい形式的な宗教という衣装ではない、本当の信仰とは何か。それを求め始めているようでもあった。国家のレールから外れた私の不安は、ある瞬間には、極限まで突き上がってしまい、その身体の空洞を埋めるための、本物の運命の地図を、自分の存在理由を、照らし出す真摯な祈りを、私は心から欲し始めていた。
私の元に密封された葉書が来たのは、ちょうどその頃だった。
文字通り、何枚もの厚紙に、ぐるぐると巻かれ、中身の一枚の何十倍もの太さで、完全に防備されていた。私は自室で一人、この荷物を開封した。差出人は、BHと記されていた。横書きの文書であったが、文字が読めなかった。見たことのない文字で書かれていた。署名のBHだけが、ローマ字で書かれている。真ん中で二つに折られ、何かの招待状のように見える。紙は黄色がかった茶色な風合いで、この文書が公式なものであることを、暗に示しているように感じられた。
私は家族の誰にも、この郵便物のことを言わなかった。幸い私が一人でいるときに来た。画業を引退した私は、昼間、一人で家にいることが多くなっていた。留守番の役目を担っていた。招待状のしまう場所に困ったため、肌身離さずに持っておくことにした。一日の終りに、風呂に入るときもまた、脱衣場の傍のカーペットの下に隠した。出るとすぐに、衣服と共に身体に纏った。光の具合によって、その文書のカードは黄金に輝き出したように見えた。そのうち、文字が読めるのではないかと思った。私に理解できるような形で、伝え始めるのではないかと思った。これを招待状だと仮定した場合、私は誰かに目をつけられ、アプローチされているのだ。こうして一人家に居るときであっても、その視線を私は感じないわけにはいかない。監視されているのだろうか?まさか国家だろうか。そうか。これまで、誰も、早期に引退する人間などいなかった。私は要注意人物としてマークされているのだ。きっと、そうに違いない。でも、そんな疑いと、このカードから受ける印象とが、うまく噛み合わない。そういった私を、縛りつけようとしているような窮屈さが、感じられないのだ。むしろ、私は、一日のうちに何度となく、カードを眺め、うっとりと放心してしまい、時間を忘れてしまうことさえ増えていった。カードが、私そのものであるかのように、同調し始めているように感じられた。そう思えば思うほど、カードが伝えようとしていることが理解できる日も、かなり近いのではないかと直観した。それを遮っている何か最後のブロックが、私とカードの間には、存在しているようだった。
何だろう。そうだ。疑いだ。まだ心のどこかで、このカードが罠ではないかと思っている。私を監視し、恐怖を与える物としての認識が、完全に消えてはいなかった。だが私は焦らなかった。ベストなタイミングで、カードは、私にその姿を晒すだろう。私は少しずつ少しずつ、その真実に近づいていくことにする。私は心の準備を始めていた。おそらく、これを送った誰かも、そのことを承知していて、今はあらゆる物事の調整期間であることを、私に伝えているかのようだった。これは、私の元にだけ、届けられたものではない。そう思った。私だけではない。画業を引退したのは、確かに単独ではあった。しかしそれも、何か大きな流れの中の、一部の現象であって、言ってみれば、私個人の問題ではない、凌駕した事実が、あるような気がした。私だけではなく、連動したすべての事柄が、小さな調整をし合い、支流に向かって動き始めている。一体、何が起ころうとしているのか。ヴァルボワ国の地下で、何かがすでに起こり始めている。家族に話しては、駄目だった。家族もまた、国家の一部に組み込まれた世界を、多分に持ち合わせていた。今は、そこに同調しては駄目だった。家族とは別の繋がりが次第に見えてくるはずだ。このカードがその入り口になるはずだった。私の人生の後半は、おそらく、これまでとはまるで違うものになるだろう。その覚悟は、すでにできていた。すべての状態が突然変異するかのごとく、五感の感触さえ異なった世界に、存在することになるかもしれない。
怖くもあったが、私は何故か、見えない何かに守られているような気がした。覚悟さえ決めて、それを、残りの生涯で貫くことをやめなければ、必ず、あるべき道が見え、その道の先に行くことができる。
私は、自分の望みを思い起こした。この社会の裏で行われていることを知りたい。本当の存在理由、運命の有無、信仰の本質。私がこれまで、全く意識してこなかった、けれども、本当はずっと求めていたこと。それを、残りの時間で、解決するという意志を固めていた。
インビテーションカードは、日に日に何か質感が変わっていくように感じたが、見た目には全く変化しなかった。見た目もそうだし、触った感覚もまたそうだった。
しかし、ほんのわずかではあったが、私には、この厚紙がほんの少しだけ硬直し、重みを増したかのように思えたのだ。画業は引退したものの、筆を持つ感覚は忘れてなかった。手にかかる重みには敏感だった。様々な筆を使い分けて仕事をしていた。そして重みは、日に日に変化していった。ふと軽くなる時もあった。だが、トータル的には、増える方に向かっていた。それに伴って、私の視界にも変化が生じてきた。
これこそが錯覚だと思った。だが明らかに、インビテーションカードの表面は、初めて見たときよりも黄金色が増したように感じた。あるいは、そんなことはないが、このカードそのものが、ゴールドなのではないかと思った。カードのように見せたその偽装が、剥がれ始めているといった・・・。
なぜ重みが増すのかは分からなかったが、五感のすべては、確実に連動していた。
輝きを増すカードに私の不安は募っていった。肌身離さなずに、持っているのも、次第に困るほどに重くなるだけでなく、その輝きが、衣服を通過して丸見えになってしまうのではないかと思ったのだ。
私はさらに、人と会うことに敏感になっていった。何も悪いことなどしてないのに、私はヴァルボワ国全体の、得体の知れない雰囲気を感じていた。そのシステムの外に出たからこそ分かる、異様な空気だった。監視されているといった感覚だ。監視のネットワークは家族にも及んでいた。家族は当然、そのことに気づいてはいない。
私の身に何か起こっていることを、彼らに伝えてしまった瞬間に、私は国から抹殺されてしまうであろう。私は秘密を知ろうとしている。けれどもまた、その秘密を、私に知らせようと、欲っしている人間の意思をも感じていた。
不安と期待が入り混じった私は、そのあと何日も家に閉じこもっていた。
夜が明け始める時にだけ、街中を散歩した。ほんのわずかだったが、身に着けたカードが、その時、ぶるっと揺れるのを感じた。磁気か何かが反応しているのだろうと、初めは気にもしなかった。
同じ工房で働いていた職人と、偶然すれ違うこともあった。
彼らは、私の異変には何も気づいていないようだった。少し気を許せば、挙動不審になってしまうほどの神経の高ぶりの中、私は日課の散歩を終えた。
朝は、七時を少し超えたところだった。すでにインビテーションカードは、ちょっとした重りのように、私の身体に加重を施している。
「引退のご身分は、どうかな」
私がかつて雇っていた男は言う。
「いかに、これまで、気を張って生きてきたのかがわかったよ」
私は、思いとは裏腹の言葉を、出した。
「気楽になったのか?」
「ああ。でも、また、別の仕事でも始めてるかもしれないな」
「そうだろ。なっ。そうだと思った」
男は安心した表情へと一気に変わった。何故だろう。男の顔をじっと見た。
「しかし、あなたはいいよ。働かなくても、お金はたんまりあるんだろうから。俺はそうはいかない。みんな、あなたの話で、持ちきりなんだよ。休憩時間も、仕事のあとに飲みに行った時間にも。あなたの話題が、出ないときはない」
「そうなんだ。それは嬉しいよ」
「あんた、気が狂ったんじゃないかって」
「えっ」
あまり言いたくはないんだが、と男は言いづらそうに首をすくめた。
「いいんだ。言ってくれ」
「俺も、あまり、告げ口のようなことはしたくない。でも、あなたには、ずいぶんとよくしてもらったから、正直に話すよ」
「頼む」
「何か良からぬことを、策謀してるって噂だよ。あなたは、何か深い恨みがあって、我々の共同体から自ら抜け出た。これから復讐をしようとしてるってな」
「おいおい」
「いや、ほんとだ。標的は俺らだ。住民を、無差別に巻きこもうとしてるって。いや、そんなことなど、ありえないよ。あなたは、そんな人間じゃないことくらい、わかってる。あなたの後を、引き継いだ男だって、そう思ってる。俺らも、またそうだ。今だって、信頼している。うちの工房はそうだ。しかし、それ以外の奴らは、違う。そしてウチの工房は、日に日に、嫌がらせを受けている。工房を潰そうと、画策している奴らがいる。誰の意図で動いているのかはわからない。ただ、先頭で、旗を振っている人間は、同じ地区で彫刻工房を営んでいる、ガッシェだ。誰に嗾けられているのか。ウチの工房を潰そうとしている」
「なんだって」
「ああ、ほんとだ。乗っとろうとしている」
「ウチとは、違う商売だろ」
「だから、どういった魂胆なのかは、わからない」
「むしろ、彼らの方に、何らかの恨みが、あるんじゃないのか?」
と言ったところで、私はある事実を、思い出してしまった。
まさに、あのとき、衝動的に殴り、教会の外壁から、潰し落としてしまった、あの龍のような彫刻の姿。あれを思いだしたのだ。まさか、その時のことが。
「乗っ取って、それで、彫刻の工房を拡大するのか?棲み分けが綺麗にされていたじゃないか。どうして、今さら」
「今さら?あんた、よくそんなことが、言えるな。あんたが、そのシステムを崩した張本人なんじゃないか。あんたが、おかしな行動をとったから。それが始まりなんだぞ。俺の本音は、こうだよ。あんた、やってくれたなって」
「お前、そんなふうに」
「あんたを信頼しているのは、事実だ。ある面では。だが、もう事態はそんなことを言ってられる状況では、なくなった。わかるだろ?ウチの工房は、存続が危ぶまれている。何とか、生き残る方法を模索している。これまでの安定した国に、戻したい。どうしたら修復するか。俺も必至で考えている。なのに、その張本人のあんたは、呑気に散歩なんかしてやがる」
「悪かった」
「謝るんじゃない!」
「どうしたら」
「お前などな、そもそもの、初めから、この世界になど存在していないんだ!そういうことだ!それが、最も辻褄の合う方法だ。お前なぞ、この国には、存在していない。むしろ、他国から入り込んだ虫だ。そう、ただの虫だ。汚い虫だ。俺は、今、虫と話をしてるんだ。ふんっ。勝手にうろついていていたらいいさ。お前の存在など、誰も見えやしない。俺のように話しかけられるだけ、ありがたいと思うんだな。ただ俺も、そこまでの卑怯者じゃない。これまでの恩義もある。三十年近く、あんたには世話になった。娘が病気で苦しんでいたときも、あんたは多額の金を出して、他国から良い医者を呼んでくれた。その長女も今は、子供を生んで、俺も祖父になったよ。その金もまた、俺には一切、請求しなかった。これからも、ウチの工房で頑張ってくれと。何事もなかったかのように、俺を励ましてくれた。本当に感謝してる。俺の複雑な心中を、察してくれ。もう苦しくて耐えられないんだ。もうこれくらいでいいだろうか。とても見てられない。ううっ」
男は気力を振り絞り、最後の言葉を口にした。
「あんた、逃げろ。あんたを消しに来る連中が、押し寄せるてくるぞ」
インビテーションカードが、劇的に変化した瞬間だった。厚紙だったものが、完全に薄い立体物に変化したのには、驚愕した。
誰かが、物質の業態を変化させたかのようなで超常現象を見ているかのようだった。重みは増し、折り曲げることが不可能になった。
黒い文字の羅列は消え、黄金の世界の中からは、白く輝く光の線が浮き上がってきていた。太い線のようだったが、次第に、細長い立体物として、黄金版からはさらに浮き上がって見えた。細長い直方体は直径を伸ばしていく道路のように、四方に伸びている。白い蛍光色の中でも、僅かな違いで構成されていて、より光の強い白い箇所が点滅をし始めた。
私の立った床にも、同じように、白い蛍光色が照らされ、点滅し始めた。
その直方体は、次第に入り組み始め、私はそこでやっと、これが街の地図の上に掛けられていることに気づいた。道路のようであったが、自分の知っている位置関係とは、だいぶん違う。別のルートの網目が、こうして浮き上がってきたのだろうが、これが、何を意味しているのかが、わからない。ふと、もしかすると、これは、緊急避難経路なのではないか。私がこのような事態に陥ることを、あらかじめ知っていた誰かが、逃走経路を示唆している。そんな気もした。だが罠かもしれなかったので、私はすぐには行動に移さなかった。そもそも、私を追ってくる人間の存在さえ、確認していないのだ。自分の工房と同じ地区の彫刻工房の様子を、確認したい。午前中の今、工房はフル稼働しているはずだ。堂々と行ったらいい。私は何の気兼ねもなく、一か月ぶりに工房に顔を出すことにする。だが、あるはずの工房まで、なかなか辿りつかない。通い慣れた道でも、忘れてしまうことがあるのだろうか。街の配置が、全然違うように感じる。あの角を曲がれば、何があるのかは、意識しなくてもわかる。いやと私は思い直した。建物が移動するわけがないのだから、やはり私が忘れかけているのかもしれない。そういえばそうだ。私は自宅から工房へと毎日通うときに、わざわざ道を確認しながら、街の様子を確認しながら、歩いていただろうか。そんなことは全くしてなかった。近所の彫刻工房すら、ほとんど気にとめたことがなかった。とすると、あの当時はまったく、夢遊病者のごとく、適当に歩いていたことになる。それ以外には考えられない。誰かに操作されるかのごとく、道も知らずにただ動かされていただけのような気がする。工房をやめた瞬間、その経路すら、思い出せないのだ。でも散歩はちゃんとできていた。迷子になって、家に帰れなくなることもなかった。
そうか。ちゃんと自宅に戻ることを先に意図して、歩いている間も絶えず、意識の片隅に家の存在があったために、迷うことはなかった。いったい工房はどこにあるのだ?
しかし、知らない街に足を踏み入れた感じは、まったくない。それはそうだ。街並みにも、特に違和感を抱く場所はない。どこまでも、統一された世界が続いている。まさかこのまま、自宅にすら、うまく辿りつくことができないのではないか。不安は的中する。私は完全に迷い人になっていた。別の工房すら、目に入ることはなかった。住宅が続いていく。レストランも何軒か見た。学校のようなところもある。だが、工房が見当たらない。あれほど、工房が点在していた街のように思っていたが、今はその影すらない。
インビテーションカードは、家に置いたままだ。今ごろ、家族の誰かが、その存在に気づいてしまったかもしれない。すでに隠そうとしてなかった。折りたたむことのできない重みを備えた、置物のようになっていることだろう。しかし私の脳裏には、不思議と、あのゴールドを背景とした、白色の立体経路が、すでに刻み込まれていたようだった。目を瞑れば、あの地図が出てくる。
次第に目など閉じなくても、勝手に浮き上がってきていた。街の風景が半透明になり、その地図と、綺麗に融合していた。私の視界は激変していた。私の今居る場所。今居る道が、その白い発光立体の一つと、完全に重なった。そして私のいる地面が点滅し始めた。
その状態のまま、私は自分の身体を、右に左に動かし、早歩きで、Т字路まで急いだ。
白く細長い、発光する立体の道は、生き物のように、配置を変化させ、また別の世界を描き出す。次第に足元だけではなく、少し離れた別の場所に、同じような点滅する地帯を発見した。実際に目に見えた場所ではなく、頭の中で展開している上空からみた、俯瞰したような映像だった。私はその映像と、こうして肉体そのものの視線と同化している二つの映像の両方を、切り替えることなく、同時に見ているような感覚だった。
私は点滅しているその場所を目指した。
この足元の点滅と、遠い点滅地点を結び、最短のルートを直観で感じとることで、歩を先へと進めていった。自分が動いているような、景色の方が動いているような、まったく不可思議な体感に包まれていった。
「まずは、その縦の線を、繋いで。そうそう」
鳳凰口建設の社長の激原は、作業員に指示を出していた。
これまで半年の間、社長に就任したものの、社員と共に、現場で一作業員として働いてきた。この有り余るエネルギーのすべてを、作業にぶつけることなしには、力の行き場をコントロールすることは、不可能だった。社長とは名ばかりだった。業務のすべては、創業者の前の社長が残したシステムを、そのまま使っていた。人材もまたそうだった。
激原はただ、一作業員として、これまで以上に、仕事に奮闘していた。その仕事っぷりによって、社員の熱気は結果的に上昇していった。
しかし、建物が完成に近づいたとき、ほぼ完成したときだった。このままではいけないと、突然、激原は不安に駆られていった。これほどエネルギーを注ぎ込んだ仕事を経験したことはなく、幸福に満ちていたが、しかしこの状態では、建物は何の機能も果たさないのではないかと思ったのだ。どういうことなのか、自分でもわからなかった。建物には、設備は完備されていたので、誰がどのように使おうとも、ビルとしての役割は果たされる。そうなのだが、と激原は思う。何かが足りなかった。
この建物が、本当の意味での存在意義を発揮するには、何かが、重大な何かが。
ただ言われたとおりに、物理的に発注に応えた。それで仕事は終わりなのだろうか。それが仕事なのだろうか。そもそもこの建物は、一体何なのだろうか。激原は自ら深く関わったこの建物を見上げた。
これは何なのだ?
その言葉が何度となく、頭の中を駆け巡った。
何度だって言ってやる。口にしてやる。
これはいったい、何なのだ?
あまりに巨大すぎるそのビルは、いったいどんな用途のために建設されたのか全くわからなかった。当初は、知り合いの見士沼という男の教団施設を、リニューアルするというのが始まりだった。ところがその話は途中で頓挫した。別の企業がその土地に別の建物を立てることで再度合意に達する。引き続き、鳳凰口建設における作業が続いた。そして当初の計画よりも、遥かに巨大な施設が生まれる。
激原はそのあまりに広大な仕事のスケールに、初めて自分が打ち負かされるのではないかと思った。これこそが望んでいたことだった。自分のエネルギーに見合った仕事を、心から欲していたのだ。だがこうして、その作業をすべて終えたとき、この自分のエネルギーの化身のようなビルを見たとき、唖然とし、この先の自分を見失った。それは見てはいけないものを見たかのような、それでも見なければいけなかったかのような、そんな光景だった。そして激原は悩み始めた。この建物に、本当の意味での機能が備わっていないことを悟ったのだ。そのことを深く見つめたのだ。誰が入居して、誰が何の目的で、何の事業をしていくのか。そういった、個別の目的ではない、この建物そのものが存在する、理由の問題だった。
ビルに入ってくる人間、会社が、この先もずっと、使用するとは限らない。存続していたとしても、出入りする人間は無数であるし、利用目的はその都度変更されていく。
そうではない、この建物それ自体の意味だ。
それは、この、鳳凰口建設が、目に見えないシステムとして埋め込んでおかなければならない役目のような気がした。
激原はただ盲目的に、眼の前の作業に全力投球するだけの仕事の仕方からは、脱皮する必要性を感じていた。一社員としても、このままでいいはずがなかった。そして何と、激原は、全身のパワーを使い果たし、疲れ切っていたのだった。生まれてから今日までの、すべての溜めこんだ力を、解き放ってしまったかのようだった。あれほど無尽蔵に沸いてくると思っていたエネルギーには、限りがあったのだ。
激原はここで初めて、まとまった休暇を取ることにした。館山の海の傍のコテージを借り、まずは一週間滞在することにした。着いたその日は夕食を取り、温泉に浸かり、昼近くまで寝た。昼過ぎにようやく起きて、ビーチを散歩する。ハンモックに寝そべり、まだ海水浴には寒い、六月の風に揺られながら昼寝をした。夕方には近くのレストランで、和牛ステーキを食べる。夜はまた温泉につかり、早めに就寝する。翌朝は七時に目が醒めた。気温は前日と比べて十度近くも上がっていた。この時期では異例の高さを記録していた。服を脱いで海に入る。内海だったので、波はほとんどない。激原はずっと海水に浮かんでいた。海から上がると、風がさすがに冷たかった。コテージに戻り、そのあとレストランに向かい、生野菜とフルーツを中心とした食事をとる。そのあとで海辺を歩く。悩みはすべて忘れてしまうくらいに、のんびりとした時間を過ごした。四日目のことだった。
閃きは突然大空から舞い降りてきた。ビーチで過ごしていた時に、空と海がいきなり一つの線で繋がったような気がした。そこに太い巨大な白い筋が通った。回路のようなものが出来たかのような錯覚がした。今、天と地はがっちりと繋がったのだ。手が組まれたのだ。そのとき海に内包された情報と、空に内包された情報とが繋がり、行き来し、交換し、循環したかのようでさえあった。数分後、その目に見えていた回路は、消えた。
だがそのエネルギー循環の回路は、すでに存在していて、その流れは加速していっているように感じたのだった。
激原の中ではその後コテージに戻ってからも、その回路の印象は消えることなく、逆に強まっていった。結局、館山を後にしてからも、その回路のイメージは薄れることなく、強力になっていくばかりだった。通常の業務に戻る気にもなれなかった。激原はさらなる旅行へと出た。オーストラリアのゴールドコーストを選び、ビーチ沿いのホテルに宿泊した。今の業務を回していくだけなら、社長である俺がいなくても十分だった。むしろ居るほうが、効率が悪くなる。あれほど過激に仕事をしていたため、長期休暇の願いに、口を挟む重役は誰もいなかった。さらに二週間、激原は海のそばでぼーっとした時を過ごす。あの回路はやはり弱まりもせずに、存在していた。しかしオーストラリアの海では、視覚を刺激してくる現象は何も起こらなかった。
「まずは一つの循環の回路を、強力に発動させること。そこから始めよう。そのあとで別の循環の回路を、連動的に増やしていき、循環のエネルギーを伝播させながら、さらなるエネルギーの渦を生んでいく。渦だらけになるな。まるで、建物は、その複数の秩序だった気流に包まれる。霧じゃなくて、強力な気流に包まれるビル。強烈な気流を生み出す建物。その中で個々の利用者は、それぞれの目的で、このビルと契約する。そういうことで、いいだろうか」
「社長、何をおっしゃられているのか、わかりません」
側近の重役は即答する。
「これから、ちゃんと、順を追って説明するよ」
「ぜひ、お願いします」
「まずは縦の回路だ。天と、この地であるビルを結ぶ回路を、確立しないといけない。確立して、情報と物質の交換をさかんにしていく、必要がある。与え、与えられという流れを加速させていく」
五十代の重役の男は、早くも口ごもってしまった。
「社長、休暇はどちらに?」
「ゴールドコーストだよ」
「そこでは一体、なにを」
「ただ、海で、寝そべっていただけだ」
「本当に、そうでしょうか」
「どうした?」
「いえ、だいぶん、お疲れだったのでしょう。羽目を外されて、大変、けっこうなことです。まだ頭が切り替わっていらっしゃらないようです。あと数日、家でゆっくりなさってから、仕事に復帰されるのはどうでしょうか」
「それも、いいね。でも説明を続けさせてもらうよ。その縦の回路が、肝だからね。そのあとで、次の作業を全力で取り組んでいったらいいと思う。そして、それが確立したときに、今度は横の平面における循環を作っていく。このビルと、また遠距離にある一地点を結び、そことを、ぐるぐるとエネルギーが行き来するような流れをつくるわけだ。一点、二点と拠点を増やしていって、複合的な空間をつくっていく」
「まるで発電所みたいですね」
「え、あ、そ、そう?そうかな」
「ええ。あの建物を、自家発電仕様にしたい。そういうことでしょうか?」
重役の男の顔は、話始めた当初よりも、だいぶん穏やかになった。
それに反するように眼差しの方は強くなっていった。
「エネルギーを、自分で賄える建物にするということですね。なるほど、社長。わかりました。承知しましたよ」
「あ、伝わった?」
「はい。最初は変なことを言うなと、正直思ったのですが、よく聞けば、そんなことはなかった。社長。そういえば初めてですね。我々にアイデアを出してくれたのは。遠慮なさっていたんですね、ずっと。もう、これからは、この調子で構いませんから。あなたの思うことをどうぞ自由に、我々に投げかけてみてください。何だって受け止めますから」
思ったことをしゃべってよかった。
激原には、二つ目、三つ目の循環回路が、すでに見え始めていた。
次第に私は、インビテーションカードの世界に這い込んでしまっているかのようだった。
ゴールドの中に浮かび上がってくる白い光の通路が張りめぐる街の中に、私は居たのだ。昨日まで生きていた世界とは、明らかに違った。毎日肌身離さず、そして、ずっと見続けていたカードの世界は、私を取り囲む形で出現した。私はすっぽりと白い光の世界の中に入っていた。私はとても官能的な気持ちになっていたのだと思う。真っ白なシーツを敷いたベッドの中、昼のやわらかな光に包まれた世界で、透き通るような白く弾力のある裸の女性を、抱いているかのようにも感じられた。その女性は、私の腕の中に隠れてしまっているようであり、私の全体を覆うように、包んでいる光そのものでもあった。
妻にも誰にも、感じたことのない快感に、私は絶句していた。
その立体の通路の世界を突き進んでから、どれほど時間は経ったことだろう。ふと、時間のことが思い浮かんだ。あれから、何日が経ったのか。同僚の男の影は、遥か遠くに消えてしまっていた。私を導く世界が現れた。白い世界の中で、黄色い光が混ざりあってきたのがわかる。黄金色の大きな門のようなものが現れたのは、そのときだった。
扉のない通過するためだけの門。迷い込んだ私に、声をかけてくる人の姿はない。人ではない、何かが、ここまで私を連れてきたのだろうか。不安は募っていった。
そもそも、ここはどこなのだろう。教えて欲しいと私は呟いた。私に分かる形で教えてほしいと。大勢の人の姿が、その白い闇の中から姿を現すのに、時間はかからなかった。
この街の別の次元に、こんな組織が存在していたとは、知らなかった。
最初、国家が運営している場所だと思った。だが彼らは関係ないようだった。
国家とはまったく無関係に、集った団体ともいえない集まりだった。彼らの顔を一人一人じっくりと見てみた。しかし知ってる顔はない。彼らは私のことを、じっと見てはこなかった。まったく関心を払ってこなかった。しかし、私の存在を、確かに認めているように感じられた。私が初めてこの場所に来たことを、彼らは皆知ってるようであった。
まさか、彼ら全員が、私のことを招待したのだろうか?私は歓迎されているのだろうか。私は何をしたらいいのかわからなかったが、不思議と、居心地が悪くなることはなかった。洞窟の中なのかと思ったが、この柔らかな照明のような感じの黄色い光は、何なのだろう。壁には本棚が設置されていて、本が並んでいる。窮屈そうに詰めこまれているわけでもなく、隙間の空いた感じでもなかった。あるべき書物が、あるべき場所にしまわれていて、それが必要な人を、いつでも、待っているように感じられた。
私は目についた一冊の本を、手にとるために近づいた。その本が私を呼んでいるような気がした。この本が私にインビテーションカードを発行したように感じられた。私は本を手にする。するとたくさんの人が、それぞれ作業している部屋ではない、さらに奥の部屋へと行くような気がした。そしてその通りに移動していた。机のような形の凹凸物が並んだ部屋に出る。白い霧の塊のように、立ち並んだ机に椅子はない。私は本を、その固体のようには、まったく感じられない机らしき物体の上に、本を置き、ページを捲った。紙だと思っていたが、その質感は、まるで違った。指で触れた部分が、右に左に動き、別の文字の塊へと移行していった。私は人差し指を触れ、右に左にスライドさせながら、情報を吸収していった。
どうも、ここはB・Hという組織らしかった。国家のように、決められた役割分担があって、生涯にわたり、仕事として共同体に奉仕し、そこで豊かな生活を享受するといった、私の知ってる世界とは、かなり異なる成り立ちをしているようだった。
ここは勉学に励むための場所だった。そして、知りたいこと、身につけたいことは、個々で違っていた。必要な資料は、すべて揃っていて、まずは書物から学び、頭で理解したことを、今度は肉体で表現できるように、実験、実践するための空間を利用する。そこで初めて、実践者という、その同じ課題をすでに身につけた先生のような人間が現れ、アドバイスと共に、次のステージへと行くのだという。
ここは学校だったのだ。さっき見た人たちは、先生だったのだ。生徒でありながらの、先生たち。私にとってみれば、すべての人が、先生だった。私は、私が生きている、この時代、この国に存在している意味を、深く知るための場所だった。そしてここが、キリスト教の神秘主義組織であることを、後に知るのだった。
入門の許可を申請しようと、私は思った。だが入門の許可は、誰にとるわけでもないことが、なぜか分かった。そんな気がした。私がここで学ぶことを、反対する人は誰もいない。私が認めれば、道はでき、扉は開く。あの人たちの姿を見たときに、一瞬で、それを理解した。それにしても驚きだった。こんな世界が、ヴァルボワ国に潜んでいたなんて。
これまで居た世界が表ならば、ここは完全に裏だった。不思議な世界だった。私がこれから何をするのか。何をしているのかが、見えてくる。私は学んだことを、自分の身体に染みこませるために、彫刻を作っているのだ。
あのとき何故彫刻を破壊してしまったのか。今、繋がった。いずれ自分も彫ることがわかっていたのだ。わかっていながら、踏み込んでいない嫉妬が引き起こしたのだ。彫刻そのものの技能を、磨くためでもなく、職人になるわけでもなく、私にとっての彫刻は、それ自体に目的のない、瞑想のような行為だった。
鳳凰口はここで、はっと我に返った。
約一年前まで、どうして実家の建設会社に籠って木屑に向かい、彫刻刀を入れ込んでいたのか。それがわかったのだ。ここに繋がっていたのだ。
「俺はもう、保てない。全然、違う人間の体感が・・・今」
「どうした?」
「保てない。自分を保てない」
今、ハンドルを握っているのが、俺でなくてよかったと、鳳凰口は思う。
「どうしたんだ?」戸惑う男を押しのけ、水原が、後部座席から顔を乗り出してくる。
「もうちょっとだろ。耐えろよ。もう少しで、捕まえられるんだろ?」
「捕まえる?」
愛華友紀の声がした。
「保てない。入れ替わろうとしてる」
鳳凰口は叫んでいた。
「誰と、だよ」
男も呼応するように叫ぶ。
「誰なんだ?あいつは。あの男は誰なんだよ!あれはどこの国なんだ?年代は?あいつに、何が訪れようとしてる?」
「だから、もうちょっと、なんだろ?」
水原の声だけが、冷静だった。上ずっていない唯一の声だった。
「こっちのことは、任せろ。だから、もう少しあっちに。入れ替わることなんてない。そんなことにはならない。お前はお前だ。完全に戻ってくる。だが、今のままでは、駄目だ。ケリをつけてこい!」
ケリ?
水原は、確かにそう言った。
「お前の中途半端な能力。それを完全に、自分のモノにしてくるんだよ。もう開きかけてる。今しかない、鳳凰口」
その言葉は、力強かった。
最後に、鳳凰口と名前を呼んでくれたことが、嬉しかった。
そうなのだ。ここが分かれ目なのかもしれなかった。
ここで引き下がってしまうのか、突っ込んでいくのか。ここが、俺の人生の分岐点なのかもしれなかった。そしてアイツの分岐点でもあった。
入れ替わるだって?アイツの人生と、俺の人生が?そんなはずはない。アイツはアイツで、あの国で、生をまっとうするのだ。日常に帰っていく必要がある。あのまま、あの場所に、置き去りにしてしまっていいわけがなかった。
鳳凰口は、戻る決意をする。
私はここでかつて、学んでいたことがあることを思い出した。
入門、入学の許可を、心の中に申請するのも、おかしな話だった。
私は戻ってきたのだ。いや、違う。いつだって出入りしていたのかもしれなかった。幼い時から、画業の見習いをしていたが、驚くほど技術の習得は早かった。私は自分の知らないうちに、ここで習得していたのかもしれなかった。
夜も寝静まったとき、私はヴァルボワ国を抜け出し、ここに出向いていたのかもしれなかった。ここで学ぶ人たちとは、元々顔見知りであったのかもしれなかった。ならば、インビテーションカードが送られてきたというのも、どこか勘違いだったのかもしれない。
私はこの地底の世界に、意識のほとんどが向くことを、あらかじめ予期し、仕事をやめ、家族とも距離を置き、迷宮に迷い込むがごとく、こうして・・・。だとしたら、私は今もヴァルボワ国で、画家の頭領として活動しているのではないか。家族に囲まれ、平穏な時を過ごしているのではないか。教会の彫刻を壊すことなく、それでも彫刻の素晴らしさに新ためて気づき、仕事以外に、様々な幸せを吸収し始めているのではないか。
そうだ。分岐などしていない。私という存在が、地上から地底へと移行してしまったわけではないのだ。同時に存在している。私の意識は分裂などしていない。意識が拡大しているだけなのだ。これは夢の中と同じだった。目が醒めれば、私は、元の状態に回帰する。そのときの私は、色んな私を内包している。この場所に意識をもっていけば、すぐにでも、目の前に現れる。この場所に包み込まれた自分を発見する。こうしてここに来るまでに経た、長いステップを辿ることは、もう二度とない。一瞬で。
意識を向けた瞬間、私は私のままで世界は変わる。
「みんな、集まってくれ」私の居る部屋にも、その声は届いた。
私は、図書館が内包された広い空間へと戻っていった。
そこには、人々が集まっていた。
「いつだって、我々の教会は、開かれている」
誰が話をしているのか。声の出所を私は探す。
「それを、忘れないでほしい。今から協力してほしい。ほんの一時的だが、我々は、この場所には居られなくなった。エネルギーを畳むのを手伝ってほしい」
次の瞬間、地下世界は、一気に光の量が減った。
淡い蝋燭の光が、わずかに、人々の輪郭を浮き上がらせた。
「今、この瞬間、超大なエネルギーを、地上は欲し始めている。我々も、協力する必要を感じた。すぐにまた明かりは取り戻せる。少しだけ我慢していてほしい。地上に光を。その最初の点火に協力することで、地上はその後、半永久的に、光が差し込む土壌ができる。光は循環の輪と重なりあう。すでに地上では、光を受け取るシステムができた。光を増幅して、地球上に注ぎ、闇を回収することで、再び光を増幅する装置が。その最初のきっかけが必要だ。協力の手を、我々BHが、挙げたいと思った」
私はまだここで、学び始めたばかりなのです。どうか、その中断も、一瞬のことでありますようにと祈る。
「あなたたちは光がなくとも、いつでもこの場で、学び続けている存在です。どうか信じてください。たとえ別の世界で何をしていようとも。もう一人のあなたは、ココにいるのです。そして学んだことを元に、あなたたちはそれぞれの世界で、まさに実践しているのです。実現していくのです。今、この瞬間に。そう、目の前のことを、よく御覧なさい。あなたの肉体を、そこに全力で注ぎこんでみなさい。あなたの身体こそが、あなたの学んだことを発揮する場所なのですから。場とは、あなたの体のことなのです!時というものは、ありません。場というものはあります。あなたの肉体がそれなのです。時間というものを、もし、表現するとしたら、そのあなたの肉体に包まれた中身。それこそが、時間の実態なのです」
私は、同じ地区の彫刻工房にいた。昼休みを利用し、この工房に見習いとして彫り方を学びにきている。私は何度も何度も、夢の中の書物に記してあったことを、確かめ合うように、同じ像の制作を、この新しい工房で繰り返していた。
第三部 第六篇 ステルスビルディング
鳳凰口昌彦と愛華友紀の結婚式は、都内のホテルで開かれた。
二人が出会ってから三か月後のことだった。総勢百名ほどの披露宴には、水原や見士沼祭祀の姿もあった。激原は体調不良ということで、急遽欠席をした。祝いの電報が届いた。鳳凰口は出会って、すぐに結婚を決めたことを、みなの前で報告した。披露宴の食事の最中、個々の列席者は、新郎新婦の元に伺い、談笑したり写真を撮影したりをしていた。
ふと一時的に、誰の訪問も受けない、そんな間が空いたときだった。
水原が一人で、鳳凰口の元にやってきた。
「その、美術館の話だけど、アーティストが決まったんだ」
水原は小さな声だが、よく響く声で力強く言った。
「ずいぶんと、早いな」
「時間の問題じゃない。お前の結婚だって。それより悪いな。離婚したての俺まで、こうやって、ノコノコ来てしまって」
「どうした?」
「元妻のことでね。その選考のオーディションにさ、彼女、応募してたんだよ。あとから分かったんだけど。驚きだよ。あいつ、美術をやり始めてたんだって。しかも、この短期間で、相当な数の作品を提出したらしい。俺は見てないけど」
「一度、見て見たら、どうだ?」
「そんなこと、するか?落選してるし、それに、彼女とは何の関係もなくなった」
「関わりも持ちたくないのか?」
「そうだよ」
「でも、何かと、お前の仕事に絡んでくるな」
「嫌がらせなのかな」水原は笑みを浮かべた。
「縁があるんだよ。切っても切れない縁がさ」
「変なこと、言うなよ」
「そういうのって、あるんだぜ、ほんとに。なかなかないことだよ」
「どういうつもりなんだよ、鳳凰口。縁結びか?まあ、こんなときだから、浮かれてるのは当然だけど。何もかもが、繋がってるように、お前には見えるんだろうけど。羨ましいよ」
水原はちらりと、新婦の方を見た。
彼女の方には、いつのまにか、三人の女性が来ていた。
「もし事前に、前の奥さんが応募していることを知ってたら、どうしてたんだ?」
「どうしたも、何も。別に何も変わりやしないよ。俺は選考に関わってないし」
「そうじゃなくて、奥さんと、そのことについて、話し合ったのかってことだよ。でっかい共通の話題が、日常生活の中にも、生まれたわけだろ?離婚は回避されたんじゃないかと思ってさ。そんなことはないか」
水原はしばし、返答することなく、言葉を飲みこんだまま、ぼんやりと遠くを見た。
「そういや、結婚式はやったの?」
鳳凰口は訊いた。
「やるつもりもなかったよ。彼女もむしろ、やりたがらなかった」
「珍しいな」
「意外に、あいつは、俺らが早くに壊れることを、知ってたのかもな」
「あれ、そういえば、激原は大丈夫なのかな。入院してるんだって。さっき知った。何だか、俺ばっかりが浮かれた感じで、みんな大変なんだな。あの屈強な男がダウンしたなんて信じられない」
「あいつも普通の人間だったんだよ。過労だって。後で見舞いに行ってくるよ。お前が新婚旅行に行ってるときにでも。でも、たいしたことはないと思うな。バランスを崩してるだけだよ。まだあいつなりのエネルギーの使い方を、マスターしてないだけだろ。建築作業に、全エネルギーを投入したその後で、逆のエネルギーを意識的に使うことを怠った結果だよ。厳密に言うと過労じゃない。わかる?Aというエネルギーを使っていたとして、それを使いすぎで、消耗したって話じゃない。Aのエネルギーを、もうちょっと弱めようってそういった消極的な、バランスの取り方の話でもない。Aをとことん投入する。そのあとでAとは逆の質であるBのエネルギー。それをこれまた、同じくらいの全霊で投入する。そうすることでバランスをとる。足し算の方法だ。ああいったタイプは、そうでないといけない。俺はあいつのようなタイプではないから、逆にああいったタイプの扱いがよくわかる。あいつが自分で気付かなければ、誰か周りが教えてやったらいい。そういう奴はいるのか?いなかったら俺らの出番しかないよな」
水原は、長居してしまったと言った。
「いや、いいんだ。ここで話すだけじゃ、とても足りないな。あとでな」
鳳凰口は、水原を見送った。
愛華友紀の元に集まっていた三人組みの女性は、すでにいなかった。
「誰だったの?」
そういえばと、鳳凰口は思った。
「紹介してなかったな。あいつも何の挨拶もしなかった」
「いいの」愛華友紀は言った。
「幼馴染だよ。小学校の時からの」
「意外ね。そんなふうには見えなかった」
「どんなふうに見えた?」
「ビジネスパートナー」
「そうなんだ。そっか。見え方っていうのは、不思議なものだな」
「ほんとに仲いいの?」
そしてまた、列席者からの訪問客がどっと押し寄せてきた。
祝福の喧噪に二人は包まれた。鳳凰口は、その桃色の海の中で、両腕を最大に開き、全身の力をこれでもかと抜いて、浮かんでいた。この世のすべての物質と、一体化しているような感覚だった。自分の肉体の境界線が、ひどく曖昧になり、天と地さえも、その区分けが完全に消えてなくなっていた。
「鳳凰口さん」
その桃色の世界の中にあって、突然、濃い紫色の液体が投入されたような、感覚だった。
「ミシヌマの代理人です。ミシヌマエージェントです」
鳳凰口は、まどろみの中から戻った。
「見士沼は帰られました。一時間、披露宴を楽しんだあとで、自分は失礼することを伝えてほしいと言われました。こういう場が、あの人はひどく苦手なんです。たくさんの人が居る場所に長時間いることが、今の身士沼さんには大変厳しいことなんです。わかってください。とても楽しまれていました。心からあなたたちを祝福しているようでした。あんな祭祀さんを、我々はあまり見たことがない。なので、彼がいなくなった空席に、とりあえず私が入ることで場を保つことになります。よろしくお願いします。津永と申します」
「ミシヌマ・エージェントって、なに?」と鳳凰口は訊いた。
「ここで話すと、長くなりますが」
「簡潔に」
「祭祀さんの、身の周りの世話を」
「どういう意味で?」
「祭祀さんと、この現実世界を、うまく繋げる役目というか」
「教団は?教団はどうなったの?クリスタルガーデンの改築も、途中で・・・」
「祭祀さんは、教団から離れました」
「そうか。そうなんだ、なるほど」
「それでも、教団と祭祀さんは、完全に分かつことはありません。できません」
「物理的には分離していても」
「はい」
「水原の夫婦と、同じだな」
「水原?」
「独り言だよ。なるほどね。それで?それで、あなたは教団の人間なの?」
「正確に言うと、違います」
「わからないね」
「外部の人間です」
「祭祀に雇われた?」
「いいえ。我々が、彼に近づいていったんです」
「我々って」
「ですから、私は代理人です」
「祭祀の代理人なのか、教団の代理人なのかってことを訊いてるの」
「どちらとも言えます。お互いが同時に望んだことですから。そのタイミングで、我々が、その間を」
「とりもったのね。わかった、わかった」
「今日は、ご挨拶を。今後とも、よろしくお願いします。祭祀さんと、あなたを繋ぐ役目も、私が担っているので。あなたにも許可を出していただけると」
「いいよ」と鳳凰口昌彦は、簡単に返事した。
「よろしくね。あいつは元気なのね」
男は深々とお辞儀をして、退席した。
「なんなの、あれも」
花嫁が介入してきた。
「知り合いが、また、増えたらしいよ」と鳳凰口は笑った。
「あなたの周りは、ずいぶんと変な人がいっぱいいるのね」
「あれはどう見えた?」
「伝書鳩よ」
まあそうだなと鳳凰口は答え、二人は顔を見合わせて笑った。
激原は病室のベッドで、天井をぼんやりと見ながら、式は今ごろ盛り上がっているだろうなと思い、少し歯がゆい想いがした。
激原は一人、悦びの場から取り残されたかのような恰好になったことを、後悔もしていた。
これまでの生き方、やり方で、いいはずがなかった。その現実を思い知らされたかのようだった。何がいけなかったのか。どうしたら自分は、最高の一日を過ごせるのか。そして過ごせたとして、どこにも負荷がかかることなく、こうして後日に崩壊することのない、静寂と至福に満ちた毎日を送ることができるのか。
それこそが、自分の望みのすべてだった。
鳳凰口の建設会社に入り、こうして作業に打ち込むことで、その望みは達成されたかのように見えた。だが実態は、アンバランスなままに突っ走り、挙句の果てにはこのあり様だった。
激原はベッドから起き上がり、腕には点滴の針が刺さったまま、窓から外の様子を見た。季節はいつだろう。時間の感覚が妙になかった。建設の仕事をしているとき、俺は周りの様子は一切見えなくなっていたな。その後で、ちょっとした長い休暇もとったのに。過労は全く回復しなかった。ただ漠然と身体を休ませても、状態は好転することがなかった。しかし一度壊れてしまえば、こうして安らぎに満ちた孤独の世界に存在する。悪くはないなと思った。さっきまでの落ち込みが嘘のように、気持ちはどんどんと明るくなっていった。
不調の底は過ぎたのだろうか。鳥のさえずりが聞こえてきたような気がした。もう春なのかもしれない。そうだ、きっと春だ。激原は窓から見える木々の様子を注意深く見た。しかし枝に葉はなく、まだ冬からの脱皮をしていない寒々しさを、投げかけてきた。まるで自分を見ているようだった。そのときふと、さっきまで見ていた夢のことを思い出した。不思議なものだ。夢を見ている最中には認識がなく、こうして目覚めてから思い出すのだから。どんな夢だったか。激原は遠くの景色に焦点を飛ばしながら、軽いまどろみに入っていった。
そこに自分の肉体はなかった。
激原の意識、肉体を持たず、ある種、そこに浮遊しているようだった。
ここはどこだろう。山々が四方に聳え立っている。そんなに高い山ではない。山脈のようだった。岩が大きく切り剥がれている。トンネルでも彫ろうとしているのだろうか。工事現場のようだった。作業員の姿を、たくさん確認することができる。ヘルメットはしていない。建設の現場ではないようだ。あっと、激原はそのとき声にならない声を上げた。岩は繰りぬかれ、そこに細かい彫刻が施されている。まるで仏像だった。岩はすでにかなり彫られていて、そこには一つの大きな世界が広がっている。一つの仏像を、目的別に、それぞれ制作しているようではなかった。全体で一つの何かを作り上げようとしていた。彫る職人はたくさんいて、みな、沈黙の中で黙々と作業に集中していた。現場監督だろうか。全体を見渡せる大きな岩の上に立って、じっと見ている大柄な男の姿がある。時おり、彼は大きな声を出すが、それもめったになく、だいたいが無言を貫いている。そのあいだも個々の職人は、自分の為すべき仕事が明確にわかっているのだろう。別々の作業を続けている。そんな現場監督らしき男よりも遥か後ろ、高くに引いた場所から、激原はこの丘というか、山全体の連動した作業を見ていた。美しい光景だった。彼らの動きにはまったく淀みがなかった。無駄もなければ、かといって切羽詰まった異様な緊張感もなかった。全体がゆったりとした、それでいて撓んでいない絶妙なバランスの中、職人たちはまさに、その場で寝てしまっているような、それでもエネルギーを、全身から注ぎ込んでいるような、激原は一種の衝撃を受けていた。こんな世界があるのかと思った。
俺の生きていた現実とまるで違った。それでいながら、エネルギーの燃焼度合いは、彼らの方が大きいかもしれなかった。なのにまるで力みがなく、寝ているようでさえある。気持ち良さそうな微睡を、まさに感じているのだ。全体が何の障害もないまま、一つの目的に向かって進んでいっている。
目的か、と激原は思った。そうだ、ここには明確なビジョンのような設計図が存在している。間違いのない意図が、そのビジョンの後ろには聳え立っている。すると今見ているこの光景が、非常に立体的に見えてくる。焦点の絞られた意図が、大きな設計図に光を放ち、その設計図に映し出されたビジョンが、この山全体に彫るべきポイントを指示している。そこに、肉体を持った人間がエネルギーを加え、物質に働きかけ、変形を施し、結果として、仏像を仏教の世界を創造している。
激原は、その美しい人間たちのハーモニーに、見入ってしまっていた。
これなのだと心の中では呟いていた。自分に足りなかったもの。いや、自分が認識していなかった盲点のようなものが今、目の前に現れているような感覚だった。
設計図か。俺にないものは、この設計図だ。俺の意図が投影した、設計図だった。会社が提示する設計図ではない。会社に持ち込まれてくる設計図でもない。俺が投影したい設計図だ。あの現場監督。彼はただ見守り、職人たちがバランスを崩した時に修正を加える、ただそれだけのために、あそこにいるのではない。彼は設計にも携わっている。彼はすでに知っているのだ。この山がどういう形になり、どんな装飾が施され、どんな世界が現出するのかを。あるいは今彼は、そのすでに出来上がっている幻想の世界に、さらにどんな演出を加えていけば、より煌びやかに、厳かに、よりパワフルになるのかを、楽しんで考えているのかもしれなかった。
それもこれも、彼や他の設計に携わった人間の最初の意図が、明確だからこその、遊び心だった。
いったいどれほどの人間が、設計に携わっているのだろう。職人一人一人が、まさかみな関わっているのだろうか。この今見た限りではわからない。激原は、自分がこれから戻っていく世界のことを、すでに考え始めていた。と同時に、自分もあの現場監督の意識と同化して、この世界全体を眺めているような錯覚をも感じた。この存在しないと思いこんでいる意識は、あの現場監督の肉体を拠り所として、本来存在しているものではないか。それがたまたま、この肉体を抜け出し、ずいぶんと空高い地点まで浮き上がってしまったかのような。ということは、俺は、俺はいったいどこにいるのだろう。誰なのだろう。
激原は、自らの肉体の中で、微睡からの回帰を果たした。
病室の窓から遠くを見ている自分を、今という時間の中に落とし込んだ。
俺は変わりたいと思った。本当の意味での、建設会社の社長になりたい。ある意図から、ビジョンを明確に提示し、それを設計図へと落とし込み、できあがる建築計画の数々。俺が鳳凰口建設を、あらたに作り上げていきたい。生み出したいのだと、気づけば激原はこの身に誓っていた。
宗教画家としての生涯を終えるときが来ていた。この人生においては、画家であることから、最後まで外れることができなかった。画家の枠を超えることができなかった。
それもまた、良しとしよう。私は死の床にあっては、この人生全体をゆったりと眺め、それでも、心残りのようなものを感じながら、静かに目を閉じた。
やはり、最後まで、私は国家の社会の枠組みから外れる勇気が持てなかった。
現実的に外れることで、生きていく考えも手段も何の持ち合わせもなかった。
自信以前の問題だった。それでも、あの納屋に捨てられた一枚の絵を忘れることはできなかった。今度生まれ変わったら、誰にどんな扱いをされようが、たとえ食べ物さえ買えなくとも、自分のために、自分のためだけの仕事を可能な限り、続けていこうと思った。そんな人生もまた、良い。私は今とは極端に真逆な世界を思い浮かべることで、この人生における少しの後悔を、慰めようとしていた。そして本当に、あの納屋で見つけた絵は、私自身がそのような別の人生で残した絵のような気がしてきたのだ。あれは他でもない、私が描いたものなのかもしれない。私はあのとき、時空を超えて、別の私自身と出会ったのかもしれない。結局、私は今の画業をずっと続けながら、あのBHに出入りしながら、この社会から逸脱することに躊躇い続けていた。私にとって社会はすべてであり、そこに、富も家族も仕事も生も、すべては存在していた。それを捨てることなど、できるはずもなかった。私の心は、それまでもずっと、孤独だったが、物理的にも、それらに別れを告げ、一人きりになるということは、自殺行為以外の何ものでもなかった。私は怖かったのだ。
BHでは、現実を自ら生み出していくやり方を学んだ。しかし、私は最後まで、実践に踏み切ることができなかった。社会から切り離された私に、いったいどんなパワーを発揮することができるのか。あの絵のように、誰にも相手にされず、打ち捨てられたかように、風雨にさらされるだけだろう。そのイメージが、ずっと抜けなかった。もう少し若かったなら。人生の前半に、BHと出会っていたならと。そう思わずには、いられなかった。この人生をかけ、すべてを組み替えることだって、可能だったはずだ。画家の、まだ見習いのときに。たいして社会的に力を発揮していないときに出会ってさえいれば。今、私は死の床ですべてを理解していた。私がやろうとしていた心の奥底で思っていた画業。そして、宗教への信仰心。それと、この社会全体の意識は、絶対に釣り合わない。絶対に噛み合うことがない。だが、それも、私の思い込みであったのかもしれなかった。私に芽生えた新しい意識もまた、それまで生きていた社会意識もまた、元はまったく同じであり、同じ素材でできていることを知らなかったのだ。世界のすべては同じ要素から成り立っている。だから何も恐れることはなかった。恐れが絵を納屋に置き去りにしていた。あの絵を受け入れてくれる社会などないと、私自身がそう思いこんでいただけなのかもしれなかった。あの絵も、このベッドも、ヴァルボワ国も、ヴァルボワ国の宗教組織も、宗教画も、すべては、同じ要素からできている。同じ要素同士、働きかけのできないことなど、あるだろうか。私自身が違う要素だと思い込んでいただけのことだ。
私は、次に生まれたときには、そういった思い込みをすべて外し、世界はすべて同じ要素でできていることを、心から感じ、その要素を自分で自由に使い、思い通りの人生を歩みたいと思った。そんなふうに、世界に働きかけるのなら、私の望みとは、きっと誰かの望みでもあり、より多くの人の望みでもあり、社会の望みでもあり、この今の私の望みでもあり、あの絵を描いた、もう一人の私の望みでも、あったことであろう。私はすべての私が望んだ存在となり、望まれる、すべての存在になる。しかし、たとえ一人きりになってしまったとしても、それはそれで構わない。
水原は、鳳凰口の入院する病室にいた。
もう明日には、彼は退院するらしかった。入れ違いにならなくてよかったと水原は言った。
「盛大だった?式は」
鳳凰口は見舞いでもらった、リンゴを撫でながら、水原に訊いた。
「派手だった。いかにもあいつらしかったよ。そういえば、激原。お前とはこうして二人きりで話すのは初めてだな。いつも三人以上はいたし、直接、お前と話しをしたことはほとんどなかった」
「前任の社長、鳳凰口の親父さんとは、ずいぶんと懇意だったようで」
「そうだな」
「それからは手を引いたんですね。どうして親父さんに近づいたんですか?あのタイミングで、親父さんは死んでしまった。あなたは、親父さんに個人的に繋がっていたんですよね。そもそも会社が、存続するとは思ってなかったんですね。まあ、過去のことは、もういいですけど。今日は、鳳凰口さんの代わりですか?」
「彼は、新婚旅行に行ったよ」
「ええ。メールが来ました。鳳凰口さんから、頼まれて来たんですよね。彼抜きで、個人的な話があったわけじゃないですよね。僕は、どうも、あなたが、苦手だ。何故でしょう。はっきりと言います。僕はあなたが嫌いです。あなたの行動はどれもこれも純粋に見えない。何か裏があるように映ってしまう。妙なタイミングで来るし、その妙なタイミングというのが、けっしていい意味じゃない。不吉な予告を突きつけにくる、死神のようだ。正直、あなたに来られて、迷惑なんです。来るような気がしたから、できるだけ早く、退院の許可をとりつけたかったに。くそっ。でも、間に合わなかった。親父さんとの縁が切れてから、あなた。今まで何をしていたんですか?」
激原は、リンゴを弄ぶことをやめ、水原の目を睨みつけた。
「大きな仕事としては美術館の建築だよ。そのプロジェクトを発案し、いろいろと資金を集めていた」
激原は、大きく一度頷いた。
「そういう仕事、向いてますよね。ところが、その中身が問題だ。今度は、何ですか?また誰かをけしかけて、唆して」
「ただ、一人の人間、アーティストのために建てる、ミュージアムだ。前例のない」
「何のアーティストですか?」
「別に何でも」
「彫刻でも?」と言って、激原は笑った。
「もちろん」
「実は彫り方を、鳳凰口さんから、伝授されたんです」
「そうなの?」
「ええ。鳳凰口さんも、もう、そんなには彫ってらっしゃらないようですけど。でもやめてはいません。彼が選ばれる可能性もあったわけだ」
「決定の前だったらね」
「僕も、応募ができたわけだ」
「一週間前ならね」
「そんなに最近の話なの?僕が入院したのと、同時期じゃないですか」
「三月十八日」
「まさにその日ですよ」
「応募する気はあった?」
「知っていれば。だって別に、完成した作品を見せろってわけじゃないんでしょ?」
「作品審査はあるよ」
「でも完成品を、たくさん揃えておくって、条件ではないんでしょ?片鱗さえ見せておけば、それでいいんでしょ?可能性をあなたたちは、買うわけでしょ?」
「あなたたちっていうか、俺はいっさい、選考に関係ないけど。自信あったのか?」
「さあ、どうだろう。一週間前なら、確かに、まるで駄目だったでしょうけど。でも今なら、これからなら。なんだかやれそうですよ」
「何があったの?病床でうなされておかしくなったのか?」
「そういうことにしておきましょうか」
「そういえば、顔つきが少し変わったかもな」
「そうですか?」
「自信が漲ってきているような」
「ほんと、ですか?あなたに言われると嬉しいな」
「胡散臭いんだろ?」
「だから、余計に」
水原は、激原の背後を、何故か気にしていた。
「何か吹っ切れたようだな。面白い奴だ」
「あなたと鳳凰口さんって、幼馴染なんですよね。それは。本当なんですか?」
「どういう意味」
「いや、全然、そんなふうには、見えないから。そういう気の許し方を、お互いしているようには見えないから。どこか壁があるというか。それで疑ってるんです。あなたのそのキャラクターも、実に不自然だし。鳳凰口さん、騙されているんじゃないかと思って。彼の親父さんと、同様」
「なんだって?」
「おおっと怒らないで、怒らないで。あなたとは、やり合いをしたくないから。この先、長い付き合いになるかもしれないから」
「なら、答えろよ。俺のどこが胡散臭い?どこが不自然だ?」
「正直言うと、本音を隠してるというか。要するに自分を信じてない。何か仮面のようなもので幅を利かせて、そう、まさに相手を説得させようとしてる。あなたと一緒にいたいとか、何かをやりたいっていう気には、全然ならないわけで。そうでしょ?あなたの周りに、人はあまり寄りつかないでしょ?みんな、感じてるんですよ。危険人物であるということを。百も承知だ。僕はそのことに最初の瞬間から気づいている。あなたに必要以上に、近づかなかったのかもしれない。その美術館のプロジェクトは、あなたが言い出したんですよね。ということは、あなたの思想や哲学、想いのようなものが入ってしまっているわけだ。実に可哀相なものだ。悲劇的な結末が、すでに目の前に浮かび上がってくるようですよ。あなたが自分の意志で起こした行動で、ハッピーな結果を出したことって、あるんですかね。そうそう。もしあったとしても、あなたはずいぶんと、ご自分を捻じ曲げて、自分を押し殺して、いい結果を生み出したにすぎない。その反動は偽りなく、あなたを襲いますね。もうすでに襲われていて、襲われたことも過去の出来事になっていたりして。また、あなたは、新たな悲劇を巻き起こしたいんですか?懲りてくださいよ。あなたみたいな人は、じっとしていればいいんですから。何故、それがわからないんですか?ただ言われたままに、会社に来るオファーの一端を、あなたは担っていれば、それでいいんですから。あなた自身のエネルギーは、極力撒き散らさないでもらいたい。僕の病室も、すでに空気は詰まって、息苦しくなっています。お帰りください。もう二度と、二人きりでは会わないと思いますよ。それじゃあ」
水原は、激原が病み上がりであることを気づかい、これ以上、滞在することを遠慮した。
反論したい気持ちは、少しも起こらなかった。
激原は、この自分という人間の鏡に映った、彼自身を見ていたのだろう。
情緒の不安定になっている彼を、憐れに思いながら、水原は病院を後にした。
俺だって、あいつと反りの合わないことくらい、わかっていたさと水原は呟いた。
けれども、鳳凰口に言われなくても、一度、あの男とは会っておく必要があると思った。
何かに呼ばれているような気がしたのだ。こうして物別れに終わってしまったが、それなりに意味はあったように水原には感じていた。今はまだわからないその理由を、彼はそれ以上、詮索する気にはなれなかった。鳳凰口や他の奴とは明らかに、あの男は異質のような気がした。あの男に秘められた凶暴性が、そう思わせているのか。確かに、破壊願望のようなものが、あの男にはあるような気がする。破滅願望ではない、破壊願望だ。
そう思ったとき、何故かあの男はひどく純粋な心を持っているような気がしてきた。俺らが綺麗ごとにして、片付けてしまおうとするものを、あの男は大事に抱え持っていて、反逆してくる。まるで病原菌のような奴だ。俺らが見過ごしてしまう、その微細な矛盾する感情を、あの男は精妙に捉え、溜め、巨大に積み重なった後で、激しい怒りと共に爆発させる。あの男はそんなエネルギーを生命力へと、書き換えているようでさえあった。
その男が倒れたというのは一体、どういうことなのか。自爆でもしたのか。いや、エネルギーの爆発を終え、ある意味、抜け殻になったことで、何かウイルスの侵入でも許したのだろうか。
この一週間のあいだ、あいつはベッドの上で何を考えていたのだろう。水原は、自分が激原になったつもりで考えた。
何か穏やかな表情はしていた。言葉は荒々しく挑戦的だったのに、身体から発する雰囲気はひどく柔らかかった。腑に落ちることがあったかのような顔だった。辻褄が合うことがあった顔だった。その気づきを得ている最中に、この俺が姿を見せたものだから、イラついていたのだろうか。
それにしても反りが合わないのは、いつになっても解消する気がしない。
鳳凰口や見士沼たちと、これからも関わりがあるのなら、あの男もまた漏れなく付いてくる存在だ。合わないなりに、最適な関係に落とし込まないと、やってられなかった。怒りの矛先が、全面的に俺に向かってこられても、困る。ただあの男には、何か大きな存在の片鱗があった。おそらくそこが、俺と最も違うところなのだろう。あのまま建設会社の社長に収まっていられる器には到底見えない。何かやらかすはずだ。俺にはあの男が身体も含めた巨人に見えることがあった。能力的には劣るかもしれないが、破壊力だけを見たら、到底、人間離れしている。あいつは自然の力を、それも、良からぬ嵐や雷といったそういう存在に、バックアップされているのではないか。彼自身がそこに気づいていないため、そのバックの存在は、全面的に力を貸そうとはしない。それどころか、事あるごとに、それらのバックの存在に、彼自身の平穏が脅かされる。脅かされ、翻弄されてきた、これまでの人生だったのかもしれない。
しかし、あの穏やかな彼の表情を、俺は見た。
気づいたのではないか。彼には今後のビジョンが見えたのではないか。未来の光景が現れたのではないか。未来の方向性が決まったその課程で、彼の背後についている存在に、気づいた。それを思い通りに操り、今度は自分がそれらのバックにつこうとしているのではなかろうか。だとしたら、超大なエネルギーの転換が起こる。まさに彼が巨人として再生する。
ふと、水原は、激原が今の激原として、その存在を確認する最後の機会に、立ち合ったのではないかと思った。そのために、自分はあいつに会いにいったのではないか。ある意味、最後の激原の姿を目撃するために、俺は遣わされのではないか。まさに変わり目に。これだけ文句を言われることも、運命ではすでに決められていて、そのあとでこうして俺にも気づきを促すようにした。何かが大きく変わり始めているのがわかった。
それは激原を起点とした、何かではなかった。起点はあいつになりそうにない。あいつも一つの現象なのだろうと思った。鳳凰口が起点というわけでもなさそうだった。俺でもない。もっと大きな何かの存在だった。その大元のエネルギーが、激原の意識を劇的に変え、自身と背後の存在を入れ替えてしまっていた。入れ替わろうといる。俺はどうなのだろう。俺は、背後にいったい何の存在があるのだろう。あいつのように、激しい自然現象を巻き起こすような何かが、いるのだろうか。そうには思えない。
俺は激原ではない。激原は俺のことを虫けらのような扱いにした。そうなのだ。あいつにしてみれば、俺など、そのへんをうろちょろする、ネズミのような存在だ。そんなふうにあいつは俺を見た。確かに大きさでは、あいつにはかなわない。エネルギーの総量でもかなわない。しかしあいつにはない別の能力がある。そうだ。あいつも、俺を嫌っていたじゃないか。俺もあいつが嫌いだった。まったくの正反対の対極にある要素が、俺らにはあるんじゃないだろうか。ということは、あいつの背後を見れば見る程、俺という存在も、また鮮明になっていくのでないだろうか。巨大で、激しい、自然エネルギー、その逆だ。小さくて、人工的で、穏やかな波のような存在。対立する者同士の潤滑油のような存在。意図的に、大きな存在を、この世の、この世界に合うサイズにして、合う形態にして嵌めこむ。落としどころを探る。そんな存在なのではないか。
だからあいつは、俺のことを胡散臭いだとか、そんな表現をしたのかもしれなかった。
あいつもまた、自分にはない能力を、俺の背後に、見たのかもしれなかった。
あの男と会って、悪いことは何もないようだった。得られる能力ばかりだった。定期的に会いたいとさえ、思い始めていた。俺の背後をより明らかにする、最適な人物を見つけたような気がした。
「縦と横の統一が、一番のポイントだ」
闇の中、自分の肉体の輪郭が、はっきりしない世界において、その暗闇が言葉を発したかのようだった。
「どっちのラインが、初めに強く開発されるのか。それは運命だ。選択の余地はない。しかしいずれは皆、統一への道へと進む。縦のラインが強力に開発され、すでに何の努力もないままに、そのラインは出来てしまい、今は横のラインの開発に、意識を絞っていることもある。横のラインが、次第に完全になっていくにつれて、縦のラインとの融合をしていく感覚を得ることだろう。そう感じたときから、融合は加速していく。
なぜなら本来、地空間には縦も横もないのだから。初めの認識として、分かれていただけだ。そう、認識として。認識というのは、そんなふうに、分けることが得意だ。分けることで、互いの存在を確認しようとする。だが、認識してしまえば、それはまったくの別物ではなくなる。同じものだ。同じだという感覚を得たとき、その縦横ラインは姿を消す。だが今はまだだ。やっと縦と横のラインを認識したのだ。まさにこれからだ。縦というのは天と地のことだ。天と地をつなぐ、エネルギーの回路のことだ。横というのは、地における存在と存在を繋ぐエネルギーのことだ。どちらかが先に、発達することになる。そしてその回路を、完全に安定したものにしたとき、もう一方のラインの存在を確認する。
つまりは、無意識かもしれないが、先に現れたライン、それを完全にモノにするとき、もう一方のラインに気づくことになる。そしてそのラインの開発を、今度は意図的にする必要性を感じる。二番目のラインを強力にしていこうとすればするほど、第一のラインもまた強固になっていく。確定する。縦と横のエネルギーは、次第に融合していき、いずれは縦も横もなくなっていく。この三次元の現実に、縛られることはなくなる」
激原は、闇が語る言葉に耳を澄ませた。幻聴ではなかった。水原と会った夜、入院最終日の夜に、病室は停電してしまった。建物は強い風雨に晒され、電線に異常が発生してしまったのだろう。夜が明け、この自分の肉体の輪郭を取り戻すにつれて、この幻聴も消えてなくなることはわかっていた。輪郭を感じるのか感じないかで、五感は驚くほど、変化する。
激原は、目を閉じたつもりになったが、それもまたあやふやであった。
あるかもしれない耳に、意識を集中するが、声は聞こえてはこない。耳という輪郭を意識してしまったからだと、彼は思った。この暗闇全体が一つの耳でもあるという体感へと、意識を移っていく。声はそれでも聞こえてはこない。何かの波長が偶然合ったことで届いた、幻であるらしかった。続きは想像に頼るしかないと思った。縦のラインだとか、横のラインだとか、よくわからないことを言っていたが、要は、この世の物理法則なのだろうと思った。確かに俺は、建造の作業をしているとき、極度のトランス状態に陥っていたが、おそらくあれが、縦のラインを繋いでいるのだろうと思った。空の彼方と、俺はひとつになっているようだった。この肉体そのものが、地球を超え、宇宙のいくつかの星と、直接関係を結んでいるかのような、今思えば、そんな感覚だった。その強烈なエネルギーをこの全身で浴び、そしてそれまでに、自分の身体に溜まりに溜まったエネルギーを、宇宙の星に向かって放出する。彼らもまた、そのようなエネルギーを欲し、要求しているのかもしれなかった。エネルギーの激しい交換をしていた。そしてそのトランス状態から、この世界へと戻ってくる。
確かに、それはそれで、また急激な着陸をしているようだった。身体にかかる負担も、相当なものなのかもしれなかった。その影響が、今こうして出ているのかもしれなかった。縦のラインだけしか、俺にはないのかもしれなかった。横のラインを意識し、意図的に開拓する必要が、あるのかもしれなかった。
そう思ったとき、激原には、昼間ここに居た、ある男の姿が蘇ってきた。
闇の中で、彼は微笑んでいるようだった。横のラインか。あの男は、そのラインに、深く関係している奴なのかもしれなかった。そのラインが今、俺の中に確立していないものだから、それを持っているあの男の雰囲気を、ひどく拒絶したのかもしれなかった。
水原永輝。いや、それにしても、あの男はひどく嫌いだった。
あの企画書は、すべて出鱈目だった。画家であると自称しただけでなく、すでに作品も所有していること。今後の制作の予定。方向性。全体のビジョン。すべて思いつきだった。
俺は何としても生涯食べていくのに困らない情況が欲しかった。風雨を凌げる安全な屋根のある家がほしかった。会社に就職する気もなかったし、アルバイトをする気にもなれなかった。大学も何年留年していることか。そんなときに広告が目に入ったのだ。
一瞬でコレだと思った。こんなおいしい話が、他にあるわけがないと思った。しかも完成した作品、すでに世に出した作品の全てを、審査し、選考するということでは、一切ないのだという。応募資格に、専門性はがなかっまったく問われない。俺は絵など、真剣に見たことすらなかった。美術にもまた全然、興味た。けれどもこの募集要項はおいしすぎる。確かに俺が、選考に通る見込みは万に一つない。今のところ。しかし選考委員に、俺がその該当者であると思わせることはできないものか。決まってしまえば、こっちのものだ。不思議と自信がなくもない。その日以来、俺はもっともらしい履歴書をこしらえるため、日々、意識の片隅に、その選ばれしアーティストが自分であるという妄想を色濃くさせていった。
それでもまさか、自分が選ばれるとは。電話では、何度も聞きかえしてしまった。本当に俺でいいのか。大丈夫なのか。その瞬間から、背筋はずっと冷たいままになった。やっと、事の重大さに気づいたのだ。俺のために何千億という金が動いている。今さら、絵など描いたこともないと前言を撤回するようなことはできない。ならば、どんなひどい絵を描こうが、画家であることを貫くしかない。
俺はどんな画材が必要なのかも知らなかった。
それも、もうヤケクソで適当に仕上げていったらいいとさえ思った。真剣にキャンバスと向き合うことなど、できそうにはなかった。あまりに退屈な作業だった。画家という人間を、心底、尊敬し始めた。こんなことにエネルギーを費やすなど、疲れるだけだ。見る人を感動させることのできる絵など、そもそも今現在、現実に存在しているのだろうか。そんな絵があったら、是非見て見たいものだった。なるほど。描く前にまずは見ることか。とりあえず、東京で開かれている展覧会にすべて行った。さらには地方の美術館にも、足を延ばした。海外はどうだろう。この自分は、巨大な自前の美術館を持つことができるのだ。経費は使いたい放題だろう。あらゆる絵を見てやろうじゃないか。描くのはそれからでも遅くはない。もう一度、俺は提出した企画書を読み直してみた。ずいぶんな、大風呂敷を広げている。とても自分が書いたものには思えない。恥ずかしいだけでなく、よくこんなことが思いついたなと、ある種、代筆を誰かに頼んだかのような、気持ちにもなった。確かに、この募集要項と出会い、下書きを始め、実際に提出するまでの二週間、そのときの記憶を今、鮮明に思い出すことはできない。
ふと、これでいいのではないかと思った。こうなることがさだめだったのではないか。
もしかすると、本当に画家なのではないか。画家になるために生まれてきたのではないか。これまでその運命に触れることがなかった。だがこうして突然、目の前に現れ、何の躊躇もなく行動し、あっというまに結果までついて来ている。あとで調べてみると、このオーディション、コンテストには、国内外から錚々たる名前が挑戦しているのを知った。その中でどうして、俺が選ばれているのだろう。まったくもって、理解することができなかった。まだ公の発表は、これからだが、いったいどんな顔で出て行けばいいのか。どんな発言をすればいいのか。すでに人の目も気になっていた。急に不安になってきた。
しかしそれでも、選んだ方にも、責任はあるさとケイロは開き直った。
「ケイロさんの電話で、よかったですよね。水原です。ミュージアムのことで、今後のお話が」
「ああ、ええ。ケイロです。初めまして」
「大学生でよろしかったですね」
「経済学部です」
「それで契約書の方を、お送りしましたので、読んで精査してみてください。来週の火曜日はいかがですか?ホテルでお会いしましょう。そのときに契約書に判を押して、それでいいですかね。急な話で申し訳ないです」
「あの、公に発表するのは、いつですか?」
「記者会見ということでしょうか」
「はい」
「特に予定はしてませんでしたが、そうですね。やっぱり。やったほうがいいですよね?」
「いえ、別に、そんなことは」
「顔を出したくないですか?公に出るのは、作品だけが、よろしいですか?あなたのやりたいように、やってください」
「もう一度、訊きますけど」とケイロは、控え気味な声で言った。「本当に俺でいいんですね?どんな選考をなさったのかは、わかりませんが、本当に俺で間違いないんですね?もしよかったら、その中身を、教えていただけませんか?」
「間違うはずもありません。あなたです。あなたでいいんです。わかります。恐れが沸いてきてる、あなたのその気持ち。わかります。当然です。あなたに期待されていることは、非常に大きいから。またこんなことを言うと、プレッシャーに感じるかもしれませんが、本当のことなので。でも、あなたは大丈夫です。プレッシャーだとか人目だとか、そんなものにいちいち影響される、人間じゃないから。実はそこが、最も選考するときの基準になったことでしてね。あなたにだけあるもの。あなたにだけ、強烈にあるもの。あなたには、強力な武器があるんです。それですよ、まさに。今回、応募者に、どれほどの才能や技量があるのかということは、実は、あまり審査の対象にはなっていないんです。経歴とか実績とか、びっしりと凄い感じで、書いてきた人ばかりでしたが、これも、まったく読まれてはいない。我々の求めているものを、勘違いなさっている人ばかりで。ですので、あなたはそのようなことはないようですが、まったく美術を知らない、制作をしたことのない人であったとしても、選ぶ可能性はあったわけです。あなたにだけは多少はネタばらしをしてしまいますが、基準はたったの一つだった。それに照らし合わせたときに、強烈な光を放っている人物。あなたしかいませんでしたよ。何の迷いもなかった。おそらくこの美術館建設のプロジェクトが発案された瞬間に、もうあなたに決まっていたのでしょう。何も心配はいりません。あ、そうそう、美術館の建設の着工は、もう来月です。四月十三日。おそらくは三年はかかるかもしれません。なのでは展覧会を開くにしろ、作品を所蔵するにしろ、いくらあなたが望んでも、今年の実現はありません。違う形で仮の展覧会は開くことは、もちろんできます。それに合わせてはあなたを公にお披露目するということはできます。あ、いいですね、それ。そうしましょうか。それなら年内に、いや、来月にでも可能です。どうですか。今、制作はしてらっしゃるんですか?」
ケイロの背中に汗が流れた。
「今はしていません、はい。美術館巡りをしてまして。いろいろと刺激のほうを」
「そうですか。わかりました。では来月の開催は不可能ですね」
「いやっ」とケイロは、反射的に答えた。「大丈夫です」
自分でも驚いた。
「どれくらいまとまった数の絵があれば、開けるんですか?」
ケイロは、電話相手の水原に訊いた。
「五十枚か。それに近い数があれば」
「オッケーです」
「ほんとですか?」
「はい。是非、やらせてください!」
驚きは通り過ぎ、諦めにも似た気持ちが沸いてきた。
「いけると思います」
「もしかして、もう相当数のストックが、あったりとか」
「今はありません」
「これから一か月でそんな数を?」
「可能です」
「焦る必要はないですよ。今は選ばれて気持ちが昂ぶっているようですから」
そうじゃないんだと、ケイロは小さな声で呟いた。
「やらせてください」
試したい気持ちがあった。こんなことでも、出来ないようなら、俺は間違った該当者になっている。それを、証明したい気持ちが半分、もう一方では、もしかしたら、ここに自分の道が開けているのではないかと、期待する自分もいた。
一か月前に、オイシイ話だと飛びついた、あのときの浮ついた気持ちは、今はどこにもなかった。
私はまだ生きていた。寿命が尽きるであろうと感じていた日付からは、すでにどれだけ経ったのか。私は自宅のベッドの上で、寝たきりの生活を送っていた。私の感覚では審判の日からは、すでに一週間が過ぎている。死にきれない私の意識は、次第に寝ていることに飽きていった。街に出て散歩しようと思った。弱り切っていた足腰を振い起させ、久しぶりに工房まで歩いていこうと思った。一か月前には病院にいた。昏睡状態も経験し、そのときは工房の職人たちが、私の最期を看取るためにやってきた。私は持ち直し、家族のいる家へと移された。思い返せば、一か月以上も死にきれないでいる。
私は、ヴァルボワ国の、今の情報を入手するため、情報通の旧友たちを訪問しようと思い、工房から行き先を変更した。突然生きている私が、しかも、ぴんぴんとして歩いてきたものだから、彼らはひどく驚いた。ほとんど歳も同じなドートも、また驚いた。しかし驚いたのは私の方だった。ヴァルボワ国は大変な激変期にあったのだ。そうとは知らず、私はベッドの上で茫漠とした数日を過ごしていた。時代の変り目に、私たちは立ち合っていたのだ。死んでる場合ではなかった。ドートが言うには、ヴァルボワ国もまた、周辺諸国と同じように、君主制への移行が避けられなくなっているらしかった。彼は政治経済の情報に大変詳しかった。彼自身も銀行業を営んでいた。
「これまでだって、君主制のようなもの、だったじゃないか」と私は言った。
「いいや、そんなことはない。起業家や職人たちの自治で、この国は成り立っていた」
「表向きは」
ドートは口を噤んだ。それ以上は、その話を深入りさせたくないらしかった。
「そうだな。自治で成り立っていたよ」私は同調した。
「対外的に、より強力な国家の整備が、必要になった」
「国内の問題じゃないんだな」
「そう。あくまで外の問題だ。じゃないと、どこかの国に乗っ取られる。滅ぼされるか、奴隷国家にさせられる」
「なるほど。で、誰が君主に?」
「金持ちだ。国際的な銀行業を営んでいる家がある。彼らが有力だ」
「お前のところか?」
「ウチじゃない。ウチはヴァルボワ内での業務が専門だ。職人たちの自治と同じレベルだ」
「じゃあ、君主制になったら、お前のところも、だいぶん力がなくなるわけか」
「一極に、富と権力を集中させねば、外とは戦えん。そういった認識は、すでに職人の組合の中でも湧き起こっている。国の外を見てきている商人たちが、彼らに話をして、彼らもまた敏感に反応している」
「ほんとなんだな」
「時代だよ」
ドートとの会話を皮切りに、私は私なりの情報網から、あらゆる材料を集めていった。
確かにドートのいうように、マリキという国際銀行業を営む家が、今君主になるべく工作を国中でしかけていた。彼らに同調する勢力が、徐々に増加しているという情況だった。彼らが表舞台に現れるのは、時間の問題だと思った。すでに国民の意識は、彼らを望む機運になっていた。問題なのは私の命が持つのかということだ。マリキ家が台頭するときに、その光景を私は見届けることができるのかということだ。
私は散歩を続けながら、思考を整理した。そのとき病院の医師にばったりと会った。彼は私の姿に絶句していた。呼吸困難に陥り、今夜が峠だという場面に立ち合っていた医師だった。初め、幽霊でも見たかのように目を伏せ、私の横を足早に通りすぎようとした。私は声をかけた。彼はびくっと体を震わせながら、裏返った声を出した。
「お久しぶりです、先生」
私から声をかけた。
「お化けじゃないですよ。こうして今も元気で、余生を暮らしてますから。少し寿命が延びたようです。まだ死ねない何かが残っていたようです」
「あ、ああ。そ、そう、なんだ・・・」
医師は、頭をなかなか上げなかった。
「生きかえったわけではないので、ご安心を」
「いや、別に、いいんだ」と医師は、意味不明な言葉を発して去っていった。
ずっと以前から、ヴァルボワ国の自治は見せかけにすぎないと思っていた節が、私にはあった。しかしこう見ていくと、少し過剰に私は思い込んでいたのかもしれなかった。確かに自治に近い形での、国の運営がなされてはいた。職人たちが作る商品は、ヴァルボワ国の宗教建築や美術品として納品されるだけでなく、海外に売ってもいて、その業務に銀行家も深く関わっていた。じょじょに彼らは力をつけていき、今表舞台へと現れようとしていた。
私はその後、さらに二か月、生を延長することができた。よって、マリキ家が正式に政治の頂点に駆け上がる様子を見られたし、さらにはあれほど強固だった職人の組合が、ほころびをみせる最初の瞬間にも、立ち合うことができた。マリキ家は、組合とはまったく関係のないところで、専属の画家や建築家、彫刻家を持つことになった。そして彼らはマリキ家の要求する仕事を、忠実にこなしていった。だが事はそれだけでは終わらなかった。
彼ら芸術家は、マリキ家の要求とは関係のないところで、自分の好きなように制作をしていた。マリキ家の莫大な富をバックに、彼ら芸術家は、自分のしたい表現を存分にし始め、マリキ家の発注する作品を制作し、マリキ家がその作品に満足をし続けられる限り、芸術家はほとんどの時間を、自分のために使うことができた。そしてその費用を、マリキ家に請け負わせることができた。生活も職人たちとは比べ物にならないほどに裕福になった。だが誰でもなれるわけではなく、厳正なる審査があり、ほとんど天才レベルの職人しか、マリキ家と専属契約を結ぶことはできなかった。
しかし一度、一人そのような人間がでてくると、職人の組合の中には驚くほど才能のある人間がいた。彼らはこれまで決められた仕事しかしてなかったために、まるでそんな能力があるとは自分でも知らなかった。しかしマリキ家が表に現れ、公に専属契約を告知すると、彼らはみな大金欲しさにその職を求め始めた。そしてその中には、独創性を発揮したくて、自分の表現をしたくてたまらなかった連中も、当然ながら存在していた。才能と意欲の格段に高い人間たちが、マリキ家お抱えの芸術家として、新しい時代を切り開いていくことになった。
私は少し羨ましかった。ほんの少し後ろの時代に生まれてくればよかったとさえ思った。
私がずっと思い悩んできたこと。特に、この晩年に発生したその葛藤が、解消できそうなそんな流れが、今やってきていたのだ。若かったらと、私はそう思わずにはいられなかった。私は再び体調が悪化し、ベッドから起きられなくなってしまった。一人息子を呼んだ。彼もまた私の工房で働く職人の一人だった。
「どうだ調子は?」
私と息子は、普段からあまり話をする間柄ではなかった。仕事を通じて、師弟のような関係でもあったので、画業を通じて、意思疎通を計るという繰り返しだった。しかし我々の画業は、このヴァルボワ国の自治政治と宗教観に、しっかりと嵌められていたため、その縛りの中での会話しか、成り立つことはなかった。そう思うと哀しくなった。我々の自治政治を維持するため、自ら制限をかけていた、そんな人生のような気がしたからだ。
「お前にはそうなってもらいたくない」と私は息子に言った。息子の表情はさえなかった。
「お前も応募してみたらどうだ?」
返答は思わしくなかった。淡を絡ませ、彼はせき込んでしまった。
「金持ちになれるぞ。応募するだけ応募してみろ。しないで後悔するよりは、よっぽどいい。俺がお前の年齢なら、喜々としてチャレンジするぞ。願ってもないチャンスだ。父さんはこのまま死にたくないくらいだ。もう一度、人生のすべてをかけて、状況を変えたいから」
「そんなふうに、俺の周りの奴らも、言ってるよ」
「な、そうだろ?」
「うんざりなんだよ」
「えっ。なんだって?」
「そういうのは、本当にうんざりだって言ったんだ」
「もういっぺん言ってみろ」
「何度だって言うぞ」
「どうしてそんなことを。ならお前、俺と入れ替われよ。お前の方が老人みたいだぞ。何の意欲もなく、明日にも死んでしまいそうだぞ」
そう言ったとき、私の身体の深い部分が妙に疼いた。消えてしまう寸前だった灯が、また発火してきたかのようだった。ベッドから起き上がり、散歩ができそうな気持になってきた。
「お前がいらないのなら、俺によこすんだ」と私は言い続けた。
そのときにはすでに、息子の表情など、どうでもよくなっていた。彼の心情を察する余裕など、なくなっていた。
私は息子を攻め立てるように、彼の消極性をなじり、それに連動して、自分の生きる力を盛り替えそうとしていた。もうとっくに、寿命の尽きている身体に、鞭を入れるよう、激しくエネルギーを地の底から、呼び起こして、目の前の空間にぶちまけていた。
私をもう少し長く、この世に存在させてほしいといった欲望からは、さらに飛躍し、もう一度、これまで生きてきた人生に匹敵する長さの、時間と場所を、獲得したいという、極限の祈りにまで、昇華していたのを、息子のいなくなった部屋で自覚していた。
その提出した書類をかいているときだった。ケイロの頭の中では、無数の声なき声が、鳴り響いていた。そこには、死の床で発狂する父親の画家が居て、それを看取る息子の画家の姿。さらには、この父親の画家が、生前、想いを寄せていたという、納屋に打ち捨てられた絵を描いた、名もない画家の姿。彼らの嘆き悲しむ声が、ケイロの肌の奥から聞こえてきているようだった。彼らがこの自分と一体になろうとしていることを、ケイロは悟った。
いったい、誰なのだろうと思う。しかし、ケイロは、その嘆きたちを受け入れることができなかった。身体は拒絶していた。彼らの声は凄まじく、それでいて、どの声もまた決して、他と混じり合うことのできない哀しみに、彩られていたからだ。そんなものを俺一人に押し付けてくるのか?考えられなかった。なぜ、自分ひとりで、解放することができなかったのか。俺に何を頼ろうとしているのか。そんなものを受け入れてしまえば、俺はそれぞれのエネルギーが身体に入ってきて、矛盾を起こし、カオス状態になってしまうことだろう。そんな人生でいいわけがなかった。
ケイロは必至で抵抗した。それらの声を存在しないものとして、捉えようとした。だが、そうすればするほど、彼らは、自分に近い存在へとなっていく。ならばと、開き直り、受け入れてしまおう。同化してしまおうとする。が、そんな恐ろしいことはできない。俺を廃人にしようとしているのか。ケイロは必至で問いかけた。
しかし、答えは返ってはこない。まるで、こちらの声には応えようとしない。
自分らの主張を、これでもかと、繰り返すだけだった。わかった。せめて一人ずつにしてくれと彼は呟いた。すると、願いは聞き入れられた。一人の声が、実にクリアに実体を持ってやってきた。それはまるで自分の声のようでさえあった。
自分の心の中での一人ごとのように、響いてくる。死の床で発狂した画家の男は、息子に果たせぬ想いを託したが、彼はまったく異なる思想を持っていたため、死の直前に交わした会話で、全面否定され、拒絶された。それが、この世での最期だった。時代は変わったのだ。その変り目に立ち合いたかったのだ。息子はこれから、その変り目で新しい人生を展開するチャンスがあった。そのチャンス、は俺が欲しかったものだ。どうしてこう、タイミングは絶妙にズレるのだろう?彼の実態は消えていった。
息子の画家という男が、会話を引き継いだ。父の気持ちはわかると、彼は言った。そして自分もまた、ある面では、そのようにしたいのだとも語った。父の想いと重なる部分はあった。そこを生きたいという自分もいた。でも今の状態で、それを実行してしまえば、不幸になるだけだ。自分には解消しておかなければならない心の問題があった。二つの矛盾する想いを、抱えたまま、世の中に大きく出てしまってはいけなかった。よくない影響、よくないエネルギーを、撒き散らしてしまうことになる。それが俺には怖かった。ならば、これまで通りに、工房職人として働いている方がマシだ。今は、その時期じゃない。ケイロは答えた。ならば、そのことをちゃんと、お父さんに話したらよかったのに。それなら、安らかな最期になったんじゃないのか。どうして、そうはしなかったのか。男は、百も承知だと言った。そして、驚くべきことに、父を最後に発狂させるのが、自分の役目だとも言ったのだ。
ケイロには理解できなかった。親をそのように貶める子供を、どんな気持ちで眺めればいいのか戸惑った。しかし、男は撤回する様子もなく、父の望みを、自分は叶えてやったのだと主張した。父は安らかな最期など、期待してなかった。もしそうなら、とっくに死んでいたはずだ。死ぬべき「トキ」を、わざわざ延長したのは、この俺に、何かを言い残したかったからじゃなかった。俺に自分を発狂させるよう、仕向けたかったからだ。あなたにはわからないだろう。あなたは他人だから。あなたは、だいぶん離れた場所に、いるから。あなたとは、心も到底、交わり合わせることができない。あなたには、何もわからない。ただ、声だけは、届けることができる。こんな親子がいたということを。忘れないでほしい。あなたに原因があるのだから。ケイロはそんなふうに、身に覚えのない責められ方をされたのは、初めてのことだった。到底受け入れられないよと、ケイロは呟いた。父はあれでよかったのです。むしろ、僕は、最大の親孝行をした。褒められるべき存在だ。あなたのためであった。そう、これは、僕自身の意志では、まったくなかった。ただの情況がつくり出した茶番だ。情況がそれを実現させるために必要な役者を、呼び寄せた。僕自身の人生は、これからある。確かにそれは父の言うとおりだ。しかし僕は、父の想いを受け止め、引きずるつもりは全くない。すると意識は、納屋に打ち捨てられた唯一の絵を描いた画家へと突然移る。しかし、声はあいかわらず、その工房画家の息子から、変わることはなかった。あの男はと、声は言った。あの男は、この世の仮初めのルールに拘りすぎた。そこでの勝利に拘りすぎた。だから、敗北した。そのルールは、設計者が自ら勝つように組んだ、ルールだ。時代と社会と設計者が、グルになって作ったワナだ。その男は、そのワナに拘りすぎた。勝つことは到底できない闘いから、抜ける出ることができなかった。抜け出ようとも思わなかった。彼はますますハマっていった。彼はね、自分の絵が社会の人々には受け入れられないことを、良く知っていた。時代の精神の推移に敏感だったから。彼のやりたいことを、社会意識は拒絶することも知っていた。でも、彼はやりたかった。やりたいと願い、やれると信じれば信じるほど、画業を成立させる社会の基盤と、ズレていくその自分の存在の後ろめたさを、急上昇させていった。まったくもって、不幸な男だ。君が工房作家をやめられない理由だなと、ケイロは言った。どうして人間を信じてやれなかった?人間そのものを信じてやれなかった?一人の人間のことを考えてやれなかった?
ケイロは、声の主がまるで納屋に打ち捨てられた、絵の作者であるかのように、その声に向かって語りかけた。その画家は、社会意識から逸脱していた。
その当時の人々の多くは、逸脱したい気持ちを持っていた。自分らしく、自然と宇宙と調和した、自身を取り戻したかった。画家もまたそうだった。彼は、その意識を鮮烈に持っていた。いちはやく、絵に表現したのだろう。なのに、彼は、そんな行き詰った社会の意識に、また合わせようとしてしまったのだ。うまくいくわけがなかった。心を病んでしまって当然だった。自らが自らの行為を拒絶してしまっているのだ。彼は誰に拒絶されたわけでもなかった。ただ、自分に否定されただけだった。人間一人一人に、本来眠っているはずの本来の完成。なぜそこに、訴えかけなかったのだろう。いや、訴える必要もない。自ら貫いていけば良いだけだった。彼は過ちを犯したのだ。そうだろ?
ケイロは、声の主に迫った。
工房で働き続けた君の父は、その自分の生きていない想いを、生きたもう一人の画家に、満たされない自分の気持ちをすべて、投影していた。でも、彼のようには生きられない、自分もまた知っていた。そして、彼のような画家が、どう社会に適合していくのか。解決策をまったくもって見い出せないこともまた、知っていた。ケイロは言った。ところが、そんな納屋の画家でも、生きる術が存在するかもしれない時代になったことを、君のお父さんは君に伝えた。君はそのような人生を望んではいないんだな。あなたは知っていると、声は言った。あなたはすべてを知っている。あなたがすべての原因なのだから。すべては、あなたから始まっているのだから。あなたが作った、あなたが思い描いた舞台、戯曲に、我々はすべて吸い寄せられているだけなのだから。そして今も、吸い寄せられ続けている・・・。あなたがすべてを知っている。あなたの行動に、すべての起源が埋め込まれているのだから・・・。
声は消え、静寂のなか、放心状態を続けたケイロに、視界が戻ってきた。
目の前には、アーティスト募集に提出する書類が、出来上がっていた。
第三部 第七編 幻影のピラミッド
その、バラバラになった男の死体を、女は見下ろし、見つめていた。
今がいったい、深夜の何時なのか。なぜ死んでいる男を、こうして眺めているのか。女は何もわからなかった。ただ、この自分の手で殺めたわけではないことはわかっていた。
身体に残った残虐な行為の跡は、何もなかった。感触がまったく存在してなかった。女は少し安心した。男の顔に見覚えはなかった。まだ年齢は若そうだった。一見するだけで、男が死んでいるのがわかる。顔の血色はあまりによく、今にも自力で立ち上がりそうだった。しかし身体はきれいに切断されている。今はまだ、ほとんどくっついているかのように、近くに置かれている。月光の下では、本当によく近づいてみたいことには、切り離されているようには見えない。
見下ろした状態から、すでに、一分以上は経過していた。だんだんと、切り離された境界線同士の幅が広くなっている。肉眼で見るかぎりでは、ほとんど違いはわからないが、それは明らかに離れているように感じる。そして、時間が経てば経つほどに、距離は伸びていく。夜が明ける頃には、あまりに遠くに分断されてしまうだろう。二度と混じり合わない肉体同士になってしまう。一体、誰がこんなことをしたのか。目的がわからなかった。
そして何故、誰の手も加わってないのに、距離は広がっているのだろう。
ふと女は思った。バラバラにしたのは、コイツなんじゃないか。コイツが自ら切り刻んだんじゃないのか。自殺ということか。この場には、私以外の誰かが、いたような気配はなかった。私が殺したのではないとすると、考えられるのは、自分で切り刻んだ以外に考えられない。しかし、そうなると、死んでからでは遅い。彼は生きているときに、自らの肉体を傷つけて、切り離した。痛みを感じないような、工夫をしたのだろう。何か瞬間的に切り離すような技術を持っていたと考えられる。男は誰かから、この技術を会得した。ラインマーカーを引くかのごとく、自らの肉体に切れ目を入れる。すべての切れ目が書き終わったとき、肉体は瞬間的に、一気に分離独立する。痛みはない。男は気を失う。私はいつ現れたのだろう。ほんの入れ違いだったのか。すれ違いというか・・・。
女はあらためて男を見る。そんな経緯など、すでにどうでもよかった。このあと、自分は、この死体とどう向き合うのか。放っておいてはありえない距離にまで、遠ざかっていく肉体を、ただ見ているだけなのだろうか。観察するためだけに、ここにいるのか。わからなかった。女はしゃがみこみ、分離し始めた胴体と、右腕の境目を消すため、両方を近づけて重ね合わせた。その瞬間、強烈な痛みを自分の右肩に感じた。痛みは引かなかった。女は分離した状態へと男を戻した。痛みはなくなる。触れることはできない。いったいどうしたらいいのか。女は男を元に戻してくれと、月に叫んだ。男は何故、自らの身体を切り刻んだのか。その理由がわかれば、元に戻せるのではないかと思った。まだあるはずの男の心の中に入っていった。夜が明ければ、男の心もまた、粉々に分解されてしまい、ここにはなくなる。男の心を知りたい。そして元に繋ぎ合わせたい。
陰西カスミの目の前には、水原永輝が居ることに驚いた。ここは研究室だった。
「どうしたんですか?」
水原は、陰西カスミの手を握りながら、心配そうな表情をしていた。
「大丈夫。私は分解しないから。だから、離して」
「分解?ああ、実験のことですね。木端微塵になってしまったビーカーと、その中身のことだね」
「体よ!いいから離して。お願い。ちょっと夢を見てたみたい」
「夢?夢ってあなた。全然寝てませんでしたよ。ずっと僕と話していたじゃないですか」
「そうなの?何をしゃべってた?」
「あなたの研究のことですよ。13年前の、雑誌に掲載されていた記事の内容と、あなたのこれまでの研究の意味を、結びつける内容のことを、延々と語っていましたよ。その、何でしたっけ?誰も寄りつかなくなってしまった更地のことですよ。そこだけを避けるように、街の開発ラッシュが、続いていくにつれ、ますます上空の気流が、おかしくなっていったって話。霧が発生したとき、その霧は、その空白の地帯に、集中していった。濃霧は、その場所で起こり、いつまでも去ることはなかった。人々が忌み嫌う、そのエネルギーが、ますます、その物理表現をとるかのごとく、重なっていった。白い闇のように」
「そんなことを?」
「そうですよ。それで。その濃霧の奥には、何かが隠されていた。濃霧は、その何かを隠すシートのように張られていた。その中身の正体を、知っている人がいると、雑誌であなたは、答えていた。14年前に。いや、13年前でしたか。でも、それは、張ったりだった。あなたは何も掴んではいなかった。でも、確信はあった。あったからこそ、それを証明するために、躍起になって研究を続けた。あなたは、誰も注目すらしていない、あなた自身の発言に、縛られていった」
「縛られてなんかいない」
「そう言ったんですよ。だから、解放されたいって」
「私が?」
「そうですって。あなたが、何かを知ってるんじゃないかって。僕に期待までかけ始めた。狂ってますよ。だいたい、その濃霧が、極度に濃くなった場所って、どこにあるんですか?霧がずっと晴れることのない場所って、どこなんですか?連れてってくださいよ。この目に、見せてくださいよ。さあ、はやく!見せられないでしょ。そんなもの。だって、どこにもないんだから。あなたのその研究。その濃い霧を、発生させるための装置だそうですね。笑っちゃいますよ。そんな濃霧、どこにも発生してないんだから、自分で作ってしまおうってことですね。自作自演をすることで、その狂った心を満足させたいんでしょ?いいですよ。続けてください。さあ、はやく。何度、失敗したって、構いませんから。もう13年、経ってしまったんです。あと、どれだけ続けようが、もう時間の観念は、崩壊してしまっている。さあ、僕が見守っています。だから続けなさい。付き合いますよ。一人で孤独だったでしょう。これからは違いますよ。僕が見届けますよ。さあ、はやく、ほら。あきらめないで、続けて」
「馬鹿にしないで!」
陰西カスミは、怒鳴り声を上げた。
「帰ってよ!」
「異常だな」水原は、小さな声で呟いた。「まともじゃない。男だって、逃げるわけだ」
「なんですって!」
「鳳凰口だよ。彼氏だったんだろ?」
「知ってるの?」
「幼馴染だよ」
「うそっ」
「まさか、彼が、こんなキチガイと、付き合っていたとは。信じられないね。それでよく、研究員が務まってますね。鳳凰口は最近まで、別の彼女が居たって話だから、それが、あなただってことだ。ずいぶんと、長い付き合いだったんだな」
「13年よ」
「ほんとですか?その、あなたが狂っていった時期と、符合するじゃないですか。ちょっと頭が痛くなってきたな。まさか、そんなね。どういうことなんだろう。鳳凰口に、訊いてみるか。あなたとでは、話にならない。さっきも、目の前で話をしていたのに、意識はどこかにトリップしていたみたいだし」
「バラバラになった死体を、見下ろしてたの」
水原は天井を見上げ、息を宙に強く吹きかけながら、降参だよと言った。
「絶対にあるのよ。濃霧が消えない場所が。みんなが忌み嫌う、その場所が」
彼女は叫び続けた。
「忌み嫌って、避けまくられてるのは、あなたの方でしょ?あなたそのものでしょ?」
とんでもない世界に来てしまったと、水原は後悔した。しかし、その異常な彼女の幻想は一年も前から、この街に作ろうとしていた「ゼロ湖」を、再び想起させるようで、その符合は、奇妙な一致をも見せていた。
鳳凰口昌彦の親父と一緒につくった「ゼロ湖」は、そのまま彼の死と共に、放置されたままもった。
水原は、元妻との会食の誘いにも素直に応じていた。
彼女とは、これからも友達だし、力になれることがあったら、何でも協力するつもりでいた。
「ごめんね。はやすぎた。あなたを呼び出すの」
そんな健気な態度をみせるなよと、水原は、困ったように答えた。
「あなたも、知ってると思うけど」
「応募したんだろ?」
「そう」
「驚いた?」
「美術に、興味があったなんてね」
「違うの。絵なんて、何も興味はないの。彫刻も工作も何も。でも、どうしても応募したかった。一人に選ばれたかった。あなたにアピールしてた。また気をひいてもらえるんじゃないかと思って。馬鹿よ。でももう吹っ切れた。いいのよ。気にしないで。もうこれで、未練はなくなったから。そのために何かに打ち込む必要があった。ちょうど、そのタイミングで、公募のことを知った。それで。衝動的に。ただそれだけ。本当にそれだけ」
「で、今日は?」
水原は、タイ料理のパッタイを食べながら、特に表情を変えずに訊いた。
元妻は急に黙ってしまった。やはり、特に用事はないのかもしれない。
「決まったんだってね。アーティスト。誰なのかは、教えてくれないよね。もう会った?」
「ああ、彼とはまだ会っていない。来週かな。たしか会食をする。そのあとで、記者会見を開くらしい」
「男なんだ。よかった」
水原は、水を何度も飲んで喉を潤した。いまだ、陰西カスミの衝撃を引きずっていたため、元妻の姿に、その残像を重ねてしまっていた。ぴたりと符合するような錯覚も起きれば、やはり、似ても似つかない別人にも成り代わる。
「なに、考えてるのよ」
「仕事のことだよ」
「女性ね。わかりやすい」
「いや、ほんとに、仕事。いろんなプロジェクトが、同時に、目まぐるしく進行していて、たまに、わけが分からなくなる」
「ほんとうかしら。一個じゃないの。そのミュージアムだけの」
「まさか」
「ねえ。私、誰よりも、あなたのこと理解できてると思うわよ。そういう認識は、ある?丸見えなのよ。あなたが考えていることも、やってることも。やろうとしてることも。企んでいることも。だから観念したらどう?」
「なあ、こうして、ご飯を食べるだけじゃ、不満なのか?」
「なに言ってるのよ。誰がそんなことを。嬉しいの。私、嬉しいのよ」
水原は、溜息をついた。どうして俺の周りに近づいてくるのは、気のふれかけた女ばかりなのだろう。
「本気で目指したら?アーティスト。君ならなれるんじゃないのかな。今回は、その始まりだよ。きっかけだよ。これから続けていったらいいじゃん。なあ、そうしよう。絶対に才能あるから」
「そういうこと、どの女にも言ってるのね」
「初めてだよ」
「いままで、気がつかなくて悪かったって、思ってるくらいだ。付き合ってたのに。恋人が、能力を引き出してあげなくて、どうするんだって。自分に言ってやりたい。ほんとにすまなかった。今まで。でもまだ、間に合うと思う。だからさ」
どうしてそこまで、強引に勧誘するのか、水原にもわからなかったが、とにかく必死だった。彼女の意識の矛先を、自分からズラすのに。でもそんなでまかせで、いつまでも誤魔化しきれるはずもない。女たちの幻影が、さらに複数、重なっては、分離するのを繰り替えしているかのようだった。だんだんと、水原の意識は、混濁していった。目の前の風景が、次第に遠ざかっていくようだ。水原は大聖堂の中に、いつのまにか、いるような気がした。最盛期のゴシック様式の聖堂だった。祭壇には、当然、キリストの彫刻が祭られてると思った。がしかし、その像は、男には見えなかった。豊満な乳房を大衆にさらし、下半部分にも、衣服は何も纏われていないように見えた。深い切り込みが施され、ずっと見ていると、切り込みはますます深く、奥まっていくようだった。マグダラのマリアだろうか。しかし中世にあって、こんな露骨に切れ目を晒した彫刻が、置かれることがあるのだろうか。そんな裸体の像にばかり目がいってしまったため、彼女が両腕で抱えもっている何かに気づくのが遅くなった。何か、幾重にも乗った塊を彼女は抱えているようだった。人の頭部のような塊に気付いたとき、その重ねられた塊が、人体の腕や足であることを知った。バラバラになった人間を、彼女は集め、胸に抱いているのだった。情況がよく掴めなかった。
水原は、礼拝堂に目を移した。今は誰の姿もない。ずいぶんと幅の広い、しかも、天井なんてほとんどないんじゃないかと思うくらいに、天高く、柱は伸びている。マグダラのマリアらしき像に、視線を戻す。表情をよく見た。水原は笑ってしまった。
陰西カスミみたいだった。しかし、眼を一瞬離した隙に、像は服を描かれた彫刻へと変わっていた。顔もまた、別の人間の顔に変っていた。次々と、イメージは連鎖していく。手に抱え持っている像もまた、キリストと思われる男性になっていた。
そう思った瞬間だった。目の前には、元妻が現れた。まったく人のことが言えなかった。
白昼夢に気づいたのは、初めてのことだった。元妻は微笑んでいた。
あなたのことは何でも知ってるのだと言う彼女が、そこにいた。
第三部 第七編 ステルス パンデミック
映画の地上波放送中に、緊急ニュースが入る。
ケイロはいまだ、展覧会を開くための五十枚の絵を制作できずにいた。
デザイナーでプロデューサーの水原永輝に対する口約束を、これでは果たすことができなかった。焦る気持ちばかりが募っていった。しかし、それでも僅かにほっとする自分もいた。この制作ができなければ、自分はまさに選ばれしアーティストではないことが証明される。この自分の気まぐれな応募に反応した、奴らのせいなのだと、ケイロは思う時があった。しかし、その自分の気持ちを見てしまったとき、彼はたまらず不快になった。
応募は自分の責任でしたことだった。最後まで自分が引き受け、全うするべき事だった。自発的に何かをしたのは初めてのことだった。まさか事が進むとは思わず、初めてのことに面食らったのだった。
ケイロはだんだんと落ち着きを取り戻していった。自分が責任回避するような卑劣な人間なのかどうかを問うていた。だがケイロは自分を全くそのような人間として捕らえることができなかった。怖かったのだ。これから起こる出来事、展開していく運命に、恐怖を感じていただけだった。逃げたい衝動にも駆られていた。だがケイロは同時にそのような感情を引き起こしているものは何かと、考えた。うまくいくと思っているんじゃないだろうか。心の奥底では、この道がもう自発的に進んでいくことを、すでに知っているんじゃないだろうかと思った。だからそれが引き起こす現象に、今から怯えてしまっているのかもしれなかった。
なるほどと、ケイロは思った。だとしたら制作は完全になされる。五十枚の絵は二週間後には、確実に完成する。それはもう、決まっていることなのだ。ケイロの目の前にはすでに、その五十枚以上の絵が存在しているように感じられてきた。まさかとは思ったが、この手にも重みが感じられるようになってきた。すべての制作を終えたような感覚。倦怠感のある充実感とも言うべきか。ケイロは我にかえった。手に感じた重みはなくなっている。しかし、その重みに至る経路のようなものが、今設定されたような気がした。
描けそうだった。本当に俺は展覧会を開くのだろう。記者会見を開き、この自分の存在を公に広める。今後も制作を続け、作品はビルのミュージアム、丸ごと一棟に、保管される。必要に応じて他美術館、他国にまでも貸し出され、そのあとで再び、ビルへと戻ってくる。
緊急ニュースを見逃してしまった。
何もすることがなく、テレビで放送中の映画を見ていた。
緊急放送のテロップは消え、画面は、映画放送に戻っている。
はじめから、集中して見てなかった。筋は何もわからなかった。カーアクションの激しいシーンに突入していた。この運転している男が、主人公なのか。銃弾が後から追ってくる車から放たれている。窓に命中し、激しく割れる。そのとき、ケイロの頭の中では、無意識に眺めていた緊急ニュースの内容が復活した。脳波は覚えていた。鮮やかに蘇ってくる。「底なる神殿」に、今日、午後二時過ぎ、付近をDIで走行していたIDナンバー、489044の男性、棚橋清さん、44歳が、誤って吸い込まれていってしまいました。棚橋さんは仕事で、移動の最中、KNA構造の変化する時間帯の認識を間違えたか、空間帯の認識を間違えたか、わかりませんが、乗り物ごと危険区域に侵入してしまい、レーダーから消失。すぐに交通警察が確認致しました。棚橋さんが故意に突っ込んで行ったとは考え難く、事故としての捜査が今も続けられています。棚橋さんに、日常のトラブルはなく、遺書の存在もなく、大変多忙な生活の中、この日も超速で、移動をしていたと考えられ、底なる神殿の出現時間と区域の把握をミスし、あるいは忘れ、付近を走り抜けようとしていたと思われます。ニュースは以上です。アナウンサーは深々と頭を下げた。
「またか」とケイロは思った。確かにKNA構造は複雑であり、自分も一日の中で忘れることも多々あったが、DIに乗って移動しているときは、DIにその情報が搭載されていて非常ベルが鳴るか、自然に回避する行動をとる。システムを解除していたのだろうか。確かに手動で運転するときには、解除することもよくある。だが通常はみな、解除することはない。自動に任せていた方が効率よく、目的地まで着く。時たま手動による操縦を好む人間が、郊外でそのように運転をすることはある。だがこうして都市のど真ん中で、解除運転することは稀だ。しかし最近はそういった人間が増えた。この手のニュースも増えてきている。国としては別に法を整備しようとはしていないみたいだ。自己責任で運転してくれということなのだろう。吸い込まれていったDIと人間は二度と、この地上に現れることはない。どこか別の次元へと消えていってしまう。底なる神殿は一日の中で、一度出現する。磁気によっては二度ということもあった。そのあたりの周期もまた、細かく設定されている。覚えることも難しい。暦のようにシステムデーターが、国から発行されている。向こう五年の早見表が配られている。データをDIや住宅、自分の身の周りの、すべての電子機器に、インストールする。底なる神殿が現れる時間。少なくない人々が、それ以上、近づいては危険なラインぎりぎりの所にやってきては、底なる神殿に向かって、相対して祈りを捧げる。心に溜まってしまった叫び声をあげる。声に出す者もいれば、無言で叫ぶものもいる。感情を一瞬露わにし、すぐにいなくなる人もいる。底なる神殿が消えた後も、しばらく残り、眺めている人間もいる。様々だ。
ケイロは一度もまだ行ったことがなかった。祈りだとか、叫びだとか言われてもよくわからない。昔、確かに都市には教会や聖堂、神社仏閣のような、もっと古い時代には小高い山や盛りが信仰の対象になることもあったという。その名残なのだろう。ケイロはそんな行動には、まるで興味も理解も示さなかった。この時代には、もう形骸化したものだと思った。しかし知り合いの多くも、人には特に言わなかったものの、こっそりと訪れ、日ごとの鬱憤を晴らしている人間は、多いようだった。信仰心に対する、理解はなかったが、こういった愚痴のような行為には、もっと関心がなかった。どっちかにしろと言いたかった。俺のようにまったくの無神論者になるか、じゃなければ徹底して跪き、天にすべてを問えと。
ケイロはテレビを消し、自分の展覧会のことを考え始めた。
あれは、ケイロのちょうど成人式の時だった。
エネルギー革命が起こり、街に供給されるエネルギーがすべて、無料、フリーとなった。
それまでは、確か、ガソリンで車は走っていた。車が地上を走らなくなってからも、灯油やガスなどの燃料で、動いていた。それがケイロの成人式を境に、燃料を補給することなく、疾走するDI車が市場に投入されることになった。
最初の一年こそ、高い価格で販売されたが、二年経つと、価格は一気に暴落し、そして今では子供でも買えるほどの価格へと下がっていた。DI車を街に走らせるのにコストはほとんどかからなくなった。ただし、一人が二台以上所有することは、禁じられていたので、その数は最高で住民の数と同じとなった。
洞窟の中で行われた成人式のことを、ケイロは今でもはっきりと覚えていた。
あのときは何の意味があるのか全然分からなかった。成人式は個別で順番に行われる方式だった。親の世代とは異なっていた。彼らは合同で、地元の母校などで行われるのが常だったらしく、ただの同窓会のような集まりであったという。議員や教育委員会の人間が、意味のないツマラナイ話をするのを、聞いたあとで、成人になった皆で酒を飲みに行くというのが流れだった。
ところがケイロが生まれる少し前から成人式は個別になった。郊外の洞窟の前に、個別に割り振られた時間に行くことになった。三十分刻みで組まれていた。ケイロは予定の13:30の、およそ五分前に到着した。神社の境内のような入口には、白い装束を着た三十代くらいの女性がいた。彼女に自分の名を告げると、すぐに、暗くぱっくりと闇を広げた穴倉へと連れていかれた。彼女は何もしゃべらなかった。ケイロは自分で、足元を注意せざるをえなかった。下っていく坂の構造は、どんどんと傾斜がきつくなり、あるところで、足が滑ってしまった。地下水が湧き出ていたのだろうか。湿っていた。すると、足の先端に何か触れるものがあった。恐る恐る足を伸ばしてみた。坂はすでに行き止まりになっているようだった。しばらくして、その遺物が木製の梯子であることに気づいた。そのときには女性の姿はなかった。ケイロはただ、その梯子を下に向かって降りていくだけだった。暗闇は続いた。足はいつのまにか地面についていた。そこからの話を、今はあまり思い出す気にはなれなかった。ただ、そのときの体験が、その後の意味不明なアーティストの応募に繋がったことだけは、はっきりとわかる。あの場に三十分近くはいただろうか。目の前に光が現れた。
何か、得体のしれないものが、降臨したのかと思った。だが違った。扉が開かれたのだ。
あの女性だった。出口に今度は居た。視界を取り戻していったケイロは、扉の外に、出ていった。ここは山のどの部分なのかと思う暇もなく、一瞬で、ケイロはすでに、自宅付近の見慣れた道路に立っていた。
エネルギーの構造が、いったいどうなってるのかはわからなかった。DI車を製造している会社が、どのように利益を得ているのかも。DI車は、自適に回遊する、最新鋭の乗り物であるという以外には、何も知らなかった。空間の層を、突き抜けているという感覚があった。空を飛んでいるという感じではなかった。空間を抜けているという感じだ。
むしろ、車体が、懸命にエネルギーを燃焼させ、移動している風ではないのだ。こういっては語弊があるかもしれないが、むしろ、車体の方は、ちっとも動いてないのではないかという気がしていた。DI車を囲む、周りの空間の方が組成を変え、DI車を動かしているように見せているようなのだった。なので、エネルギーは、車体みずから、生み出す必要はないのかもしれなかった。とにかく、街の構造そのものに、エネルギーがすでに組み込まれているということらしかった。KNA構造と言われているものも、燃料フリーのDI車の登場と同期して、世の中に現れていた。すべてが連動していた。あらゆる構造の変化と自分の年代の成人式もまた、偶然に一致していた。それから二年が経った。アーティストの公募があった。巨大な美術館の建設は続いている。ケイロはいまだに、その場所を知ることはなかった。事あるごとに街のいろんな場所に行き、建設途中の建物をチェックしたが、そんなものはどこにも見つからなかった。どこにも情報は出てなかった。
それにしても、圧倒的なデカさを誇る建造物だ。すぐに目につくはずだった。
姿形が、どこにも見当たらないのは、少し不可思議だった。国が関わっている事業だったので幻ではない。そんなものを探している暇もなかった。ただ建築の方法に関しても、様々な画期的技法が開発されているから、おそらく最新のテクノロジーが、ここでもお目見えするのだろうと思う。普通の建築技法で、普通に建てるはずもなかった。
単に、ミュージアムだけのための事業だとは思えない。あらゆる始まりとしての、デモンストレーションを、この一つのイベントに詰めこむはずだと、ケイロは思った。
DI車もまた、著しく進化していた。今や、DI車は、その形態までもを、自在に変えることのできるものとなった。素材が劇的に変わり、簡単なトランスフォームを数分で、しかも飛行中に執り行うことが可能となった。いずれはそのバリエーションも劇的に増え、まさに恐竜のジュラ紀のような多彩な形態を持った乗り物が、爆発的に自らを表現するような世の中になるであることは、確実だった。
実際、恐竜の形状にインスピレーションを受けたのだと、車の設計者の一人は、インタビューで答えていた。
鳳凰口は、久々に戸川兼に会った。佐々木ウンディーネと、仕事の話を事務所でしていたときに、彼が姿を現した。鳳凰口のところの商品の広告に、彼を起用したらどうかと、ウンディーネには提案された。しかし、知り合いの男が、ビジネスで関わるのもどうだろうと、鳳凰口は少し躊躇った。戸川は会うなり、「あいつはやめておけよ」と言った。ウンディーネのことだと思った。彼女と仕事で手を組むのだけは、やめておけという意味だと思った。
しかし戸川は、「女だよ」と言った。「お前の女」
「友紀か?」
「違うよ。浮気相手さ」
「陰西か」
「それも、違う。立花フレイヤだ。モデルの。あいつだけはやめとけ」
「立花?」
「他の女だったらとやかく言わない。ただ、あいつは駄目だ」
「フレイヤ?外国人?」
「恍けるな」
「俺じゃない、別の奴と勘違いしてないか?」
「お前だよ」
「そういう言いがかりは、やめてくれないかな。今、新しい仕事を立ち上げようとしているところで、忙しいんだ」
「ウチの社長、とだな?」
「いや、相談だけだよ。友人として。アドバイスを」
「仕事の話は、興味ないね」
「お前に、モデルを頼んだらって話だった」
「どうぞ、ご勝手に」
「いいんだな」
「わかってるだろ?」
「オファーは、すべて受ける。立派だな。選ぶことはしない」
「選んでるさ」と戸川は、急に反り返った声を出す。
「選んでるよ。選んだものが来るんだから。所詮はそういうものさ。だから俺は、あえてまたそこから、精査しようとはしないだけだ。俺のエゴだからな。そんなものはいらない。自分の存在を狂わせるだけだ」
「さっきの話」
「立花フレイヤ」
「本当に誰なんだ?」
「モデルだって」
「ココの?」
「違う」
「別の事務所か?」
「本当に手を出していない?」
戸川はしつこく訊いてきた。
「そうか。嘘を言ってるようには見えないな。ふうん。そうか。わかった。じゃあ、今のところはおとなしくしてる。でも、もう、会ってるはずなんだけどな。そういう感じがするんだけどな」
祭壇に刻印されたシンボルマークは、ずっと羽の柄だと思っていた。だがそれは舌なのだという。国の至るところに、この羽の紋章が施されている。王が一代で築いた国だった。王は、王妃と、寵愛する若い娘11人を、身の周りに配置させる。彼はエネルギーを消費するためではなく、得るために、このような生活を続けた。王朝が存続させるのも、エネルギーをもってしてだった。王が政権をとるまでの王朝は、短期の間に、目まぐるしく変わっていった。暫定政権は、他の、無数の有象無象の集合勢力に、すぐに倒された。安定的な基盤を作る暇すら、与えられずに。台頭しては崩される。ある程度、力を持った勢力は、次第に、自らが先頭に立とうとはしなくなった。身代わりを立てて、頂点をとることを目指した。それを繰り返しているあいだに、真の力を漲らせようという、時間稼ぎだった。
王はそのとき、ある小さな勢力のリーダであったが、彼の意識は自分の王朝がどうやったら始められるかを、真剣に考えていた。この群雄割拠の世で、闘いに勝ち、屈服させることで、支配するやり方を、早くから捨てていた。いちおうは誰かの味方になり、どこかの勢力に加担するという体をとったが、そこにエネルギーはほとんど費やしてなかった。根本的な問題を、彼は解決したかったのだ。国家を打ち立て、存続させていくというのは、途方もないエネルギーを必要とする。勝った負けた、どんな戦術で掴み取るのか、そんなことはどうでもいいわけではなかったが、それよりも問題は、頂点をとった後の話だった。ビジョンだけでは足りない。力だ。存続させる力。国というその幻想に、パワーが供給され続けなければならなかった。その方法がわかり、確実に成立させることができない限りは、何をやっても無駄だ。さらには、闘うことで、疲弊していくエネルギーも計り知れなかった。ビジョンだけが掴めている今、エネルギーのまったく不足している今にあっては、今あるエネルギーを、いかに温存できるかだった。そのあいだに、何としても、無尽蔵にパワーを供給できる回路を、開通させておかねばなるまい。彼は焦る心を宥め、自分がやろうとしているステップを信じた。王朝がいつの日か、存続するためのパワーを失った背景には、いろいろな理由があると、彼は分析した。エネルギーはかつて国の外から、膨大な量で流れ込んできていたのだ。その回路が、突然絶たれてしまった。乱世の世は、すべて、そこから始まっていた。そしてその回路を再び、開通させる方法を、誰も見い出せてなかった。見い出そうという意識も、ないのかもしれなかった。エネルギーが不足しているなど、考えもしていない可能性すらある。兵力はむしろ、かつての時代よりもどんどんと進化していっている。男たちが荒々しく戦い、女との繰り返される性行為もまた、激しさが増していっていた。男たちは一見力強く、女たちもまたそ、んな男たちに力を与えるべく、寄り添っているかのように見えた。だが彼はそうは思わなかった。エネルギーの枯渇具合は、すでにピークに達しようとしている。どうしてわからないのだろう。このまま行けばお互いにすり減らす以外に、道はない。共倒れだ。だがそれは、自分にとっては好都合なことだった。まさにその瞬間に政権がとれる。どんどんと闘っていったらいい。俺は闘っている、フリをするだけだ。しかしもう時間は残されてなかった。タイミングがすべてだった。本当に共倒れになってしまえば、荒廃した世界が、目の前には広がるだけだった。そこで政権をとったとしても、復旧させることに、膨大なエネルギーをつかってしまう。最初の段階で。それは避けたかった。
壊滅状態の、手前である必要があった。そして、それまでに、見つけなければならないエネルギーの源の存在があった。その源と、この土地との回路を繋げる、必要性。源は一つではなく、いくつかの回路を複合的に組み合わせ、構造化する。一つに頼ってはあまりに心もとなかった。そして王は、その一つの回路として、まずは女性の力を使うことにした。パートナーを合わせて、12人に増やした。自分もいれて、ちょうど、13人に揃えた。セックスのエネルギーを消費することなく、結合させようとした。
性エネルギーで国を成り立たせ、さらには存続させるエネルギーへと、変換しようとした。自分が男である限り、男と女がこの世に存在する限り、枯渇することはない。自分が年老いても、信頼のおける若い男を使い続ければいい。複数の回路もまた、初めの一つを確立することから始まる。ここから始めようと彼は思った。自分の肉体から始めるのが、理に適っていると思った。人間なのだ。
その王はいい意味でも、悪い意味でも、巨大な影響力を誇り、その影響力の源はすべてエネルギーだった。エネルギーを国内中に充満させ、それを意のままに、操ることに長けた、まさに魔術使いだった。彼には政治的な野心は、それほど強くなかったし、人間がこういう生活をしていくべきだというような、理想の持ち合わせもなかった。彼のビジョンは安定的な王朝を確立し、存続させるという、ただの一点だった。そのためのエネルギー政策であり、そのためのエネルギー回路の複合化だった。
そのシンボルが、羽ではなく、舌であることを指摘した人物が、考古学者の中に居たことを私は突き止めた。彼への取材は、いまだ叶っていなかったが、彼が記した論文の断片はいくつか手にいれていた。王その人自体が、その舌を持っていたのかどうかはわかっていない。誰にも証明することはできない。ただ、そのエネルギーの第一回路を開通させるために、その舌が、重要なファクターであったことは確実だった。舌が女性の閉ざされた回路を解き放ったのだ。
自身の男性エネルギーもまた、損なうことなく、融合したエネルギーを、しかも国の基盤に流れこむようなシステムへと変換した。
第二、第三の回路の存在は、まだこれから解明するしかないが、第一の回路のシンボルはとにかくここに揃っていた。
しかし第一の回路だけで、すべてが賄われるはずもない。そんなことは王は最初から百も承知だった。しかし自分にできることから、始める以外になかった。彼はこの国の政治的支配を始める前に、すでに王朝を独自に始めていた。彼は戦国の世に参加することなく、勝手に王朝を始めてしまっていた。妻を娶り、恋人たちを集め、家を改装し、エネルギーを漏らすことなく、溜め続けることを決意する。彼は第二の回路に取りかかる。
第三の回路と同時に。地球のパワーを取り込み、地球の外からのパワーを取り込む通路を確立したかった。おそらく、王朝が安定的に存在していた時代には、このエネルギーが惜しみなく降り注いでいたに違いないのだ。しかし、いつかどこかで、その回路は閉じてしまった。地球に変動があったからなのか。宇宙における、地球の存在意味が、変わってしまったからなのか。人々の意識がエネルギーを拒絶することになったからなのか。そのすべてが、同時に偶然、起こってしまったからなのか。
とにかく、すべての回路は封鎖されてしまった。人間は武力と強い意思で争い、その戦いを経て、天下をとるシステムへと移った。三つのエネルギーの回路を、すべて開通し、それらをこの国において、きわめて精緻に融合させる必要があった。
後に王となるこの男は、自嘲気味に自らをエネルギーマスターと呼んだ。科学者にでもなかったかのようだった。腕力と戦略に、己の運命と力のすべてを、投入する男たちを尻目に、自分は全くおかしな方向に進んでいることを、自覚していたが、自らの方向性を、男は信じた。信じざるを得ない、世の中でもあった。時代の変り目であった。その変り目に、自分が立ち合い、その変り目の象徴として、自分の王朝を作ることが、暗黙の了解のように思われた。
ほとんど彼は、このとき確信していたように思う。あとは時間との闘いだと。
第二、第三の回路を開通させる、最初のきっかけが欲しかった。
だが彼は、焦る心とは裏腹に、大きな目でこの世を見下ろしていた。自分の運命を見下ろしていた。すべては同じタイミングで連動していた。第二、第三の回路もまた、王朝の勃興に合わせて、絶妙なタイミングで見つかり、だんだんと開いていき、進化し、融合していくことだろう。彼はまさに、回路が自ら出現し、開いていくことを見守るという立場に自分を移行させていることに気づいた。
見つかる、見つからない、できる、できないに拘り、戦ってしまえば、結局はあの戦国の武将たちのような結末を辿ることになってしまう。第一の回路の確立に彼は専念しているように自分を見せた。女性から引き出し、自らと融合させた、そのエネルギーを漏らすことなく、邸宅中にエネルギーを循環させる。まずはここからだった。循環の回路を、一日一日、さらに強化していく。漏れないように工夫することで、その道は太く強くなっていく。循環の道はエネルギー漏れではない、余剰のエネルギーが、邸宅の外へと出ていくことを誘発する。彼の邸宅に、人がどんどんと集まり出していた。しかし彼は容易に屋敷の中に人々を招くことはしなかった。エネルギーの循環を荒らされたくはなかったからだ。立ち入り厳禁とした。邸宅の外堀のようなものを作り、そこで人々との交流を図ることにした。こうして自分のもとに興味を抱き、集まってきてくれる人がいる。大事にしなければならないと思った。この人たちが後に、王朝を開始したときの、唯一の資源となる。彼らはこの世の成り事にうんざりし、疲弊を感じ、別の可能性に目覚めようとしている人たちだった。まさに変わり目だった。人々の意識が、劇的に今変わろうとしていた。このままで、いいはずがないと感じる人々の群れは、これからどっと押し寄せてくるであろう。この第一の回路を明かすことはしないが、この回路が人々の知覚に、影響を与えているに違いなかった。人々を力で押さえつけ、支配する時代ではない。こうして自然に集まってくるエネルギーを醸造することが、唯一の道だった。
第一の回路を強化しながらも、集まってくる人との対話に、日々力を注いだ。
そうしながらも、第二、第三の回路の開発に着手した。
そして、あるときふと思った。
戦乱に紛れて、国中に、小さな装置のようなものを、設置したらどうだろうと。
この屋敷が、王朝の中心地。つまりは都となる。ここが中心の大きな装置だった。第一の回路のメイン施設だ。それはこの自分が中心となったものだ。第二の回路は一か所ではなく、この大地に拡がる複数の場所をツボとして。そうだ!地中からの自然エネルギーを取り込み、この地中に逃がす役目を果たす。地下へと籠ってしまうエネルギーを、うまく利用するのだ。こもってしまえば、いずれは地下で大爆発が起きてしまう。そうなれば、人間もまた、無傷ではすまされまい。どの道、誰にとっても良いことだ。大地にとっては、過剰になったエネルギーがうまく逃がすことができる。人間世界にとっては、そのパワーを使うことができる。便乗することができる。なるほど。地質を初めとした大地全体の調査が必要だ。本当に戦闘能力を磨く時代の方向性とは、完全に逸してきていた。地質学者を大量に要請しようとしているみたいだった。だがこの集まってきた人たちに、その人材を見つけることにした。彼らを中心に、他の大勢は従い、全国に散らばり、調査を開始する。すぐに彼は行動に移した。あとは調査報告を待ち、その反応によって次なる方針を決めるまでだ。
第二の回路のステップは、次第に、固まりつつあった。
この流れの中で、第三の回路にまで、彼は思いを馳せた。
今度は、上から降り注いでくるエネルギーの方だった。夜空を見上げ、考えていた彼の元に、ふとエネルギーはすでに今、このときも降り注いでいるのではないかと、感じた。意識したときに、それはそこにあると心、の中ではそんな声が聞こえてきた。降り注いでいることに気づかず、さらにはそのパワーをあえて遮断することまで、人間はしている。この世界がまさにそうだった。この降り注ぐパワーを、どう生かせばいいのか。第一の回路は、人間の含有するパワーに基づき、第二の回路は、大地の息遣いに基づいていた。波のような激しさと穏やかさを、交互に織りなすパワーだった。
だが、第三の回路は、少し違った。そのような波は、とても微細で、高度に敏感にならないかぎりは、人間にはまったく感知できないレベルのもののような気がした。目が細かく、この肉体においては、全く素通りしてしまうほどだった。受け皿だと、彼は思った。受けるための受信装置が、ここでは必要なのだ。霧雨をどこまでも、細かく切り、肌に当たっても、その体感すらないような、エネルギーの雨を、吸収するための装置開発こそが、第三の回路を目覚めさせるのだ。
ますます、化学者の道を進んでいるようだと、自嘲した。
ずいぶんと、高度なレベルの教育が基盤になる、王朝かもしれなかった。
第三の回路は、テクノロジーに特化していることだろう。この時代からは、大きく逸脱している。後に王になるこの男は、そのテクノロジーの片鱗を感じながらも、それが達成された情況を、細かく思い描こうとした。
ケイロは、午前中の制作を終えるとすぐに、DIに乗り込んで疾走させた。
今日もまた、DIは少しずつ進化を遂げている。DIは元々成人式のときに、それぞれのDNAを採取され、その情報を元に、最初の原型をインストールした乗り物だった。
運転者のDNAの変化に従い、車体もまた自在に、その可能性を広げていく。自由にトランスフォームしながら走る車体もある。ケイロはトランスフォームに関しては達成していたが、自在に変化しながら、走らせることは、まだできていなかった。あらかじめ、設定した車体から、また別の車体へと、変化させるときには、以前の形態しか、瞬時に変えることはできなかった。
新しいデザインを投影し、実態化するまでには、まだまだかかりそうだ。
今の形態は、テントウムシのようなフォルムだった。しかし、移動の仕方は、だいぶん進歩してきた。行きたい場所を特定し、その場所と、意識の上での、回路を結ぶ。何度も強固に結ぶ。その場所は、具体的な地名である必要はない。例えば、服を選ぶように、こういう場所を見て見たいというような、抽象的な条件でもかまわなかった。いや、むしろ、ケイロは、その方が簡単だった。現実に、強固に存在する場所を、思い浮かべるよりも、イメージ上の、あるのかないのかわからないような場所を設定した方が、理由はわからなかったが、今いる場所との通路を、速やかに作り出すことができた。むしろ、近所にある、自分の知っている場所であるのなら、回路をつくって、圧倒的に短縮された時空の中を、通過するよりも、景色を見ながら、通常どおりに移動していくほうが、全然よかった。効率的に、移動したいわけではなかった。制作でたまってしまったストレスを、発散させたいわけだ。
しかし、抽象的な望む場所を設定し、そこにあっというまに、移動するということは、何にも代えがたい悦びではあった。その方法が身についただけでも、劇的な進化だった。あとは、中空を飛び回っている様々な形態のDIを、見ていることも楽しかった。走行中に形状を変えていく瞬間も、たまに目撃することがあった。上級者だ。めったにいなかったし、彼らは、その能力を、あまり人目にさらすこともなかったため、見たときはラッキーだった。知っている具体的な場所でも、抽象的なまだ見ぬ場所でも、一度その特定の場所と、周波数を合わせ、開通すれば、その場所を、思い浮かべるだけで、その場所に行こうと意識するだけで、一瞬で移動することが可能だった。
ただ、そうなるためには、50回を超えるトライが必要だった。
そうやって、開通する場所を、日々、増やしていくのもまた、楽しみの一つだった。
そして、そこらじゅうが、開通だらけになってしまえば、瞬間移動を、日常的に繰り返すことができる。しかし、そうなってしまえば、逆に困ってしまうのではないか。ケイロは、一抹の不安を感じた。ゆっくりと景色を楽しむことができなくなってしまうのではないか。頭の中で想像しただけで、自分の存在する空間が、あっという間に変わっていってしまう。それはどんな気分なのだろう。どんな感じなのだろう。自分は動かずに、景色だけが瞬時に変わっていく。自分が物理的に動いているという感覚は、消えてなくなってしまうのだろうか。
けれど、それは、DIを降りればそれで済む話だった。
身体を思いきり使い、この重力の中での、ダンスをしたいのであれば、存分にしたらよかった。そうやって、DIと、この身体の二面性、二重性を楽しんだらよかった。
ケイロは、再び家に戻り、制作の続きをした。キャンバスを買うのを早々にあきらめ、自宅の白い壁に、直に筆を入れていくことを決意していた。その後、どうやって運ぶことになるのか。壁を解体し、家そのものを、解体することにもなるかもしれない。そうだ。解体中に、その壁の外側にも何か装飾したらどうだろうか。アイデアは、次々から次へと浮かんできた。キャンバスに描くというのは、そもそも、自分の発想からして違った。人工的な設定に、あえて追い込むようなものだった。そうではなく、今ある既存の物質や、何かの役割を果たしているような物を、相手に挑んでいきたいという気持ちが、芽生え始めていた。そして、挑めば、それは作品として、解体される運命にある。形態を変えてしまう。買い取りだ。DIだってそうだった。瞬間瞬間に、姿形を変えていく日は、そう遠くはない。みな、そのレベルにまで、到達する。
エネルギー構造が、複雑化した街で、その理解できない空間で生きているケイロは、このKNA構造が今後、どのようなに変化していくのかを知りたいと思うようになった。
移動中でも家にいても、底なる神殿の存在を忘れたことはなかった。底なる神殿に、不注意にも吸い込まれていく人間がいることは、信じられなかった。どんなに複雑なエネルギー構造をしていても、底なる神殿は、この自分たちの無意識の中では、いつも同じ姿形をとっているものなのだ。不必要に近づくことはしない。その複雑すぎる構造の一番奥に存在する、“底なる神殿”。KNA構造が設定されたときに、同時に現れたというよりは、それを中心に組まれた都市構造なのかもしれなかった。
その昔、マスターオブザヘルメスという賢帝が、この構造を生みだし、それ以来、この世界は、それを中心に唯一の法則として、時空を回していた。誰も、その法則に逆らう事はできなかった。その賢帝の痕跡は、至るところに残されていた。紋章という形で、街のあらゆる場所に羽のような印が彫られていた。賢帝が好んで使ったシンボルだった。『羽の紋章』として広く認知されていた。紋章に手を加えることは許されなかった。だがケイロはこの紋章が何故か気にくわなかった。激しい怒りすら湧いてくる時があった。ふだんは少しだけ、目障りだなと思う程度だったが、突然ナイフで切りかかり、ずたずたにしてやりたい衝動にも駆られた。ふと自分が、展覧会に向けての制作を、本格的に開始したことが、その症状に拍車をかけているような気がした。なので、その突然、起こった激情を宥めるために、制作にぶつけるといったことを、繰り返した。
ケイロが描いた、絵のほとんどが、この羽の紋章だった。
だが、目に映るその絵の実体からは、まるで、羽の姿が見当たらなかった。
あれほど羽を思い描き、羽を切り刻むためにおこなった、激しい行為だったはずなのに、羽はいったい、どこにいってしまったのか。何が賢帝だ?勝手に構造だけをつくって、それでサヨウナラか?気楽なものだ。あとに残された身にもなってみろ。
家中に、絵は描かれていった。ケイロは、完成まで、誰にも言わなかった。ミュージアム関係の、特に水原といっただろうか。あいつには、最初に知らせることになるだろうが、茫然としてしまうだろうな。こんなこと、想定もしてなかったであろう。解体のための指示を、青ざめた顔か血を登らせた顔で行っているアイツの姿が、思い浮かんできて、おもわず笑ってしまった。いや、逆にあいつは、喜ぶかもしれないな。それにしても、羽の紋章には、いらついた。この街からすべての痕跡を消してしまいたい。そう思っているのは、俺だけなのだろうか。みんな、何とも思わないのだろうか。
このKNA構造が、いったいどれほど、俺たちを閉じ込めているのか。DIを得て、DIの劇的な進化に喜んでいるのが人間たちだ。確かに俺もそのなかの一人だった。だが絵を制作していくうちに、だんだんとDIが一体どうしたといった気持ちになっていった。賢帝という男の手の中で、うまく転がされているように思えてくる。そう感じれば感じるほど、KNA構造の成れの果てを考えてしまう。姿形を変えていくのが、KNAの骨頂だとしたら、今は一定のサイクルを刻んでいるこの構造もまた、ほんのわずかだが今も変化を遂げているということだ。その変化もまた、その男が作り出した、意図的なものなのだ。この文明そのものが、賢帝の意図と同化している、人工的なものなのだ。その人工的な檻の中で、我々はただ踊らされているだけだ。それを歴史と呼んでいる。自由に変化、進化しているようで、それは違った。すべては、その男の、思惑通りに事は進み、最期のときを迎えるのだ。結末すら、今はなき男の頭の中で描いた、シナリオ通りなのだ。許せないとケイロは思った。結末すら、与えられていないとは・・・。封鎖からの解放だと、ケイロはキャンバスに見立てた壁に向かって、絶叫した。そして激しい怒りを抱きながらも、頭は驚くほど冷やかになっていくことに気づいた。
これから起こっていくこと。劇的な変化の果てに訪れる、最期のとき。
賢帝が組み込んだ、リセットのとき。この世界で、散々実験を繰り返し、そして無へとかえす。あの男のやりたい放題の結果だ。KNA構造の結末を読みとり、逆手にとる以外に、道はないとケイロは拳を強く握った。
まずは、その男の思惑、全体の地図を、読み解かなくてはならなかった。
水原は、ケイロから連絡を受けた。予定通りに展覧会を開いてくれるよう、念を押す電話だった。やはりケイロは、きちんと期日に間に合わせて、制作をしてきた。たいしたものだと、水原は思った。
「それで、少し、問題があるのですけど」とケイロは言った。
「作品の制作はしたものの、動かせないんです。というのも、家の壁に描いてしまって。どうしたらいいでしょうか」
「壁って、また、どうして。言ってくれたら、同じような壁を揃えたのに」
「それでどう運びましょう。それとも、うちをそのままに会場にしてしまいますか?」
水原は少し考えさせてくれと言って、電話を切った。情況はわかった。ケイロは十二階建てのマンションの、三階住んでいるのだと言う。やっかいなことをふっかけてくるものだ。昨日までは、誰からも連絡がなかったというのに。今日になると、ケイロだけではなく、立て続けに、鳳凰口からも留守電が入っている。元妻からも来ている。鳳凰口とは話が長くなりそうな気がしたので、先に元妻のメッセージを聞いた。彼女はまた会って話したいことがあると言ってきた。大事なことなの。あたなにも関係のあることなの。関係がなかったことなどあるだろうか。水原は思った。
掛け直すと、ワンコールで彼女は出た。直接会うことは避けたかったので、電話で用件をすまそうと思った。彼女も珍しく、直接会いたいとは言ってこなかった。
「制作を開始したの」と彼女は言った。「私は、落選者の怨念を、一身に背負ってるの。決めたの。その一人のアーティストを倒すことに。同じ気持ちを抱く、人間たちのすべての感情を、結集するための役割を、引き受けたの。私のため。私が駄目にならないため。私を支える、強力な網が必要になるから。あなたの言ったとおり。あなたは何でもわかっている。私が何を必要としていて、どうなっていくのかも。あなたの手の中で転がされているよう。
でも、わかって。これはあなたを取り戻すためにすることじゃない。あなたのことは、もう吹っ切れたの。私は私の道を行く」
水原は、元妻の周りの半径一メートルの辺りを、ボンヤリと眺めていた。
何が彼女に、そのようなことを言わせているのだろう。彼女を後押ししている、無数の影の存在を感じた。やはり、電話で済ませることはできなかった。彼女はすでに、自分を失くしてしまっているのだろうか。乗っ取られているのだろうか。明らかに自分の知っている彼女の雰囲気ではなくなっている。
水原は、自分が捨てた格好となった女の存在を、目の当たりにしていた。こんなにも短期間で、人は変わってしまうものなのか。彼女の言葉の強さとは裏腹に、生気はまったく感じられなくなっていた。動くのさえ、自分の意志ではなく、誰かに動かされているようだった。確かに彼女は、無数の落選した人間の怨念を、自分の空洞と化してしまった場所に埋め込むことで、今を生きていこうとしているようだった。水原の心は痛んだ。けれども、彼女とはあの時点で、別れなければならなかった。いずれは、どんな形にしろ、別々の道を歩んでいく二人だった。結婚した当初は思いもしなかった。すでに陰西カスミが新たな彼女になっていた。水原は、そのことを元妻に言った。彼女は素直によかったねと言った。「君の方は?」
「彼ってこと?いないわ。当分いないだろうし。あなたの他に、好きな人ができるとも思えない。でも結婚はまたしようと思うの。次に出てくる人と。安心した?」
「別にそんなつもりで言ったんじゃないよ」
「そうね。どのみち、あなたには、迷惑をかけないわ。絵の制作だって、する前に、あなたに報告するだけで、これからはいちいち何も言わない。途中経過を、言うこともないし、完成したからって、あなたに、何かを頼むこともない。新しい彼女に嫉妬して、ちょっかいを出すこともない。きっぱり、別れましょ」
何故だか、この元妻に、振られているような気になってきた。
「もちろん」と水原は了承した。
「辛くはない?」
元妻は言った。
「寂しくなるときも、あるんじゃない?そのときは言っていいのよ。本音が聞きたいから。それに今日だってどうかな?ウチにこないかしら?まだ、昼間だけど、いいのよ。好きなだけ、私を抱いたらいいの。今日で、最後にしてもいいし。これからも好きなときに来てもいいの。一つ、提案があるんだけど。私たち、夫婦になることは向いてなかった。お互いに。でも相性って、すっごくいいと思うのよ。友達としても。でも、男と女でしょ。ただ、会ってお茶してお酒飲んで、話をしてって。それで楽しいかしら?満足するかしら?そうでしょ?だからさ」
「何が言いたいんだ?」
「これからも、私たちの縁は切れないってことよ。あなただってそういう気がするでしょ?私くらい、忌憚なく話をすることができる相手っている?男でも、女でも。特に女で。その新しい彼女だって無理よ。恋はしてるのかもしれないけど。だから、あなたに彼女がいたっていいの。奥さんができてもいいの。私たち、そんな形なんて大きく超越しているんだから。何にも縛られない男女の関係が、まさにこれから本当に築いていけるの。そのための離婚だったのよ。わかる?わかるわよね?私たちって何も言わなくても、通じ合えるんだから。そんな相手っていないのよ。でも、それを恋人だとか夫婦だとか、そういうもので、嵌めこんだ瞬間、実態は消えてなくなってしまう。そこに私たちは、違和感を抱いてきた。それを外そうとしただけなの。そうでなければ、今も、これからも、ずっと続いていく関係なの。すべては、勘違いだったのよ。続けましょ。世間では愛人関係だとか、何だとか言われるかもしれないけど。そういう形が一番しっくりとくる。今後も続けましょう。あなたは結婚して、子供をつくっても、それで全然構わないんだから。私に気兼ねしないでね。私も、別の男の人と、結婚するかもしれないし。それに、絵を本気で描こうと思ってるから。それほど暇でもなくなるのよ。お互い、多忙の合間を縫って、会ったらいいわ。ただ、世間話をする関係じゃないの。わかってるでしょ?今日も、今から。あなたのために、身体は、いつでも空けておくから。余計なことは何も考えなくていいの。ただ、純粋に、心を通じあえる男と女が、一対、そこにはいるだけで。そのことに、意識を集中するのよ。私もそう。ただ、そのときだけは。終れば、また、お互いの現実に戻っていく」
水原は、何の反論もできなかった。彼女の話の腰を折ることもできず、頷くこともできず、いろんな可能性と新しい現実が、錯綜する中、まったく身動きもとれずに、混濁する意識の海の中で佇み続けた。
我に返り、鳳凰口の留守電のこと、ケイロの壁の絵のことに、意識がほんの少し移りながらも、水原はこれが最後だと自分に言い聞かせるように、元妻のマンションへと向かっていた。
「なあ、ブランドを、立ち上げるというのはわかった」
水原は、鳳凰口に言った。
「その商品が、いまいちわからないね。グッズということか?洋服でもなさそうだし、アクセサリーでもない。インテリアでもないし、家電でもない。メーカーでもあるんだよな。要するに、お前の彫刻作品を売るということだな。装飾を施して、スタイリッシュにして。インテリアということでいいのか」
「ああ、なんでもいいよ。最初は何でもそうだ」
「最初?」
「これは、入り口だよ、水原。何だっていいとは言わないけど、できることから始めないとな」
「俺にできることがあれば」
「いずれな。そう。いずれだ。あ、そうそう。俺のアノ能力あるだろ。あれを、みんなにもさ、少しだけでも使えるように、っていう意図もある。その置物には、エネルギーが入っている。パワーストーンとか、そういった類の商品なのかもしれないな。もしかすると。広い意味では。どういったキャッチコピーをつけて、売るのかは、全然考えてないけど。うさんくさいと思っただろ。けど、俺が彫る作業を、加えたものなんだ。何かしらのエネルギーは入ってしまっている。以前からな。それを、意図的に焦点を絞ってさ、商品ごとに異なったエネルギーをと、そう意識してるんだ」
「そうか、鳳凰口。その手があったか!」
「なんだよ、急に」
「また、お前に、以前の仕事のことを思いださせてしまって、申し訳ないけど。一度だけ、手を貸してくれないか?物の周りの空間の気流を、自在に変えることができただろ。あれを、一度、使ってもらいたいな。今度のミュージアムの件があるだろ?あのアーティストがさ、自宅の壁に絵を描いてしまったんだよ。それで、それを移動させられなくて、困ってるんだ。協力してくれ、鳳凰口。一度でいいから」
「どうしたら、いいんだ?」
「マンションの、その壁以外、その外側の物質の粒子を変えて、それで、壁の絵の部分をそっくりと移動させてしまいたいんだ。空白になった部分には、別の用意した、壁の素材を組み込む。お前ならできるだろ?」
「ちょっと、待てよ、水原。そんなことできるわけないだろ」
「銀行に盗みに入るときに見たぞ、俺は。いとも簡単に中に侵入できていた」
「確かに。でも、それは、例えばマンションだとすると、その中に絵を描いたキャンバスがあって、それを盗むために、キャンバスの周りの気流を変えて、侵入するというのが可能なだけだ。壁が、キャンバスなんだろ?壁を切り取って、そこに別の壁を埋める。確かにそれはオーケーだ。しかし、盗んだ壁そのものは、ある一定の時間しか、その形態を保つことができない。元の形態へと容易に戻ってしまう。古い情報というのは、長年エネルギーが費やされている。そう簡単には、消すことはできないんだ」
「じゃあ、新しい情報を被せていけばいい」
「そういうことだよな、水原。それならば、可能だ。新しい形態に固定するためには、その新しい情報を、プログラミングし続けなければいけない。物質が望む状態で、固定するまで」
「どうやってやったらいい?」
「俺が、その壁を取り出したときには、すでに新しい情報は、あとは、プログラムするだけの状態にしておかなければならない。取りだした壁を含めた、その絵に働きかけなければならないが、それはある意味、簡単な作業だ。根気がいるだけで。やり方はいくつもある。無限にあるといっても、構わない。君の意図次第だな。意図が明確になれば、手段など、後からついてくる。どうしたい?」
「ケイロという作家なのだが、彼の作品はすべて、最終的には巨大ビルミュージアに所蔵されることになる。ただし、今回の作品は、ビルの完成の前にね、彼が公に対してお披露目されることに合わせた、ちょっとした展覧会を、開くことになっているのさ」
「なるほど。展覧会経由の、ミュージアム所蔵だ。じゃあ、そういった明確な予定表を組み、それをプログラムしておくんだな。あとは俺に任せろ。絵を移動する日を、決めてくれたら、後は問題ない。そういう仕事は、もう、これっきりにしてくれよな」
鳳凰口は、苦笑いをした。
謎が解けた。
ケイロの最初の画業は、この謎を解くために、行われたかのようだった。
無我夢中で、制作に没頭していた。たとえ、どこに描いたとしても、水原というプロデューサーが搬送を考えてくれる。その約束をとりつけた瞬間から、ケイロの制作への没頭が、始まった。そのとき、強烈に疑問に抱いていたこの都市の構造について、彼はもやもやとした感情やイメージを、自分の外に吐きだし、それを見つめることで、このとき解明したくなったのだった。
絵を描く行為は最初から、そのような思惑によって、進んでいった。何かが申し合わせたように、ケイロの思考と感情、イメージ、身体状態が一つに重なり始めていた。
時間の経過を無きものにしていた。KNA構造の中心にある、“底なき神殿”の存在。物理的実体のすべてを吸い込んでしまうその神殿は、外に突き出した男性器ではなく、内に抉りこんだ女性器のようだった。女性の神殿だった。“底なき神殿”が発生する時間は、その付近は立ち入り禁止となった。決められた限界ぎりぎりの場所で、人々は内側に抉りこまれた神殿に祈りを捧げる。祈りを捧げる場所が、人々には必要だった。心の叫びを受け止めてくれる場所が必要だった。受け止め、別の次元へと通過させていく装置が、必要だった。こっちの、この次元の中で、ぐるぐると浄化されることなく、燻り続ける情念の海が、それ以前の文明都市を自壊させていくことになってしまった。その教訓から、この“底なき神殿”が設営されたのだった。文明都市が産声を上げ、発展していったその土壌には、“底なき神殿”を中心とした、KNA構造、強固な基盤が存在していた。そして、季節が巡るように、巧みに姿形を変えていった、このKNA構造都市は、これまで一体、何回転、いくつのサイクルを経てきているのだろう。気の遠くなるほどの循環を続けていた。
誰もが、永遠に続くと思わされながら、心のどこかでは、いつかは終わりが来る。終わりへの変化が始まり、次第に加速していくことを、感じとっていた。そして、最初の設計者が、そのことに無知なはずがなかった。この宇宙のサイクルを知り、その中で、最適な時間と空間を、生命の息づく場所として選ぶ。だが、いずれは、その最適だった環境は変わる。そのときに、どういった情況になるのか。設営者は想像ができていたことだろう。そんな彼が、どのような最期を迎えるべく工夫をしたのか。直前まで快適に過ごせて、最後の瞬間のときにだけ、壊滅的な世界が現実になるというような、設計をしたのだろうか。それとも、だいぶん前に人々に気づかせ、その最期のときまでに、備えることを促す、そんな設計をしたのだろうか。KNA構造と共に、人々が“終わりの始まり”を生きていけるような、そんな設計にしたのだろうか。
ケイロは、設計者の意図と同化するため、絵を描き続けていた。
絵で何かを表現したかったわけではなかった。ただ、設計者と意識を重ねあわせていくためのプロセスとして、ずっと、その作業を繰り返したのだった。
ケイロは、制作の途中で気づいてしまっていた。きっとこの出来あがった絵もまた、それを見る人々に自分と同じように、設計者の意識と同化していき、その意図を掴むための「装置」のような、そんな役割を果たしていくのだろうと思ったのだ。
絵は描いた順番に、並べる必要があった。
展覧会の形式に、当てはめるときには、その順路が、描いた絵の順番と照合することになる。ケイロは途中、すでに何枚目なのかわからなくなってしまっていた。絵と絵が、どこで区切られ、どこで転調しているのかも、次第にわからなくなっていった。すべては全体を表現する一続きの世界だった。今は振り返ることなどできなかった。ただ先に筆を進めていくだけだった。水原というプロデューサーの顔の印象も、次第に消えてなくなっていった。
もうすぐ設計者に近づくことができる。彼の意図に辿りつくことができる。
すでに、自分がその人間に成り始めている。ケイロはそう感じた。
ここで、焦点を逸らしてはいけない。ケイロは寝食を放棄し、次第に忘れていくことで、この肉体もまた抜け出ていってしまったかのように、実感がなくなる瞬間を覚えた。
俺そのものが、最期のときを迎えているのかもしれない。しかし、そんな時に湧いてくる恐怖もまた、肉体を抜け出したかのような浮遊感に消し去られた。
ケイロは次第に、設計者の存在の影もまた、だんだんと消えていっていることを知った。その代わりに、彼が同化していると感じたのは、神殿の存在だった。
まさに、“底なき神殿”だった。
しかし、そこにあるのは、内側に抉っていく、女性器の化身ではなかった。
受け入れ、吸い込んでいく、目には見えない建造物の存在ではなかった。この世界の、この大地の底から突き現れ、空に向かって聳え立つ、見るものを圧倒する、まさに目に見える巨大な建物だった。それはケイロがかつて、映像で見たことのある神殿ではなかった。何故、そのような建物が突如、絵の中に現れ出たのか。“底なき神殿”はどこにいってしまったのか。KNA構造は、いったいどうなってしまったのか。
街が時間の経過と共に変化する、KNA構造の世界は、すでに挿入された白昼夢であったかのように消えていた。
何千年、何万年続いていたのかわからない歴史は、一回の瞬きであったかのように、儚く消えていた。
それに伴い、“底なる神殿”もまた、消えていた。
世界は逆転していた。
光だと思っていたものは、闇へ。物質であると思っていたものはエネルギーへ。男であると思っていたものは、女へ。変幻自在な構造は、強固な安定性へ。世界は、裏っ替えっていた。ケイロはピンと来た。あの“底なる神殿”が立ち入り禁止にした、そのラインを超えていったとき、人間もまた、あの底のない闇に吸い込まれていくのだろう。その先には、ちょうどこの世界と質を異にする、逆転構造の別の世があり、そこが新たな始まりの世界なのではないか。ということは・・・。
ケイロは、考えだした。あの自殺や自己のように報道された、あの自らあの場所に突っ込んでいった人間たち。彼らは知っていたのではないだろうか。世界が最期を迎えることを知っていて、その前に自ら変化を起こしていったのではないか。飛び込む勇気を奮わせ、彼らは一足先に、次なる世界に移行していったのではないか。そのような通路が、あの場所であったのではないか。だから人々は怯え、恐れ、畏敬の念を持って、祈り叫ぶための場所として、認識したのではないか。だからこそ、神に成りえたのではないか。死と再生を生む場所だった。次の世界へと通じる、唯一の通り道だった。
ケイロはここで、意識を今へと戻す。
このKNA構造は、次第に、どのような変化をとげていくのだろうか。世界が、まった裏っかえっていくその最期の瞬間を、どのように街は表現するのだろう。その中で人間はどんな現実に直面し、どんな運命を辿っていくのか。ケイロは、そのプロセスの逆算を思い描きながら、作業に没頭していった。
ケイロは、神殿と同化した。神殿がこの世に出現していく世界と同化した。それに合わせるように、周りの物質は変化していった。この都市が、“底なる神殿”を軸に成立しているように、次なる都市は、この屹立する巨大な神殿の存在を、その後のすべての進化に対する根幹に据えているはずだった。
ケイロは今、二つに完全に分かれてしまっていた。意識のすべては、屹立する神殿にあった。半分のエネルギーは“底なる神殿”が中心に居座る、これまでの世界にあった。その乖離は、次第に加速していった。そして最期に向かう、世界の疾走を、目の当たりにしていった。あれほど力強く、変化を構造的に起こしているKNAが、次第に綻び始めていた。歯車の一つが脱線し、車輪が底のない闇に落ちていくがごとく。大きな音をたて、別の歯車の一部に激しく衝突する。そのように、この見えない機械構造の強固な枠は、破壊されていった。それは、天災のようにも見えた。強風が発生したり、マグマが吹き出したり、止まらない地震が発生したり。だがすべては、KNA構造の崩壊だった。断片的で、不規則に、地球全体で起こる、不可思議な現象とは別に、“底なき神殿”の付近で、起こる怪現象は、止むことなく、時間と共に増幅していった。
吸い込む範囲と、威力を加速させ、必要な養分をすべて、吸い取るモンスターのように。
ぱっくりと口を開け、人間も物も、植物も地面も空気も、吸い取れるだけ吸い取っていき、遠くから見ると、その場所は、黒く輝いているように見えた。闇というよりは、光っていた。黒い強烈な光を放つ現象を、ケイロは初めて見た。
ケイロは、黒い絵の具を使い、壁のほとんどを、黒く塗りたくっていた。部屋じゅうが闇に輝いているようだった。