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後夜の暗礁



















   第二部 第五編 クリスタルガーデンの消失





















 毎月、定例のミーティングが、事務所の一室ではとり行われる。

 事務所所属のタレント、社長マネージャー、合わせて八人が集まった。

 佐々木ウンディーネ社長が、事務所全体の経営状況を説明した。

 またそれぞれのタレントが抱えている問題点を発表し、みなでその認識を共有するというようなこともやった。ひととおり、退屈な報告会が終わり、来月からの各タレントの、中心になる仕事を発表した後で、長谷川セレーネは佐々木社長に、クリスタルガーデンの話題を振った。

 あの物件はどうなりました?売れました?誰か買い手はつきました?

 長谷川セレーネは社長に自宅のことを話し、実は買って住んでみたものの、あまりのサイズの大きさに、次第に辟易してきたこと。掃除をする気にもならず、周りからじろじろと見られているような気が常にしてきて、気分が悪くなるのだと言った。

 夜になると、本当に心細いのだ。確かにセキュリティは強度であり、外からは誰の侵入も許さないのだが、元々内部に住み着いている奴らに対しては、一体誰がどう対処してくれるのだろうか。長谷川セレーネはそのことについては社長には語らなかったが、むしろそれが一番の問題であった。住み始めた初日から、感じていたことだった。この家にはすでに先客がある。これだけの大きな家が存在する意味も、何だかわかってきた。所有者が誰であろうが、すでに大勢の人間が、この家には住んでいたのだ。

 長谷川セレーネは、霊感のようなものは自分にはないと思っていたが、ここの情況は、異常だった。半年以上、所有してはいられなかった、過去のオーナーたちの顔が目に浮かんできた。シカンも相当苦労したことだろう。私はシカンの家だったときに、一度だけ彼に呼ばれて、行ったことがある。あのときは、他にも客がたくさんいた。なので、全然気がつかなかった。誰か一人でも、部外者がそこに居れば、そんな元々いる影たちも、闇の中へと潜りこんでしまうのだろうか。客人が帰り、住人だけになった時、影たちは自由に躍動し始めるのかもしれない。

 シカンもまた、一人で過ごした夜のことは、誰にも言わなかったはずだ。

 しかし、彼もまた、悩まされていたはずだ。

 彼は家を手放す前に、何らかの事件か事故に巻き込まれて、行方不明になってしまった。

 もしかすると・・・、長谷川レーネは内心思った。

 まだ、クリスタルガーデンの中にいるんじゃないだろうか・・・。生きているんじゃないだろうか?いや、さすがに、それはない。いるとすれば死んでいる。どうしてだろう。自ら命を絶ったのだろうか。人知れず。そういう男に見えただろうか。よく覚えてはいない。

 その、正体不明の蠢く影たちが、シカンの命を奪ったのだろうか。

 私も夜な夜な、狙われているのだろうか。

「そのことなんだけど」

 佐々木ウンディーネ社長は、答えた。

「名乗りをあげてきた不動産会社は、いた」

「不動産屋か」

「不動産屋だけじゃなく、その不動産屋に物件の依頼をしていた人に、紹介したらしい。それで、購入に前向きな反応を、得ているみたい」

「ほんとに?」

「たぶん、決まるんじゃないかしら。そうなると、来月には、あなたも出ていかないと」

「来月とは言わず、今からでもいい」

「けれど、相当叩き売らないといけないわよ、きっと」

「でも、購入には、前向きなんでしょ?」

「ずいぶんと、低価格で話を持ちかけたようなの」

「いくらなんでも、それは駄目よ。ある程度、まとまったお金を残してもらわなくては」

「交渉次第ね」

「けれど、いるものね。物好きも。そのうちきっと、誰も欲しがらなくなるわ。あの家は。そういえば、北川会長は、今日も来ないの?」

 長谷川セレーネは、今や事務所の会長になっている彼女の事を訊いた。

 北川裕美と、同じ会社に存在するのは意外だった。形としては、佐々木ウンディーネが社長に就任するとき、知り合いの北川裕美も一緒に誘って、自分が実務を担当するから、あなたには事務所の顔として居てもらいたいと。対外的にも、所属のタレントに対しても。どうも、そういうことらしかったが、実体はよくわからなかった。

 長谷川セレーネも、特に、気にすることもなかった。ただ憧れの女性と、これからは傍で生きることになるという嬉しさ。緊張感。このときは舞い上がってしまいそうになった。しかし今だに、北川裕美は事務所に姿を現すことはなかった。

 電話で何度か話しただけだった。彼女は今、画業に集中しているらしく、あまり外部と接触したくないというのだ。女優業も同時に再開していたが、それも自宅アトリエからロケ地に直行しているらしく、事務所に顔を出すことはなかった。

 次第に長谷川セレーネは、そんな居るのに居ない、彼女の存在が目障りになっていった。代わりに会う顔といえば、決まってこの佐々木ウンディーネだ。34歳の女で、かつてはモデルとして活躍していた。十年近く前の北川裕美の全盛期時代、二人は知り合った。仲良くなった。しかしこの女と、北川裕美のどこが重なりあったのか・・・。セレーネにはさっぱりわからなかった。

 たしかに顔はいいし、スタイルも抜群ではあった。頭もそれなりに切れた。けれど人前に立つ人間としては、いささか魅力に乏しかった。本人もそれを十分に自覚しての引退だったのだろうか。その変わり身の早さに、彼女の勘の良さと頭の回転の良さが、現れているのだろうか。そのタイミングでやめなくても、まだあと何年かは、十分にモデルとしての輝きは続いていただろうし、仕事もたくさんオファーが来ていたことだろう。しかし彼女は裏方へと回り、経営の勉強をしたのだろうか。その後、事務所の社長に収まることになった。よりによって私があたらしく、井崎から譲ってもらった事務所に。初めは違和感を覚えたし、別の人間の方が望ましかった。けれど北川裕美がセットで来ることを知ると、私はウンディーネのことはどうでもよくなった。それ以来、特に気にすることもなかった。

 けれどここまで北川裕美の姿が見えないとなると、佐々木ウンディーネの行動が、言動がいちいち鼻についてイライラしてくる。この女とは合わない。二人きりで部屋に置かれたら、私は間違いなく発狂してしまうだろう。

「まだ、詳しいことは不動産屋には聞いてないんだけど。もちろん、買い手が誰であろうと、長谷川さんは関係ないのよね。売れて手放すことができれば、それでいいのよね」

「そうです」

 長谷川セレーネは、ぶっきらぼうに答えた。

「進めておくわね。本当に、いつでも出ていけるのね?」

「何度も、言ってるでしょ」

 あからさまに、不満たっぷりの口調で、長谷川セレーネは答えた。

 部屋にタレントやマネージャーもいることを強烈に意識し、セレーネは無理やり心を落ち着けた。

 北川裕美がここにいてくれれば、そんな気も治まるだろうにと思った。

「北川さんとは、どんな関係なんですか」と、今にも訊いてしまいそうになる。

 ミーティングの焦点は、その後、新人の戸川兼のことに集中していった。

 長谷川セレーネの意識は、次第にぼんやりと薄れ始めていった。



 売買は呆気なく成立した。ミーティングの三時間後に、セレーネの携帯電話にメールが入った。

 ほとんど、旅行者のような荷物は、すぐにスーツケースとボストンバックに詰め、本当に翌日にはそのままタクシーを呼んで、出ていける状態になった。引っ越し先も、ウンディーネに任せた。すぐに契約を結ばせた。あっというまの出来事だった。その夜が長谷川セレーネにとって、クリスタルガーデンで過ごす最後となった。

 三か月は何とか住んでみた。初めから、こんな結果になるような気がしていた。だがここである時期を過ごすということが、ある意味、必要な気がした。初めて見た時は一目ぼれだった。ずっと求めていた家だと思った。自分の理想が目の前に突然出現したことに驚いた。ある種のご褒美だと思った。大学を休学してから芸能界で走ってきた、そのご褒美だと思った。ここで少し、贅沢をしながら休息したらいいのだと思った。けれど結局、ここに男を呼ぶことはできなかった。誘うことすらできなかった。こんなにも大勢の影に常に見つめられているのだ。男との行為を曝け出せるはずもない。風呂にはいるときでさえ、タオルを身体に巻き付け、できるだけ皮膚を晒すことを抑えたりもした。体は休まらない。心も休まらない。長谷川セレーネはそんな不安定な気持ちを我慢した。

 ここは一体誰のものなのだろう。今までも、これからも、長谷川セレーネはこの家がこの土地が、個人にはまるで所有することのできない、手にいれることのできない、拒絶感をさらに強めて、存在するのではないかと直観した。そうなのだ。ここは誰のものでもない。この後も、私は賃貸契約を結ぶ人間を、細かにチェックさせようとさえ思った。手放すに決まっているそのときを、この目で見て、その後、彼らはどうなってしまうのか。どんな人生になっていくのか。そもそも、購入する人間に、何か共通点のようなものはないだろうか。とりあえずは次の人間だった。

 そしてこの土地が何故、このような影の蠢きを始め、個人が所有することを拒否する空気を醸し出しているのか。それを知る必要があった。特別な場所だからか。聖地?浮かんできた言葉に驚いた。その言葉はすべての疑問を一瞬で吹き飛ばす、強烈な言葉だった。世界中には多くの人間にそう呼ばれ、歴史的にも認知されているそのような場所がある。けれども私は、そんな場所が聖地であるという実感を得たことはなかった。実際に日本でも。そのような場所に足を踏み入れたことはあったが、確かに空気感は違っていたかもしれないが、私自身、聖地だと感じたことはなかった。あくまでそれは他人事だった。私の現実の中には、決して特別な場所として刻まれることもなかった。それなのにと、長谷川セレーネは思った。まさかとは思う。それに聖地が、こんなにも居心地が悪いはずがなかった。そもそも聖地というのは、誰にとっての、ものなのだろう。不特定多数の人間にとっての、聖地など存在するのだろうか。

 その夜はずっと眠ることができなかった。聖地という言葉が発狂しそうなくらいに頭の中を駆け巡った。ここは聖地なのか。何の聖地なのか。誰だろう。誰の土地なのだろう。個人には決して所有されたくはない。大地はそう主張しているようだった。そうか。私は購入してここに暮らしているから、気分が悪くなるのだ。もしそうではなく、私以外の人間が所有し、その上で、私がここで過ごすとしたらどうだろう。意外にいけるかもしれない。事務所名義で、仕事場として存在させて、それで、私の家として、住むのはどうだろう。真夜中ではあったが、佐々木ウンディーネの携帯に、電話をかけた。何度も何度も、出るまで執拗に鳴らし続けた。留守電に繋がること十五回。擦れてほとんど聞こえないくらいの小さな声で彼女は出た。長谷川セレーネは事情を説明し、何とか売買契約は中止にしてもらえないだろうか。そして、事務所がとりあえず買い取って、私に貸すということで、段取りをつけてはくれないか。長谷川セレーネは迫った。答えはもちろんノーであり、もう二度と電話をかけてくるなと怒鳴られた。なぜか、途中からは、通話は男に変わっていた。気づけば男に怒鳴られていた。確かに無謀な行動だった。最近の私は、どこか頭のネジが外れてしまっている。おもい起こせば、セトのVA事務所を出た後からだ。独立すると啖呵を切り、井崎の事務所と合併することで、私は自分だけの居場所を作ろうとした。あれからだ。私の中でコントロールの効かない部分が目覚め始めたのは。事務所のVAは消滅し、そこに所属していたタレントも、私以外はすべて死んでしまった。心の繋がりは北川裕美一人になった。その彼女とも今や、良好な関係とは言い難かった。今の状態では、佐々木社長を通じてしか、北川裕美と連絡をとることができなかった。もともと、北川裕美から直接、私のところに連絡がきたことなどなかった。私もまたそうだった。気軽に話し合う関係ではなかった。何を話していいのかすらわからない。ただ、偶然、道でばったり会う以外に、よく考えてみれば会ったこともなかった。テレビ番組で共演したのだって、偶然の事故といえばそれまでで、しかも出演中も、まったく会話すらすることはなかった。アナウンサーを介して、やりとりをしたわけでもなかった。心を鎮めてよく考えれば、心の繋がりなど、あったものではなかった。私の一方的な憧れであり、共感であり、畏怖の念であった。

 関係は今悪化したわけではなく、関係すらほとんどないような状態だったのだ。それなのに、妙に近くにいるような状態だった。気が変になってくるのも、当然なのかもしれなかった。

 だんだんと、長谷川セレーネは、心の落ち着きを取り戻していった。

 この眠れない夜だからこそ、整理しておかなければならない事があるのだと感じだ。そして、購入以来、ずっと感じ続けてきたクリスタルガーデン内の蠢く影が突然、ベッドの周りを囲み、聳え立っていることにも気づいた。はっきりと数をかぞえることができた。五人だった。五人の巨人が私を見下ろしていた。恐ろしくて目を瞑った。うつ伏せになり、慌てて布団にくるまった。寒気が襲ってきた。そんなことをしても、無駄なのに、抵抗するというポーズを見せつけたかった。私は拒絶したのだとはっきりと示すために。私は受け入れなかったのだと。長谷川セレーネは布団越しに、蠢く影に身体を完全に押さえつけられ、彼らは長谷川セレーネの衣服を引きちぎり、強引に両腕を持ち上げられ、下半身もまた、無防備に夜のクリスタルガーデンに、曝け出されてしまった。

 初めからこうなることはわかっていたのかもしれない。

 再びその言葉を繰り返した。今さら、男を招き入れなかったことを後悔しても、仕方のないことだった。結局、私は、私の秘部は、私そのものは、こうして複数の男に蹂躙される運命だったに違いない。長谷川セレーネは、自分とは違う性のエネルギーの奔流に対して、完全に身を預け、次第に自ら快楽の淵を探るように全身をくねらせた。抵抗したのだという痕跡もまた、夜のクリスタルガーデンに、いや、大地の奥底に投げ入れていた。

 深く一つになることで、ここまで生きてきた自分をも壊そうとしていたのかもしれなかった。



 渡されたファンレターの束の中には、見覚えのある名前があった。

 鳳凰口昌彦。一度、鳳凰口建設という会社に、履歴書を提出したことがあった。

 就職するために上京してきたときのことだった。鳳凰口建設に内定したが、結局、採用されることはなかった。社長の鳳凰口は突然亡くなり、会社も存続するのかどうかも、微妙になった。そこの息子が鳳凰口昌彦だった。そのあと鳳凰口建設がどうなったのかは知らない。あのときは、昌彦は継がないことになっていた。あの男のことはあまりよくは知らなかったが、あのときは確かに職はなかった。自宅で彫刻家の真似事のようなことをしていた。その男が何故ファンレターなど送ってくるのだろう。戸川は警戒した。ウンディーネに事情を話し、誰か別の人間に、開封してはもらえないかと言った。ウンディーネは即刻、その場で封筒の端を激しく破いた。中から、紙きれを取り出した。黙読し始めた。戸川は破かれた封筒を手に取った。何度も表裏を、ひっくり返しながら、別に何の仕掛けもなかったことを、何故か、残念な気持ちで受け止めた。

 佐々木ウンディーネには全部読まれていた。彼女は、その手紙を戸川に渡そうとしなかった。何回か宙を見上げては、再び頭を整理するように、ぐるぐると回してから、また元へと戻した。

「返して下さいよ」ひらひらと、彼女の手に弄ばれた紙を掴もうと、戸川は身体を乗り出した。

「ねえ、この人よ」

 佐々木ウンディーネは言った。

「長谷川さんは、もう帰ってしまったわね。いいっか別に。彼女に報告するまでもない。戸川君。この鳳凰口って人は、いったい誰なのよ?この人よ。長谷川さんの家を購入するのは」

「昌彦が?」

「そうらしいわ」

「そんな、金を持っているのか、あいつ」

「どういう知り合いなの?戸川くん」

「ほとんど知りませんけど。ただ。いや、もう隠したって、どうせ、バレるでしょうから、言ってしまいますけど、就職活動してたときに、彼の会社に、面接に行ったことがありましてね。彼の家が、建設会社をやってまして。親父さんなんですけど。昌彦って奴は、まったく、継ぐ気はなかったみたいだけど。家に引きこもってましたよ、彼。彫刻家だって言ってました。少し気のふれた男でして、どうして、そんな大金を持っているのか」

 戸川は、金のことを呟き続けた。

「鳳凰口建設。たしかに、存在するわね」

 佐々木ウンディーネは、すでにネットで検索をしていた。

「そんなはずは」

 戸川は身を乗り出して、パソコンの画面を見た。「ほんとうだ」

「昌彦が、継いだんだ」

「そうでも、ないみたい」

 佐々木ウンディーネは、画面をスクロールしていった。

「代表は、激原徹。この男ね」

「ゲキハラ?ゲキハラって・・・まさか」

「知ってるの?この顔よ」

「これだ!俺と同じ時期に面接を受けた男だ。鉢合わせたことがある。なぜこの男が?そんなはずはない。あのとき、採用されたのは、俺なはずだ。あいつは落ちた。なのに何故。だいたい、鳳凰口建設はあのとき潰れたはずです」

「鳳凰口昌彦が購入するわけではなさそうよ」

 佐々木ウンディーネは今だ、手紙を戸川に渡そうとしなかった。

「鳳凰口建設が、建物を改装するらしいわね。あの豪邸に手を入れるみたい。それで、全面リニューアルするって。で、肝心のオーナーは、また別にいるみたい。はっきりと記してはいないけど、そんな雰囲気ね。鳳凰口って人は仲介しているだけのようで、たまたま戸川君のことを知ってたから、連絡してみた。長谷川セレーネの繋がりで。彼女を紹介してほしいのよ。何か直接、訊きたいことがあるみたい。だから、戸川君には関係ないわね。あなたも昌彦って男も、あいだを取り持つだけのようね。そういう私もそうだけど。旧オーナーの北川裕美と、新オーナーの誰かさんが、繋がりたいだけね。いろいろと経由しないと辿りつかないから」

 ここでやっと、戸川に手紙は渡された。

 なぜ彼女が、渡すのを渋っていたのかが全然わからなかった。

 佐々木ウンディーネが、特に細工をしたようにも見えなかった。

「あなた、鳳凰口って男には、会うつもりなの?」

「さあ」

「さあって、一度は、会わなくては駄目よ。こういう男はしつこいから。一度会って、それで、懐かしい話でもしてこなきゃ」

「長谷川さんのことは?」

「私が何とかするわ。絶対に直接会わせては駄目よ。何かの罠かもしれないし。あなたもそうだけど、一般人に、それも素性の知れない人に、無防備で会おうとしては駄目。あなたも自覚しなさい。この鳳凰口という男と、その背後にいる人間たちは、人気の出てきたあなたを利用しようとしているのかもしれないから。いや、あなただけじゃない。長谷川セレーネもそう。いや、これは、そもそも、まったく家を購入する気なんかなくて、ただ、長谷川セレーネに近づきたい人間の行動なのかもしれないから。この手紙に書いてあることは、全部嘘で、ただ長谷川セレーネと、話しがしたいだけなのかも。気をつけなさい。とにかく気をつけないさい。でも、知り合いなんだから、一度は会っておきなさい。その代わりに、長谷川セレーネを紹介しては、駄目。きっぱりと拒否するのよ。そのために会うんだから」

 まるで、母親に諭されるように、一方的に言われた戸川は、そのあと鳳凰口に電話をした。

 すぐに二人きりで会う事になった。

 しかし待ち合わせた居酒屋には、昌彦だけではない黒い影が、その横にも、複数蠢いていた。

「久しぶりだな、戸川」

 手を差し出してきたのは、鳳凰口昌彦だった。ずいぶんと値段の高そうなスーツを着ていた。腕には豊かな気が溢れた時計の存在があった。

「手紙は届いたようだね。ああいう、ファンレターというのは、ちゃんと目を通すものなんだな」

 戸川は握手に応じた。

「久しぶり」その横から近づいてきた影は、次第に人の姿を形作った。

「水原か」

 戸川はおもわず嬌声を上げた。

「ということは・・・」

 他の影に、戸川は意識を移した。

 次々と人の輪郭をとり、戸川に手を差し出してくる。

「激原・・・。そして、あ、たしか、見士沼。そうだよな」

 戸川を含めた五人の男は、その後軽く抱き合った後で、席に座った。

「どういうことなんだ」

 事情の分からない戸川に、鳳凰口昌彦は説明を始めた。


 実は、見士沼の実家の教団が、新しく設備を建てるので土地を探している。それで白羽の矢が立ったのが、クリスタルガーデンだった。その所有者は、長谷川セレーネ。戸川、そのときだよ。お前が芸能界で活躍しているのを知ったのは。それで、すぐに連絡したんだ。鳳凰口建設が、建物の改装を担当する。これは仕事で、集まったんだ。特に俺は、何をするわけでもないけど。鳳凰口昌彦は言った。

「水原?水原はどうして?」

「俺も、特には関係ないよ」水原は答えた。鳳凰口の方をちらりと見た。

 その一瞥を、戸川は見逃さなかった。この物件の売買に、最も関係なさそうに見える鳳凰口と水原が、妙な意思疎通を計っているように、見えたからだ。

「まあ、同窓会のようなものだ」と水原は笑った。

「そうか」と戸川も同調した。「長谷川セレーネを、紹介してくれってことなんだろうけど」

「いやいや」と鳳凰口は大げさに両手を使って、そうではないことを表現した。

「そんなお願いなど、出来るわけないじゃないか。君に伝言してもらいたいだけだよ」

「伝書鳩みたいに?」

「個人情報のやりとりを、してほしいだけだ。といっても、家に関係することだけね。いろいろと問題のある家のようなので、事前に知っておきたいことがあって。もちろん彼女は本当のことは言わないだろうと思うけど。でも、出来るだけ、正直になってもらいたいんだ。その代わりに、逆に、購入価格を上乗せしてもいいという条件をつけたい。そのことを、伝えてほしいんだ。頼むよ、戸川」

「そんなことでいいのなら、いくらでも、訊いてあげるよ」と戸川は闊達に答えた。「ただ、ウチの社長が少しうるさくてね。だから、あまり表立っては出来ないけど、何気なく、長谷川とはやりとりするよ」

「すまんな、戸川」

 見士沼は、深々と頭を下げた。

 やはり、見士沼個人の話しなのかもしれないと、戸川は思い直した。

 見士沼と長谷川のラインに、仲介の人間が繋がっているだけなのだ。

「そういえば、激原」

 戸川は、親しみの念をほんの少しだけ混ぜて、彼の名を呼んだ。

「まさか、お前が、社長になっているとはな」

「実は、俺も、つい何日か前に、知ったことなんだ」鳳凰口が、割って入ってきた。

「そうなのか?」

「もう家はあれから、出ていてな。実家には戻らなかった。鳳凰口建設は、親父と共に消滅して、財産も全部処分したと思っていた。俺は何も受け取らず、弁護士に任せて、それで」

「行方をくらました」激原が言った。「俺も探したんだけどね。半年あれば、状況なんて一変してしまう」

 激原は、鳳凰口に向かって言った。

「商売してるんだろ?うまくいっているようで、よかったな。そんな商才があったのなら建設会社を継いでも、うまくいったんじゃないのかな?」

「いかないよ」鳳凰口は、一瞬不機嫌になった。

「とにかく、頼むな、戸川」

 そのあと、戸川は先に帰ったが、四人はその場に残った。結局、Kの話は、一度も出なかったなと戸川は思った。そして、半年前のあの出来事は、もうすでに、現実味が全くなくなってしまっていることに気づいた。



 戸川は長谷川セレーネに、次期クリスタルガーデンの購入者が、自分の知り合いであることを伝えた。

 彼らが知りたい情報を彼女に求める代わりに、家の値段を、提示額の二割増しにできることを伝えた。ただし、ここで情報交換をしていることは、社長には黙っていてほしいと言った。社長はこういうのを嫌っている。

「言うわけないでしょ。むしろあの女は、除外したいくらいよ。今になって、あの女に売買を頼んだのを、後悔しているくらい。ここで直接、やりとりした方がいい。でも、もう遅いわ。急に値が上がるのを、あの女は怪しむんじゃないかしら?」

「なら、その、二割増しの分は、直接、長谷川さんに振り込むってことで、お願いしておきますけど」

「助かるわね。何でもしゃべっちゃう」

「で、ですね、率直に言って、手放す理由は、何なのですか?表向きの理由じゃなくて、誰にも話せない理由を教えてくれと」

「いい質問ね。でもやっぱり、あなたには話せないと思う。それくらい話したくないことなの」

「わかります」

「その、見士沼くんだっけ?」

「いや、交渉の席につくのは、鳳凰口昌彦という男です」

「昌彦さんに、直接、話したい」

「直接、お会いしますか?」

「そのほうが、いいと思う」

「話が早いですね。では、いつが、よろしいでしょう」

 今から行こうと長谷川セレーネは言った。「連れてって」

 戸川は鳳凰口に電話をし、事情を説明した。鳳凰口の方もすぐに会いたいと言ってきた。

「じゃあ、せっかくだから、クリスタルガーデンに来てもらいましょう。外では誰に見られてしまうかわからない」

 こうして、その日の夜に、長谷川セレーネと鳳凰口昌彦は会うことになった。

 戸川は同席することを許されず、鳳凰口も他に誰も連れては行かず、一人で行くということになった。

 後日、長谷川セレーネに、この時の話しを訊くわけにもいかなかったし、一度、鳳凰口から礼の電話をもらったが、情報交換は一晩で終わり、順調に契約を結ぶことになるだろうと、彼は自信満々だった。

 戸川は、鳳凰口の、その一晩でという言葉が、何故かしら引っ掛かった。クリスタルガーデンに一組の男女が、ずっと一緒にいるというのが、戸川には良からぬ妄想を掻き立てた。


 その後、戸川は知り合いの彼らと会うことはなくなった。このタイミングで、仕事が多忙を極め始めたことで、彼らのこともまた忘れてしまった。戸川は自分がまさか芸能界に進むなんて、考えたことすらなかった。内定の決まらない就職活動は、すでに三か月を過ぎていた。面接では確実に落ちた。それなりに雰囲気よく談笑をしていたので、いつも採用は決まったかのように錯覚した。あとで問い合わせをするわけにもいかず、戸川は思いあまって、面接中に、自分の何がいけないかを、面接官に訊ねてしまった。はっきりと理由が知りたかったのだ。

 今後の自分にとって、大事なことなんです。

 彼は真剣に、五十代半ばの部長という肩書きの男に迫った。

「戸川くん、君はとてもいい人間のように見えるよ。でも、うちの会社には、必要ない。あなたのような人を、僕は雇えるとは、とても思えないから。自信がないんだ。君に居場所を作る自信が。何か申し訳ないような気がしてくる。罪悪感のようなものを覚えてくる。具体的にどういうことなのかは、私にもよくわからない。でも、採用はしていけないと、心の底からそう思うんだ。本当にすまないとは思うよ。君の問題というよりは、私たちの問題なんだ。いや、私のといっていい。私が嫌なんだ、戸川くん。私が、君の道を作る責任者になっては、いけないような気がするんだ」

 彼は、戸川の眼を見て真剣に話してくれた。

 戸川はなぜかしら、感動を覚えてしまった。

 こういった、率直に話す上司のもとで働けたら、どんなに素敵なことだろうと思った。

 その夜、ふとこれは、自分の向かう場所が、全然見当違いなのではないかと、戸川は思うようになった。どうして、うまく展開していかないのだろうというよりは、違う可能性を、示唆しているかのように、戸川には感じられたのだ。やめようと思った。こんなことはもうやめようと。一度、いや初めから、心の状態をセットし直そうと思った。そもそもの始まりから、いかに自分はいい加減なスタートを切っていたのだろう・・・。それを思い知らされた。ほとんど機械的に上京し、ただ働き口を探していたという、それ以上の行為は、何もなかったのだ。行動の、動機となっていることといえば、ただ地元にいたくない。親の世話になりたくない。ある程度の、生活費を稼ぎたいという、不明瞭で、別に自分の望みから出てきたわけでもない、誰かの受け売りな発想、そのものだった。

 戸川は吹っ切れた。別に就職なんてしなくて構わないじゃないか。それよりも、どうやって生きていこうか。どう生きるのが、最も自分らしいのか。何をしたら他の人は喜んでくれるのか。俺にしかできないこととは、何なのか。答えのない問いを、戸川は毎日、自らに投げかけ続けた。ヒントはどこからも返ってはこなかった。

 戸川はぶらぶらと街を歩く日々を送る。

 ホテル住まいを続ける資金は途絶えてしまった。それでも何とか民宿を訪ね、ほとんど詐欺同然の交渉の末に、破格の値段で、一か月の滞在を勝ち取った。

 民宿という看板は出ていたものの、おばあさんが一人で経営していて、客はまったく来ることはなく、ほとんどつぶれているのではないかと思った。これなら交渉するまでもなかった。しかしそのおばあさんは、別に呆けてるわけではなかった。逆に彼女は一日中、何誌もの新聞を読み回していた。いつ発刊したのかもわからない薄汚れた書籍を読んでいることもあった。戸川が働きもせず、一日ブラブラしていることにも気づいていた。けれども何も言ってこなかった。

 そんな日々が続いた、ある日のことだった。自らに投げ続けた問いへの答えが、その日に一気に舞い戻ってきたかのごとく、これまでにない現象を怒涛のように運んできた。

 戸川に話をかけてくる女性の姿があったのだ。初めは道を聞かれたり、荷物を持つのを手伝ってほしいと言ってきただけだったが、次第に今からいっしょに食事をしないか。うちに来て飲まないかと、どう考えても裏がありそうな、誰かの陰謀かとも思うくらいの積極性を見せる女性の姿が、次々と現れ出てくるようになったのだ。

 一度、そうした現象が起これば、それまで躊躇していたかのように、そんな欲求不満な状態のような女性たちが、勢いよく訪れてくるようになる。そしてその流れは次第に若い女性に留まらず、男性にもまた、いや人間だけではなく、犬や猫にまで敷衍し、さらには民宿のおばあさんにまで伝染していった。


 戸川はそれから民宿に帰ることが少なくなっていった。

 出会った女の部屋で、寝泊りを繰り返すことが増えたからだった。

 もうすでに、民宿には一か月分の宿代を払ってしまっていたので、特に婆さんに報告するまでもなかった。それでも、一度、荷物をとりに行ったときに、婆さんは初めて、まともに口を聞いてきた。職に困っていたらココに連絡しなさいと。いいね。戸川はいきなりそんな事を言われたので驚いた。婆さんの眼をじっと見た。婆さんの眼は実に美しく、澄んでいることに、そのとき初めて気づいた。

 まともに顔など見てなかったから、こんなにも素敵な女性が近くに居たとは、全然知らなかった。婆さんは、民宿の経営者という以外に、また別の顔を持っているようだった。

 困ったら来なさい。でも全然、困ってはいないね、あんた。そう言って彼女は笑った。何もかもがお見通しのようだった。

 戸川は、それから半年近く、何人もの女の元で過ごした。どうして突然モテるようになったのか。戸川にはわからなかった。学生のときから、女子に人気のあったことなど、一度もなかった。誰かに、強烈に好かれるということを、経験したことはなかった。

 あの民宿に泊まったことが、転機のきっかけにでも、なったのだろうか。婆さんの瞳がずっと忘れられなくなった。さすがにいつまでも、女の世話になっているわけにもいかず、婆さんに教えてもらった番号に、電話をすることにした。それが今所属している事務所だった。佐々木社長との面会がすぐに決まり、これまで、まるで採用とは無縁だった自分が、あっけなく所属先を決めた瞬間だった。婆さんと事務所の関係は、詳しくは分からなかったが、彼女はどうも芸能界の周辺にいたらしく、そういった関係で、今スカウトのようなことをやっているようだった。民宿というのはやはり表向きだった。金になりそうな逸材に、目を光らせていたのだ。それでも彼女の眼は美しかった。若い女と寝続けていたが、不思議と手も触れ合ったことのない、婆さんにも性的な何かを感じてしまった。

 戸川は晴れて芸能事務所に所属することになった。そこに長谷川セレーネもまた所属していた。そのことを知るのは、正式に契約を結んだ後のことだった。北川裕美のことも、もちろん知っていた。戸川の人生は突然動き出したのだった。



 激原は、依頼されたクリスタルガーデンの改装に、喜々として取り組んでいた。

 自ら率先して、彼は指揮をとった。まず、このクリスタルガーデンそのものに、興味が湧いた。こんなすばらしい家を持つことなど、まるで想像したことはなかったが、このとき初めて、激原は突然起こされたように、強烈に欲しいと思ったのだ。

 半年前の自分とは違った。今だったら、これを望んでも可能かもしれない。半年後、いや、一年後になら、買うことができるかもしれない。俺は将来、こんな家に住むことができる。清々しい気持ちになってきた。激原はクリスタルガーデンの改装を、まるで自分の家を装飾するかのごとく、自分ごととして、取り組み始めていた。

 自分の家を、自分の手で建てるということが、どれほど幸せなことであろうか。激原はまた、鳳凰口建設のことを同時に思った。確かに今は引き継いだこの会社を、ある意味、元々の役割の延長線上にもっていく以外に、道はなかった。そういった見えている道を行くという、安定性のもとだからこそ、いつもの激しく込み上げてくるこの感情の発揮場所の確保ができる。この破壊的なエネルギーの落としどころが、出現してくる。

 その場所ができたことが本当にうれしかった。感謝すべきことだった。それだけで深い満足感を覚えた。しかし、このクリスタルガーデンを見たとき、激原には眠っていたもう一つの欲望が目覚めていくことを知った。鳳凰口建設もいずれは、完全に俺のものになるであろう。今はまだ移行期なのだと自覚した。鳳凰口昌彦と再会したことも、影響していた。彼はまったく会社を継ぐ気など、なかった。これまでも、どこか気になっていた。あの息子が突然姿を現すんじゃないか。特にこうしてまた、経営が軌道に乗り、会社の規模も徐々に拡大していくうちに、やっぱり俺のものだと言い始めるんじゃないのか。金をせびりに来るんじゃないのか。裁判を起こされたりするんじゃないのか。少なからず、そんな不安があった。

 だが、それも解消した。彼は、この俺に感謝までしていた。何度も念を押して訊いたが、彼は組織というものを、本当に毛嫌いしていて、社員を一人雇うことさえ、肌に合わないといった様子だった。自分が、雇われることに対しても、ひどく嫌っているようだった。彼にとっては、雇用関係は表裏一体であり、そのどちらの側につくというイメージも、全く持っていないようだった。

 それでも彼の外見からすると、金はかなりもっているようだった。何か単独で商売をやっているような感じもした。その風貌にも、激原はまた、さらなる安心を得た。彼は確実に建設会社に関わりを持つことはないだろう。少なくとも内部の人間としては。それでも、ほんの少しの懸念は残った。完全に彼との関係を絶つことはできなかったからだ。今度のクリスタルガーデンのこともそうだった。彼も関係者の一人として参加していた。それに創業者の息子という立場は、永遠に変わりようがなかった。

 しかし激原は、そんな気分さえあっけなく覆すほどに、クリスタルガーデンに魅了されていった。

 身士沼祭祀と何度も打ち合わせを重ねた。ほとんど、彼としか会わなかった。結局、最初に会ったとき以来、水原も鳳凰口も、姿を見せることはなかった。本当に、うちと見士沼の間を取り持っただけだった。仲介しただけだった。完成するときまで、会うことはないのかもしれなかった。

 見士沼に、彼ら二人のことを聞いた。

 水原とは、けっこう頻繁に会っているが、鳳凰口に至っては、ほとんどまた行方知れずになっているということだった。

「あいつは、ほとんどが、そういった状態だ」と水原は言った。

「俺にも、居場所はまったくわからん。ほっとけよ。俺らが気にすることじゃない」 

 そうだなと、激原も相槌を打った。

 クリスタルガーデンは、外観をほとんどそのまま生かすことになった。新品同然だった。

もう一年以上も、違う持ち主に使われていたが、そんなふうにはまったく感じられなかった。すでに長谷川セレーネの持ち物はすべてが運び出されていて、激原が入ったときには、本当に建売に出された直後のようだった。モデルルームのようだった。

 激原は、ひととおり自分の眼で実物を把握し、そのあとで、見士沼祭祀と会った。

 彼の希望を訊いた。だが、彼は無口な感じのまま、打ち合わせはなかなか進展しなかっ

た。

 深く考え込んだ様子の彼に、激原が、ちょっとした探りを入れるような提案を、するこしかできなかった。

 次第に、祭祀の落ち込みは増していき、最後には、あなたたちに任せると、丸投げしてきた。

「実は、僕が望んだことではないんだ」と彼は言った。

「親父さんか」

 見士沼祭祀は、答えなかった。

「教団の方針か」

 見士沼祭祀は、後ろ髪を邪魔くさそうに、払うように触った。

「それとも、あいつらか」

 見士沼祭祀は、びくっと身体を震わせた。

「そうなんだな。どういうことなんだ?話してほしい。何か裏があるのか?なら、どうして、あいつらは姿を見せない?何をやっている?」

「俺は、な」

 見士沼祭祀は口を開く。「たしかに、俺も、望んでいる。おそらく、な。ただ、俺が、考えていることは、もっと別のことだ。実際に、教団施設をどこに建設して、どういうものにしていくのか。そういうことじゃない。でも確かに、移設は必要だ。気持ちの問題かもしれない。環境を変えるという意味かもしれない。それ以上に、俺にとって、建物に執着はない。でも、場所はとても重要だな」

「言ってることがよくわかんないぞ」

「任せるよ」

「どういうイメージもないのか?」

「ああ、そうだよ。でも、新設した建物が、どんな役割を担い、この社会の中でどういった影響を及ぼし、何の活動をしていくのかの、イメージは鮮明だ。でもそれは、君に話すことじゃない」

「なるほど」

「服みたいなもので、どんな服を着たいかと言われても、特にこだわりがないとしか言いようがない。かっこよければ、似合えば全然、いいよと。むしろ、それは、俺の問題じゃない。見る側の問題だ。見る人が気持ちよくなればそれでいい。建物も、そうだ。だから、君に任せる。ファッションコーディネーターのようなものだ。頼んだよ」

 激原にとって、さらに喜々とする事態が、重なっていった。俺の思い通りに、仕事が進められる。それも、未来の自分の城を建てる、まるで、その予行練習のように利用することができる。

 外観は、このままのイメージを尊重することにする。ヨーロッパの地中海沿いに聳え立った、別荘のような城のような風貌だ。外形を、ちょっとずつ変えていくことにした。でっぱりを、付けたり、丸みを帯びさせたり。上空から見たときの絵を、彼はすごく意識した。

 ふとそのとき、ここに、俺のメッセージを埋め込んでしまうのはどうだろうと思った。

 誰にも気づかれずに。そういった、おかしな願望が込み上げてきていた。以前、水原と親父の仕事現場のシートに印刷された、動物の姿を思い出していた。その動物の風貌は、よく覚えていた。今でも寝るとき、天井に、その動物の姿が映ったかのようにイメージが浮かぶことがあった。それを、クリスタルガーデンの形にしてしまったらどうだろう。

 激原はさっそく絵を描いた。設計士にそれを回した。あとはプールを潰し、駐車場を拡大したり、庭をより簡素にして、掃除をしやすくし、代わりに、室内に大量の観葉植物を入れることを提案したり、実情に即した微調整を加えていった。

 そして、一番の大仕事は地下室の拡大だった。これは、身士沼高貴からの注文だった。彼はクリスタルガーデンの上物よりも、広い空間を地中に欲した。

 激原は、その要求に応ええるべく、作業に奮闘した。社長自らがドリルを持ち、仕事に入るのが、この会社の大きな特徴だった。彼は、単純で一番力を必要とする作業を、自ら受け持つのだった。心を無にして全霊をかけて、そこにエネルギーを注ぐ、その時こそが、自分にとって、最も神聖な場になるということを、この身で知っていたからだ。



 荷物をまとめ、クリスタルガーデンを出た長谷川セレーネは、佐々木事務所社長が用意した、新居へと出向く。

 すでに段ボール詰めのされた私物は、到着していた。手際がよかった。

 長谷川セレーネは、二十畳ほどあるワンルームに立ち、しばらく、悄然と時を過ごしたあと、そういえば頼んでおいたソファーがまだ来てないことに気づいた。カーテンさえついていない。おかげで、日が沈むあいだ、街を見下ろしていた。

 時間が経つのは異常に早いもので、すでに、満点の夜景が目の前には出現していた。

 あきらかに、クリスタルガーデンにいる時とは、時間の進み方が違う。これで本当によかったのだろうかと、自分に問いかけずにはいられなかった。あの豪邸の残像が瞼に強く焼き付いていた。あの家を手に入れ、ずっとあそこで過ごすというのは、夢物語だったのであろうか。外見に囚われすぎていた。あの中に入ってしまえば、とても心穏やかに過ごすことなどできなかった。豊かな時間が流れてくることはなかった。また別の機会を探そうと彼女は思った。あの土地が合わなかったし、今がそのときでもないのかもしれなかった。

 セレーネはふと、あの家を購入したのは、自分の本当の望みではなかったような気がしてきた。シカンが行方不明になり、家が売りに出されたとき、クリスタルガーデンのCМに出演した。撮影のために、何度も足繁く通った。そのため、あの家に住んでいる自分のイメージが次第に鮮明になっていった。ついには、広告塔が自ら購入するという事態になってしまった。大きな部屋に住みたいという、幼い頃の私の願望とも、結びついた。貯金のすべてを使い果たしてまで、手にいれようと必死になってしまった。

 どう考えても、正気じゃなかった。どうして貯金のほとんどを使い果たすという行動が、とれてしまうのか。幼き時の自分が、今蘇ってきていた。母子家庭で、母は男性と寝ることを仕事としていたが、少しも生活は裕福にならなかった。おそらく、同じような境遇で生きた人間だったら、もっとお金に貪欲になるに違いなかった。けれど私は、そうではなかった。母のいなくなった今、自分が不自由なく生活できる程度があれば、それでいいと思っていた。けれども、お金に対する私の態度は、やはり、自分で思っているよりも健全ではなかったようだ。

 ふと感じたことは、溜まっていた貯金を、すっからかんにしたいという見えない欲求だった。私はいち早く、預金のない状態を望んでいたのかもしれなかった。いくら撮影で何度も家を訪れたからといって、衝動買いしてしまうはずもなかった。私の中で、密かに、蠢いている複数の欲求が、一つに重なり合ったからこその出来事だった。もう一度、夜景を眺めながらよく考えてみた。

 あの家に住んでいるというイメージが、深く刷り込まれたこと。

 これは疑いようがなかった。そして、お金に対する私の態度。なぜ貯まっていく預金に耐えられなくなっていったのだろう。そんな欲求が、本当にあるのだとしたら、目の前に差し出されたのがクリスタルガーデンではなかったにしろ、何であろうと、手放してしまったことだろう。恐ろしいことだった。むしろ今、そのことに気づいて、よかったのかもしれない。今後、もっと預金が莫大に膨れ上がったときに、その恐ろしい事態が、起きる可能性すらあった。壊滅的な被害を、蒙る前でよかった。胸を押さえ、なぜか母に感謝までしていた。母を近くに感じていた。そして母はまたさらに、私に何かを気づかせようとしているようだった。どうして預金が貯まっていくのが許せないのか。長谷川セレーネは問い続けた。しかし、答えは出なかった。翌朝になっても、出なかった。ソファーもまた、やってはこなかった。一晩中、長谷川セレーネは、部屋の中をうろうろと歩き続けた。クリスタルガーデンと、この部屋との気流の違いが、神経を高ぶらせてもいた。もう二度と、あそこに帰らなくてもいいという安堵の気持ち。今後、未来で起こすかもしれなかった金銭の問題。それを回避することができるという慰め。しかし、原因は全くもってわからない。解決されなければ、再び繰り返すことになる。

 午前七時を超えたが、全く眠気がやってくる気配はなかった。長谷川セレーネはシャワーを浴び、服を着替え、段ボール二箱を開け、整理を始めた。旅行者並みの荷物は、すぐに新しい環境にも慣れる。自ら居場所を見つけたかのように収まる。長谷川セレーネはリッツカールトンホテルへと向かった。ラウンジでブレックファーストをとろうと思った。歩いてかなりの距離があったが、長谷川セレーネは歩いて向かうことにした。公園の中を通り、木漏れ日にうっとりとした気持ちになりながら、鳥の鳴き声に、自らの波長を合致させた。そのときだった。お金の問題に対する答えが、鮮やかに沸いてきたように思えた。

 私は、芸能界で一体なにを目指しているのか。そんな疑問が、突如浮かんできたのだ。

 そのあとが続かなかった・・・。沈黙は、どんどんと巨大に増殖していき、公園中を満たしていった。さらに拡大を続けて、その沈黙のほうは、すでにホテルに到着してしまっているかのようだった。クリスタルガーデンにも届いていく。すでに始まっているはずの工事そのものを、包みこんでしまっているかのようだった。

 すべては、沈黙に答えがあった。お金はただの道具にすぎなかった。問題は私が、この芸能界で何をしようとしているのかということだった。私が望んで入った世界ではなかった。望んだ職業でもなかった。そもそも望んだ容姿でもなかった。これが当たり前であり、その容姿は一人歩きしていき、道が情況が、勝手に作りだされていってしまった。モデルになった女性は、きっとこのように、自然発生的に、自分の居場所が生まれるパターンが多いに違いない。しかしそうではない人もいるはずだった。そもそもモデルを、本気で目指し、それでいて、なることのできなかった女性が、数知れずいるはずだった。彼女たちは一体、その後どうしたのだろう。長谷川セレーネは、そのようなことを今まで考えたことがなかった。

 私がこうして生きていける、こうして活動していける影で、いったいどれだけの女性が望みを絶たれているのだろう。特別な容姿を持っていないにもかかわらず、なりたい想いだけが先行していく。胸が、きゅっと締めつけられるのがわかった。だが、そういった女性たちの中にも、わずかながら、夢を達成した人もいる。ポジションを自分で掴み取った、奪い取ったものも、いるはずだった。そうした彼女たちは、その後、どういった人生を切り開いていったのだろう。どんな末路を辿っていったのだろう。興味深かった。

 けれど、そうして大きな野望を抱いたものの、生まれ持った才能の欠如から敗れ去った女性に対して、意識は拡大していった。もしかすると、彼女たちの方が、幸せだったのではないだろうか。物事が自然発生的に構築されていくというのは、もちろん理想的だった。けれど、人生の始まりの時点においては、逆な状況のほうが、結果的にいいのではないか。夢破れ、居場所もなく、今後の展望も描けずに、自分とは何者なのかわからず、絶望的な気持ちに陥る。これからどうしていこうか。何を目指して進んでいこうか。状況が自分を決めるということが、一切なくなる。そうなった女性たちはどうなるのだろう。 

 長谷川セレーネは、まるで今、そんな女性になったかのような幻想を抱いた。いや、本当に、私はそういう女性なのかもしれなかった。そのことにも、感謝の気持ちが沸いてきた。母が、このような状況を演出してくれたのかもしれなかった。こういう状態にしたかったのかもしれない。だから、クリスタルガーデンを購入し、手放した。大金をつぎ込み、その半分以上を二か月あまりで失った。この状態を体験するために。安いものだと、谷川セレーネは思い直した。お金というのは、私がこれから描いた人生と共に、あるものだった。預金を全額使ってしまいたいという衝動は、今後のビジョンが、何もないということを意味していた。これまで形づくられていた道。それが、この先はないのだというシグナルだったのだ。

 私は今日まで、佐々木ウンディーネ社長とは反りが合わず、殴ってしまいたい衝動を心に秘めていたことに気づいた。けれどそれは、社長本人を憎んでいたわけではなく、その背後にいる北川裕美が、全くもって、自分に関わってくれないことへの苛立ちだった。北川裕美が肝心な時にやってきて、この私に、今後の指針、どう生きていくのかを、一緒に考えてくれるものとばかり、どこかで思っていたのだ。まさか、北川裕美に対する怒りが、こうして形を変え、ウンディーネとの対立に構図を描いていたとは、思わなかった。そして元を辿れば、それは、北川裕美に対する怒りでもなかった。

 もうすぐ、母から、天から与えられた力が、消失するという、予兆だったのだ。

 わかりやすく、この身体の外側に突き出た才能。それは使い尽くし、この身体の奥底に眠ったままの別の泉の数々が、私との一体を目指して疼き出している、その始まりでもあった。そうだった。北川裕美もまた、同じ道を辿っていったではないか。輝かしい時代は過ぎ去り、枯れ、埋もれたままの光が内包された、輝かしい闇の世界に囲まれ、そこから泉を掴みとり、再び自らが輝かしく再生していくという課程を経ていたこと。今更ながら、思い出していた。



 激原は、クリスタルガーデンの改装工事が、終わりに近づいていることを、残念に思う気持ちが募っていっていた。全身全霊エネルギーをかけて、作業をしているこの状況は、肉体的に非常につらかったし、精神的にも自分が思っている以上に、負荷をかけていることに、終盤になってから気づき始めていた。

 けれどもやはり、人が何と言おうとも、これこそが生きている実感であり、何にも代えがたい体感だった。こうした仕事が、自分に必要であることは、ずっと若い時から気づいていた。軍人の端くれになったのも、それだけの理由だった。ある意味、激原にとっては、目的などどうでもよかった。ただ湧き上がってくる、この正体不明のパワーに、自滅しないことだけが大事なことだった。こうして建設会社に身を置くことができて幸せだった。

 しかもまさか、社長になれるなどは、思いもしてなかった。一度、社員の採用面接に落ちた身であるのに、状況の変化によって、その激変期に、タイミングよく居合わせたことによって、山の一番高いところに乗っかることができた。

 激原にとっては、別に、この場所は好きでも嫌いでもなく、それよりも一人の作業員として、他の社員の誰よりも、現場で身体を動かすことを必要としていた。結果的にすべてはいい方に転ぶというもので、そんな社長の姿勢こそが、社員の士気を劇的に上げ、経営は、V字回復を達成していた。信頼も厚く、経営は他の人間に助けてもらいながら、ある意味、自分は作業員の代表として、象徴として働くだけでよかった。

 その仕事も、当然終わりが来る。非常に残念な気持ちで、彼は最後の日の朝を迎えることになった。他の作業員を前に、労いの言葉をかけ、最後まで心を込めて行ってほしいと彼は言った。



「いろいろと、御免なさい」

 長谷川セレーネは、佐々木事務所社長を前に、素直に謝った。

「これからも、よろしくお願いします」

 セレーネは、丁寧に頭を下げた。

「あなたのこと、少し誤解してたみたい。で、北川さんは、今日もアトリエかしら?」

「いるわよ、隣の部屋に」

「うそっ!」

 長谷川セレーネの背筋に、緊張が走った。

 それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。

 自分が訊かなかったら、社長からは教えてくれなかったのだろうか。

「どうして?」

 長谷川セレーネは、声を詰まらせながら、精一杯それだけを発した。

「遊びに来たんだって。今日は、暇なんだって」

 壁を一枚隔てたところに彼女がいると思うと、足は竦み、逃げ出したくなる。

 けれども、そんな極度の緊張は、ある一つのことが思い浮かんだときに、解消した。

 そうだ。今、訊けばいいじゃないか。絶好のタイミングだった。

 長谷川セレーネは、ドアを勢いよく開けた。隣の応接室には彼女の姿があった。

 ソファーに座ることなく、立ったまま窓越しに外を見ていた。

「北川さん!」セレーネは、ドアを開けた勢いで声も出した。

「あなたに、ずっと、訊きたかったことがあるんです!クリスタルガーデンのことで。あの場所は、一体、なんなのですか?唐突にごめんなさい。シカンさんは、何故、あそこを手にいれたのですか?シカンさんは、結局、あの家を手に入れたことで、人生の何かが狂ってしまった。そうですよね?どうして、私も、あの家を欲したのでしょう。どうして、私は、こうしてあっけなく手放せたのでしょう。何なのですか?あの家は、普通じゃない。何が、そうさせているのですか?教えてください。そして、あそこは今、どんな人が買ったのですか?どんな人が何をするために?あなたなら、何か知ってるのでしょう。一度、行きましたよね?いや、あなたは行ったことがないか。私が、あの家を訪れたその帰り道に、あなたに会った。近くにアトリエがあるって、そっか、そうよ。今まで忘れていた。私の家も、あなたの傍にあったんです。事務所も同じ。いつも近くにいた。そうか。あなたは、クリスタルガーデンの傍に、住んでいるんだ、今でも。よく知っているはずですね。いつもあの家が見えているんでしょ?もしかして、本当に見ているのかしら?あなたの視線を、ずっと感じていたのかしら、私。もし、あなたが私だったら、あの家は買ってましたか?ねえ」

 長谷川セレーネは興奮して、息が上がってしまっていた。

 自分の呼吸に意識を集中し、ゆっくりとその波が治まっていくのを見守った。

 目の前の北川裕美に目を戻した。ずっと彼女は、何もせずに立っていると思っていたが、実はそうではなかった。彼女は大きなスケッチブックを、左腕でかかえるように持って、ものすごいスピードで鉛筆の先端を動かしていたのだ。彼女は絵を描いていたのだ。その速さは圧巻だった。彼女が絵を描いているところを始めて見た。一枚の絵が、数秒で浮き出てきていた。彼女は絵を描写しているというよりは、紙面に鉛筆を通じて、自身のエネルギーを放出し、一瞬でイメージに移し替えるといった、念写のようなことをしていた。

 こうやって描くんだという光景を見せつけられていた。

 心を完全に奪われた状態で、悄然と魂を抜かれたように、セレーネは静止していた。

 北川裕美は画家だったのだ。その事実を今、皮膚感覚で受け止めていた。今までどこか、彼女が画家であることに実感が伴なわなかった。女優であり、モデルであり、自分と同じ世界に存在する、生きる伝説であり、先輩であり、先達者であり、道先案内人だった。だが、このとき、そんな想いはばっさりと断ち切られてしまった。彼女とはまったく違う!彼女が歩いていく道を、追っていくことなど絶対にできない!そう悟った瞬間だった。

 長谷川セレーネが部屋にいることを、全く気にもとめず、ひたすら何枚もの描写をやめなかった。見れば見るほどに、加速していく彼女の作業を、もうこれ以上、凝視してはいられなかった。

 胸が苦しくなり、もう結構だからと、もう十分に理解したからと、彼女に叫びたくなった!代わりにセレーネは来た勢いと同じく、社長の待つ隣の部屋へと戻っていった。そして今から、クリスタルガーデンに付き合ってほしいと社長に訴えた。もう新しい住人も、住み始めた頃でしょ?改装工事も終わった頃でしょ?見に行きましょう。あなたも興味があるでしょ?もう中には入れないけど、最後に見ておきたいの。付き合ってくれるでしょ。今から車を出してください!

 長谷川セレーネのマネージャーを電話で呼び、助手席には佐々木社長が乗り、後部座席にはセレーネが乗り込んだ。佐々木社長は何も言わずについてきてくれた。

 事務所には北川裕美だけが残った。彼女はまだ絵を描いているのだろうか。

 あの何十枚と繰り返したスケッチが、一体どのように絵として表現されるのだろう。あの調子では、百枚では終わらない気がする。

 狂乱に満ちたスピードであったにもかかわらず、北川裕美の表情はまったく涼しいものだった。手元をよく見てなかったときは、本当に彼女はただ立って、外を眺めているだけのように錯覚した。彼女は何かのエネルギーを感じ、そのエネルギーを取りこむために、ああして描いているのだと思った。

 あれは、厳密には絵ではないのだと思った。暗合だった。別の世界との交信を記録している姿だった。絵をかくときは、あんなスピードではないのだろう。おそらく、私があの部屋にいたことなど、彼女には認知されていないはずだ。彼女に向かって声を張り上げていた自分が恥ずかしくなってきた。

 見慣れた風景が、蘇ってきていた。

 街路樹の続いた、大通りから、すれ違うのも、注意が必要なくらいの、細い道へと移行し、石垣に囲まれた大邸宅の片鱗が現れ始める。

 門の姿がもうすぐ見えると思ったところで、何か不自然な空気を感じた。


 また、北川裕美が現れたのかと、一瞬ぞっとしたが、すぐにその不自然さは現実となって目の前に現れる。あるものがなかったのだ。ここまでくれば、あの大邸宅が嫌でも、小高い丘のように拡がっているのが見えてくる。なのに、あの威圧感がまったく感じられない。邸宅がないため、石垣がいつもよりも嫌に高く感じられる。車は門の前で止まった。いつものようにリモコンを操作し、門を開かせることもない。マネージャーも社長も何もしゃべらない。社長は携帯電話をいじっている。マネージャーは前方を、所在無げに眺めている。

「取り壊したの?それならそうと言ってよ。どうしてよ。新しく買い手がついたって、言ったじゃないの!壊すなんて聞いていない。そうだと知っていたら。社長、あなたは知ってたの?知ってて私に隠してたの?」

「まったく知らないわ」

 前方を一瞥もすることなく社長は答えた。「今ね、戸川くんからメールが来てるの」

「ねえ、あなた」

 長谷川セレーネは、マネージャーの男に声を掛ける。

「あなただって、私を何度もここに、送ってきたでしょ?どういうことなの?取り壊しのことは聞いてたの?」

 マネージャーの男もまた、長谷川セレーネの問いかけには、たいして興味もなさそうに首を横に振るだけだった。

「これ以上、ここに居たって、仕方がないです。そろそろ、車を出します。中には入れませんから。十分見ましたね。さあ、行きましょうか」

「そうよ。はやく、出してちょうだい!」

 佐々木ウンディーネもまた、少しいらいらし始めていた。長谷川セレーネは遠ざかっていく、クリスタルガーデンを振り返り、ずっとその目で追っていた。そこにあるはずの邸宅の残像を眺めていた。

「長谷川さん、取り壊したわけではないのかもしれませんよ」

 マネジャーの男が思いついたように最後の一言呟いた。

 取り壊したわけではないのかもしれませんよ。・・・しれませんよ。・・・しれませんよ。取り壊したわけでは・・・・。脳の奥で、マネージャーの声が、木霊している。その意味を、長谷川セレーネは、何度も咀嚼するように、あらためて頭の中で駆け巡らせた。

 クリスタルガーデンは忽然と姿を消したのだと、彼はそう言わんばかりに、その後の沈黙を、長谷川セレーネに引き継がせていた。




































   第二部 第四編 ニューカジノシティ





















 東京に引っ越してから、すでに半年が経っていた。

 まさか、幼馴染の一人が、突然有名な芸能人になるとは思ってもいなかった。

 私は一目見た時から、戸川があのときの戸川だと認識した。中学校の1年生まで、彼とは同じ学校に通い、同じクラスで、家も歩いて一分の距離だった。中学1年の夏だろうか。彼は突然、親の仕事の都合上、転校を余儀なくされた。ほとんど別れの言葉も交わさないまま彼はいなくなり、その後、連絡を取ることもなくなった。どうも、その後の噂によると、夜逃げに近いかたちであったらしい。父親の事業がうまくいかなくなり、その父親は蒸発してしまった。戸川は母と妹の三人で、こっそりと故郷を離れていったらしかった。あの慌ただしさを今、私は思い出していた。

 戸川とは親友で、同じ野球チームに所属していたし、お互いの好きな女の子の相談に、常に乗り、アドバイスをし合い、結果、うまくいくことが多々あった。いい思い出しかなかった。彼とは喧嘩をしたことすらなく、運動神経も勉強の出来も、同じくらいのレベルで競ったものの、なぜか対立することもなく、居場所がかぶってしまうこともなかった。好きな女の子が、かぶることもなかった。高校、大学と、彼の存在は気になることもなくなり、日々の忙しさに追われていった。なので、街中で彼の特大の看板を見たときは、本当に驚いた。思わず兼ちゃんだと叫んでしまった。俺のことは覚えているだろうか。兼ちゃんとまた、友達として一緒に人生を歩んで行きたいという思いが、芽生え始めていた。私はテレビも雑誌も全く見ないため、今売れている芸能人の名前さえ、よくわからなかった。ところがこうして、東京に出てくると、嫌でも数多の広告が目に飛び込んでくる。けれどもその日から、兼ちゃんへの想いが増してくるほどに、彼と会うにはどうしたらいいか、わからなかったし、会うことに躊躇する自分もまた、居た。偶然、街ですれ違うイメージを思い浮かべようとしたが、うまくはいかなかった。どんな再会の仕方があるのだろう。

 私はここ数か月の間、そんなやきもきとした想いを抱えながら生きていた。馬鹿みたいな話だった。私は兼ちゃんにファンレターを書いていた。自分の連絡先も書いた。彼が読んでくれるとは思わなかったが、それでも何もしないよりはマシだと思い、気軽に手紙を送った。その送ったことすら、私は見事に忘れてしまっていた。その後は戸川兼と、間接的に遭遇するはずもなく、再び日々の雑務に追われていった。彼から、突然の返信が来たのは、そんなときだった。


「アキラちゃん、うれしいよ。ずっと、アキラちゃんに会いたかったから。よかった。もう、一生会えないと思っていた・・・」

 彼は会うなり心底喜んだ。私以上に気持ちは上ずり、今後も定期的にご飯を食べに行こうよ。旅行にも行こうよ。海外は好きかい?一緒に行こうよ。そうなんだよ、アキラちゃん。僕ね、旧友っていうのがいなくてさ。友達そのものがあんまりいないから。ねえ、一緒に色んな国に行こうよ。彼は自分の仕事の忙しさを、そのあと、滔々と語りまくった。

 それでも、暇なときは全部、旅行に当ててもいいぐらいだと彼は言った。それがアキラちゃんとなら、これ以上に素晴らしいことはないよ。そんなことを言われて、嬉しくないわけがなかった。しかし、このいささか常軌を逸したような歓喜の声に、私は少し引き気味であったのが、正直なところだった。けれどその後、彼と何度も食事をして酒を飲んで酔っ払っているうちに、この自分もまた、心の奥底では同じくらいに彼を求めていたことに気づかされ、こうして再会できたことを、何かの運命だと心底思い、感謝さえし始めていた。

 兼ちゃんは本当に、数少ない休日には、必ず私に電話をかけてきた。私の都合が合わないときでも、ほんの少しの時間しかとれない時でも、お茶を飲んだりして、時を過ごした。

 あの、十五年以上も前の、兼ちゃんそのものだった。逆に今のほうが、中学生以上に馬が合った。二人は会うなり、きゃっきゃっとし合い、女同士の友達ではないかと思うほどに、騒いだりもした。彼の部屋にも、一度上がったことがあった。高級マンションの二十五階で、日当たりのいい広い部屋だった。カーテンを開けると全面に窓が現れ、カーブのついたガラス窓が、ショーウィンドーのように広がった。見晴らしが良いだけでなかった。こうしてずっと景色を眺めていると、色んな物事をすべて、俯瞰して考えられるようになるのではないかと思うほどに、生活の中の小さな雑念の束を、解き放つことができた。部屋にはほとんどキングサイズのベッドとソファーが置いてあるだけで、あとはアンティークの家具がいくつか、洒落た照明と共に、エレガントに存在しているだけだった。空間は益々、拡がり続けているような錯覚を起こした。

 葉の大きな観葉植物が二つほど置かれていた。空気清浄器はなかったが、心地のよい空気が漂っていた。冷蔵庫の隣には浄水器があった。キッチンにはほとんど調理器具は見当たらなかったが、低速ジューサーが置かれていて、彼はこれで毎日のように、野菜や果物をジュースにして飲んでいるのだという。冷蔵庫の中には酒が少々と、納豆の束がいくつか存在しているだけだ。ほとんどが外食だという。家ではほとんど野菜しかとらないらしい。トランポリンや腹筋マシーンが転がっていた。朝起きるとすぐに身体を動かすのだという。天気の良い日は外を走るのだそうだ。「まだこういう生活は始めたばっかりだけどな」戸川に女の影はまったくなかった。全然そんな暇がないんだという彼だった。しかし、こうして私と会っているくらいの時間はあった。女性に興味はないのかと訊いたが、彼はその逆だと答えた。実は付き合ってるコがいるんだと、彼は答えた。

「マジか?誰?」

 まったく影の感じない彼に向かって、私は驚きの声を上げた。

「いずれは紹介するよ」

「結婚は、まだだよな?」

「そりゃあ、もう。それはないよ」

「今後も?」

「しばらくは」

「芸能界に入る前に知り合った人なんだな」

「今はあまり会ってないんだけど。お互い了解済みだよ。向こうも忙しくてね」

「一般人?」

「そうなんだが、わりと職種としてはさ、俺と、遠からずって感じ。本当にいずれは紹介するから」

「無理しなくていいんだよ」

「そういえば、昔はよくお互いに好きな子の話しをしたっけ」

「お互い、アドバイスしてたもんな。それが、だいたいハマってな。うまくいったよな。そう。あのときは、本当に俺の恋愛はうまくいっていた。お前がいなくなってからだよ。俺、自分の好きになった子と、付き合えた試しがない。どういうわけか」

「今、彼女は?」

「もちろんいるけど。俺が、熱烈に好きになったわけじゃなくて、何となくね」

「結婚は?」

「お前と同じだよ。するわけがない」

「また、いろいろと相談に乗ってくれよな。そういえば、俺もそう変わらないかもしれない。あの中学の時以来、本当に好きになった女の子とは、付き合ったことがないかも。全然、そうは思わなかったけど、アキラちゃんの話しを訊いていてさ、今、なんだか他人事に思えなかった」

 今後、少しはテレビや雑誌の中で、この親友の姿を見つけてみようと、私は思い始めていた。



 戸川はその後もさらに精力的に仕事をした。戸川の存在は同じ事務所の長谷川セレーネにも迫る人気を得ていった。戸川はモデルの仕事一本に絞り、ドラマや映画出演、バラエティ番組への出演オファーはすべて断った。戸川は芸能界で通用する芸は何も持っていないことを強く自覚していたので、下手に手を出して、イメージが総崩れになることを恐れた。マネージャーからも、新しい分野への挑戦を促されていたが、戸川は頑なに拒否し続けた。

 唯一、長谷川セレーネだけが賛同してくれた。その彼女は、最近では演技の世界にも足を踏み入れ、その実力も徐々に評価され始めていた。けれども、あなたは私と同じ道に来ては駄目。あなたは向かない。言葉は悪いけれど、あなたはマスコット人形のような存在が一番向いている。だからそれに徹しなさい。みんなはいろいろなことを、言ってくるでしょう。けれどもあなたは、マスコットに徹しなさい。いいわね。あなたもそうする必要があると思っている。その勘を信じなさい。あなたはモデルの中のさらに広告だけに、仕事を絞るの。いいわね。幅を広げようなんていう風潮に乗っては駄目。私は乗るべき。他の多くの芸能人も乗るべき。でもあなたは違う。偏屈扱いされるほどに、もっと絞りなさい。やり方は偏屈でもあなたの人間性が偏屈でなければ、それでいい。

 長谷川セレーネとは、感性が非常に近いところにあるなと、戸川は感じていた。彼女を姉のように慕うのは間違ったことだったが、それでも仕事の唯一の相談相手にはなりそうだった。こういうことはアキラちゃんじゃ駄目だと思った。佐々木ウンディーネなどは論外だった。

 長谷川セレーネの後押しもあり、戸川は仕事の幅を広げることなく、広告塔であることに徹した。その代わりに、広告の仕事に関しては、断ることを全くしなかった。怪しげな企業からの依頼でさえ、彼は二つ返事で対応した。佐々木ウンディーネは激怒した。しかし長谷川セレーネは当然のごとくOKをし、後押しまでしてくれた。長谷川セレーネの一言で社長も黙るしかなかった。挙句の果てには、社長は北川裕美にまで戸川への説得を求めたのだが、北川はそれには応じず、何の回答もせず、傍観者の立場を表明した。広告塔としての、戸川のブランド価値はさらに急上昇し、長谷川セレーネを軽く追い越し、それまで彼女が務めていた、イメージキャラクターの仕事までをも、奪う恰好となった。

 社長はセレーネに、自分の首を絞める結果になったわねと、皮肉を連発した。しかしセレーネはまったく動じず、軽蔑するようなまなざしで、黙殺した。彼女にはこうなることは、予め予測がついていたらしかった。戸川を巡る広告のモデルオファーは、時を追うごとに、激しさを増していった。

 彼の居る、物理的時間と、空間を、すべて埋め尽くすかのごとく、その奔流は留まることを知らなかった。



 仕事に対する姿勢を変えてから一か月近くが経っていた。

 共演した女性や、仕事現場で出会った女性、広告主の企業に勤める女性、出会う人出会う人が、戸川に積極的に関わりを持つようになってきた。それまでの戸川は遠くから人に見られていることはよく感じたが、直接、連絡先を渡されるなどということは、一度もなかった。戸川はそんな状況の変化に驚いた。何か自分そのものが、渦になでもなったかのようだった。仕事に対する姿勢を急激に絞ったこと。それと無関係とは思えなかった。

 戸川はそんな女性たちのアドレスに仕事の合間、よくメールを送った。彼女たちと二人きりで食事をすることもあった。しかし戸川は、一人の女性に絞って付き合うことはしなかった。恋愛関係になった女性も、一人もいなかった。付き合ってるつもりになっている女性は、多かった。戸川もまた、二人でいるときはそうだった。けれど、現実的に、そんな二人の時間は、長くは続かなかった。すぐに仕事へと向かった。戸川の周りには、いつも人が溢れかえっていた。なので家に帰ると、一人の時間を楽しんだ。トレーニングや、ランニング、さらには新鮮な野菜や果物やポロテインやハーブを、共にジューサーにかけて、飲み物をつくり、接種したりもした。長い時間に渡って、瞑想をし、心を落ち着けたりもした。そして理想の未来を思い描き、気分を高揚させたりもした。その時間が戸川にとっては、最高の至福の時であった。誰にも邪魔をされたくはないと思った。その上でさらに、空いた時間で女性に会ったり、アキラちゃんに会ったりもした。

 戸川という人物の渦が、さらに加速度的に強力になっているのを、自分でも肌で感じていた。戸川は時間に追われることなく、時間に支配されることなく、自分の呼吸のリズムをまったく乱すことなく、気持ちのよい精神状態で、毎日が送れるようになってきていた。そして自分で決めたルールである、広告の仕事以外は一切引き受けず、広告の仕事なら何でも引き受けるといった姿勢を貫いた。

 事務所に所属するタレントの数はいつのまにか倍になっていた。知らない顔とすれ違うことも多くなった。事務所内での恋愛はもちろん禁止だった。なので、戸川に個人的な連絡をしてくる人間もいなかったし、戸川もまた、特別な興味を抱くこともなかった。

 そのあいだ、長谷川セレーネの存在感はどんどんと低下していった。

 ウンディーネに訊いてみても、彼女は日本にいることが極端に少なくなっていたらしかった。海外での仕事に興味を示しているようでもあった。たいした仕事ではないようだったが、それでも国内の仕事は断り、細く頼りない伝手を辿り、旅も兼ねて訪問しているようであった。海外進出ですかと戸川はウンディーネに訊いてみたが、彼女は顔をしかめ、あまりセレーネについては、語りたくないような様子を見せた。社長はすでに、セレーネ以外のタレントの育成に、力を入れているようだった。戸川の多忙さと連動して、事務所内の情況も大きく変わろうとしていた。そして社長は、あまり口にはしなかったが、戸川を巡る争奪戦の激化に、少し疲れているようにも見えた。彼女の元にオファーは来る。戸川にそのすべてを開示し、戸川からの確認をとる。それを再び、社長を通じて、企業に了承を伝える。すべては彼女を経由してのことだった。自分は仕事現場に、この身体を何も考えずに持っていけばよかった。気楽なものだと思った。社長には感謝の意を伝えた。だが彼女は意外にも戸川を褒めちぎった。あなたの才能に、私は心底驚いているのだと言った。その表情は真剣そのものだった。あなたのような芸能人を、私は初めて見たと。どうして、疲れを見せないの?愚痴一つ言わないの?不思議で仕方がないと言った。本当にこんなスケージュルで辛くはないの?戸川は初め、何を言われているのか全くわからなかった。こんなに楽しく、自分らしいと感じる日々を、これまで経験したことがなかった。

 日が経つほどに、生活スタイルは洗練していき、エネルギーが心底湧き起こってくる。

 正直にそう言いたかった。

 だが、社長をさらに困惑させてしまうかもしれないと思い、控えめに表現することにした。

「これまでの自分を思ったら、このあたらしい環境には、感謝してもしきれません。たくさんの人に、求められているということが、どんなに幸せなことか」

 嘘ではなかったが、本心とはズレていた。

「ま、それは、そうだろうけど」

「遠慮なく、仕事を取ってきてください」

 ウンディーネは了解した。

「僕のことだけでなくて、いろいろと大変そうですね」

 戸川は彼女を慮った。

「わかる?」

「そりゃあ、いつも、傍にいるんですから。今が、辛抱のときですよ」

「いろいろと、あるのよ。北川会長とも、いろいろとあって」

「北川さんとも?」

「セレーネとも、ね」

「それも、何となくわかりますけど」

「京子ちゃんのことも」

「京子ちゃん?誰ですか?」

「新人の子よ。超かわいいんだけど、我儘を、視覚化したような子で。はぁ」

「僕のような資質を、みんな持っていたとしたら。さぞ楽でしょうね」

 戸川は、冗談ぽく言ってみた。

「ほんとにそのとおりよ。でも、あなたは、不思議すぎる。ほんとに疲れないの?」

「ええ。身体は鍛えているし、食事も睡眠もバッチリです。人からエネルギーをもらえているし、女の子とも、ご飯を食べにいっていますし。あ、そうだ。ずいぶんと古い友達とも、再会したんですよ。ちょうど上京してきて、わりと近所に住んでるんです。彼とも、暇さえあれば、会ってます。女の子よりも頻繁に。先週も、海外旅行に行ってきたんですよ」

 その言葉に、ウンディーネは絶句した。顔には『このタイトなスケージュルの中で、どこにそんな暇が』、という文字が浮かんでいた。

「一泊二日なら余裕ですよ。むしろ二泊三日してきました。ベトナムです。別に飛行機の中で寝ればいいんだから、余裕ですよ。その旧友の彼は、ビジネスで成功していて、時間に縛られた働き方をしていないから。誘えばすぐにでも、来てくれる。海外でもどこでも、パソコンがあれば仕事はできるんです。だから、ビーチサイドでも、彼はカチャカチャと仕事をしています。向こうに着いたら、半分以上は、別行動ですけどね。その彼がいるからかな。俺が疲れないのは」

 そう言い終えたとき、戸川はすぐに話題を変えようと思った。

 社長はそんな休暇すら、まともにとれずに働いているのだ。

 彼女はどんなときも日本に居て、事務所に居て、外との窓口となり、緊急事態に対処するために、存在していなければならない、そんな役割だった。

「とにかく、僕のことは、何も心配しないでください」と戸川は一言を加えた。

「僕以外のことで、悩んで下さい」



 戸川は、今でもその時の出来事が、夢の中の出来事のような気がして仕方がなかった。

 被害は甚大であり、事務所も、戸川の自宅マンションもまた、半壊状態になった。しかし原因の方は、今だ誰も掴めていないでいた。地震だったのか、竜巻だったのか、それさえも、はっきりしてなかった。目で確認できる災害でもなかった。

 体感だけの現象だった。皮膚を高速に揺さぶりこと、五分あまり。

 痛みもなく、ただ強い圧迫感を覚える五分間だった。

 自分の身体が揺れているものだから、当然視界も揺れた。地面が揺れているのとも、全然違う。例えようがなかった。マッサージ機を使用しているときのような震えとも、違った。冷たさも、暖かさもなかった。風圧でさえなかった。ただ、空気が、空間が、震えたとしか言いようがなかった。その場から動けなくなり、重力を次第に感じなくなっていった。意識の衝撃は次第に和らいでいき、気持ちいいとさえ思えた。

 その状態から、しばらく時間が経ち、やがて震動は薄れていった。

 戸川もまた、身体を自分に返却されたかのごとく、地面にへたり込んだ。

 戸川は会議室で打ち合わせをしていたのだが、その場に居合わせた人間は、みな、同じ現象を味わった。へたり込んだまま立つことができなかった。

 全身に、特に、下半身には全然力が入らなかった。みな、笑い出してしまった。

 その脱力感が、あまりにも心地よかったというのもあった。そして、そんな状態も、次第に解けていった。

 意識が明瞭になっていくにつれて、風景が一変してしまっていることを知った。天井は落ち、蛍光灯は粉々に砕け散っている。机もまた割れた。すぐに外に出なければ生き埋めになるかもしれないと、恐怖した。それでも、慎重に、瓦礫とさらなる落下物に注意しながら、戸川たちは、外への通路を確保するために、神経を集中させた。

 建物は危うく崩壊を免れていた。今にも倒れそうな状態を維持していた。外に出ると、すでに全壊した建物があることがわかる。戸川は同じ場にいた、人間の生死を確認したが、誰一人として、怪我すらしてなかった。見る限りでは火災なども起こっていない。誰か怪我をしている人はいませんか。戸川たちは呼びかけた。生き埋めになっている人も多いだろう。救急隊が来るまで、出来る限りの救命をしなければと思った。だが、建物の外に出てきた人間は、みな無事であり、建物の下敷きになっている人間も確認できないということだった。だんだんと戸川も、これは災害ではないのかもしれないと、冷静に思うようになっていった。他の人間もそうだった。

 頭の中はずっと、混乱しっぱなしであった。

 とにかく、怪我がなくて何よりだった。身体機能も、とりあえずは損なわれた様子はない。しかしこの崩壊してしまった無数の建物の残骸は、一体なんなのか。道路はまったく無傷のようで、亀裂すら入っていない。人間もまた、無傷。ふと戸川は、空爆を連想してしまった。ピンポイントで爆撃された映像を、思い起こしてしまった。

 しかし、建物の崩壊だけを狙った攻撃など、できるはずもない。これは、テロなのか?戸川とマネージャーの二人は、事務所へと戻り、社長たちの安否を確認した。彼女たちの情況も、ほぼ同じだった。誰一人、怪我をしていない。建物はほぼ全壊している。だがここで、戸川は我に返った。これからどうすればいいのだ?家もなく、これでは食糧の調達さえ不可能だ。これは東京周辺だけに起きたことなのか?アイフォンの電源を入れた。どうやら、日本全国で同じ現象が起こったからだ。海外はどうなのだ?別の大陸の様子も伺う。恐ろしいことが起こった。どこもまた、似たような情況だった。人工の建物だけが崩れていた。政府はすぐに緊急対策本部を取り、食糧の確保に奔走しているということだ。備蓄した水などに被害はないらしく、いや、スーパーなどの食料も瓦礫の中、ほぼ奇跡的に潰されてなかった。十分持ち出して、食べることができそうだという。

 近くにコンビニがあったなと、戸川は確認しにいく。言われている通りだった。すでに、何人かの人間が、散乱した惣菜を集め、袋を開封して、中を確認してから口に運んでいた。とりあえず、飢え死にすることはなさそうだった。住居はどうするのだろう。街は壊滅している。脱出できる場所もない。避難所すら作ることができない。

 そのときだった。

 じょじょに壊れたていたはずの、すでに組織が分断してしまったはずの素材が、自ら、くっ付き始めたのだ。戸川は、その瞬間を、はっきりと見てしまった。エントロピーが逆に向いた瞬間だった。そして建物は、次第に壊れた時の時間を遡るように、融合、復旧を自ら始め出した。

 戸川は自分の顔を叩いた。だがその復旧は、留まることをしらなかった。あっというまに元に戻ってしまった。気づいたときには、再生はほぼ、完了してしまっていた。

 夢を見ていたのだ。その夢を、戸川は、一緒に居た人間と、分かち合うしかなかった。

 みんなで同じ夢を見ていたのだ。みんなで違う世界に、ほんの少しだけ旅をしていたのだ。その後、会う人会う人、あの日の出来事が、話題に上らない日はなかった。人々の話題は、ほとんどあの事件だった。しかしだいたいの体感は、ほとんど同じで、あのときは凄かった、気持ちいいとまで、言う人がいた。景色は崩壊していて、慌てて家族を探しまくったよ・・・。ネットで情報をとりまくった。そしたら、さ・・・。ほとんど、ワンパターンだった。けれども盛り合上がりに欠けることは常になかった。同じ話を、みな、熱情を持って語れたし、リアクションが取れた。誰もが、興奮する話題を持つことになった。しばらくすれば、その熱も冷め、記憶もじょじょに薄らいでいくだろうが、まだまだ、あと数百回は、自分でも狂ったように語るであろうと思った。

 一か月後のプラダのイベントでも、戸川はマイクを向けられ、あの日の出来事について訊かれることになった。同じパターンの返答を、するしかないにもかかわらず、自分もまた、周りもまた、歓喜の想いが込み上げてきて、盛り上がった結末を迎える。



 戸川の生活は相変わらず、広告モデルの仕事で多忙を極めていた。

 三か月が過ぎ、やっとほとぼりが冷めはじめた、まさにその時だった。

 戸川は鳳凰口らと再会した。テレビ局の楽屋に、自分よりも早く、二人の男が入っていた。鳳凰口と水原は、差し入れだと言って、新鮮な果物の盛り合わせを持ってきていた。

 戸川は素直に受け取った。

 今一番、もらって嬉しいものかもしれなかった。しかし何の用だろう。

 鳳凰口はサングラスをかけ、高そうなスーツを着ている。水原もまたスーツを着ていたが、こちらは会社の営業マンのようなシンプルな出で立ちだった。

「どう?元気?見ない日はないね、戸川ちゃん。ほんとに売れっこだね」

 金を無心しに来た、チンピラのように見えなくもなかった。

 だが、鳳凰口がサングラスを外すと、急に彼は成功している青年実業家のようなオーラを出し始めた。その変貌ぶりが、いかにもわざとらしく、戸川は笑ってしまった。

 楽しんでくれたかなと、鳳凰口は言った。「でも、お楽しみの本番は、これからだよ、なあ、水原?」

「何の話しだ?」戸川は水原に訊いた。

「今日は、ただの差し入れだよ、戸川。最近、健康にはまってるんだってな。いいことだよ。うらやましい。そんなことに楽しみを見いだせる、お前が。でも、大事なことだ。いいところに、早くに目をつけた。この売れ方と、何か関係がありそうだ。なあ、水原?」

 鳳凰口は、自らの発言のすべてに、水原の同意を求めた。

「戸川。俺たちの広告塔になってもらって、それでいいよな?」

 今度は水原に同意は求めなかった。戸川の目をじっと見た。

「断る理由はないよ」戸川は答えた。

「そうだろうな。実に怪しい会社の広告にも、平然と出てるんだからな。君の人気ぶりが、わかるよ。選ばないんだな。そんな奴、なかなかいない。事務所もよくオッケーだよな。その潔さが逆にウケている。戸川のその美貌と、マッチしない行動っぷり。その対比が実にいいんだと思う。君はずいぶんと、見せ方というものを心得ている。それは戦略なのか?それとも、天然なの?」

 鳳凰口は、豪快に笑った。

「実にいいじゃないか。こないだは、ウチのポストに入っていた、デリヘルのチラシが、君だったよ。笑ってしまったね。ギャグでもあんなことにはならないよ。しかも、今季一番の決め顔だった。あの、チラシ、ファンならきっと欲しがるよ。切り取って、ファイルにするだろうな」

「要件を早く言ったらどうだ?それに、モデルの依頼だとしても、俺に、直接言っても駄目だぞ。事務所を通してくれ。形だけでも、社長の承認を得てくれ」



 クリスタルガーデンの外枠に足場を設置し、来る日も来る日も作業を続けているとき、激原は次第に、予定の日数よりも長引いていくことを、自覚し始めていた。作業をすればするほど、何故かクリスタルガーデン自体が、大きくなっているような気がするのだ。

 だが実際に作業の全体を把握してみれば、確実に進行している。

 作業に当てる日は確実に減ってきている。にもかかわらず、激原の認識にはどんどんと延期されていくようなのだった。感覚の問題であり、イメージの問題なのだと、社員たちには言いたかった。だが鳳凰口たちも、作業が始まるやいなや、現場に来ることもなかった。誰にも打ち明けられない。打ち明けても到底、理解されないだろうという気持ちのままに、激原は孤独な作業に没頭する以外になかった。


 激原は拡張されていくこのクリスタルガーデンに、身も心も心酔していった。

 激原は、母の子宮のなかに帰ったかのごとく、女性の腕の中に抱かれているかのごとく、だんだんと自分という存在の輪郭が消え失せていった。確実に抱かれているという実感が伴った。ある一つの終着点を、自分の中に、見い出し始めていた。それは作業をすればするほど、この場にいればいるほど、空間は拡がり、作業に必要な労力は増えていく。やればやるほど、完成からは遠ざかっていくという感触が、加速していくということ。しかしその感覚が、最大限に膨張した瞬間、作業は完結するのだろう。

 一瞬の、出来事に違いない。一瞬の感覚の変化であろう。クリスタルガーデンを、ジャングルジムのように囲んだ鉄の棒は、それ以上の資材を要求することは、なくなる。すべては終わる。


 激原は、拡張作業を期日通り仕上げるため、肉体をクリスタルガーデンと、一体化させ、毎日作業を続けていった。設計図はすでに出来あがっている。

 自分と自分の会社は、物理的資材を投入すれば、それでよかった。ずっとこの肉体の激しい発火の処理に、困り続けた人生だった。これはある種の怒りのようなものだった。誰かに向かって、見知らぬ不特定多数に向かって、暴発してしまうことだけは避けたかった。そうなると、必然的に、自らにその刃は向かうことになる。あるいは、目的のない行動や運動へと投入し、疲れ切って倒れる以外に、うまい方法は思いつかなかった。

 しかし、そんな無尽蔵の体力の持ち主であり、エネルギーの発動場所であったこの自分でさえ、このクリスタルガーデンの作業においては、疲労が困憊していった。限界は近づいていた。自らが崩壊することも恐れ始めた。だがその先の、その極限状態を抜け出た未知なる世界を体感してみたかった。その気持ちは募っていった。


 まだ、建築のことは何も分からなかったし、信頼しているスタッフに丸投げの状態だった。そのため建築途中、さまざまな最新テクノロジーが投入されていることも知っていたが、どういった効果があり、どういった効率化がなされているのかも、よくわかってなかった。

 とにかく自分は、肉体的エネルギーを使う仕事に特化していた。身体的エネルギーを軽減するためのテクノロジーが、投入されたわけではなさそうだった。

 設計図を大幅に書き換えるのだと、専務の男は言った。当初の計画の原型はそのままに、より深く、大きく修正するのだと、彼は語った。今になってそのことを思い出した。

 その影響に違いなかった。作業をしても、さらにやるべきことは増えていくような気がした。錯覚なのだと分かっていながらも、激原は生まれて初めて、自分の体力の限界に迫るのではないかと、不安になっていった。

 これが、最初から望んでいたことなのではないかと、思い直した。

 するとエネルギーはまた、無尽蔵に湧き出てくるような気がした。

 激原は、束の間の幸福感に浸った。きっと頭があまり良くないのだろう。スタッフに恵まれていてよかった。肉体労働一辺倒の社長が、存在していられるのだ。すると激原の気持ちの良さは、さらに増していった。作業をすればするほど、終わりが遠くなるのではなく、すればするほど、創造物が幾何学的に膨張している。すごいことだった。

 力をかけた、分だけではない、さらなる目に見えない応援が加わり、あまりに巨大な建造物へと、様変わりする。

 これが導入されたテクノロジーと関連がないわけがない。筋肉増強剤のようなものなのか。同じ量のトレーニングで得られる筋肉量は、爆発的に増大する。

 そう思えば思うほど、激原はさらなるエネルギーが、地の底から湧きあがってくるのがわかった。

 鳳凰口建設が関わったこの建造物は、歴史的にも特異な、千年先にも残るすごい建物になるのではないだろうか。鳳凰口建設という名前だったが、実質的には、代表であるこの自分の名が刻まれることになる。見士沼教団の施設であるにしろ、この激原徹の名は間違いなく、遍く轟くことになる。このとき初めて、激原は自らのエネルギーの出所、投入先ばかりを考えていた頃の自分とは、様変わりしていた。自分という存在が、この世界に、この社会に、この歴史の中に存在する。存在の意味を初めて感じたのだ。ここだったのだ。ここに居場所があったのだ。これまでの苦悩の意味も、すべて分かった。今俺は、その場所へと、加速度的に突き進んでいるのだ。間違いなく、その確信がある。生まれて初めて、いや、初めて、自分は生まれようとしているのだった。

 生まれようとしている。産み落とされようとしている。これはギザのピラミッド並みにインパクトのある、時間の長い経過に耐え切ることのできる、そんなものなのだろうか。

 現代の、この一瞬に、とてつもなく、意味のある役割を、果たすことになるのかもしれない。機能としての現代性と、遺跡としての耐久性の両輪が、今、稼働している。

 激原は心に強く思った。結局は、この身体のエネルギーというのは、心の、意思のパワーそのものと、融合しているのだ。激原は、高まっていくエネルギーに我を忘れ、我を超え、この一瞬を自分のものとするため、自分を解き放っていた。建造物は天を突き刺す勢いで、最後の飛翔を果たした。



 戸川は本当に多忙になった。一か月以上も会ってなかった。メールの返信もかなり遅くなっていた。彼に遠慮するあまり、私も連絡を取らなくなっていた。私は変わらず戸川抜きで、その間も海外によく出ていた。仕事はどこにいても成立する。私は常に新しい刺激を欲していた。戸川のいない、元の一人旅に戻ってしまったが、戸川と居たら絶対に行かなかったであろう、おかしな場所にも行くことになった。台湾の街中で地下に占い街があったのだが、その奥に別の道に抜けるルートがあって、その先では占いではない賭博が行われていた。そしてさらに奥には堅牢な扉があり、その向こうにはさらなる賭博場があるのだという。私は気まぐれで占ってもらおうと、その地下街へと足を運んだ。占い師であろう中年の女性と、その横には、日本語を話せる通訳の役割を果たすべく、婆さんが居た。その婆さんが占いの後で耳打ちをしてきた。彼女は私を奥へと案内した。堅牢な扉の前まで導いていった。ここからは私は関われない。私を通じてではなく、別の人間を経由して、是非行ってほしい。婆さんは、賭博場へと見込み客を繋げる、ポン引きのような存在なのだろうか。とにかく、私は行く意志はないと、はっきりと断った。だが婆さんは、あなたは必ず、行くことになると断言した。占いにそう出とった。わしは誰ふり構わず、奥の世界に紹介しているわけではない。一年に一人か二人。二人いたら多い方だ。今年はもうその二人目だ。一人目も日本人だった。婆さんは日本語以外にも、英語、中国語、フランス語、スペイン語、ロシア語に堪能であるということだ。あんたくらいの歳だ。忘れもしない。美しい男だった。あれで男だというんだからな。素晴らしい!日本に帰って確実にスターになれると、彼女は断言しとったけど、あんなのは占うまでもなかった。わしでも、わかった。そして彼はその通りになった。彼もまた台湾滞在中には、その扉の奥に行って、多額の金をかけて遊んでおった。「それは戸川という男ですか?」戸川?違うな。そんな名前ではなかったな。何だったか。ずいぶんと特徴的な名前だったから。そうだ。婆さんは台帳のようなものを持ち出してきた。これだ。ホウオウ何じゃ。ホウオウグ・・・、そんな名前だ。「鳳凰口か」ああ、それだ。よう、知っとるな。ホウオウグだ。婆さんは何度言っても、ホウオウグだった。ずいぶんと珍しい名前だなと思った。その男はそんなに美しかったのか。戸川のことだと思ったよ。本当に戸川じゃないの?いや、違う。婆さんは言いきった。やはり違うらしかった。それでその奥では、何が行われているんだ?バカラとかブラックジャックまでは、さっき見た。その先は何故、あんなに厳重な扉で囲まれている?金庫のようだ。まさか本当に金庫なのか?金庫の中で、すごい学の金が動いているのか?婆さんは急に、怖い顔になって私の目をじっと見た。うんと言っているようだった。そんな金など、持ってはいない。私は言った。あんたには商才がある。手相にそう出とった。そしてわしが見る限りでも、そのような顔相をしておる。支払能力は十分にある。やれ。「やれって、そんな遊びでも、俺はやりませんよ。どこが面白いんですか?賭け事なんて」そうだな。そういう顔もしておると、婆さんは笑った。自分の運命を他者に託すような顔はしていない。私は婆さんの次の言葉を待った。けれどあんたは、ゲームは好きそうだ。賭け事そのものに対する、メンタリティはないが、ゲームそのものは好きだ。ゲームに参加するのもそうだが、ゲームそのものの構造、世界観、そんなものに魅了されている顔をしておる。あるいはゲームを作る方か。なるほどと、私は思った。ビジネスがそうだ。仕組みを作ることが生きがいだ。そうか。この奥で行われているゲームは門外不出の変わったゲームに違いなかった。多額の金が動いていることを除けば、ゲームそのものから刺激を受けるかもしれなかった。眼の色が変わったことが、婆さんにも伝わったらしかった。婆さんは名刺のようなカードを私に渡し、元の占い場へと戻っていった。



 私は渡された名刺に電話をした。出た男は英語を話した。名前を訊かれた。目的を訊かれた。私はギャンブルがしたいというよりは、新しいゲームに刺激を受けたいと答えた。

 すぐに泊まっているホテルの名を訊かれる。そこで待ってろと、男は言った。部屋で寛いでいると三十分後、ドアがノックされる。

 エメラルドブルーのチャイナドレスを着た若い女が立っていた。

 私は部屋の中に入れ、ソファーに座るように彼女を促した。女は深くスリットの入った衣服から、ほどよく筋肉のついた綺麗な足を、惜しげもなく披露していた。女は何も言わずに煙草に火をつけた。私は彼女と相対する位置で、立ったまま彼女を見た。

「シュンチョウ」

 いきなり言葉を発したものだから、私は思わず咽てしまった。

「春に鳥と書いて、シュンチョウ。そのまま、ね。あなたを賭博場まで連れていく人間。すぐに出ますか?それとも」

 その後に続く言葉は、なかった。

 女は後ろ髪を両手で束ね、左の片側へと流した。右側の首筋が露わになった。

 どういうことなのかわからず、茫然と立っている私を無視するように、春鳥は煙草を吸い続けた。

「覚悟はできてるの?」

 何の覚悟だろうと、一瞬性的な行為を想像してしまったが、心を落ち着け、賭博のことだと認識し直す。

「ルールさえ、わからない」私は正直に答えた。

「当たり前じゃない。覚悟はできてるのかと、私はそう訊いたの」

「日本語、うまいね」

「お茶の水女子大出身だから」

「ほんとに?」

「アルバイトしてるの。夏休みの間だけ」

「なんでシュンチョウ?」

「ないしょ」

「ゲームに勝ったら。教えてくれる?」

「何だって、教えてあげる」

「覚悟って、そんなにヤバいんだ。まさか、命まで取られるんじゃないだろうな」

「ほんとに、知らないの?」

「成り行きすぎて」

「馬鹿じゃないの」

「一人が淋しくて」

「どうして、台湾に?」

「旅行だよ」

「仕事じゃないのね」

「仕事はパソコン一台あれば、どこでもできるから」

「経費で来てるのね。羨ましい」

「そんなにヤバいのか?」

「人によるわね」

「今月は、二人目だって。俺の前の奴は、どんな感じだった?覚えてる?」

「私が担当したんじゃないから、知らないわ」

「そうか」

「それよりも、私にもビジネスを教えて。あなたみたいにどこにいても、稼げる人間になりたい。誰に頼らなくても。どこかに所属しなくても。もう大学にも戻りたくない」

「俺が無事に日本に帰ったらな。だから、どれほど、ヤバいのかを教えてくれ」

「いいわ」

 それはカードゲームの一種だと言う。ただカードは、二次元ではないサイコロのように三次元のように一瞬見えるのだが、実はそれ以上の奥行を持っているのだという。

 とりあえずカードと呼ぶことにすると、そのカードは全部で、三種の系統があるという。

 一つは「場」という名で呼ばれ、もう一つは「人」。最後の一つは「空間」。

 「人」と「場」と「空間」という三種のカードを組み合わせ、その組み合わせから発生する、「世界」というあらたなるカードを創造し、その「世界」同士でプレイヤーは争う。

「その「世界」の、いったい何が勝ち負けを決める?」

「わからない」

「やったことは?」

「ないわ。ちらりと見ただけよ」

「勝ち負けの基準が分からないとなると、何もしようがない」

「やっていくなかで、分かるんでしょ?」

「いま、何を考えても始まらない」

「掛け金は、莫大に膨れ上がるんだろ?」

「そうよ。人を三度破滅させられるくらいに」

「金のある奴しか、プレイヤーになれないんだろうな。たとえ、今は持ち合わせがなくても。俺には商才があるそうだよ。今、稼いでいるだけの仕事を続けていくだけなら、とてもその賭博場に入場する資格はない。でも大負けして日本に帰ったあと、俺は新たなるビジネスを立ち上げて、莫大に稼ぐことができるというわけだ。何かをやらされるんだ?代理店のようなものか?自由もなくなるな。奴らの手となり足となって、働かされるんだ。そういうことだよな?完全に嵌められてる。馬鹿だろう?笑っていいぞ。でも、何故か急に、一人が淋しくなってしまった」

「彼女に振られた?」

「女じゃない。それに別れてもいない」

「複雑そうね」

「全然」

「そろそろ連れていかないと怒られる」

「もう逃れられないな。無事、日本に帰ったら、本当に会ってくれるのか?」

「お茶の水女子大に来て、文学部のハルヤマアスカという女を訪ねれば、これとよく似た女が、お目見えするわ」

 シュンチョウはドアを開ける。



 結果はボロ負けだった。ゲームのルールはとすぐに理解できた。

 勝敗がどういった基準で決まっているのか。明らかに自分が組み合わせた「世界」と、対戦相手たちが送り出した「世界」を見たとき、誰がその局を制したのかは、一目瞭然だった。勝敗は、激然とそこに存在していた。

 しかし、「場」と「人」と「空間」を組み合わせたときに、どんな「世界」が生まれるのかは、まったく予想できないことであり、あらかじめイメージしていたとしても、結果は似ても似つかわないものになる。

 私は結局、五十六局の対戦をして、その五十四局で敗北を喫した。

 彼らは、私に金銭的な借金を負わせることはしなかった。日本に戻り、彼らの要求するビジネスを実践し、その利益のほとんどを寄越せと、そのようなことにもならなかった。私はこうして無事の身と共に帰国した。彼らの要求は、ただの一つだった。ある人間の追跡調査だった。その男がどうなり、その男を狙った勢力が、何であり、今後どういった動きをしていくのか。探偵業など、やったことがないと言うと、彼らはそんなに難しいことを要求しているのではないと言った。ただ一つだけ、気をつけなければならないことは、その男がどんな結末になったとしても、君は瞬間的に、彼を助けに行ってはならないということだ。彼に手を差し伸べてはならない。それが唯一の条件だと言ってきた。

 ただ傍観する。それは時に、最も困難な行為でもある。

 だから君にはその困難な要求をしたいと思う。これが負けを埋める唯一の方法だ。それさえしてくれれば、その身の安全はもちろん、金銭的に破滅へと追い込む行動も慎むことにする。いいね。難しいことではないが、簡単なことでもない。その男の結末を知っているような口ぶりですねと、私は言った。ある意味、そうかもしれないと、彼らは答えた。彼に纏わる、彼の周りに蠢く人間たちのことを知りたいのだと、彼らは言った。そのためにはただ傍観者に徹する。

 いつまで、そんなことを続けていればいいんですか。

 その男を狙う人間たちを、今度は追えばいいんですか?気づかれて僕が狙われるんじゃないんですか?それはないと、彼らは断言した。あなたたちには、いつ報告すればいいのでしょう。そうだな。また台湾に遊びに来てくれるときでいい。ずいぶんと緩い決まりですねと、私は言った。必ずこの日に来いと、強制しないんですか?

「強制してほしいのか?そんなことはしなくても、君はまた台湾に来るよ。というよりは、ここに来る。借りを返しに。負けたまま帰ることに、君は納得しない。それに、勝ち負けよりも、このゲームに興味を持ってしまった。君がね、ゲームの神髄を脳が追及するのは、むしろ帰国してからだろう。君は中毒者になる。そう断言してもいい。我々がもう来るなといっても、必ず来てしまうだろう。そして、このゲームは日本では見ることはない。日本だけに限らず。

 君はまだ、ゲームの何も把握してはいない。ただ、五十何局だっけ?それを体験したにすぎない。その体感は、君自身の身体に、インストールされた。潜在意識に落としこまれた。君はまだ、日本に帰ってからは、我々が要求する仕事が残っているため、意識は緊張したままだろう。特に今は。だが仕事も無事終え、意識に余裕が生まれるときになって、じわりじわりと、その埋め込まれたその体感は、蘇ってくる。君はジャンキーだ。もうそれなしには、生きてはいけない。いちはやく、ココに戻りたくてたまらなくなる。我々への報告など、そのついでにしかすぎなくなる。だが、それでいい」

「馬鹿馬鹿しい」私は強がった。

「ギャンブルに必勝法などないが、ゲームの本質を探しに、君はまた舞い戻ってくる。いいか。日本に帰っても、頭の中はゲームのことだらけになるよ。今日経験した、その体感を蘇らせながら、君は、頭の中で一人、対局を続けていく。そのあいだ、君はここに来なくてもいい。そういったシュミレーションを繰り返すことで、疑似的にゲームの本質に辿り着いてやろうと、もがき苦しむ。それは現実的に対局をするのと、同じだけの効果がある。なぜなら体感はすでに獲得しているのだから。君がここに戻ってくるときには、ほんのわずかだが、本質に近づいているはずだ。その僅かながら掴んだものを、今度はここに実践するために戻ってくる。その掴みかけた本質が、無残にも散ってしまうために、再び対極に身を投ずる。虜になってしまった君を、止める障害は何もなくなる。ただし、ここに入り浸ることはない。君は出たり入ったりを繰り返す。あるときはここに籠り、対局を繰り返すこともある。ここを出て、外で違うことをしながら、頭の中で続けることもある。それ以降、君は、場所に拘ることはなくなる。縛られることはなくなる。場所は問題ではなくなる。君が望むときに、対局に身を投じることが可能になる」

 私は彼らの言うことが全く理解できなかった。

「ゲームをする場は、ここだけでは、ないんですかね?」

「ここだけだと、言ってるじゃないか!」

「日本でも、どこにでも、地下には、あるんじゃないんですか?今はここだけでも、いずれは」

 彼らは答えなかった。

「世界の大都市の至るところに、存在しているんじゃないですか?もうすでに」

 彼らは、それ以降の質問には何も答えることはなかった。重厚な金庫のような扉が、けたたましい音と共に開いた。私はそうして無傷で帰国した。帰国した翌日、言われた男の存在をネットで確認した。新興宗教団体の代表の息子だった。教団のホームページによると、本部の移設がたまたま、その日に行われるということだった。旧施設と新設の住所は明記されていたので、とりあえずはその引っ越しを見届けるべく私は行動を開始した。

 すると、トラックが旧施設から出てくるところと遭遇した。けれども私は、そのトラックを追うことはしなかった。人の出入りが途絶え、静まり返った旧施設を、しばらく眺めていた。すると、その目的の男が、一人で外に出てくる光景に出くわした。タイミングがばっちりだった。すぐに、男の後を気づかれないよう、徒歩で跡をつけていった。事件はその十分後に起こった。



 私は、ギャンブルをしているシーンが蘇ってくることを、必死で抑えながら、彼らに言われたとおりに、一人の若い男を射殺した男たちの影を追った。この時期は本当に戸川とは疎遠になっていた。こっちから電話をすることもなければ、彼の方から、海外旅行に誘われることもなくなっていた。いずれ、この自分は、ギャンブルに狂うだろうという予感を秘めつつも、今は男たちの身辺調査をしなければならなかった。探偵事務所に足を運び、事の成り行きを説明した。若い男が突然、道端で射殺されたことを話した。すぐに助けようとしたが、近くに居た別の人間が救急車を呼んだ。撃たれた男は搬送されていった。しかしその事件に関するニュースが、まったく出てこないのだ。どういうことなのか。個人的にそれが知りたいと私は訴えた。見間違いではないことを強調した。

「でも、それって、殺人か殺人未遂事件ですよね?個人的に知りたいというレベルでは・・。もし本当に事件であったときは、警察に報告します。それでいいですか?」

 私は了承するしかなかった。一週間後、結果が報告された。男は身士沼祭祀という名前の28歳の男で、実家は新興宗教団体であり、彼は代表の地位を親から譲り受けたところだったのだという。教団本部を変え、新しい出発をする、矢先の出来事だったらしかった。警察にそのことは報告されていない。極秘にその男を狙って、葬ったということだった。彼を狙った人間のことだがと調査員の男は言った。誰が撃ったのかはわからないが、その背後にいる組織は浮かんできた。別の宗教団体かと思ったが、どうもそうではないらしかった。表向きは政治団体のようだった。実体はわからない。暴力団と繋がっているのかもしれないし、企業傘下の集団なのかもしれない。見士沼教団を狙ったテロ事件なのだが、それは教団に対する攻撃というよりは、場所の問題であるらしかった。教団が新しく移動するその先。クリスタルガーデンと呼ばれる豪邸があるのだが、その場所がどうも問題らしかった。

 この場所を巡る争いの一端だという。

 争奪戦が繰り広げられていた。

 祭祀という若者を殺したくらいでは、教団はあの土地は譲り渡さないだろう。攻撃の手を緩ませはしないだろう。手放すまで、執拗な行為は続くはずだった。

 今回は見せしめだ。一番ガードが甘い若者を狙った。しかし教団側も、今回の射殺事件のことを公表するのだろうか。新しい代表がいきなり殺されてしまったのだ。

「本当に死んだのでしょうか」私は訊いた。

「なんだって?」

「あれだけの血が流れていましたから、当然、駄目だったのでしょうけど」

「確かに情報としては、死亡が確定したわけではないな。病院に運び込まれたところまでしか、追い切れてはいない。見士沼祭祀が死んだとして、その遺体を外に運び出し、葬儀を行った形跡もない。それどころか、教団関係者は、誰も病院には来ていない。見士沼祭祀に関しては、さらに追跡調査かけておくよ。万に一つ、生き残っているかもしれないし」

「お願いします」

「しかし、見士沼祭祀の行方がはっきりと掴めないとなると、警察に連絡する必要は、ないな」

「あの、ですね。見士沼祭祀の追跡は、もちろんですけど、それよりも、彼を狙った勢力の調査の方に力を入れてもらいたいんです」

「というと?」

「彼らが、何を狙っているのか。それが知りたいんです」

「どうも、個人的な好奇心ではなさそうだね」

「そうかもしれません」

「いいよ。別に君を詮索する気はないから。だいたいのところ、彼らの目的はわかっているよ。彼らの実態を知りたいのか?それとも、彼らが求めているものの方か?」

「後者です」

「やっぱりそうだと思ったよ。すでに、突っ込んで調べてるよ。さっきも言ったように、ポイントとなるのは、クリスタルガーデンだ。けれども、その大邸宅を彼らが欲しがっているわけではない。上物ではない。その土地そのものだ。だから、クリスタルガーデンを最初に建てた人間に、先を越されてしまった。その前に、彼らは手に入れたかった。だが、認識がほんのわずかだけ遅かった。最初にクリスタルガーデンを購入したのは、不動産屋だ。大きな家を建てて販売した。カメラマンだったか、映像ディレクターだったか、その種の人間が即刻、購入した。その不動産屋が買う前に、何としても購入しておくべきだった。先を越されてしまった。だが不動産屋は、特に何も気づいてはいない。見士沼教団は明らかに、あの土地の意味を知っていて、購入したのだ。どういった経緯で、ディレクターから教団に渡ったのかはわからない。そこに、誰が関係しているのか。取次いだのかもわからない。

 とにかく、見士沼家は自分のものにできた。これからどうするのだろう。強引に奪おうとしてくる人間たちの攻撃は、増していくはずだ」

「見士沼家は当然、彼らのことは、知っているのでしねょう?」

「そうだろう」

「初めから、わかっていたことなんですね」

「そうだ」

「なら、対抗策は、すでにあるのでしょう。息子一人殺されることも、想定済みだったのかもしれません。いや、違うな。あれは替え玉じゃないのか。見士沼祭祀本人じゃないのでは?似ている若者を、どこかから。絶対違いますよ。そうか、あの土地の、これは争奪戦なのか。それであの土地には、いったい何が?」

「地下だよ」

「地下室ですか?」

「じゃなくて、地面。掘って、掘って、掘ってそれで何がでてくると思う?別に何も出てきやしない。ただ土の中の鉱物にエネルギーが染みこんでいるだけだ。その昔、あの場所には物質の組成を変化させてネルギーを発生させ、それを石に変換したり、保存したり、粉末にして使用したりと、それでその粉末などが、今も土の中に混じり合っているということだ。地中深くに。その土を分析したいのさ。あわよくば、土からエネルギーを取り出して、再生使用したい。どうもね、あの土地に、局地的に保存したらしいという大昔の文書が存在するようだ。わかるだろ?どんな団体であろうと、エネルギーが欲しくない人間など、どこにもいない。エネルギーがあれば、それを金に換えることだってできる。エネルギーを無尽蔵に作るやり方を掴めれば、なお、いい。土を分析すれば、それも可能になるかもしれない。不可能かもしれない。それでも自分たちで気のすむまで、調査できる環境が欲しい。土地を手にいれるしかない」

「見士沼教団も、そのエネルギーを求めた。何に使うのでしょうか」

「さあな。彼らの思想が、どこに向かっているのか。それ次第だろう」

「誰のですか?」

「教団のだよ」

「見士沼祭祀の?」

「祭祀の意志じゃない。教団の、だよ」

「一致してないかもしれないですよ。だとすると、土地を求めた別の勢力の仕業ではなく、見士沼教団の犯行かもしれないですよね。見士沼祭祀を消したい身内がいたのかもしれない。それを外部の勢力がやったかのように、見せかけた。とにかく色んな可能性を考えた上で、調査を進めてください。お願いします」



 カードといっても、その表面に浮き出ていたものは絵柄ではなく、映像だった。

 しかも、カードはプラスチックのトランプのようなものだったが、視覚では立体と化していた。

 その三次元カードに映った、人や物や場は、絶えず動いていた。

 「人」と「場」と「空間」のそれぞれのカードが三枚揃ったところで、一瞬、軽い無音の爆発のようなものが起きて、「空間」が出現する。

 そこに、本当に何かが現れるわけではなかった。あくまで、私の知覚の中で、ただそういう空気の中に包まれるというだけだった。

 この奇妙な感覚が局ごとに、またプレイヤーごとに、繰り返された。確かに面白い。

 日本に上陸し、世界に広がってもおかしくなかった。

 私はふと、その三枚のカードの組み合わせによる現れた「世界」を、彼らは記録しているのではないかと思った。タロットカードのように感じられた。図柄は様々なアイテムやキャラクターが描かれ、その混在した一枚に、タイトルが付けられている。

 「人」と「場」と「空間」は、無数に作ることができる。組み合わせも無限に続いていく。

 私はふと、彼らはこの無数に現れ出る「空間」を収集するため、このようなゲームを開発して、ゲームとして賭け事として、提供しているのではないかと思った。

 確かに利益を上げるためのツールではあったが、それ以上に、何か得体の知れない思惑が隠されているのではないかと。私はプレイヤーとして復活するだけでなく、それらのゲームを生み出す製作者の側に、強烈な興味を抱いたのだ。

 そして、出来ることなら、新しいゲームを作ることを仕事にしたいと、そう思い始めてもいた。



 アキラ連絡がつかなくなってから、戸川は前にも増して、不眠症がひどくなっていった。夜布団に入っても、なかなか眠ることができないだけでなく、浅い夢が、ずっと続いているような状態になっている。明らかに、自分がベッドの中でもぞもぞと動いて、その世界を感じていながら、同時に別の世界にもいるようだった。

 そしてその頃からだった。戸川は毎夜女性の部屋に泊まるようになった。

 仕事で知り合った女から、知人から紹介された女。レストランのウエイターなど、彼は自分が気に入った女性に、積極的に声をかけて連絡先を訊きだし、食事に誘い出した。

 連絡先を訊いて断られたことはなかった。戸川を知らない女性も中には居た。戸川は、仕事が半日休みになったときに、幾人もの女性を梯子しながら会うこともあった。戸川は人をすぐ好きになる傾向が元々あった。女性に対しても同じだった。本気で心が揺さぶられ、もう二度とその彼女を見ることがなくなると思ったとき、何としても繋ぎとめるための連絡先を欲した。そうして集めた電話番号やメールアドレスの中から、まるでトランプゲームをしているときのように、直観で何枚かを選び出した。相談に乗ってくれる親友は、傍にはいなかった。戸川は女性たちと未来の話しをした。彼女の理想の未来を引き出した。特に知りたかったわけではなかった。そういう話にもっていけば、彼女たちは自然と気分が乗っていき、目の前に居る戸川との、緊張も解け、あっというまに親密な仲になることができたからだ。もちろん戸川もまた、彼女たちのリラックスした姿を見るのが大好きだった。戸川は女たちの上機嫌な世界に便乗し、自分もまた、彼女たちから同じエネルギーをもらった。そして循環させた。彼女たちの話しは弾んだ。だが逆に、戸川に同じように未来のことを訊いてくる女の子は、誰一人いなかった。それで戸川は全然構わなかった。戸川は誰とも共有した未来を、思い描くことはできなかった。戸川は家庭を持つことにも興味がなかった。ましてや、特定の彼女を作ることにも、興味を示さなかった。未来の世界から見ると、まだ取るに足らない人数だったが、彼女たちの、いったいどの子が自分のパートナーなのだろう。見極めることなどできやしなかった。まだそういった女性が、現れていないことの証しだったのだろう。しかしそれでも戸川は、これからもそういった女性と出会う気が全くしなかった。生涯独身を貫く男だって、数多くいる。彼らにどんな事情があったのかはわからない。そうなったとしても、別に全然構わなかった。本来なら、彼女など、一人もいなくてよかった。こんな不特定多数の交際など、何もないのと同じだった。むしろ親友との交際の方が、自分にとっては重要な気がした。アキラちゃんとは、それほど長くない時間だが、共に過ごすことに悦びを感じていた。そしてその頻度に重要な要素があった。短い時間であっても、また今度ね。そういう確証が、自分にはもっとも必要なことだった。ところが、そんな確実な次回の時間もまた、突然消えてなくなってしまった。彼が何か事件に巻き込まれたのではないかと、心配になった。けれども家族からの捜索願いは出ていない。彼の両親に連絡を取った。彼はしばらくのあいだ、仕事で海外に行きっぱなしになっているのだという。だとしたら、俺には何らかの連絡が来るはずだと言いたかった。でもそうすると、アキラちゃんは俺に、わざと連絡をよこしていない何か事情があるのかもしれなかった。それとも俺のことなど、もうどうでもよくなっているのだろうか。アキラちゃんの意志なのか。連絡できない状況があるのか。このままずっと、音信は途絶えたままなのか。仕事に対する不安はなかった。オファーは数限りなくあった。事務所との関係もまた良好だった。さらなる強固なタッグが組めている。

 戸川は時間を未来へと向けた。このままずっとオファーが絶えることがないとしよう。この生活をずっと続けていて全然よかった。体力も増強できていた。どんどんと健康にすらなっていた。独身の自分が、未来でも同じように、存在している。アキラちゃんは無事日本に帰国し、彼との友情も復活している。彼はその頃には結婚してるかもしれなかった。会える機会はめっきり減してしまっているかもしれない。しかしまた、会えるという確証がいつもそこにはある。音信の途絶えた、あのときとは違い、不安は何も感じることがない。

 だが、そのときになっても、一人の運命の女性は決まらない。

 仕事の仕方と何か関係がありそうだと直観する。

 戸川には、あの日の決意が、蘇ってきていた。

 広告の仕事に専念する。広告なら、どんなオファーにもイエスと言う。そう決めた日からだった。家庭を持つことも特定のパートナーと関係を結ぶことも、現実味を欠いていったのは。

 パートナーもまた同様だ。ほとんど一期一会で、自分の肉体を通り過ぎていく。

 空虚を親友の存在で、何とか埋めようとしていた。その親友も今はいない。親友の欠如を生めようと、今度は女性を当てはめようとしている。堂々巡りだった。

 戸川はさらに未来へと、時間を進めていった。この美貌、外形を、保つことが難しくなっていく自分が、そこにはいた。次第に広告塔としての煌めきを失っていく、この自分がいた。

 潮の引きは早かった。あっというまに、戸川はモデルとしての価値を失った。仕事の取り方を変える。さらに幅を広げる。何でもやりますと言うわけにはいかない。何でもいいということは何も来ないのと同じだ。自分は広告しかやらないのだと、そう宣言して表現することで、有象無象の広告が殺到してくる。

 俺は何を求めるのだろう。そんな状況になってからでは、当然遅かった。

 フレームをあらかじめ変え、準備しておかなくてはならなかった。

 アキラちゃんと突然、繋がらなくなった理由が、戸川にはわかってきていた。

 それでも今は、女性たちで埋めなくてはならない空間ができていた。



 その立食パーティでは、モデルの戸川兼の姿も見た。水原永輝は、ミュージアム・プロジェクトの話をするため、壇上へと上がった。戸川はちらりとも見向きもせず、年配の男数人に囲まれ、彼らとの談笑に熱心になっていた。

 水原永輝は構わず、マイクのスイッチを入れ、口元へと近づけた。

「みなさん、今日はお集まりいただき、本当にありがとうございます。ビルの出資者と、スポンサー協賛会社の、皆様。それに建築関係の方々、プロモーション広告関係の方々と、お忙しい中、本当に感謝しています。なので、前置きはこのくらいにして、さっそく本題に入りたいと思います。かなり大きなビルとなりますが、ここを美術館として、世の中に公開していこうと思っています。民間の美術館であり、ある一人のアーティストの、専門のミュージアムということになります。25階建てのビルを予定してますが、皆様方との話合いにより、さらに大きな箱へと、変更することは可能です。

 さて、一人のアーティストに対して造られるミュージアムとしては、過去に例のないほどの大規模なものとなります。話題性はもちろん、中長期に渡って、たくさんの人が来ていただける施設に、していくつもりです。海外からも、たくさんの観光客が集まってくることを期待します。それでは、質問のほうを、どうぞ」

 水原永輝は、司会の男にマイクを戻す。

『毎日新聞の、中川です。一人のアーティストに、特化するということですが、その最大の利点と、欠点を、端的にお願いします。それと、その一人の偉大なアーティストということですが、まだ公表されてないようです。相当な大物で、すでに歴史的評価も固まっている人物であるとは思います。もちろん、専属美術館に所蔵する契約も、すでに結ばれているものと思いますが、今日、この場で、そのアーティストの名を伺うことは、可能なのでしょうか』

―ええと、複数の質問が含まれていましたね。まずは、一人のアーティストに特化する理由ですね。おそらく、そうでなければ、作品をすべて所有するという契約ができないからでしょうね。どうですか?水原さんー

「違いますね」

 水原はそれ以上、答えることはなかった。

―今の答えで大丈夫ですか?―

『いや、もう少し詳しく。とりあえず、すべての答えをお願いします』

―一人のアーティストであることの、長所と短所をー

「あの、すべての質問に、同時に応えてもよろしいでしょうか。おそらく、今の質問者の方。その彼以外の、ほとんどの人の質問もまた、この一言で解決すると思うんです。その一人のアーティストとは、誰か。そんな人はいません。それが答えです」

 会場はどよめいた。

 水原永輝は表情一つ変えずに、言葉を続けた。

「今のところ。つまりは、過去の評価の定まった巨匠か、誰かではありません。まったくの新人です」

 会場はどよめきを通り越して、静寂が漂い始めた。

「新人の作家、アーティストが、この美術館専属の契約を結ぶのです。箱だけを作り、外枠だけを作り、その箱に値する匹敵するアーティストを、これから探すんです」

『本気か?』

『そんな、馬鹿な話があるか』

『誰が、どういった選考基準で選ぶんだ?』

『話にならないぞ。そんな博打、誰が手を上げる?』

 列席者は即刻退場をしてしまうかのように、立腹する者から、呆れたと天井を仰ぐ者まで様々な反応を示した。戸川の反応はどうだろうと、水原は、彼の姿を追った。

 今度は一変、彼は、列席者とのおしゃべりをやめ、こっちをじっと見ていた。

 俄然、興味が沸いてききたような、表情だった。

 水原はそんな戸川に向かってしゃべるように、次の言葉を紡いだ。

「いいですか。我々はいつも、話の順序が逆なのです。評価の定まった、もう死んでしまった人間を、あるいは死にかけている人間を取り上げて、それ以上、もう評価を変えられない、変える必要性のない人間をですね、こんな豪華な建物に祭り上げても、仕方のないことです。それでは、単なる墓場です。ピラミッドが、ただの王の墓だと主張する、そんな考古学者に、我々もなりたいのでしょうか?そんなことは、もううんざりですよね?それよりも、この美術館に展示、所蔵する権利を掛けた公募を打つんです。世界中に。無名から名の通った、世界的なアーティストから、すべての人間に対してです。募集をかけるんです。一つだけ条件をあげるとしたら、ビルが完成してから、公募をかけるということです。わかりますか?もう後戻りの出来ない状況に、我々の方が、先に落とし込まれなくては、それに見合う人間、商品。ああ、この場合は作品でしょうか。とにかく、そういったものは、集まって来るはずもない。我々が、背水の陣を敷かないことには、何かがやって来る気配すら感じとれない」


『君の言い方だと、まるで、その建物さえあれば、相応するアーティストが現れるといった、そんな夢物語のように聞こえるのだが、そんなことは現実的じゃないぞ』

「もし建てるだけ建てて、そんな人間が、作品が、集まらなかったらどうしようと、みなさん、考えることは同じです。ところが必ず現れるんです。その建物が、現実的に立ったというところで、勝負は決まります。なぜなら、出資者や関係者の想いのすべてが、その一点に集中することで建造されたからです。わかりますか?その想いの結集が瓦解することなく、建造されたという事実が、そのエネルギーに相応しいものを、惹きつける。呼び寄せる。つまりは、僕にはもう、そのアーティストというのは、すでに存在しているという認識です。ただ誰の目にも、そう、我々の目にも映ることはない。本人すら、見つけていないのかもしれない。なので、あるのにないといった状態が、ずっと続いていってしまう。しかしその建物が立つとなると、その眠ったままの才能は、そのニュースの衝撃で、ぶったまげ、ひっくり返り、目覚め、そして姿を曝け出し始めることになる。ニュースを見なくても、それは自然と伝わります。一人や二人じゃない。そうなんです。このミュージアムを建てることで、それに相応するアーティストは、数えきれないくらいに出現するんです。一人に絞ったことが悔やまれるくらいに。歴史に名を響かせる作家が、それこそ、すごい数、存在することになる。それだけでも価値は計り知れない。そうでしょ?ところが門は広がらない。広げない。一人が決定する。しかしアーティストとしての勝負は、それからです。誰が勝利するのかは、実際のところ、生涯が終わってみなければ、本当のところはわからないものです。

 話を元に戻しましょう。美術界も文學界や音楽の世界と同様、マーケットも縮小し、作品の質の低下も著しい、この状況の中で、どういった行動によって、我々はかつての水準を取り戻し、さらなる圧倒的飛躍を、創造することができるのでしょうか。ただ勝手に、アーティストが現れることを、淡く期待するだけで、可能なのでしょうか?そうやって、今までずっと、来たはずですよね?それで現れましたか?現れる気配がありましたか?我々がまずはれ真のアーティストにならなければいけないのです。たかだか数千億です。しかも一企業が、その額を賄うわけでもない。共同出資者として、それぞれが互いに協力して積み上げるわけです。リスクもさほどないでしょう。ただし保険はありません。建物をミュージアム以外に転用することは許されないですからね。一人のアーティストを選び出し、そのアーティストを生涯応援し、作品の発表をサポートしていき、あとはその美術館に所蔵していく。生涯をかけて、このビル一つを埋めるべく、その人間は生きることになる。最初に、彼の全生涯の作品を受け入れる体制があるんです。すでにその場があるんです。彼はれいや、彼女かもしれないですけど、とりあえず彼は、その彼の方が、この所蔵体制に合わせて、自らを拡大していくはずです。かつて存在した、超人的な多作作家の人生を、そう、何十回も繰り返しても埋まらないような、そんな規模のビルを、我々は提案しましたが、その期待に、彼はれ必ず応えてくれるはずです」

 水原永輝はれ堂々たる口調でそう言い切った。


 質問者たちはすでに別の問題へと焦点を移していた。

 その一人の選考について訊いていた。誰が選ぶのかで、結果はまるで変わってしまう。水原はその選考については、詳しくは答えなかった。まだ具体的に詰めていくには議論を重ねる必要があると、今度は妙に慎重な口ぶりへと変わった。そして水原は、最後は穏やかな笑みを浮かべて、スピーチを締めくくった。檀上から降りていった。

 立食パーティはその後も続き、列席者は、思いの思いの会話をして、過ごした。

 だが、その建物の話に、結局は行きつき、君のところはどうするのか。参加するのか。金は出すのかといった話に、いつの間にか、なることがほとんどだった。



「あちらに、戸川兼さんがいらっしゃいますよ。イメージキャラクターの、戸川さんです」

 マネージャーが、水原に近づいて耳打ちした。

「知ってるよ」

「挨拶はいいんですか?」

「別に、いいよ。またどこかで会うだろうし」

「そう言わずに」

 水原は、戸川の元に連れていかれた。

 マネージャーは去り、戸川の周りに張り付いていた人間たちが離れていき、二人きりになると、仕方なく、水原は戸川に声をかけた。

「忙しそうだな」

「あなた、こそ」

「特にプロジェクトはこれしかやっていないよ」

「大胆なアイデアだ。まるで決まっているかのように、動いてる」

「お前だって、分かってるだろ?もう最初から決まってる」

「そう言い切れる、あなたが羨ましいですね。僕は個人的には、鳳凰口さんとかよりも、あなたの方が自信に満ち溢れているように見えますね」

「じゃあな。とりあえずは、これで挨拶はしたし、お前と談笑しているようには見えるな。じゃあ、俺はこれで」

 二人は握手を交わし、さらに目配せをして、離れた。

 すぐにマネージャーの男がやってきて、水原は彼と二人で会場を後にした。

 そのまま事務所へと直行した。水原デザイン事務所というプレートの嵌められたビルへと入っていった。物がほとんど置かれていない、作品を展示していないギャラリーのような空間には、長いテーブルと十脚にも及ぶ椅子が置かれていた。

 そこにはすでに、六人の男が座り、水原の帰りを待っていた。

「じゃあ、始めよう」

 水原も席に着く。

「VDCのロゴのデザインは決まった?」

 水原の斜め前の男が、大きな紙を広げ、机の中央に置く。

「これか。まあまあだな。別のは?」

 六人の男たちは、順々に、自分の持ってきたデザインを披露した。

「わかった。それじゃあ、後日また、連絡するよ。どれか一つを選ぶというよりは、いくつかの要素を組み合わせて、それで一人のデザイナーに、あらためてお願いすることになると思う」

 六人の男たちは、深々と頭を下げて帰っていった。

「彼らは、VDCの意味は知ってるんですか?」

 マネージャーの男が部屋に入ってくる。

「知らないよ」

「それでいいデザインなんて、できるんですか。首都構想ですよね。ヴァルボワという架空の首都をつくると仮定した、新しい都市構造をもった国。その中心があの《ミュージアム》。そういうことでしたよね。イメージキャラクターは、戸川兼」

「ところで、今日は、もう一人にさせてくれないか?」

「疲れました?」

「いや、もう一件、大事な用事があるんだ。ここに人を呼んでるんだ」

「仕事ならば、私も同席しなければ」

「妻だよ」

「奥さんですか」

「ああ」

「どうしてまた、こんな場所で?」

「別居してるんだ」

「聞いたことがありますね」

「今後のことで、話し合いたいことがある。どこか二人きりで、レストランで会うのも、嫌だしな。だから、ここに」

「そうでしたか」

「何も訊かないんだな」

「ええ。だって、もう結果は、分かってますからね」

「どこかで聞いたような台詞だな」

 水原は、口元を緩ませた。

「俺はね、あいつに対して責任があるんだ」

「そうですね」

「いや、単なる夫婦においての責任じゃない。あいつの人生全般に渡っての責任だ。たとえ結婚してなかったとしても、俺にはその役割があった。結果、結婚してパートナーとなったんだが、それも事実上は、すでに解消してる。最初から結婚する必要がなかったんだ。でも形はどうあれ、あいつにはこれからもっと、自分を開花していってもらいたい」

「というと?」

「わからない。けれども、あいつは、このままでは駄目だろう。離婚がいいキッカケになるはずだ。俺に捨てられるという体裁をうまく使えば、あいつは変わる」

「何を目覚めさせたいんですか?」

「誰にも頼らず、あいつ一人で、何かを生み出す方向へと、進んでいってほしいんだ。願望でも期待でもない。そういうことだ」

「それも、決まってることなんですね」

「ほんの、きっかけを作るだけのために、俺は存在してるのかもしれないな。そういう役割なんだ。あいつにとっての。でも、ずっと、何をすればいいのか、気がつかなかった。それでピンときた」

「離婚ですね」

「別居はしているが、非常に良好な結婚生活を送っていると、あいつは思ってる」

「そこにこの晴天の霹靂ですね」

「痛い目に合わないと、何も変わらない。そうじゃないと、人はなかなか変われない」

「そう思います」

「始まりは痛みから、というのが、大体のところだ。それでこの機会を、使わせてもらうことにした」

「まるで永輝さんが親みたいですね。子供を崖に落とす」

「這い上がって来いってか」

「ふふふ。彼女に対する愛情はなくなったんですか?」

「元々、親友でいることが一番自然だったんだ。たまに男女関係のある、親友っていう距離が一番しっくりくる」

「じゃあ、まだ、新しい女性がいるわけじゃないんですね?気になってる人とか」

「いるよ」

「ああ」

「何人、か」

「すでに」

「でも、どれも違うような気もする。結局誰もが違うような気がする」

「まだ出会ってないってことですかね?」

「それもわからないよ。これだって一目でわかる女が現れるのかもしれないしさ、あとはどの女性もそうではなく・・・、俺はもっと抽象的な女性像を必要としているのかもしれないな」

「わかりませんね」

「彼女にすべてを曝け出したい。捧げたいって。毎日、天に向かって、祈りを捧げる修道僧のような存在に、俺はある意味なりたいのかもね」

「らしくないですね」

「そう、思うよ。でも、たまに、ふと、そんな絵が降りてくるんだ。時代が変われば、そうなっていたのかもしれない。だから、その架空の女性とは、別に本当に、女である必要もないのかもしれない。男であっても。人間でなくても。そこまで行くと、本当に頭のおかしな人間だよ」

「そんなことはないですよ。素晴らしいと思います」

「無理しなくていいよ」と水原は笑った。

 だが、マネージャーの男は、急に真剣な表情で相対してきた。

「確かに、そんな女性像を求めていたのでは、今の奥さんとは違いますね。あなたの方が、親になっちゃってるわけだから」

「責任は果たさないとな」

「わかりました。では僕は帰ります。奥さんによろしく言っておいてください。これでも、僕にはわかってますからね。あなたは奥さんを傷つけるために、そのようなことをするのではない。僕だけは信じられますから。僕も心を鬼にして、見過ごしますよ。見て見ぬふりをします」



 戸川は事務所に戻ると、佐々木社長に呼び止められた。

 社長室で二人きりになった。二人で向かい合うようにソファーに座った。

「ずいぶんとお疲れのようね」

「ええ、ああいう場にはちょっと・・・」

「これからは慣れないと駄目ね。でも、あなたは本来得意なはずよ。あなたはシャイな性格かもしれないけど、それが逆に好感がもてる。仕事はあなたの元に殺到してるけど、どこか人に対しては、心を閉ざしてしまってるところがあるわね、戸川くん。私に対しても。他のみんなに対しても。どうしてかしら。人と関わるのが怖いの?人に対して不信感というか、警戒心が異常に強い。もちろん表向きはそうではないように見せかけているけど。でも実体は強固なブロックをしている。あなたの仕事の仕方も本来なら、とても不自然なものよ。あなたのその、心のブロックを維持しながら仕事をしていくための、苦肉の策みたい。今のあなたの心の状態を、維持するために創造したアイデアのよう。私はずっと、気がついているけど、見て見ぬふりをしているけど。でもそろそろ言わせてもらう。いずれ、破綻するわよ、戸川くん。その前にいい方向に道筋を作るのが、私の役目。そのブロックが解消すれば、あなたはもっと自由に生きられる」

 戸川は黙って聞いていた。

「あなたはとても賢い。だから私の言ったこと以上に、思う所があると思うの。私から強制することは何もない。人に対して心を晒け出すことを躊躇するブロック。それを外そうと努力することよりも、あなたの本来持っている別の部分に気がついて、それを積極的に表現していくことの方が大事だと思う。これまで、使うことのなかった、どこかの時点で使うことをやめてしまった、その要素をちゃんと見つめることよ。そうしたとき、これまでやってきた仕事の意味が再定義される。そしてさらに進化していく。

 あなたの器量はとても大きくなり、それでいて、高い位置でバランスがとれるようになる。バランスなんて言葉はよくないわね。あなたが自分でそうなっていけるの。ごく自然に。私は見守る。それしかできないから。相談があったら来なさい。頼みごとがあったら正直に言いなさい。話しはそれだけ」

 戸川はソファーから立ち上がり、挨拶もそこそこに、部屋を出て夜の街を歩き出した。

 これまでの社長とはずいぶんと違った印象を持った。彼女のことは少し信用してみ

ようかと、初めて思い始めた。



 水原と妻は、暖房を切ったデザイン事務所に居た。照明は半分消していた。

「呼び出してわるかったね」

「いいわよ。そんな気がしてたから。それで何の用?」

「俺たちのことだよ」

「知ってるわ」

「別れよう」

 水原は、直入に結論を言った。

 水原の妻は一瞬、表情をこわばらせたものの、快活さをありありと滲ませながら、窓から外を見た。

「私も考え始めていたところよ」と彼女は答えた。「私もいい歳ですもの。子供のこと。わかってるでしょ?」

「それは素直に、出来なかったとしかいいようがないな」

「そうよ。私に問題はないわ。ちゃんと検査も受けたし。パートナーを変える以外に、道はない」

 その意外な反応に、水原の方が少し狼狽えた。

「そんな話は聞いてないぞ。子供が欲しいだなんて」

「そんなこと訊かなくたって、当たり前じゃないの」

「そうか。君も別れることを望んでいたか。それなら話しは早い」

 水原はそれ以上、話すことがなかった。

 自分のイメージしたシナリオは、どこかに吹き飛んでしまっていた。

「それで、あなたは、本当にいいの?私を手放してしまって、本当にいいの?覚悟はできてるの?」

 水原は今だに、心のざわめきを消すことができずにいた。

「二度と、戻ってこないわよ。最後に確認したいの」

「もう、次の女はいる」と水原は言った。

「でしょうね」と水原の妻は言った。

「私の話よ。その女の話じゃない」

 水原は深い呼吸を意識した。だんだんと自分を取り戻してきていた。

「私が二度と手に入らなくなってもいいのかって。それを訊いてるのよ。これまで通り、私は何も要求しない。いいじゃないの。このままでも。その新しい女とどうしようと、私の知ったことじゃない。私は、私。あなたと、私。他に、登場人物が増えても、別に驚きはしないわ」

「その新しい女のことだけど」

「なに?」

「彼女も違うかもしれないんだ。彼女もまた、俺のパートナーになるかどうか。確信が持てない。おそらく、そうではないと思ってる」

「その女もって、今、そう言ったわね。私もそうだったのね」

 水原の妻の目は、いっそう鋭くなった。

「ああ」と水原は、溜息にも似た言葉を漏らした。

「すべてはわからない。今までも、今も、そしてこれから知り合う女の、いや、その、さらに外側に、俺のパートナーはいるのかもしれない。俺は一生、独身なのかもしれない。パートナーが女性なのかどうかもわからない。人間であるのかもわからない」

 彼女は、その一言で黙りこくってしまった。

 眉毛を何度か触った後に唇に触れ、そのあとまた、眉毛に指を這わせた。

 彼女もまた、動揺しているように水原には思えた。

 水原はやっと、深呼吸の効果が出始めていることに気づいた。すっかりと自分を取り戻してきていた。

 このまま別れればそれでいい。けれど、二度と会わないとは、一言も口にしていない。

「会うくらいは、問題ないだろ」思わず、水原はそう反論した。

「なら、これまでと、同じじゃないの」

「違う。はっきりとさせたいんだ」

「はっきりって、何にもわかってないじゃない!あなた。誰が、あなたのパートナーで、誰がただの友達であって、知り合いであって、誰が運命を超えた、女神のような存在であるのか。全部がごちゃごちゃで、不明確で、よくそんなんで、仕事の方はビシッと決められるわね。仕事ができるのなら、女のことだって、しっかりと整理できるでしょ」

「だから、それをしようとしてるじゃないか!」

 再び、動悸が激しくなっていった。

「いいのね、切って。私を」

「ああ、構わないよ。去れ」

 最後は、びしっと締めた。

 言葉に出した瞬間、そして言い切ったことで、事実は確定した。

「頑張ってね、お仕事」彼女は、健気な声を出した。

「お前もな。俺はわかってるぞ。お前は、これから、自分だけの仕事を持つ。雇われている身を放り出すときが来る。誰にも守られない中で、君は自分の仕事を突き進む。最初は誰も助けてくれやしない。非難や拒絶されるだけでなく、無視、無関心の嵐が、君を襲うことになる。俺は傍にはいない。君は一人で、その仕事を完遂する。いいな」

 彼女からの反応は、なかった。

「聞いてるのか?聞いてるよな。そうさ。俺は、君の心の深いところに今、暗合を送りこんでいるんだから。下手に何かを考えてもらうよりは、よほど深い場所に、言葉は突き刺さっていく。イメージは埋め込まれる」

 水原はそう彼女に言い聞かせるように話したが、心の中では光の見えない錯綜とした女性関係が、少しも頭から抜け出てはいかなかった。そしてついには、独身を継続する自分、複数のパートナーのいる自分、絶対に手には触れられない時空にいる女性性の塊に、手を伸ばしている自分がすべて、目の前にいるような気がした。



 佐々木ウンディーネは、戸川と話した後、どうしてあんな話を突然彼にしたのか。不思議に思った。私も殻を破るために、新しいことをする必要があるのだろうか。

 すぐに、自分でブランドを立ち上げようと思い立った。

 しかし、ブランドといっても、一体そこで何を売るのか。服か香水か、ピンとこない。

 そのとき、突然、携帯電話が鳴った。携帯に連絡をしてくる人間は、ほとんどいなかったので、ウンディーネは、親が緊急事態に陥ったのだと思った。だが電話の相手は鳳凰口の代理人という人間だった。

 鳳凰口という名で思い出すのは、長谷川セレーネの、かつての豪邸の新しい所有者の知人だった。クリスタルガーデンの名を出すと、その代理人の男はそうだと言った。

 鳳凰口からこう言われていますと、彼は言った。そしてその話は、まさに、いま考え始めたブランドについてだった。芸能事務所の一つが全面的にマネージメントの枠を超えて情報の一大発信地にしたいと、鳳凰口は言っております。知人の戸川兼も所属しているあなたの事務所が、適当なのではないかと、私どもは考えております。ブランドといっても、単にファッションに特化した従来のものではありません。エネルギー産業や芸術支援活動、都市構造計画など、社会的に大きなインフラ事業も食い込んで、イニシアチブを取っていきます。そういうプロジェクトの中心に、存在するブランドです。どうでしょうと、佐々木ウンディーネは言われた。ちょっと考えさせてくれと頭は訴えたが、身体はすぐにでもオーケーだった。躊躇する素振りを感じさせながら、彼女は興味はありますと答えた。鳳凰口さんと、直接話をする必要があると思います。二人きりで。もちろんですと、代理人は答えた。そういった場を、もちろん設定いたします。すでにそういった段取りは、つけられているようだった。それならお任せしますと、ウンディーネは言った。

 ところで、鳳凰口さんは、今は?

「申し訳ありません。答えられません。ただ、少し取り込んでおりまして。あとで必ず、本人から連絡を差し上げます」

「代理人とおっしゃいましたね。彼とはどのようなご関係で?マネージメント契約を、結んでいらっしゃるのでしょうか?」

「ええ。彼の所属組織といって、いいでしょう。その組織と、彼を結んでいるエージェントのような存在です」

「エージェントですか」

「芸能事務所も、いずれはなくなるでしょう。タレントが個別に外部のエージェントと結ぶ時代が来る。どこかに所属させて、その人間を囲い込むようなこともなくなる」

「エージェント・・・か」佐々木ウンディーネは呟いた。

「あなた方と彼が契約したのは、確かなんですね。ではどうして、話を私のところに持ってきたのですか?あなたたちだけで、進められない事情でもあるのですか?」

「ええ。組織といっても、実体としては、最初のアイデアを立ち上げるところまでが、仕事でして。あとはクライアント様同士、事業を発展してもらう他はありません」

「仲介するだけ、ね」

「そうです」

「まあとにかく、彼と会って話してみないと、何も決められません。そこのところは、よろしく。あなた方のエージェントの名前を、教えていただけませんか?」

「ミシヌマ・エージェント、と申します」

 佐々木ウンディーネは、繰り返す。

 見るに、武士の士、沼は沼です。

「オッケー」

「どこかで聞いたことはありませんか?」

「はい?」

「ミシヌマ」

「そういえば」

「見士沼教団という新興宗教団体がありましてね」

「まさか」

「こういうことにも手を出すのですね。これからは、芸能事務所も出版社も宗教団体も、その業界や職種だけで、小さくまとまっていて、成り立つ仕事ではなくなります。徹底的に情報を制御して、カルトにしてしまうのなら、話は別ですが。それも現実的には、力を失っていく。一時的に恐怖を仕掛けて、取り込むだけではね。いずれ人の心は、自由に羽ばたいていく」

 しかし、宗教団体と関わりになるのはどうかと、佐々木ウンディーネは身構えた。

 鳳凰口という男が、そんな集団と契約を結んだということも、なんだか信憑性がなくなっていった。胡散臭い連中が彼を説得したのだろうか。それとも・・・、そうか、彼は、監禁中なのかもしれなかった。彼らに捕らえられ、好きなように出汁にされているのかもしれなかった。

 佐々木ウンディーネは何度も、直接会わないことには、何も進まないことを強調し、電話を切った。けれど、胡散臭さは全開であったものの、代理人の男が言う話はもっともなことであった。

 みんなそうやって、これまでの殻を破ろうとしている。私もまたそうだった。



 水原永輝の元に、前妻から離婚届けが送られてきた。

 彼はすぐに役所に提出しに行った。未練はもう吹き飛んでいて、同時に彼は清々しい気持ちにもなっていた。これまでの女性も、今現在知り合っている女性の中にも、パートナーはいないのだということ。今後、どんな女性と付き合っても、その可能性はとても薄いのだということを自覚するにつれて、何故だか心は軽くなり、いなくていいのだという、腹の底から込み上げてくるエネルギーのようなものが感じられた。

 前妻も前妻で、これから自己表現の道を歩んでいく。

 またどこかで、再会することはあるだろう。

 再会する日を楽しみに、水原は《ミュージアム》のビル構想の現実化に向けて、心を集中させていった。
















































   第三部 第五編 ヴァルボワの秘宝





















 私は職業画家として当時のヴァルボワ共和国の市民だった。私は幼いときからアート見習いのようなことをしていて、画家になることは、ごくごく自然の成り行きだった。

 私は腕の方もずいぶんと初めから際だっていた。手先が器用だった。配色も的確で、少しのズレも許せない神経の持ち主でもあった。この性格は仕事にとっては、最大のアドバンテージになった。成人する頃には職人として、一目置かれる存在になっていた。たくさんの工房からの引き抜きの対象となっていることに、気をよくしていた。しかし私は、条件の良い工房を渡り歩くことを、良しとはしなかった。私はさらに、きめの細かい仕事ができる環境を重要視した。近い将来には、独立して、自らの工房を持ちたかった。ヴァルボワ国で一番いい仕事をし、自分が死んだ後も、ずっとその称号が受け継がれていくような、そんな小さな帝国を築きあげたかった。その一番肝になるのは、技術力であるということは言うまでもなかった。画業は国家のプロジェクトだった。共和国は、絵の制作を一手に引き受けていた。全体の構想を立て、国中を一つの世界観で、美的に統一しようとしていた。さらには、何十年にも渡り、その世界観を洗練させ、進化させていくプロセスを、ビジョンとして打ち出し、文字通り、ヴァルボワ共和国の全史を、そこに刻みこみ、描き残しておくために、国が全主導権をとって進めるプロジェクトだった。

 画業や、彫刻業が、美的センスからは、加速度的に堕落していくその国の課程を、ヴァルボワ国は熟知していたため、個人で、好き勝手に描き散らし、彫り散らかすことを認めなかった。美的景観、国の外観を守ることが大事だった。人々の知的感性に、良い影響を与えるためには、ある一定の高いレベルの論理を掴み、その土台の上で広げていくということが必然だった。さらにその上で、ヴァルボワ国の、他の国とは明確に違う特色を見極め、伸ばしていくことを目的とした。

 そのためにも国が美の土台を確実に保証して、職人の育成を、徹底的に後押ししていくシステムが必要だった。

 私が職人の見習いになった頃には、すでにそのシステムは確立できていて、私はそのハイレベルな環境の中で、自らの才能を発揮することが容易にできたというわけだ。

 特に私は、他の見習いの人たちとは異なり、たいした訓練もせず、的確な仕事をすることができた。私は初めから、ある技能を徹底的に洗練させていくことに、全力投球した。気づけばあっというまに、四十のときを迎えていた。その頃にはすでに、工房の長となっていた。いくつもの団体を率いる経営者でもあり、現役の画家でもあった。人生は順風満帆であり、何一つ悩みのない幸せな日々を送っていた。仕事で自らの存在を国や人々のために与え、認められ、安定した生活を得て、さらには仲間にも弟子にも恵まれ、妻にも子供にも愛し、愛され、同業者同士においても、お互いを尊重しあって、完全に、得意分野に特化した棲み分けが、綺麗に出来ていて、喧嘩することも、争うことも、大きなトラブルが起こることも何もなかった。職人同士が、小競り合いになることはあったが、それも、お互い所属の長が出てくれば、即刻解決も途へとついた。画業の世界だけでなく、国そのものが平穏だった。綺麗に棲み分けがなされ、混沌と混乱の世とは、まったくの無縁の空間が、そこにはあった。それが四十までの時であった。

 運命はまるで、全体の右半分をアンバランスにも食い散らかし、手つかずであった、これまで生きてくることのなかった、その左半分を、後半に怒涛のごとく、浴びせかけるために、こうして大事に後にとっておいておいたかのようだった。私はまだ、人生を回顧するには若い年であった。しかしその左半分に満ちた時代も、もう行きつくところまで行ったのではないかと思うくらいの、年月は経ていた。余生というものがあるのなら、そのときこそ、前半生と後半生を極端に生きることでなく、共存し、その極端な二つの、認識の中で、バランスの最も良い方向を、自ら創造していきたいと思った。

 そう。人生に翻弄されるのではなく、自らが意図して造りあげていきたいと思うのだ。


 きっかけは何気ない思いつきだった。ふと教会の外観を見上げたときに、彫刻されている何か動物のようなものが、目にとまった。ちょっとした驚きだった。絵を描く作業に日々、夢中になっていたため、教会の彫刻にすら、意識を止めない日常を送っていたのだ。同じ教会の、装飾に関する仕事でも、彼ら彫刻の仕事している連中とは、何の交流もなかった。自治会にそういったメンバーがいても、特に仕事の話しをするわけでもなかった。共通の話題などいくらでもあった。しかし仕事は専門分野であるため、容易に話のネタにすることを、皆しなかった。そういった傾向があった。その動物の彫刻が嫌に私の神経をひく突かせたのだ。ひどく気に障ったのだ。温厚そのものであると思っていた、この私は、自分の反応を疑った。まるで感じたことのない強い感情が沸き起こったのだ。そう思った瞬間だった。その彫刻ではない、手の届く範囲に施された外壁の動物の一つを、激しく叩き割っていたのだ。私は周りを見た。誰もいなかった。よかった。私はもぎ取った彫刻を。コートの内側に包むように抱えて、その場を速やかに去った。その夜、私はずっと自分の行動の意味を考え続けた。私ではない、別の誰かがやった行為を、たまたま傍で目撃しただけのような気もしてきた。

 翌日、仕事に行く前に散歩を称し、その付近まで行ってみた。おそるおそる破壊されているはずの外壁の場所を見た。しかしそこには破壊の跡はなかった。場所を間違えたのだ。何度かうろうろとしてから、やっとその場所を探し出した。私はここでも自分の神経を疑った。わざと違う場所へと自分を導いていたのだ。その欺きに、やはり私は気持ち悪さを胸に感じた。何かが起ころうとしていた。もう起きている。胸騒ぎだけが募ってくる。とりあえず、損傷はそのままに仕事へと向かった。心は浮ついていた。乱れを隠し通すことはできたが、自らの筆先までをも、誤魔化すことはできなかった。取り繕った仕事はできる。だが手とカラダの本体が、やはり奇妙な乖離感を表現している。どんどんとその乖離感はひどくなるばかりだ。夕方を待たずに、私は仕事を弟子たちに引き継がせた。用事があるからと言い、工房を離れる。自然と足は教会の方へと向かっている。私は教会に暴力を振って傷を負わせたのだ。その傷を放置し、自分のした行為とは切り離し、再びこれまでの日常に、回帰しようとしていた。この嫌な予感と、胸騒ぎ。それはこれから起こるであろう、激しい喧噪と騒乱を、燦然と輝く、未来に黒く刻印して、私を待ち受けているかのようであった。



 いつのまにか、破壊した彫刻は元に戻っていた。

 誰かが速やかに修復したのだろうか。それともそんなはずはなかったが、そもそもあの彫刻には、指一本触れていないのではないか。しかしどの道、また自分の意志ではコントロールできない領域で、行動は暴発してしまうことだろう。彫刻か。今まで考えたこともなかった。確かに無意識に毎日見ているし、彫刻工房だって同じ地区にいくつもある。まるで興味はなかった。

 ふと、どうして今まで彼ら彫刻家と交流し、彼らから、何か技術を学ぼうとしなかったのか。何故、あたらしい領域に、この絵画を発展させようとしなかったのか。国家が管理する壁画、宗教画の制作計画は、あらかじ決まっている。その広大なスケジュールは、我々の人生の時間を有に超えている。したがって、その通りに仕事をしていく意外に我々に選択肢はない。それが当たり前だと思っていた。敷かれたレールの上に乗り、その中で最高の技術を会得し、発揮する。そうやって今までずっと研鑽してきた。

 だがそんな人生は、あの彫刻への一撃で、脆くも崩れ去ってしまった。あれからというもの、絶えず心の中には渦巻く強い感情が存在している。その得体の知れない塊は、激しく放出する機会を、ずっと伺っているようだ。このまま死ぬときまで、同じことの繰り返しなのだろうか。同じこと?そんなはずはない。一枚として同じ画業などない。毎回学ぶことはあった。技術の話しだ。あっと私はそのとき、大きな声を思わず上げてしまった。

 私は今さらながら、自分が宗教画を描いていることに気づいたのだ。そういえばそうだ。そういえば。彫刻が急に気になったから変になってきたのではない。そのだいぶ前から、予兆はあった。あれだ。あの絵だ。彫刻じゃない。あの絵を見たときからだ。

 あの絵。思いだせない。どこで見たのだろう。誰と見たのだろう。旅行だ。フランスの南部に行ったときか。家族で。そう確かにそうだ。美術館か。いや、そうじゃない。どこだ。あれは。うん?あれはそもそも、絵だったのだろうか。ああ、そうだ。田舎の農業を営む家に招かれたときのことだ。納屋の横に、その絵は捨てられているかのように立てかけられていた。あの小ぶりな額縁にすら入れられていない絵。キャンバスの角はぼろぼろに腐り、そうだ。確かにあれは、捨てられていた!誰もその絵に気づくことはなかった。話題に上ることすらなかった。放置されていた農具と同じような扱いを、私たちもしていた。あの家の人たちもそうだった。しかしあれは紛れもない絵だった。その絵を私は必至で思い出そうとしていた。だんだんと端の腐ったキャンバスの状態が、生々しく蘇ってきた。

 下手くそな風景画だった。あんなものが目に入るはずもない。あの時は。そう、しかし。あれはいつのことだったか。半年前か、一年前か。もっと前か。時間を経た、今その存在はじょじょに蘇ってきている。私の中にそのときに確実に入り込み、刻み込まれた。その絵が今、このタイミングでゆっくりと海底から浮上してきている。背景には山と雲が描かれ、手前に向かって村の様子が描かれている。家や畑が力強い曲線で描かれている。私にとっては強烈だった。こんな絵を私はすでに見ていたのだ。私の中に入りこんでいたのだ。自分の描く絵とはだいぶん異なっている。対極といっていい。この絵に目的などない。そう、我々のように、組織だった目的の上に成り立つ、秩序ある、安定した平穏さがまるで感じられないのだ。不穏。一言で言うと、そうだ。だが、絵そのものの構成に、不安定な要素は見受けられない。この絵の作者なりに、しっかりとした秩序を、画面に埋め込んでいるようだった。この一枚の絵という存在そのものが、不穏で、不安定だったのだ。そうまさに、納屋の横に捨てられるような絵。どこにも居場所を見つけられない絵。居場所の決まった情況の中から、生み出されてはいない絵。つまりは、無目的な産物。ゴミ同然。けれどもそれならどうして、焼くなり、さっさと処分をしてしまわないのか。たしかにただ放置されていたことには違いない。しかしあの家の人間にしてみれば、完全に捨て切ることができない代物だったのではないか。それであんな中途半端な状態で置いておくしかなかった。まさに処分という結末にすら、居場所を見いだせない絵。

 笑いたかった。正気じゃなかった。ただの気まぐれな落書きだと、レッテルを付け、早々と、意識から消去したいと願っている自分を発見する。気分が悪かった。しかし、そうおもえば思うほど、絵の方は生命力を宿すらしく、この胸の奥に、疼きとなって、反応を返してくる。どうしたらよいのだろう?もう一度、あの絵を見に行けばいいのか。家の人に譲ってくれるように懇願すればいいのか。あの絵はただ、自分の家から見える風景を記したものじゃなかった。そのとき、私の中では明らかに、一つの答えが浮かび上がってきていた。これまで宗教画の世界に生きていた自分だったが、まったくその中身に関しては、思い入れなどなかったのだ。聖書にも興味はなく、真剣に読んだことすらない。カトリックの洗礼は受けていたが、神などどうでもよかった。神よりも大事なのは国であり、その国が構成する秩序のある安定と平穏さを、何よりも愛した。天上の神よりも、地上の現実だ。すべては安定した配置の中に幸福がある。そしてその配置を、絵で表現するのが、自分の仕事だった。配置を信仰しているといってもよかった。私の存在、私が作業に費やした絵の存在。すべては美しい配置の元に生命を宿す。全体の配置から外れたものに、生きる資格などない。その考えが私という人間の全てを、構成していた。そして、その構成とはまるで反対の極から、あの納屋の絵は現れた。一度も覗いたことのない闇の中から、突然目を覚ました。あの絵の印象が契機となり、何故か彫刻が気になるようになったのだ。破壊し、自らを動揺させた。すべてはあの絵が始まりだった。いや、もしかすると、さらに遡る必要があるんじゃないだろうか。どこに始まりはあるのだろう。それを追及すればするほど、私の人生はどんどんと後退していくような気がした。そう、私の生きてるこの現実の世界が、私からはそっくりと外に出て、私自身がその球体からどんどんと遠ざかっていっているようなのだ・・・。大気圏を飛び出し、宇宙の深淵に引っ張られていき、眼下に見える地球はどんどんと小さくなっていくようなのだ。何が、起こり始めているのか、まるでわからない中、私は画業の他にも、彫刻をやってみたくなった。近所の工房に顔を出し、ちょっとだけ、いじらせてもらった。彫刻の工房も、システムは、我々と同じようなものだった。すでに全体の計画に埋め込まれた作品を、自分の人生を削りながら嵌めこんでいくという連続だ。生涯かけて技術を磨き合い、次世代へと伝えていく。師匠になりながらも、最後まで現役を貫き、生を終えていく。私は彫刻工房に弟子入りできないかと、尋ねてみた。画業は続けながらも、一から彫刻を覚えてみたい。そう願い出た。だが当然、答えはノーだった。私はその頃から周りの人間に疎まれ始めていた。何故このような分業制をひくのか。次第にこの国家のプロジェクトさえ、くだらないと思い始めていた。

 あの一枚の絵が私を変え、あの絵が私にこのような言動を促してきていた。行動を引き起こしてくるのだ。自分は何のために絵を描いているのだろうと。信仰とは一体なんなのだろうと。どれもこれも似かよった絵を描いていく、その意味とは何なのか。国は永久に続いていくものなのだろうか。プロジェクトに終わりはあるのだろか。異国で一人きり、何の目的も居場所もない絵を描いた、その名もない画家のことを想うと、何故か、彼は大変信仰心に篤く、それでいながら、世の宗教からは排除され、生きたいと情熱を燃やしている反面、すでに野たれ死んでいるのではないかと、感じ始めた。




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