這い寄る混沌
「くはっ、ひゃははははははははははははっ!!!」
不快な哄笑がその場に響き渡る。その笑い声は何処までも嘲りに満ち、何処までも不愉快だった。
場が怒気と殺気に満ちていく。その怒りは主に、天使達から発せられていた。嗚呼、確かにこの嘲笑は不愉快極まりない。それは、石英達とて同じだった。石英も、サファイヤも、ムーンも、嗤い続ける黒い神父に殺気を放っていた。
「はははははっ!はひゃあはははははっ!!」
「ナ、ナイっ・・・何故・・・?」
解らない。理解出来ない。何故、こんな事を?
ヤハウェは、苦しげな声で神父に問う。神父は哄笑を浮かべ、再度ヤハウェに拳銃を向けた。
それは、何処までも残酷な笑みで、冷たい笑みだった。
「ああ、お前はもう要らんぞ・・・死ね」
そして、躊躇いなく引鉄を引く。
バァン!!!
乾いた銃声が再度響く。ヤハウェが崩れ落ち、その場に倒れる。先程まで感じていた神性が今は全く感じられない。明らかに異常だった。
ただの弾丸では断じて無い。ただの弾丸なら霊的存在である神霊を傷付けられる筈など無いからだ。ましてや唯一神に深手を負わせるなど、ただの弾丸では絶対にありえない。
恐らく、魔弾の類いだろう。今のヤハウェは神性を完全に失っていた。つまり、今のヤハウェは只の人間と同格にまで堕ちているという事だ。恐るべき魔弾だった。
「「~~~~~~~~~~~~~~~っっ!!!」」
ミカエルとルシファーが、言葉にならない絶叫を上げてナイに突撃する。その顔は凄まじい怒りに満ちた表情をしている。彼等は激怒しているのだ。一時的に言葉を失う程に。一瞬、完全に理性を失ってしまう程に。
その手にはそれぞれ、高位の聖槍と魔剣が握られている。当たれば只では済まないし済ませるつもりも断じて無い。
ミカエルとルシファーは怒りのまま、刃を振るう。加減の無い聖槍と魔剣の一閃。
熾天使の長と堕天使の長の同時攻撃。それは地獄そのものだろう。並の敵なら、一瞬で切り刻まれて魂も残さずに即座に消滅するだろう。
物理法則を一切無視した動きで肉薄する二柱。しかし、それを嗤いながらナイはそれぞれ二本の指で軽々と受け止める。その笑みは余裕すら感じられる。
当然だ。ナイはこの二柱をそもそも脅威と認識していない。それほどまでの実力差があるのだ。
ナイはそのまま、二柱を蹴り飛ばす。ありえない。この神父は、只の蹴りでミカエルとルシファーの二柱を倒したのだ。明らかに常軌を逸している。この神父、此処まで強かったのか。
ナイは嗤いながら、ミカエルに銃口を向ける。
しかし、それを見て天使達がナイに向かって突撃してゆく。それでも、ナイはまだ嗤い続ける。
高位の天使達の一斉攻撃。それは、世界を揺るがす強大な一撃になる。その攻撃の激しさに、天界全土が大きく揺れる。
「少し、鬱陶しいな」
そう言うと、ナイは懐から一つの鍵を取り出した。古びたアンティークの銀の鍵だ。
「それは!?」
石英はそれを見て、驚愕した。ナイは更に笑みを深める。
鍵を空間で回し、何事か唱えるナイ。すると、空間が歪み様々な怪物や人物が現れて天使達と対峙した。
男、女、老人、青年、少年、科学者、軍人、触手の怪物も居る。石英はすぐに理解した。それ等全てがナイという神父と同一の存在であると。全く別々の存在でありながら、同一の存在。
「さあ、始めようか。この全てが俺の化身であり、俺そのものだ!!!」
その数は、軽く千にも上るだろう。その全てがある種の神性を帯びている。だが、彼の神性は多くの矛盾を孕んでいる。
邪悪でもあり、神聖でもあり、人間でもあり、怪物でもあり、神でもある。矛盾すらも内包する原初の混沌の化身。
そう、彼は混沌そのものなのだ。混沌を司る邪神。それが彼の正体だ。
「やはりそうか。お前の正体は這い寄る混沌、ナイアーラトテップだな?」
「ナイアーラトテップ?」
サファイヤが警戒を解かず、問い掛ける。しかし、石英はそれに答える事なく冷や汗をかきながら神父を睨み付ける。
這い寄る混沌、ナイアーラトテップ―――
クトゥルフ神話における外なる神の一柱であり、メッセンジャー。魔王アザトースの従者であり、その邪悪な意思の遂行者。
混沌そのものであり、正体を持たないが故に何にでもなれる。無貌の神。千の貌を持つ者。
自身の主すら冷笑するトリックスター。人類に核兵器の技術を与え、人類を自滅へと導くなど狡猾な面を持つ狂気と混沌の化身。
千の化身を持ち千の自我を持つが、一つの存在であるという矛盾を持つ。むしろ、矛盾すらも呑み込むのが彼の本質とも言えるだろう。
古代エジプトの歴史から抹消された王が信仰していたという顔の無いスフィンクスも、ナイアーラトテップの化身の一つだと言う。様々な魔術師や秘密結社が彼を崇拝しているという。
クトゥルフ神話において、唯一率先して人類を破滅に導こうとする邪神の中の邪神だ。
閑話休題―――
・・・天使の軍勢を尽く蹴散らしていくナイアーラトテップ。やがて、幾千万もの天使達の軍勢がたった千の化身に掃討された。
その異常な光景に、全員が呆然とする。そう、これは正に異常事態だ。
特に、神々にとっては異常な光景だろう。ありえない。
先程からありえない事の連続で、神々は呆然自失している。ゼウスなど開いた口が塞がらない。
「どうして?」
「ルビ?」
ルビがぽつりと呟く。その声は小さく震えていた。理解出来ない。理解したくない。見れば、ルビはそんな顔をしていた。
「どうしてそんなに酷い事をするの?どうしてそんな事が出来るの?」
解らない。どうして、嗤いながらこうも天使達を屠る事が出来るのか?どうして嗤いながら、こんなにまで恐ろしい計画が出来るのか?
ルビにはナイの事が理解出来ない。そもそも、以前この黒い神父が町を嗤いながら襲撃した事だってルビには全く理解出来ないのだ。
ルビの顔は青白く、身体は小刻みに震えていた。ああ、そうか・・・これは恐怖だ。
理解出来ないモノに対する、根源的な恐怖心だ。
それを、ナイ神父は嘲る様に笑った。
「はっ!つまらない質問をするな!地を這う蟻に宇宙の意思が理解出来るか!?」
「・・・・・・え?」
「そもそも俺は這い寄る混沌。元々人類を滅ぼす為に、その為だけに生まれた存在だ!!!」
「っ!!?」
這い寄る混沌、ナイアーラトテップ。彼はそもそも、アザトースの破壊衝動を満たす為に生まれた存在だという。
彼は人類を、世界を滅ぼす為に生まれたのだ。その為に生まれた。その為だけに生まれたのだ。
それだけが、ナイアーラトテップの存在理由だ。その為だけに生きているのだ。
「しかし、お前ももう用済みだ・・・お前も死ね」
「っ!?」
そう言うと、ナイは拳銃をルビに向けた。ルビは思わず、ぎゅっと目を瞑る。
「っ、ルビ!!!」
石英が動くのと、ナイが動くのは同時だった。ナイが一瞬、嗤った。石英にはそんな気がした。
バァン!!!
乾いた銃声が響く。鮮血がルビの身体を真っ赤に染めた。崩れ落ちる石英。
石英がルビを庇ったのだ。一瞬、ルビは何が起きたのか理解出来なかった。頭が理解を拒んだ。
しかし、徐々にルビの顔が恐怖に歪む。
「せ、石英っ!!!」
「・・・・・・・・・」
身体から力が抜けていく。石英から全ての力が失われていく。死が、石英を呑み込んでいく。
石英の心を諦観が満たしていく。嗚呼、此れが自分の終わりか。
ああっ・・・まあ、ルビが無事だっただけでも良しとするか―――
ルビの悲鳴を遠くに聞きながら、石英の意識は暗転した。




