恐慌
獅子倉修一郎達が担当していた原子炉は、万が一すべての電源が失われ電気的な制御が出来なくなったとしても、制御棒の操作と冷却だけは続けられるようにと、単純な機械的操作も出来るように設計されていた。要するに、人力でレバーをぐるぐると回して制御棒を押し込み臨界状態を続けられないようにし、かつ温度差及び高低差を利用した冷却水循環装置により燃料棒の冷却を行うのである。そうすれば発電は無理でも、原子炉そのものの暴走は抑えることが出来る。
だが、その為には当然、その場に作業を行う人間を送り込まなければならない。線量はすさまじい勢いで上昇を続け、そう遠くないうちに防護服では役に立たないレベルにまで到達しようとしていた。だから今しかなかった。それに、獅子倉修一郎は自ら志願した。娘と妻の顔が頭をよぎったが、もしここで暴走を抑えられなければ、どのみち娘も妻も危険に晒される。それだけは耐えられなかった。
しかも、制御棒の操作だけではない、冷却水の水位が下がったことで圧力容器内の圧力が急上昇。水が分解され水素が発生していることがほぼ確実となった。それを排出しなければ圧力容器そのものが破損、大量の放射性物質が漏れ出せばもう、近付くことさえ出来なくなる。命懸けの決死の覚悟でなどということすら通じない、気力や根性ではどうにもならない凄まじい被曝により辿り着くまでに確実に死に至るだろう。そうなる前に圧力を下げる操作をする為の人間も必要だった。
獅子倉修一郎だけでなく、その場にいるすべての人間が、命を賭して、もはや暴れ馬のごとき原子炉の手綱を握り直すために自分の役目を果たそうとしていた。
そしてそれは、獅子倉修一郎がいる原子炉だけで起こっていることではなかった。恐ろしいことに、日本中にある全ての、運転中停止中関係なくすべての原子炉で同時にそれが起こっていたのだ。燃料棒が抜き取られ保管用のプールに移されているところでは、その保管用のプールの水が勝手に排出され、循環出来なくなっていたのである。こうなると燃料棒を冷やすことが出来なくなり融解、途方もない放射性物質が空気中にばら撒かれることになる。原子力発電所にいるすべての人間が超高線量被曝により即死する程度には。
こんなことは本来なら有り得ることではなかった。故に電力会社にも政府にすらも対策の為のマニュアルが存在しなかった。世間に公表し避難を呼びかけようという声も上がったが、日本全ての原子炉が同時に暴走しかけているこの状態で、どこに逃げろと言うのか。その為に政府は公表を見合わせる判断をした。今の時点で公表したところで、パニックを誘発することにしかならないということだった。と言うか、既に政府自体がパニックに陥っていたのだった。