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太陽から燦々と輝きが降り注ぐなか、愛美は英田に片手をひかれて歩く。そっと腕時計で時間を確認すると、朝の六時だった。
「……英田さん、まだ六時ですよ」
「それがどうした」
「こんな早い時間に、電車ありましたっけ」
「走ってきた」
さも当然とばかりに英田の口から出た言葉に愛美は目を瞬かせた。
「走った?」
「ああ、走った。あいつのいそうなところをとりあえずしらみつぶしに」
愛美はじっと英田の背を見つめた。
つないだ手に力がこめられてあつい。離してくれないと火傷しまうかもしれない。
「英田さん」
「お前がいなくなって、あいつから電話があって」
握り締めた手が震えている。
「英田さん、あの」
「俺は、またお前を傷つけたのかと……何を見た」
「英田さんが、あの人とキスしてるの」
「そうか……真樹とは、本当に過去のことだ。あいつは、また俺が利用できるから、近づいてきたんだ」
「どういうことですか」
英田は足をとめて、ふりかえり愛美を見つめた。
「教えてください」
知ることが恐ろしかったのは、それを英田が自分に教えてくれないからだ。英田がちゃんと目を見て教えてくれた真実を愛美は知りたかった。
「……少し落ち着いたところで話そう」
「いますぐがいいです」
愛美は自分でも驚くぐらいに強気に言い切った。
「わかった……昔、俺は、モデルしていた時期があってな、そのとき真樹に会った。彼女はきれいで、傲慢で、付き合ったのは、本当に利益になるからなんだ。あのときは、自分が楽しむことばかり考えていた。他人にすごく無関心だった」
愛美はぎゅっと英田の手を握り締めた。
「それで、ちょっと危険なことをしたんだ。警察のご厄介になるようなことだ」
「なったんですか」
「ギリギリならなかった……けど、そのとき、周りにいた者たちはみんないなくなってしまった。ああ、なんて薄情なやつらかと思ったが、それは仕方ないことだ。俺自身がそういうやつだから……人の絆は脆いものだ」
英田が皮肉げに笑う。彼らしくない笑い方だ。
「だから、いらないと思った。なにも信用せず、一人で生きようと思えばできるものなんだ」
「けど、飯田さんがいます。わ、私もいますっ」
英田は目を細めて、眩しげに愛美を見つめた。
「おろかなものだ。もう期待しないと思いながら、また人に期待して、そして傷つけてしまったな、愛美を」
優しく肩を抱かれた。その手がみっともなく、臆病にも震えていた。いつも自信いっぱいに、少し傲慢にふりまわしてくるのに。
まるで知らない男の人みたい。
愛美は英田の胸に抱きしめられて、下唇をかみ締めた。
「俺は、こんな男なんだ。ひどいことを平気でしてきた、そんな男なんだ。知られたら、きっと愛美は軽蔑すると思っていた」
「けど、わたし、英田さんのこと好きだから」
迷いながら手を英田の背にまわし、しっかりと愛美は抱きしめた。
英田が自分以外を想うなんて許せない。この腕に抱かれているのは自分だけでいい。
傍にいれば、醜い感情は何度も産まれる。傷つくことも、泣くことも、迷うことも、いっぱいある。
怖い。
いま、ここで英田と別れてしまえば、平穏に戻れる。いつものちょっとだけ間抜けで、物陰にいるような女の子に。
――この人が好き
愛美はしっかりと英田を抱きしめた。
英田の胸に耳をあてると心臓の音が聞こえる。
――英田さんを抱きしめたい
汚い感情を持ったまま愛美は英田を抱きしめた。
漫画で読む恋はいつもきれい。そして優しくて、可愛いヒロインは、いつもかっこよくて。けど、私はそうはなれない。
汚くて、疑って、けど、英田さんが好き。
「愛美」
「まだ、泣きませんから」
愛美は顔をあげて英田を睨んだ。
「まだ、優しくしてもらわなくていいですから」
「愛美?」
「ちゃんと私が英田さんを守るから、その勇姿を見てください」
「な、なにを言っているんだ」
愛美は英田を離して、息を吐いた。
「じゃなきゃ、私は英田さんのそばにいれないもの!」
愛美は言いたいことだけいうと、走り出した。その背を見つめて、英田は唖然とした。
その背が遠くになって、ようやく愛美の荷物を自分が持っていることに気がついた。
走って帰る途中、愛美もまた荷物を持ってないことを思い出した。そのあと、恥を忍んで、真澄にお金を借りにいかねばならなかったのはいうまでもない。
もし、ここで音楽が流れるとしたら、映画にある決闘の音楽だ。
世紀のガンマンよろしく、どちらかが死ぬような緊迫の音楽。
愛美はなんとか一度寮に戻ったあと、大学に赴き、食堂にいる真樹を見つけ出した。
愛美が震える拳で向かったとき真樹は黒く長い髪を揺らして笑った。皮肉ぽいが、本当にきれいな笑い方だった。屋上に行きましょうと真樹が先に口にしたとき、愛美は震えがとまらなかった。
悔しいくらいに、真樹はきれいで、強い人なのだ。自分は、真樹のようにきれいでもなければ、強くもない。
「なにか用?」
青空の下で、優雅に笑う姿につい魅了された。
見れば見るほどに悔しいぐらいにきれいな人だ。めいいっぱいの努力をして、その美しさを保っているのだ。もし、こんな出会い方をしなかったら、尊敬したかもしれないし、あこがれたかもしれない。
けど、彼女は敵だ。
「英田さんに手を出さないで」
「私の勝手でしょう。あんたみたいな子になにがわかるの」
真樹の顔が険悪になるのに愛美は震えた。
この人、怖い。
面子とか、自分の見栄とか切り捨てて、本気なんだ。
英田は真樹が自分を利用していると言ったが違う。真樹は、英田のことが好きなのだ。自分のプライドを切り捨てて、また英田に声をかけるほどに。
こんなにも美しい人にとって、見栄を切り捨て、プライドを切り捨てることがどれだけ苦痛なのか、きっと英田には解らない。
女の人の戦いだから。
「わかりませんし、わからないままでいいです。英田さんは私と付き合ってます。だから、あなたにあげません」
「なによ、私に挑戦するっていいたいの、あなた」
「英田さんを少しだってあげないから。英田さんは私のだから」
愛美は敵意ある瞳で真樹を睨んだ。
真樹が真剣なように、自分も真剣だ。
英田を渡したくない。本当に我侭で、傲慢で、どうしようもない人だけど、好きだから。
「あんたみたいに、ださくて、可愛くない子をどうして英田が傍においたがるの? そういう可愛いところ? それとも、その黒髪?」
真樹のきれいな黒髪を見つめて愛美は肩を震わせた。
唯一、愛美が張り合えるなんて、きっと髪の毛ぐらいだ。
愛美は一呼吸おいて、自分のポケットから裁縫用の小さな、よく切れる鋏を取り出した。
「何する気よ」
「こうするの」
愛美は一瞬だけためらって、髪を切った。
ざっくりと音がして、髪が零れ落ちるのに真樹の目がじっと愛美を見て、そして口元を痙攣させた。
「ばかな子」
「馬鹿だってことぐらいわかってます。けど、これくらい真剣だから、あなたに英田さんはあげません」
「……彼は私が傍にいたのに、ちっとも見てくれなかった。モデルだってする気なんてさらさらなかった、けど、彼がしていたから、やったのよ。本当に不純な動機……けど、真剣なのよ。……たとえ、好きだって口にして、その気持ちすら笑われても」
真樹の目がじっと愛美を見つめた。
「好きだったわ。プライドが邪魔だった。けど、今は違う、あの人はまたかえってきたから」
真樹の手が伸び、愛美の頬をたたいた。
今まで生きてきた中で他人から殴られるなんてなかった愛美は痛みよりも、たたかれたことに放心した。
「目障りだわ、あんたみたいな子! 彼を奪わないでっ」
もう一度ふりあげられた手に愛美は身をかたくしたとき、手が伸びて真樹の手をとめた。
「やめろ」
凛とした声に真樹が目を見開き、愛美の背後に立ち、自分を見つめる英田を見つめた。そんな顔を自分のときはしてくれなかった。
だからこそ、真樹は敗北したことを理解した。自分のときは、英田は表情一つかえなかった。こんな喧嘩をしてもとめることなんてなかった。
「お前の負けだ。食堂でお前たちが二人してどこぞに行くと聞いて探したぞ。二人でこんなところで向かい合って決闘か? 主役の王子を抜きにして勝手をするな」
「……私の何がいけなかったの」
英田の手を振り払い、真樹はじっと英田を見つめた。
「なにも、悪くはない」
真樹は瞳から涙を零して、下唇をかみ締めるとあいている手をふりあげて英田の頬に平手打ちをくらわせ、背を向けて歩き出した。
呆然と見ている愛美は、我に返ると、顔をあげた。
「英田さん」
「俺は平気だ。それよりも、愛美、なんてことをするんだ」
心配したのに怒鳴られて愛美は肩を震わせた。
「髪の毛を切るやつがいるか」
「す、すいません」
英田の手が切ってしまった一部の髪に触れる。一部といっても切ってしまった以上は、整えるために全体を切らなくてはいけない。
「なんて馬鹿を」
英田が情けない声をだして肩を抱きしめてくるのに愛美はいまさら泣きたくなった。真樹と同じ髪であることがいやだった。だからばっさりと切ったのは勢いだ。きってしまった髪に未練はないが、後悔は少しだけある
「また、伸びますから」
「ああ。人間は生命活動をしているのだ。伸びなくては困る。のりをがんがんに食べて、育毛剤をどんどんかけてやるっ」
「英田さん、それはちょっと」
「愛美が、俺のことで傷を負うのは許せない」
抱きしめられる力が強くて、呼吸が止まりそうだ。愛美は心臓がどきどきしていくのに息を呑んだ。
「あの、髪の毛、切れたけど、好きでいてくれますか?」
「髪ひとつで愛が決まるか、ばかものめ」
「……はい」
「愛美、ひとつ頼みがある」
「はい、なんですか?」
「君を愛させてくれ」
いつもは自信があって、傲慢な英田とは思えないくらいに弱弱しい声に愛美は驚いて、顔をあげた。
英田は本当に自信がなさそうで、顔は不安に歪んでいた。
「私は、英田さんのこと好きですよ。好きだからっ」
もう出ないと思っていた涙がまた目からこぼれだしそうだ。
愛美は両手を伸ばして英田の首にしがみつくように抱きしめ、目を強く閉じた。
英田を好きになって、自分の中にある黒い汚れが目に付いた。不安はいつも傍にある。だが、それを跳ね除けて、英田をこうして抱きしめられるほどに自分は強くなった。
「大好きです」
愛美はついに声をあげて泣いてしまった。
英田は愛美が落ち着くまで抱きしめたまま何も言いはしなかった。
愛美がしゃくりあげて、ようやく涙を落ち着けたのに得意げに笑って見せた。
「訂正を一つしよう」
「はい?」
「この広い宇宙で、どうして地球に来たか知っているか?……王子は、地球があんまり青いから来てしまったのだ。ずっといるのは、愛美があんまりうるさく泣くから、ほっておけないのだ」




