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ケチというものはつきだすと、本当に容赦がない。
ここ数日、愛美はついてなかった。
朝は、目覚まし時計が謎の故障を引き起こして寝坊し挙句、急いでいたのに親指を思い切り部屋の角にぶつけ、さらにお気に入りのサンダルが壊れ、泣く泣くぼろのシューズで寮の自転車置き場まで走っていけば、自転車は盗まれていたし、乗らなくてはいけない電車は目の前で走り去る。
なに、これ。
愛美は思った。
私、ちゃんと、厄年払ったよね?
信仰深いわけではないが、つい原因を考えてしまった。
「なに運がないだと」
「はい」
ようやく大学についたとき、愛美はぼろぼろだった。
不幸の連鎖は続くもので、大学前の溝に片足つっこんでしまった。さらに授業は休講――なんでも、先生が風邪をひいたとか……本当は野球観戦に行くためだと囁かれているが、愛美には関係のないことだ。
自分の不運を嘆くこともできずに、仕方なく昼だけでも食べて帰ろうと重い足をひきずって食堂に赴くと、思いっきり、壁に激突。
痛みに泣きそうな愛美を英田が発見して食堂まで連れてきたのだ。ここでもまた運の女神によって見捨てられた愛美は財布をもってくるのを忘れていた。
英田は愛美のぼろの姿を一瞥して鼻で笑った。――本日のランチは英田の奢りだ。さすがに、金のない人間には奢らせることは不可能だ。
「愛美、他人の不幸は蜜の味という言葉を知っているか」
「え、ああ……英田さん、あの」
「そんな一人ドリフをするお前は見ていて飽きんな」
「ひ、ひとりどりふぅ」
心配してもらえると思っていた愛美としては、ショックなことこの上ない。
確かに、英田は一般的な人間の常識を激しく逸脱した存在で、ちょっとどころではないほどに異常であるが、まさか自分の不幸を、一人ドリフと言われるとは思わなかった。戦慄いて泣き出しそうな愛美に英田はふふんっと鼻で笑った。
「愛美は、そうやって泣きそうなのを我慢している姿がいいのだ」
「な、なんですか」
「つついたら、泣き出すチワワみたいだ。ああ、まあ本物のチワワは凶暴だが」
英田の手が愛美の髪を撫でた。
英田は口にこそ、出さないが愛美の髪の毛を撫でることが好きだ。だから愛美は髪の毛にはいつも気を使うようになった。
「お姫様が、窮地を助けるのは王子の役目だと昔から相場が決まっているじゃないか」
「英田さん」
「今日はどうせ、もう授業はないし。一緒に帰るか。愛美の一人ドリフを見ていてやろう」
「……か、かえります」
英田が差し出してくれた手に愛美はすがりつくように手を重ねた。
不思議だ。
今までいっぱい泣き出したい気持ちだったのに、英田の一言でもう平気な自分がいる。現金なやつ。愛美は心の中で自分のことを軽くののしって、笑った。
「よし、じゃあ」
けたたましく、ダースベーダーのテーマが流れた。
そう、あれだ。だだだーんである。
絶望と恐怖とがマッチした音楽は、賑やかな雑談をかわしていた食堂に響き、文字通り誰もが音の元に注目した。
音の元はそんな視線なんぞ、へのかっぱと平気な顔をして懐から携帯電話を取り出して耳にあてた。
「はい……ん、ああ」
愛美は、じっと英田を見ていた。つないだ手をぎゅっと握り締める。
「わかった。そちらに行く……すまないが、愛美、一人で帰ってくれ」
愛美は頭を鈍器で殴られたような気持ちになった。
「王子はこれから、ちょっと野暮用だ」
英田に手を離され、愛美は捨てられた気持ちになった。
最近英田は、野暮用と言って一人でなにか忙しくしていて、愛美はちょくちょくほっとかれている――ほっとかれるといっても昼ごはんは一緒に食べているし、一日一度は会っているのだから、周りから見てみれば少しべったりとした恋人同士と言われるが愛美としては物足りなさを感じる。はじめて出来た恋人は愛美を甘えさせ、孤独にさせた。
なんだか泣きたい。
私、厄払ったよね
愛美は一人で置き去りにされて、周りのなんともいえない同情の視線を感じて、洟をすすって泣きたい気持ちをなんとか抑えて歩いた。
ひどい。
神様は、きっと私が嫌いなんだ。
愛美はひどく情けない気持ちで食堂を出て廊下を歩いた。このまま帰ったら、もうなにもせずに家に引きこもってやる。
「おい、そこ、そう、そこのだ。そこの」
愛美は足をとめて見ると白衣を着た男が立っていた。その男のことを愛美はよく知っていた。
「あ、先生」
桝鬼助教授は、その日は白衣を身につけ、更には両手に山ともいえる荷物を抱えていた。
大学の中でも桝鬼の授業はいつも観る人間でいっぱいで、立ち見をしている者も多い。ただし、評価のつけ方が手厳しいために専攻する人間はそれこそ骨のある人間でなくては大変なのだ。
愛美も授業を受けたことがある。単位のことを考えると専攻するかは考える相手で、暇なときに立ち見をしている程度だ。
尊敬している相手に呼ばれるとしてもその見た目からして、いやな予感がして愛美はじりじりと後ろに下がるのに桝鬼は容赦なくよってくる。
「両手だせ」
「はい」
ぽん。
桝鬼が持っていたダンボールが置かれ、愛美は突然の重さに前のりになりそうになった。それをなんとか踏ん張る。
「よし、それ、俺の研究室に運んでくれ。あと、まだ荷物あっから、手伝え」
「へ、え、ええ?」
突然ふってわいた命令に愛美は困惑とした。
「はいは一回。おい、上原、お前も根性だして運べよ」
桝鬼が後ろに声をかけるのに愛美と同じくダンボールをもって、ふらふらとふらついている女性がいた。
「無理いわないでください。先生」
息をきらしているところから、かなり重労働をさせられているというのがうかがえる。
「単位のためだろうが、気合いれろ。一緒に先行ってろ。どうせ、暇なんだ。掃除も手伝え」
理不尽な命令を残して行ってしまう桝鬼を見て愛美は、本当についてないと思った。
重労働を終えて、へばっている愛美と上原にもう一つのダンボールをもってきた桝鬼はお礼としてコーヒーをいれてくれた。
「いや、助かった。悪いな、つき合わせて」
それは愛美か、上原かどちらに対しての言葉かはわからない。ただ愛美としては疲れ切って、神様は本当に私のことが嫌いなんだと思った。
「じゃあ、私は」
「ああ、整理のほうも手伝ってくれないか」
「へっ」愛美は声をあげた。
「暇だろう?」
決め付けられて愛美は――実際暇であるので否定しようもないが、こういうとき押しに弱い自分の性格が嫌いになる。
「はい」
おかげ様で愛美は上原と一緒に、太陽が傾き、茜色に染まるまでこき使われた。
普段使い慣れない筋肉を使ったために節々が悲鳴をあげるのに愛美はふらふらとした足取りで歩きながら、そうだ。今日はコンビニに寄って甘いデザートを買って帰って、自分を慰めた。
愛美の住む寮の近くにはコンビニがある。そこからちょっといけば、英田たちが住んでいる、今度地震があったら真っ先に潰れるといわれるぼろの寮がある。
もしかしたら、また英田に会えるかもしれない。英田は時々、コンビニに行っているし。
愛美は真っ直ぐにコンビニに向かった。
「あっ」
愛美は、驚いて目を丸めた。
飯田がいた。
飯田は、見た目は仏頂面で怖いタイプだが、実はとても世話焼きであることを愛美は知っている。はじめ、怖がってしまったが、今は普通にしゃべったりできる異性の一人だ。
最近英田が飯田を避けているせいか、愛美も自然と飯田と距離が出来た。
なんて友情の薄いなのだろ。
いろいろと世話をかけて、きっと胃が痛くなる思いだってさせたのに。
恋をするとそいつの本性がわかる。と友達は言っていたが、確かにわかる。私って、結構、薄情だ。
愛美はちょっとだけ自分の薄情さを反省して、声をかけようと思った。
だが、開いた口からは声は出なかった。
飯田と一人の女性が向き合ってなにか話している。コンビニの硝子からもれる薄明かりだけで、はっきりと顔は見えないが、白いブラウスに黒のジーパンの服装はこざっぱりとしていて、愛美にはない大人ぽい雰囲気を持っている。
コンビニの駐車場の暗闇に隠れるようにして真剣に見つめあい、言葉を交わしている二人は、不意に飯田が女性の腕をとって強引に、唇を重ねた。
あの飯田がっ!
愛美は唖然として、続いて心臓がどきどきするのを感じた。
見ちゃった。
人のキスする姿なんてきっと、そうは見るものじゃない。いいや、現実に見ることなんてあっちゃいけないんだと純粋な愛美は思っていた。だって、ドラマみたいに人が好きだ、愛してるなんて木っ端恥ずかしいこと口にしてキスするなんて考えられないし、そんな見せ付けられても困る。
愛美は唖然として飯田と女性のキスを見ていた。
女性は飯田を突き放して走り出した。飯田はあとを追うことはなく、立ち去る女を見送ったあと、愛美のほうを見た。
どうしよう。
愛美は硬直した。
飯田と目が合ってしまった。
これはもう言い訳やらできないだろう。偶然と通りかかったと言えないし、――実際は通りかかっただけだけど。キスしているのを見たか、見てないかというと、ばっちりこの目で見てしまった。
「愛美ちゃん」
飯田にかけられた声に愛美は覚悟を決めた。
「わ、私、見てませんから」
もう、見ていることを白状している言葉であることは言ったあとになって気がついた。
「見たのか」
愛美は見る見る顔を真っ赤にしてうつむいた。
「すいません。決して覗きとかの趣味はなくて、あ、あの怒ってもいいですから」
「いや、怒ることはないよ。こんなところで、誰かに見られることは予想していたし」
飯田の諦めたような、冷たい言葉に愛美は不安を覚えて顔をあげた。
「飯田さん?」
心の中にじんわりと広がりだしたどす黒い不安は、言葉としてなんといえばいいのだろうか。そして、この不安は何に対して感じているのか。
愛美にはわからない。
ただひたすらに形のない、言葉にはできない不安が愛美の心を支配する。
「俺はそろそろ帰るよ。愛美ちゃんも気をつけて」
「あ、はい」
去っていく飯田を見て愛美はなんだか今日は本当についてないと心の中で愚痴った。
コンビニで買った、新発売に惹かれて買ったデザートは、愛美が思うほどに甘くなくて、すっぱかった。
《》
翌朝起きたときから、むんむんとしていた。
心にしこりがあるようだ。今までこんな気持ちになったのは、そうだ。仲のいい友達と喧嘩したときとのかんじだ。
変だな。誰とも喧嘩なんかしてない。そこですぐに英田の顔が思い浮かんで愛美はむすっとした。
身勝手で、飄々としていて、意味がわからない。いつもふりまわされて、疲れさせられてしまう。
そんな英田に、無性に会いたかった。
英田だったら、この不安を受け止めてくれるはずだ。愛美は急いでベッドから起きようとして、思い切り転んで、頭を部屋についている小さなテーブルの端でうった。
痛かった。
昨日に引き続き不幸体質続行中であった。幸い電車を逃すことがなかったぐらいで、目の前に黒猫が横切ったときは不吉だなぁとは思ったが、それ以外はなにもなかった。不幸だって、そのうち飽きて去ってくれるだろう。愛美はそれまでひたすらに冬を越す蟻よろしく耐えるしかない。
今日はなんとか早く起きて、英田の分も弁当が作れた。英田がいつも褒めてくれる卵焼きもいれたし、奮発して骨付き肉の揚げもいれてみた。
食堂にはいって英田を探す。いつもならここらへんをふらふらとしているのを真っ先に見つけ出すことができる。
「愛美、やばいよ」
「ゆかちゃん?」
愛美を目ざとく見つけ出したゆかちゃんは、真剣な顔をして愛美を見つめた。
「あんた、負けるよ」
「はぁ」
なにが
愛美が尋ねる前に一人の女性が、ゆかの横に立っていた。
うわ、きれい。
愛美は正直に、彼女を見たとき思った。
この世には、神は人に二物だってあげるときがある、と。
すらりとした身長に、きっと愛美の半分だって食べてないだろうだろうと思わせるほどにほっそりとした腰、黒髪だが、それが重くじめじめとしたイメージはなくて、逆に清楚さを出している女性は、じっと鋭い目で愛美を見つめていた。
愛美の横にいるゆかは愛美のかわりにひどく緊張して肩をこわばらせていた。見られている当の愛美だって、なんでこんなきれいな人にじろじろと不躾に見られているのかわからなくて緊張した。
「地味ね」
はい?
美しい彼女の鋭い第一声に愛美は眉を寄せた。
「地味」
「あ、あの」
「英田ったら、趣味かえたのね」
英田の名前に愛美は目を瞬かせた。
彼女は英田の知り合いだろうか。
この大学一変人で、奇怪な男で、けれども顔だけは美形な男。自称宇宙の王子様。そして愛美のはじめての恋人。
「こんな地味なのと付き合うなんて」
彼女が鼻で笑った――ような気がする。
そのまま去っていく彼女を見て愛美は本気で思った。
いやな人だ。
英田とどういう関係かは知らないが、今日ださいのは朝からついていなくて――いや、それは言い訳にしろ。
第一声で、自己紹介もなく、そんなことをいうのか。
「愛美、やばいよ。あの人」
「なに、ゆかちゃん」
愛美の拳が震えていたのにゆかは、どきりとした。この子、こんな顔したっけ? ――長い付き合いではないが、愛美が激しく拳を震わせて怒っているのがわかりゆかは身を退いた。
おとなしい人ほど怒ると怖いというが、今の愛美は、まさにそうだ。
「あの女の人、だれ」
「英田さんの昔付き合ってた人だって」
その日、愛美は最大級の爆弾を投げつられた気がした。




