5
愛美が日頃、服を買うのは小さな服屋だ。安いが品が多いところが気に入っている。
休日ではなくても主婦や暇な女の子たちが服を求めて買い物にくる。
愛美自身は服を買いに行くのは好きでも嫌いでもない。
友達と行けば、必ず一時間、二時間かかる。それが愛美としては苦痛だ。服に興味がないわけではないが、激しく興味があるわけでもない。
店に入ると英田はすぐに愛美の手をひいて歩いてくれた。
デートに見えるかしら?
愛美は心の中で、ちょっとだけ考えて人の目を気にした。
今流行の女の子の服を見るとどれも可愛らしい色柄で自分に似合わないかもしれないと思いながらも、心惹かれる。
「こういうのいいかもな。愛美」
白のワンピースに愛美は眉を顰めた。
二の腕が気になる。足も気になる。
「着てみろ」
「けど」
「愛美、いいか。若いうちは、服ってもんはなんでも似合うし、着れるんだ。今、着ないと後悔するぞ」
がしっと肩を掴まれて力説されて愛美は、つい頷いてしまっていた。
「は、はい」
「よし、下はジーンズの組み合わせでどうだ? 上には、なんかは織るのもいいな」
一人で決めてしまう英田に愛美は、何も言えなくなってしまった。けど、こういうのも悪くないと思うのが不思議だ。英田の仕立ては、愛美がどれもいいなっと思えるものだ。
だから、愛美も素直に着てみようと思えた。
白いワンピースにジーンズは中々に可愛らしい組み合わせだった。その上に羽織った緑の編みもなかなかだ。
「ん、このまま着て帰れるようにするか」
「ええ。本気ですか」
テレビとかで、よく金持ちがそんなことをしているのは――ドラマで見るけど、自分がそれをやっちゃうとは思わなかった。
「いいんですが、これ全部あわせると、けっこう」
「愛美、知っているか」
「はい?」
「男が女に服を買う意味」
愛美は首を横にふったのに英田は満足そうに笑って頷いた。
「よし、その服をそのまま買って帰ろう。元々着ていた服は、袋につめてもらえばいい」
英田は言うことは実行する人だ。
愛美は、英田がチョイスしてくれた服を着て店を出た。その右腕にはしっかりと自分の着ていた服を抱える。
英田は楽しげに、鼻歌なんか歌いながら歩いていくのに愛美はますます眉を顰めた。
英田は歩いていくのに愛美は一生懸命後をついて行った。一体、服を買うのになんの意味があるのか。
「おっ」
突然に英田が足を止めたのに愛美も足を止めて目を向けた。
硝子に見えるのは人形だ。ちらりと店の看板を見ると「人形の森」と言う可愛らしいタイトルだ。その下に「人形専門店」とある。英田がまじまじと見ているのは、なんだか見るとすごく抱き心地の良さそうなピンクのうさぎのヌイグルミだ。
よしっと一言いうと、英田は――きっと男であれば、立ち入るのも躊躇うピンクの店内に飛び込んで行ったのに愛美は目をぱちくりとさせていると、颯爽と帰ってきた。片手にピンクのうさぎのヌイグルミつきで。
「ほら、愛美にだ」
「私に?」
「このうさぎが、妙に愛美ぽい」
「ええっ?」
どこらへんが、自分に似ているのだろうと愛美は手渡されたうさぎをじっと見た。
「名前は、愛美二号でどうだ」
「ええっ」
「よし、そうしよう。愛美二号は、これから、神々しい王子と夜も朝も供にするのだ」
とんでもない話だ。
名前が自分のものだと思うと――二号てついてるけど。自分のことが呼ばれているみたいで愛美としては困る。
「だ、だめです。こ、この子は私がもらいます」
「愛美が、愛美二号を気に入ったのならば、プレゼントしてやってもいいぞ」
「……英田さん、素直にプレゼントしてください」
愛美は、自分の腕の中にある愛美二号をぎゅっと抱きしめて英田を睨んだ。
これは、英田なりのプレゼントと言うことだろうか。でも、いきなりなんでうさぎのヌイグルミ?
「そのぬいぐるみが愛美に似ているから買ったんだ。まぁもらってくれるのならばいいだろう。王子の部屋は、今は大変だからな」
英田の部屋がもので埋め尽くされていることを知っている愛美は、ますますこの可愛らしいぬいぐるみを英田に渡してはいけないと思った。きっと、あんな部屋に行ったら最後いろいろなものに潰されて、ぺしゃんこにされてしまう。
愛美は、このかわいいうさぎをどこにおくべきかと考えながら、赤い空に気がついた。驚いて時計を見ると、もう四時になっている。――あと五分ほどで五時だ
うそ。
こんな時間まで私はなにをしていたんだろう。頭の中で必死に考える。英田と待ち合わせたのが一時頃で、それから、服を買って、歩いて
「そろそろ、夕飯も食べたい頃だな」
「え、あの」
「王子が連れて行ってやるのだ。いやがることはないだろう」
「は、はい」
愛美は頷いておいた。
スーパーで買い物をする際には英田は「ピーマンは嫌いだ」と激しく主張するので愛美は、ピーマンを二袋もつい買ってしまった。
英田は、かなり好き嫌いがあるようだ。
野菜類はだめだし、魚嫌いと自分で言い張るのは、偏食といっても過言ではない。それが愛美の闘志をメラメラと燃え上がらせた。嫌いなものを全部食べさせてやる。
まずはピーマンだ。
愛美は頭の中で、英田が唯一食べる肉を使ってなにか一工夫したお弁当を考えて、心の中でにんまりとした。
まさか、英田さんが、こんなに好き嫌い激しいなんて
買い物袋を両手に持つ英田はぶつぶつと文句をいいながら歩いていく背を見ながら愛美は笑った。なんだかんだいって、荷物を持ってもらってしまった。
「ん、ここからはタクシーでいくぞ」
「はい。夕飯、どこで食べるんですか」
「伯母上のところだ」
「へー」
愛美は忘れていた。英田が以前に伯母について語ったことが一度だけあった内容を。
タクシーを降りて、入った店を――いや、店の看板からして、ややあやしげなムードはあったんだ。そう、ピンクだし、なんかやらしい感じだし。
けど、まさか。
まさかね。
「いっらしゃぁああい」
顎には濃い髭のあとがある男――いやピンクのふりるにスカートをはいるのは、男ではない。
俗に言うオカマであろう。
その中には、見るからに可愛らしいのから失礼であるが見るには多少おぞましいという言葉が似合う人たちがみんながそろって、きゃきゃとしている。
愛美は、中央の席に腰掛けて、ガタガタと震えた。
「あら、怖がってかわいいっ」
愛美を周りの男性―――いや、彼女たちがこぞって見てくるのにも愛美は震えた。
「もう、緊張しなくてもとって食ったりはしないわよ」
体格のよい姿に、可愛らしい女の子ものの服を着た目立つ人が言ったのに愛美はますます震えた。
「ママが怖がらせてどうするの」
優しそうな男性が横から茶々をいれながら愛美の横に腰掛けてくれたのには愛美としては、地獄に助けである。と言ってもこんなところにいるのだから、ちょっと怪しいかもしれない。
「ほら、ママ、立花くんに飲み物を……ノン・アルコールのだよ?」
「はいはーい」
元気のよい太い声で返事をしてカウンターに歩いていくママを見て愛美は口ごもっていた。
「五郎は、大事な英田くんが、女の子を店に連れてきたから、はりきちゃてるんだ。英田くんがここに知り合いを連れてくるなんてはじめてだからね」
「あ、あの」
「五郎って言うのは、ママの本名。けど、言うと怒るから内緒ね」
愛美は慌てて頷いておいた。
「あの、英田さんの伯母上って」
「五郎のことだよ。ほら、そろそろ」
「樹、愛美に変なことを吹き込むなよ」
愛美はそれを見て、あまりのことに目が点になった。
英田だった。
ただし、胸は膨らんでいるし、それもチャイナ服。
そうだ。こんな服装を前にも一度見たことがある。あの時は、化粧は、それほどに濃くなかった。
しかし、美人だ。
「ひどいな、五郎一筋なんだけど」
「どこぞへいけ。ホモめ」
「ちょっと、それ、へんけーんよ」
「む。伯母上、樹が愛美に手をだしているぞ」
淡いオレンジ色をしたコップをもっているママこと、五郎が目を吊り上げたのに樹が顔をこわばらせた。
「ママ、ちょっと、誤解だよ」
「ちょっとー、あんた、そこまで節操なしなの? 樹」
「ひどいな、僕は、ママ一筋だよ」
「どーだか」
ママが拗ねて離れて行くのを樹が慌てて後を追う姿に英田が笑った。安心したような、皮肉ぽい笑いだ。
そして、ようやく愛美の横に腰掛けた。
男らしい堂々とした大また開きには愛美のほうがぎょっとしてしまった。今の英田はチャイナ服で太ももがばっちりと見える服である。下手すると下着が見えてしまう。
「英田さん、足」
慌てて愛美が閉ざすようにすると英田は眉を寄せた。
「なんで怒るのだ」
「だって、下着が」
「見えても困らん」
「そんなことはないでしょう」
「この下はトランクスだぞ」
愛美は顔を真っ赤にした。このチャイナの下は、トランクス――馬鹿、何を想像しちゃってるの!
赤面する愛美に英田はにやりと笑った。
「どうした。王子があんまりにも美しいから、どきどきしているのか。よしよし、この王子であり、クレオパトラすら裸足で逃げ出す俺が愛でてしんでよう」
「ひぃぃん」
後ろから羽交い絞めされて愛美は情けない声をあげた。
「おやおや、英田くん、君はいつから女の子相手に痴漢するようになったの……ああ、ここでは、アイラちゃんだったけ?」
「わざわざ源名を呼ぶな」
テーブルに置かれた淡い色をしたオレンジ色を満たしたコップに愛美は目を向けて、そのコップを持つ白く長い指の人物を見上げた。
麻のバーテンダー服を着こなした高身長のすらりとした男が柔らかな笑みを浮かべていた。
「はじめして。アイラちゃんが女の子をお店に連れてくるなんてはじめだから……ママからサービス。オレンジジュースだよ」
「あ、ありがとうございます……えっと」
「立花、けど、真澄って呼んでね?」
「はい。私は愛美っていいます」
優しそうな立花に愛美はなんとか落ち着いて笑みを浮かべることが出来た。周りがたとえ、美女かはたまた野獣かの判断がつきかねる店内において、この立花は異色を放っていた。
「愛美、近づくな。こいつは、サドのバイだぞ」
「はぁい?」
さどでばい? ざど……さどけん? え、そんな県あったけ? それにばい? 倍数?えっええ?
「ひどいな。アイラちゃん」
「源名をわざわざ呼ぶなって、言ってるだろう。立花」
源名とは、夜の仕事の人がお仕事のためにつかう仮の名前のようなものだ。ちなみに英田はお店ではアイラちゃんである。
「あ、あの」
「ん」
「なにかな?」
二人の男はほぼ同時に混乱の頂点に達している愛美を見た。
このとき、愛美は混乱していた。それももう取り返しのつかないほどに頭はてんてこパーに陥っており、自分のやっていることはいまいちわかっていない。
「おトイレ、どこですか」
別にトイレに行きたいわけではなかった。ただもう、混乱した人間は、自分で自分がなにかするかなんてわかるはずがない。
トイレから戻ってきたら、英田はいなくなっていたのに愛美は席に腰掛けると奢りだというオレンジジュースを嘗めるように飲みながらため息をついた。
どうして、英田は我侭勝手なんだろう。もし、宇宙でたとえるのであれば、燃え上がる灼熱の太陽、月であればお餅をつくウサギが実は機械でお餅をついているような――なんだかよくわからないが、期待が裏切られて、それでも嬉しいと思う自分が情けない。
はじめてって言ってた。
英田は、ここに知り合いを連れてきたのは始めたど、ママ――あのマッチョさんをそう言っていた。
私だけが知ってる。英田さん。
愛美は口元を綻ばせた。
「愛美、すまんな。王子は、女王のときは愛想よくせねばならなくてな」
なんだか、妙にさまになっているポーズつきで戻ってきた英田は横にどかっと腰掛けてきたのに愛美は、じっと横顔を見た。
「ん、どうした?」
「英田さんって、きれいだなって思って」
「当たり前だ。この美貌で宇宙制圧もできるんだぞ」
「そ、そうですか」
「ここのこと、驚いたか?」
「え、いや」
「正直に言っていいぞ。俺だって、伯母上の……正確には、伯父上のことは驚いている。我が血の僅かでもあの者には流れているのだ。うむ、英田家の血筋は呪われているとしかいいようがない」
英田はじっと愛美を見た。
真剣な、瞳だ。
「俺は、それでもあの伯母上が好きだし、世話になっている。……伯父上は田舎の出でな、高校のころは、ああいうオカマとか、ホモとか偏見が多くて、いじめられたりしたが、自分を貫いていた……伯母上は尊敬に値する
自分の全てを賭けるものがあるものは、美しい」
「英田さんは、ママさんのこと好きなんですね」
「まぁな。あの高貴な精神だけは評価する」
英田はテーブルにあった愛美の呑みかけのオレンジジュースに手を伸ばして、断りもなく一気に飲んでしまった。私が半分も飲んだのを! こ、これって、間接キス? ううん、けど、飲んだところは、違うから。違うよね?
「俺が一人で困っているときも仕事をくれてな。おかげでいろいろと助かっているし……どうした愛美」
「そのジュース」
「ん?」
「私が、飲んでいたの」
「それがどうした……ただ同じ飲み物を」
真っ赤になっている愛美を見て英田も真っ赤になった。
真っ赤になって互いに顔を見合うことのできない若者を見て、その場にいた者たちは、皆がどこか穏やかな目で二人を見てしまった。――青春だ。
「あの、英田さん」
「な、なんだ。もう飲んだ物はかえせんぞ。さすがにっ」
「いいえ。けど、あの、すごく嬉しいんです。英田さんのこと知れて……私、英田さんの彼女ですよね?」
こんなダサくて、口ごもっているただの女の子だけど、英田さんの彼女。
まだまだ愛美には英田の彼女だという自覚も、そして強さもなかった。みんなが言うように、私と英田さんはあわないかもしれないと思って、いつも不安だった。
不安は、いつももやもやと愛美の胸をきゅっと締め付けた。
その不安を取り除いてくれるのは、英田しかいなかった。英田が手をとって、一言でもいい「好き」だと、「彼女」だと言ってくれれば、――だが、言葉を英田はなかなかくれない。けど、今は大丈夫だと思える。――きっと自分は大丈夫。だって、英田さんは言葉に言わないけど、ちゃんと手をとってくれる。
わかりずらくて、ちょっとだけ我侭勝手だけど。
「愛美を制圧すると言っただろう?」
ふっと笑って頭をなでる英田に愛美はほっとした。
「君達ね、見せつけるなら、外でやってくれないかい?」
いきなり声が邪魔をした。
見ると、立花だ。手には愛美が飲んでいたオレンジジュースが二つ用意されていた。一つは愛美、もう一つは英田のためだ。
「寂しい独り者もいるんだからね」
「見せつけてなんていないぞ。ふん、独り者とは寂しいな、立花。またふられたか」
「アイラちゃんは、本当に可愛げがないね。それにくらべて、愛美ちゃんは素直でかわいいね。今度、一人でおいで、とってもいいものを奢ってあげるからね。その時、大人のいろいろなことを教えてあげるよ」
「立花、貴様、沈められたいか! 徹底的に沈めるぞ」
「こわいなー、アイラちゃん」
「あ、あの」
愛美の声に二人は同時に愛美を見た。
「大人のいろいろを教えてくれるんですか! よかったら、英田さんも一緒にいいですか」
その場に、分かる者だけが分かる、それはそれは冷たい風が吹き、立花が噴出した。
「この子いいね! うん。地味だけど、いい子だね。愛美ちゃん、英田になんてもったいない。こんな男に飽きたら、おいで。ただし一人で。大人のことを教えてあげるから」
何か自分はよからぬことを言ったのだとようやく気がついて顔から血の気をひかせている愛美に立花は顔を寄せて、頬に唇があたる距離で言葉を発し、愛美の片手に紙を滑り込ませた。
「立花っ」
英田が怒鳴るのに立花は身を起こしてくすくすと笑いながらママが呼ぶカウンターに戻って行った。
愛美は目を瞬かせていた。
立花からは甘い匂いがした。コロンだ。おじさんとかがつけているものとは違う。とっても甘くて魅惑的な、その香りに頬にかかった立花の肌をくすぐるような吐息は愛美をくらくらにさせてしまった。
「愛美」
「ひゃい」
怒気を含んだ英田の声に愛美は背筋を伸ばした。なんか、怒っている。
「帰るぞ」
「は、はい」
「だから、店は嫌いだ」
店の裏口から出て、五回目になる文句に愛美は英田の後ろを歩きながら憂鬱とした。
立花のことを怒っているのかもしれないが、あの場合は抵抗できないし、手に持たされた紙はスカートの中にしまいこんでしまっているが、どうしようか。なにを自分は貰ったのだろう? ――今まで男から口説かれるなんて経験のない愛美には、立花が渡したのが自宅の住所やら携帯の番号やらという想像はまったく出来ない。
ネオンのきらめく夜の街は不思議だ。
きらきらしすぎていて、きれいだ。
けど、あっちこっちで呑みすぎのサラリーマンが嘔吐しているという滑稽な様もある。
「英田さん」
「なんだ」
「怒ってます?」
「怒っているさ! 愛美」くるりと英田はふりかえって愛美を睨んだ「お前は、俺に制圧されるんだぞ? わかっているか?」
「は、はぁ」
「声が小さい。この無自覚め」
そもそも、なにをどう自覚すればいいのか。
ここでなんか口にしたら、確実に百倍にして、それもダイナマイトと毒をもって返されそうなので愛美は黙っておく。
きらきらと、光がきれいだ。
その中を歩く英田もきれいだ。
見惚れていると英田に腕がとられて、引き寄せられたのは――あまりにも一瞬だった。
「困ったやつだ。この俺が制圧するといったんだ。お前ははいと言ったんだぞ。大人のことが知りたければ、俺が教えてやろうか」
えっ? ――声に出して、言葉を呟く前に口が、塞がれた。
あんまりにもいきなりだったので、愛美は頭が真っ白になった。そうそう、前に読んだキスの前の女の子のエチケットとかいう記事のこととか、少女マンガでこういうときの女の子仕草とか、その他諸々のことも忘れて、真っ白になってぼーぜんとしてしまった。
キスが甘いとか、すっぱいとか、そんなのかんじる暇なんてなかった。ただなんか触れたぞ。おい――というまったく乙女らしくない感想だった。
頭では、考えられない。心が、ばくばくと叫んでいる。
私、キスしてる!
唇が離れたのは、少なくとも早かったはずだ。一分もなく、一秒から二秒。その瞬間にみる英田の顔は愛美の知らない、男の人だった。
「責任を持って、俺に制圧されるんだな。愛美」
愛美は呆然としてしまった。こんなとき、なんていえばいいのか。
ただこのとき、不運にも英田は仕事でやや酒を飲んでいた。そして、気分は上昇したとすれば、下昇もはやい。
真っ赤になって呆然としている愛美に、英田も我に戻った。酒と怒りとかの諸々のものではずれていた理性が戻ったと言うべきか。
「うああああ、ぼーせーに帰るぅぅぅ」
母星って、英田さんはどこの星の人でしたっけ?
風がふいて、文字通り、ころんっと音をたてて倒れた愛美は、頭の中でそんなことを尋ねていた。
その三日、愛美は熱を出した。
友達たちは心配してくれたが、たぶん、これが俗に言う知恵熱。キスによって愛美は男と女のことを学んでしまった。それはあまりにも刺激的で、愛美の頭にはたえられなかった。文字通り、知恵熱である。
三日の夜に熱で苦しむ愛美に英田はなんと窓から入ってきて――ここは、確か五階だったような……
お互いに気まずい。
「英田さん、窓は危ないと」
「コンビニのでかプリンが安売りだったから、買ってきた。俺は帰る」
英田は土足にも構わず、テーブルにプリンを置くと再び窓をくぐろうとする。
「英田さん」
「なんだ」
「あ、あの、あの、私、聞きたいことがあるんです」
「十五文字内なら許可する」
「え、ええ? ……えっと、あの、女の子に服を買う意味って?」
愛美の質問は英田の機嫌をいたく曲げてしまったのか眉を顰めて睨まれた。
英田は何も言わずにベッドに腰掛けると手を伸ばし、頬に触れてくる。ひんやりとしていて気持ちよさにほっとした。
「男が女に服を送る意味は、いつか、お前を脱がすって意味だ。……病人に手出しはせん。今回はこれで諦めてやろう。王子の宇宙のような寛大な心に感謝するんだな」
英田の手が喉に伸び、顎を持ち上げて唇をふさがれた。
二回目――だが、熱にうなされた――恋愛による知恵熱は、限界に達して愛美の頭は、まさしく回路消滅である。頭の中で一昔前にはやった「男はオオカミなのよ、気をつけなさい」という歌詞がリピートしている。
「風邪なんぞ、王子にはやく移してよくなるといい。さらばだ、愛美」
窓からまさに颯爽と去っていく英田に愛美はベッドの上でばたっと倒れた。
一週間ばかり愛美は知恵熱と格闘せねばならなかった。
熱は愛美の意識をくらくらさせてしまったが、ふわふわとどきどきが一緒で気持ちよかった。
なんだろう。これ。すごく、すごく幸せ――英田のくれたプリンは甘かった。
愛美は幸せな知恵熱のせいで、大学で厄介なことが起こっているなんて知らなかった。




