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 愛美は、深く後悔していた。

 ぼろだ、ぼろだと周りが言うように英田と飯田が住むところは、本当にぼろだった。

床板が、踏む度にきぃきぃと鳴いている。そのうえぺこっと凹むのだ。下手したら抜けてしまうんじゃないかと愛美は怯えた。

「床は踏まれるためにあるのだ。踏まずしてどうする。愛美」

 英田がもっともらしいことを言い、飯田は真面目くさった顔で言い返した。

「いや、ちょっと気をつけたほうがいいだろう。前に緋龍が、床が抜けて大変なめにあったって」

 愛美に恐怖を与えるには、実に効果的な言葉だった。


 寮の二階の端っこに英田は部屋を借りているのだが、そこがまた汚い。

男性の部屋で汚いというと、服の散乱を思い浮かべるだろうが、英田の散らかしは次元が違う。

 小さなものでは薬品やら大きなものだとスノボーなどが、無造作に置かれているのだ。英田いわく「飽きた」ものらしい。多彩な趣味を持つことは悪いことではないが、英田には整理整頓という言葉はないようだ。

 そんな部屋に人を招くのはどうかと思いながら、愛美は自分が座るスペースを確保して、せこせこと額に汗している飯田を見た。

 大家はいるらしいが、謎の存在らしく。この寮に一番長く住む英田も大家を見たことはないらしい。ちら見でもしたらいいことがあるとまで言われているそうだ。一体、どういう人なのか。

 この寮では食事は各自で自給自足だそうだ。

愛美には考えられないことだ。このぼろの横にかまえられた嫌味を地でいくマンション寮では、朝と夕に食事が出る。昼だってお弁当を作ってくれる。

「んー、この香ばしい庶民の匂いはたまらんな」

 散らかし大魔王は、この部屋には不似合いなほどに優雅にでかいソファ――よくまぁ、この部屋にはいったものだというほどに大きなソファに腰掛けている。

「英田、お前、言いだしっぺなんだから、動け。愛美ちゃんに材料を負担させて、その上調理までさせて」

「あ、たいしたことないですから」

「よくない」

「うるさいぞ、飯田、愛美がいいといっているんだ。みんなで楽しく食べるのだ」

「お前だけなにもしてないだろう」

「王子は庶民の生活を見て楽しむのだ」

 呆れてものが言えないとはこういうことなのかもしれない。


 ことのはじまりは、今日の講義がいきなり休講になったせいだ。愛美としては、仕方ないので、このまま帰ろうとしているときに英田に捕まり、あれよあれよと拉致のごとく連れ去られたのだ。

 それも本人曰く

「王子は空腹だぞ。愛美」

 というので――なんでも、ここ最近ろくなものを食していないので、下僕は下僕らしく主人になにか貢げ――つまり、奢れと。

 英田が庶民の味としてお好み焼きパーティを言い出したのだ。

なぜか英田の部屋に大きなホットプレートがあるのだ――台所は、まさに樹海となっていたのを愛美が黒い虫――名前を口にするのもいやだ――悲鳴をあげながら掃除して、鍋と一緒に発掘した。

 近くのスーパーで材料を購入した際は英田がタコやエビやイカに豚肉といったものをかごいっぱいにほうりこみ、愛美の今週分の食費が飛ぶこととなった。

 そして、無駄にでかいプレートで飯田が見事な手捌きで焼いているのは、不器用な愛美は拍手してしまいそうになった。


「愛美ちゃん、いっぱい食べてね。君のお金なんだし」

「いいえ」

 受け皿がないので、プレートに乗せたお好み焼きにたれをたっぷりとつける。じゅぅという音にたれの焼ける匂いが食欲をそそった。

「うん。なかなかの美味」

「お前は食うな。英田」

 いただきますもなく、さっさと食べてしまう英田を見て愛美は笑った。

 もともと、それほどに食の大きいほうでない愛美にとっては、大きなプレートいっぱいに広がっているお好み焼きは、少し食べただけでおなかがいっぱいだ。それもエビやらイカがはいっていて具沢山で美味しい。

「愛美」

 不意に英田が呼んできたのに愛美は、どきりとして顔をあげた。

 英田は口から生まれた爆弾、はたまた人類の脅威とまで大学で言われているほどに変人であり、恐ろしい人物であるが、そのくせ顔だけは嫌味なほどに整っていて、きれいだ。

「青海苔がついているぞ。しかも前歯の両方に」

「え、やぁ」

「あとは口のまわりのいたるところに青海苔をつけたら、最高なんだがな」

 何が最高なのか。

 慌てて口を手でおさえて、青海苔をはがそうと愛美は躍起になった。

「ほら、とれたか見てやろう」

 きっと大学の友達なんかがみたら、悲鳴のひとつもあけるような優雅なしぐさで英田は愛美の顎に手をかける。

「い、いいです」

 慌てて口を両手で塞いだまま首を横にふると、英田がむっとした顔で睨んできた。


「なに、主人の好意が受け取れないというのか」

「う、うけとれまへん」

 そういって立ち上がり、部屋の隅に移動して持っていた手鏡で確認する。

 よかった。とれてる

「愛美はつれんな。この王子が直々に確認してやろうというのに」

「女の子を困らせるな」

 飯田はつっけんどんに、申し訳なさそうに視線を向けてくる。

 ――違うの。

 愛美は心の中で申し訳ない気持ちになった。

 別に困っているわけじゃない。――別の意味で困るのだ。

 だって、英田を見ていると、愛美の心臓は止まりそうになるくらい、どきどきしてしまうのだ。


 私、変なのもしれない。

 愛美は自分が変化してしまったことに気がついたのは、つい最近だ。

 付き合っていたというのも怪しい男から告げられた残酷な言葉に酔った勢いで酒瓶で殴ろうとしたのを英田と飯田に止められた帰り道で、英田があんまりにも優しい笑みを浮かべるのを見て、愛美はおかしくなってしまっていた。

 けど、そのおかしいという気持ちを愛美は小学生のところから、愛読している少女マンガでよく知っていた。そうだ。これは少女マンガのヒロインがいつも、いつも思い悩む問題。

自分もいつかこんな風に悩みたい、こんな気持ちを知りたいと願っていた感情。だが、それはあまりにも突然にふっと湧いて、愛美を困らせた。

前に付き合っていたかもしれない恋人――彼のときにだって感じたことがない。

漫画は漫画で、きっとこんな気持ちは現実には存在しないのだと愛美は思っていた。

 けど、なんでよりにもよって、英田さんなんだろう。

 座りなおして、ちらっと英田を見る。

 そりゃあ、顔だけならば少女マンガのヒロインが恋焦がれる男性にぴったりだ。まさに理想。けど、口を開けば歩くダイナマイト。

 なんで、私、こんな人を好きになったんだろう。

 もともと面食いのせいだろうか?

 そこで愛美は気がついた。

 あれ? 私、英田さんのこと好きなの? それとも好きになりそうなの? それとも、好きになる?

 愛美には英田に対する自分の気持ちが、よく理解できないでいた。

 不思議なことに、英田を見ているとどきどきする。そう、好きになりそうと思う。けど、それは好きとは違う。

 好きになるという前提の状態。

 ――へんなの

 残り少ないお好み焼きをつつきながら愛美は改めて自分の感情に首を捻った。

 こういうとき、漫画のヒロインたちは、すぐに「彼が好き」と断言している。けど、じゃあ、私は英田さんの何が好きなんだろう。顔? ――まぁきれいだけど。じゃあ、性格――あの性格を好きになれる?

 ――どうしよう。

 心はもう英田を好きだというのに、愛美の感情は、どうして、で止まってしまっていた。

 漫画のヒロインみたいに溌溂と相手を好きだと迷いもせずに断言できる理由が愛美にはない。そもそも、どういうことがあって好きだと自覚するのかも愛美にはわからない。

 笑顔を見たとき? 手をつながれた時? 優しくされたとき?

 いったい、どういうときに好きって自覚すればいいの?

 ――だめだ。私ってば、いつもへ理屈で動くから、こんなとき、なにもなく好きって言えないんだ

 愛美は臆病になっていた。

 なにせ、はじめて付き合ったかもしれないという元彼氏(?)の手ひどい言葉に深く傷ついた。もう、あんな思いはしたくない。それに英田は好きになるにはあまりにも、そう、あまりにもいろいろと問題があるように思える。

「よし、今度はじきじきに焼いてやろう」

「うわ、ばか、そんなどばどばいれるな」

 残っているお好み焼きの材料をどはっと全てプレートに流し込む英田を見て愛美はつくづく思った。

 好き? ――無理。

「どうした、愛美」

「いえ」

 そのあと、英田の作ったもんじゃのようなお好み焼きは、中々に美味しかった。


 プレートとお皿の片付けをしていると、携帯電話が鳴ったのに飯田が慌てて手にとると、玄関に走るのに愛美は驚いた。

 体育系な見た目で、本人は昔空手をやっていたと教えてくれた逞しい肉体の飯田だが、彼が慌てたり、とりみだしたりするようなのを愛美は見たことがなかった。

「飯田さん?」

「すまない。あとのことは頼むよ」

 風のように去っていってしまった飯田にソファにごろごろとしていた英田が舌打ちした。

「あの、何か知ってるんですか」

「飯田は、馬鹿なのさ」

「へっ」

「どうしようもない馬鹿だから、騙されるんだ」

 話が読めないのに愛美は眉を顰めた。

「あの、英田さん」

「気にするな、愚は寝ていればなおる」

 頬杖をついていう言葉の意味は、どこの引用か、はたまた間違った覚え方をしたのか愛美にはわからなかった。

 仕方なく、何もしない英田にかわって愛美は皿洗いとプレートと、全てをやっていった。ついでに、部屋の汚れも見てみぬふりをできない愛美は、額に汗をたらして掃除を開始した。

「もう、英田さん、邪魔ですよ。寝てばっか」

「王子はなにもしないのだ。もぅ族の王だぞ」

 食べて、寝て牛になったとでもいいたいのだろうか。

「もう、飯田さんは、ちゃんと手伝ってくれますよ」

 ソファに寝ていた英田の顔が微妙だが動いたのに愛美は驚いた。いつもならば、こんな嫌味もなんだかわけのわからない言葉で全て流してしまうのに。

「悪かったな」

 ぼそっと呟いて、起き上がるとなぜか冷蔵庫を開けて、がりがりくんを取り出して投げて寄こしてきたのに愛美は危なく落としそうになるのをなんとかキャッチした。

「こんなはずではなかったのになぁ」

 などと一人愚痴って、ばりばりとがりがりくんを食べる間に習って愛美も食べることにした。

英田なりの謝罪のようだが、別に謝罪されるようなことはされていないつもりだ。

 人が泣こうが喚こうが、それについたなんら良心の癇癪を持たない英田が――むしろ、人が叫ぶのを見て楽しむような男が、謝るなどという言葉を己の辞書にかきしたためていたということも驚きだ。

 ――英田さんの、こんなところ、はじめてみた

 黙っていれば、女が寄ってくる男である。見ていれば、それだけで、ああきれいだと思わせる。ただ中身は、問題だが。

「英田さんって、モデルとかしないんですか」

「ん、昔、ミスコンで三年連続優勝をしたぞ」

「ああ。みす……ミスコン?」

「女装大会だ。飯田も出たぞ」

 あの見た目が逞しく、体育会系の飯田に似合う女性ものの服があったというのだろうか。うまく想像することができない。

「見るか、写真があるぞ」

「ほ、本当ですか」

「うむ。当時のものは、あいつが全て葬り去ろうとしたのを隠していたんだ」

 ソファの下からアルバムを取り出して英田が開いた中には確かに女装した二人がいた。その二人の周りをなんだかあやしげなおねえさまたちがとりかこんでいる。さながら地獄絵巻といえるが、その中でチャイナドレス姿の英田は女神のように見えた。

「美人ですね」

「あたりまえだろう。王子は何事もパーフェクトなのだ」

 そもそも、この世に女装する王子などいるのだろうか。

 思いはしたが、愛美は言わなかった。

「英田さんって、ずっと大学にいますけど、いつ卒業するんですか」

「気が向けばな」

 これでは、また卒業はしないようだ。このまま卒業しなかったら、英田はおじいちゃんになっても大学に居座り続けそうだ。

「何も学ぶことがなくなれば、終わらせるだろうがな」

 ちらっと英田を盗み見る。

 何をこの人は考えているだろうと思うと、心臓が勝手に高鳴りだす。

「飯田さんとはいつからのお付き合いなんですか」

「あいつが、入学してきてからだな。あいつは、今年で卒業だが、このまま院にはいるかもな」

 英田が笑いかけてくるのに、胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。

 ――どうしよう。

 よくわからないけど、――本当によくわからないけど。

 呼吸の方法を忘れてしまったように苦しい。

 どうやって呼吸ってするんだっけ?

「なにしてるんだ。口をぱくぱくさせて」

「こ、呼吸の方法忘れた」

「……しゃべっているのは呼吸をしているといわないのか」

「あっ」

 愛美は間抜けな声をあげて、自分の胸に手をあてた。

「お前は、なんだかおもしろおかしいな。さては、王子を笑い死にさせるつもりか」

 愛美は首を横にふった。他人から見て、どれだけ馬鹿なことといえど、愛美は本気で悩んで、苦しんでいるのだ。

「まぁいい。そろそろ、送っていくから立つがいい」

「えっ」

「もう、外は私の時代になっているのだぞ」

 英田が目を向けるガラス窓は茜色に染まっていた。

 きれい。

 反射的にそう思える美しいほどの淡い透明な赤に世界は包まれていた。そして、それに見惚れている愛美自身も茜色に染まっていた。

「ゆくぞ、愛美」

「え、あの」

 ふりむくと、玄関に英田が立っていた。

「送っていくと言っただろう? なにも神々の黄昏が、それほどに珍しいわけではないだろう」

「はぁ」

 なんだか英田のいう言葉は、いちいちわからないことが多いが、愛美は送ってもらえるというのに素直に従うことにして、窓を閉めて立ち上がった。


 窓から見たときもきれいだったが、外から見ると本当にきれいだ。

 こういうものをなんというべきなのか、愛美にはわからない。

太陽がじわじわと沈んでいくのに、名残惜しそうに自分の赤い輝きで世界を包んでいる。

優しい、透明な色。

それに包まれていると、なんだか美しさに胸がきゅっと握り締められたようで、いますぐに、この美しさを誰かに言いたいと思える。

「美しい黄昏だな」

「あ、こういうの黄昏っていうんですよね」

「そうだぞ。天気がいい日はよく見える。神々は、こんな終わりを迎えたということだ」

「神々の黄昏?」

 英田が先ほどいった言葉を思い出した。

「そうだ。神様はこの美しさの中で滅びたんだ……愛美は勉強不足すぎる。そんなのでは、私の下僕の昇格はまだまだ遠いぞ」

「はぁ」

 横をゆっくりと歩く英田の顔をじっと見つめる。

 茜色に染まった表情に胸が、音をたてるのがわかった。

 ――あ、私、この人のこと、好きなんだ

 まるで今までひっかかっていた小骨をお医者さんにとってもらったときのように、あっさりと、それはなんの前ぶりなんかもなく、愛美は認めることが出来た。

「英田さん」

「この黄昏を制して、宇宙の我が一族は頂点を……ん? なんだ、愛美」

 柔らかな笑みを向けられて、ますます確信した。――そうだ、私はこの人に恋をしているんだ。

 足をとめて、英田を見る。そうすると、英田も足をとめて愛美を見た。

「私、あなたが好きです」

 茜色に染められた世界で、愛美は、はっきりと告げた。

 もう寮まであと十歩いけば、ついてしまうところだ。こんなところをもし寮に住んでいる子に見られたら、きっとからかわれるだろうが、愛美は自分の言葉をはやく吐き出してしまいたかった。こんなにも美しいところで、告げたいと思ったのだ。

「だ、」

「だ?」

「だめです。いけません!」

 子供が悪いことをしてしまったときに叱り付けるような言葉に愛美は面食らった。

「お前は……だって、飯田が好きじゃなかったのか?」

「えっ」

「だって、いつも飯田と楽しげに話しているし、飯田のことを聞いてくるし」

 英田のとんでもない誤解に愛美は目をぱちぱちと瞬かせて、慌てて首を横にふった。

「ち、違います」

「だ、だからって、なんでよりによって、俺なんだ。この馬鹿娘」

 なんて好きだと告白して、これほどに叱られて、罵られてしまうのか。

 愛美はむっと取り乱している英田を睨みつけた。

「英田さんが好きです」

「いけません! 飯田ならまだしも」

「なんで、だめなんですか」

「……いけませんと言ったら、いけません」

「そんなの理由じゃない」

 愛美の声に英田は逃げるように背をむけて、まさに風のように走り去った。あとに残された愛美は、唖然としてしまい、夕日が完全に消えてしまってもただ、その場に棒立ちになってしまった。


 ――これって、失恋?


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