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番外編・きれいな手

――本当にきれいな手

 夕子はうっとりした顔で、バーテンダーである真澄の手を見つめていた。

 仕事で知ったオカマバーは、考えていたよりもずっとラフだ。

 ママはちょっといかつい感じで、厳しいことをおねぇ言葉でいうが、根は優しい。でなければ、取材には応じてはくれなかっただろう。

 雑誌の夜のお店の特集で、ホストクラブ、ホステスクラブと取材のあと、少しユニークなものとして、オカマバーも提案された。

はじめに行った店が最悪だった。店のママは女性が来ることを好ましく思わないらしく、陰気な目で睨まれてしまい、取材どころではなかった。

 元々、小心者の夕子は、それだけでもう、怖くなった。だが、仕事は仕事だ。会社のお金で飲み食いでるからと最初はラッキーと思ったが、雑誌に載せるためには最低限の取材もしなくてはいけない。

 それに夕子はお酒があまり得意ではないのだ。

 二回目の店として散々迷って飛び込んだのが、この店だった。バーテンダーの真澄は優しかったし、店のママは最初に訪れた店より怖い見た目をしていたが、夕子が事情を話すと「そういうのって古いわよねぇ」と憤然と言って、快く取材に応じてくれた。店全体がラフな感じがして、夕子はほっとして、思わず泣いてしまった。そのとき、美しい手が、夕子にカクテルを勧めてくれた。

「ノン・アルコールだから、飲んでごらん」

 顔をあげると、整えられた顔立ちをしたバーテンに夕子は、どきりとした。

「けど」

「奢りますから」

 優しい微笑みに夕子は、躊躇いはしたが、飲んだ。甘くて、少しだけすっぱい味がした。

「元気を出して」

 笑顔で励ましてくれたのが真澄だった。

 仕事は終ったが、夕子は、この店に通っている。仕事で落ち込んだとき、失敗したとき、カウンターに腰掛けて、真澄に愚痴る。

彼は、穏やかな笑顔で夕子の話を相槌を打ち、いつものカクテル――はじめて夕子がきたときのカクテルを何もいわなくても出してくれるのだ。


 男性の肉体のどこが好き? ――そう聞かれたら、絶対に手だと夕子は答える。

 手フェチなのかもしれないと自分のことを思う。

真澄のどこか好きになったかと言ったら、やっぱり、そのきれいな手だ。あの手で触れられてみたいといつも思う。あの美しい手によって磨かれるコップのようになりたい。

「なにを見てるの?」

 真澄が笑って夕子に尋ねた。

 真澄は客を退屈させたい。なんとなく、ぼんやりしていると、察して声をかけてくれる。どこまで計算でしているのかは知らないが、確実に人に好かれるタイプであることは間違いない。

「真澄さんの手ってきれいだなぁって」

「それは、ありがとう」

 どきりとするくらいに優しい笑顔に夕子は見惚れた。

 手もきれいだが、真澄は顔もいい。

 ぴっしりとしている背筋の美しさに夕子は、やっぱりうっとりとするのだ。

――この人は、きっと自分のよさがわかっているのね

 そして、自分を良く見せることをちゃんと知ている。

 いけない、いけない。

 心の中で呪文を唱える。

 真澄という男は、とても素敵だ。だからこそ、危険なのだ。確実に遊びなれている節がある。それになによりも、こんなところで働いているということは、彼もまたゲイということだ。女性に興味なんてないだろう。

 不毛だ。

 すごく不毛だと思うが、夕子は真澄を見ることをやめられない。

 あんまり露骨だと、ばれる。昔から、自分は感情を隠すことは下手だ。だから、三日に一度と決めている。三日経っても、真澄は、いつもの笑顔で夕子を出迎えてくれる。それがどこか嬉しくて、悲しい。

 自分は、真澄の中では、ただの客なのだ。そう思い知らせれると胸が苦しくなった。

 別に特別にならなくてもいい、顔なじみの常連。

 それでいいじゃないか。

 夕子は、真澄を見ていると、そう思うように心がけた。

 不毛な恋はしない。

 したら、きっと疲れてしまう。

 それは、三年も続けた不毛な不倫関係でいやというほどに思い知らされている。上司との不倫なんて、今時は珍しいものではないだろう。

 だが、夕子にとっては、別れるまでの三年間は大変なものだった。

 三年の間を付き合った上司である井上のどこがよかったのかといわれると、困ってしまうが、とにかく惹き付けるものがあった。夕子は、そのころから自分は不毛な恋をする癖があると思っていた。高校のときは、一つ上の先輩を好きになって二年間片思いした。

大学のときは同級生の男子と少しだけ付き合って、二股をかけられていたということが発覚したという苦い思い出がある。

 とにかく、夕子は、どうしても、これ、といった男性と付き合えない。

 友達の由香里には、「不幸くせがついてるんじゃないの?」なんて笑いながら言われたが、そうかもしれないと真剣に悩んだ。

 本当に、そうかもしれない。

 よりによって、どうして、真澄を好きになってしまうのだろうか。自分の不毛さにため息が漏れてしまう。

「夕子さんの名前って、夕方の夕に、子なんですね」

「ええ」

 真澄のどこかを嫌いにならなくてはいけない。そうしたら、きっとすぐに嫌いになれる。そう思っていたが、真澄の声は、どこまでも優しくて、うっとりとしてしまう。

 これではいけない、だからなるべく、つんけんした声で応じると、真澄はとたんに卑怯なくらいの笑顔で夕子を見つめる。

「夕方に生まれたから?」

「わからないわ。私は夜に生まれたと、母が言っていたと思うけど」

「じゃあ、夕子さんのお母さんは、とっても美しい子に育って欲しいと思ったんですね」

 柔らかな笑顔を夕子は睨んだ。

「夕方って、とってもきれいでしょう?」

 卑怯なほどに優しい笑顔に夕子は頬が火照るのを感じた。

「真澄さんって、何かしていたの。その手」

 いけない。いけない。

 心の中で呪文のように繰り返しながら夕子は真澄の手を見つめた。

「いいえ、特になにも。ハンドクリームだってつけてないんですよ。水仕事しているくせにね」

「そうなの」

 これには本当に驚いた声をあげてしまった。

 なにもしなくても、こんな美しい手でいれるものなのだろうか。

「ええ、案外と荒れてますよ。触ってみます?」

 美しい手は、あっさりと夕子の前に出されてしまった。

 目の前にある手は、本当にきれいで、夕子は一瞬、ぽかんと馬鹿みたいに口を半開きにして見つめてしまった。

「触って、いいんですか」

「もちろん。セクハラなんかで訴えたりなんかしませんよ」

 ジョークに夕子は笑いながら、真澄の手を両手で握り締めた。

 少しばかり冷たい、手だった。男性らしいごつごつとした指は、いつも見て想像していたものと違っていたが、それがますます夕子の心をときめかせた。

「男性の手ですね」

「でしょう」

 あまり触りすぎるのは失礼かと思ったが、つい中指を撫でるように指で触れていた。

「もしかして、夕子さん、手フェチ?」

「え、ええ?」

 図星を指されて、思わず困惑した声をあげてしまっていた。

真澄は、くすくすと品良く笑った。

「人間の肉体の一部分が好きな人ってよくいるけど、あんまりオススメしないな。そういう考えは」

「どうして? もし、その人の全部が好き、なんていったら……それこそ、なんだか嘘ぽいわよ」

「そうかな。だって、指では、セックス、ではないでしょ」

 真澄の口から、セックス、なんて言葉が出てくるとは思わなくて夕子は面食らった。

「え、ええ」

「だから、何か一部分が好きなんていって、実際に手だけあっても恋にはおちないってこと」

「つまりは、残りのパーツもいると……極論じゃない、それ」

「そうかな」

 真澄は細めた目で夕子を見つめた。

 その目に見つめられて、夕子はなんだかいたたまれない気持ちになって俯いて、きれいな手をみていた。

「真澄さんって、相手の全部を好きになるの」

「うん。……こんなところ、好きにならないだろうっていうところも、たぶん、好きになる。たぶん、相手に恋するってそういう短所も長所も全部好きになって、受け入れることじゃないかな」

「それって、まるで恋をしているみたい」

 夕子が笑って顔をあげると、真澄はとても素敵な笑顔を向けてくれたのに、胸が苦しくなった。

 そのとき、夕子は確信した。

 いやというほどにわかった。

 真澄は、誰が好きだ。そして、それは自分ではない。



「愛美ちゃん」


 その名前に夕子は、思わず目を向けていた。

 理由は簡単だ。カウンターで出迎えた真澄の声が少しだけ上擦った、気がした。

 愛美という名前の子は、多少田舎臭さがあった。清楚とは違う、垢抜けしきれてないどんくさそうな印象だ。

 愛美はカウンターの、夕子から一つ席をあけて腰掛けた。

「こんばんは、真澄さん」

「いつものでいい?」

「はい」

 真澄の態度が、どこか優しげに夕子には思えた。

 真澄は、どんな客を相手にも、にこにこと笑って、対応する。だからこそ、彼らしくないと夕子にはわかった。

 笑顔が、いつもよりも優しい。

 声が、一段と弾んでいる。

 目が、愛美を見つめている。

「そうだ。英田先輩とはどう?」

「ぼちぼちです」

 見た目どおりの生真面目さで愛美は答える。

「らぶらぶなんだ」

「やだ、真澄さんったら」

 カクテルを差し出されて愛美が照れたように笑う姿。真澄の目が細められるのに夕子の心は、かき乱された。

 恋する女の直感は、こんなとき厄介だ。

 真澄は、この子が好きなんだ。

 そうわかったとたんに、夕子は愛美を睨みつけていた。

 こんなに近くで睨んでいれば、どんな鈍感な子でもわかるだろう。愛美は特別に鈍感というわけではなかったらしい。すぐに夕子に気がついて、きょとんとした目で見つめてきた。顔立ちを見ると、ますますどんくさそうな子だと夕子は思った。

「あの」 

 愛美に困惑とした声がかけられて夕子は、どきりとして睨むのを止めた。無性に腹が立った。

真澄に、あんな顔をさせているということが、羨ましくて、にくったらしい。とはいえ、それをどう言葉にすればいいのか、腹の中に暴れている感情を口にするのは憚れるような気がした。

「……夕子さん」

 真澄の声がして夕子は視線を向けた。

 真澄の目が、自分を見ている。

 だが、それは、愛美に向けられたものとはかけ離れている。

 ああ、私、嫉妬してるんだ。

 愛美という娘を憎いと思ったのは、決して単なる嫉妬ではない。

 真澄に、あんな目をさせたということが許せなかったのだ。

 なんだかいたたまれない気持ちになって夕子は立ち上がった。自分の愚かさが恥ずかしくて、たまらなくて真澄の顔も愛美の顔も見ないようにして、バックから財布を取り出すと、千円を置いて逃げるように店を出た。

 真澄は、置かれた千円を見つめて、困ったように笑いながら大切そうに手の中で二つに折った。

「すいません。夕子さん、決して無愛想な人ではないんですけど」

「いいえ、いいんです」

 愛美は夕子が行ってしまった先を見て、そして真澄に向きなおした。

「あの、真澄さん」

「はい?」

 真澄は笑って愛美に視線を向けた。愛美は、本当に困ったように眉を寄せて、唇を開いた。

「こんなこと言ったら怒ると思うんだけど」

 愛美の遠慮がちにも続けられた言葉に真澄は絶句した。そして、とびっきりの笑顔を向けた。



 いろいろと迷って、仕事の忙しい時期が過ぎるまで店に行かなかった。

忙しいのは、仕事もだが、心も忙しかった。不倫していた上司から電話があって、妻と別れるからお前と一緒になりたいと言われた。もう終ったでしょ。私たち。つんけんした言い方をして電話を切った。やっぱり自分はひどく不毛な恋をしていると思い知らされた。

 心身ともに疲れ果てて、ようやく我が家に帰ってきたように店のドアを開けた。

 真澄は、やっぱり笑顔で出迎えてくれた。こちらが何を迷っていたのかと思わせるくらいの、素敵な笑顔に救われて、同時に凹みもした。

「ふられちゃいました」

 いつもの、甘くて、すこしだけ酸っぱいカクテルを出して真澄が突然と言った。

「えっ」

「だから、愛美ちゃんに」

「……ええっ」

 夕子は思わず声をあげていた。

「あ、あの、もしかして、私のせいで」

「いいえ。そうでなくてね、最初から勝ち目のない片思いをしていたんです」

 真澄は内緒話をするように少しだけ身を屈め、片手で口元を隠すようにして囁いた。

「彼女の彼氏、とってもすごい人なんですよ。そう、王子なんです」

「王子?」

「ええ、宇宙人なんです」

 どこまでがジョークで、本当なのか夕子はわからなくなってしまった。

「何万光年と遠いところから、愛美さんと恋をするために、この地球に来たという人なんです。はじめっからね、勝ち目なんてない戦いだったんです」

「けど」

 夕子は拳を握り締めた。

「何万光年だって……ちょっぴりの距離だって、好きなら、か。かわらないんじゃないかなぁって」

「そうですね。……けど、愛美さんにきっぱりと言われました。ごめんなさいって」

 愛美という子のことを夕子は頭の中で思い出そうとした。

 どこか鈍臭いような、田舎臭さが抜け切ってない娘だ。彼女は、真澄の気持ちを見抜いていたのだろうか。

 無性に腹が立ってきた。愛美という子に。自分に。そして、こんなことを笑顔で語る真澄に。怒りはわいてくるのに、うまく言葉には出来なかった。

 愛美のことを、あんなふうに見つめている真澄は、どんな気持ちだっただろう。ふられたとき、やっぱり笑って、そうですか、と言ったのだろうか。いつもの調子で。

「真澄さん」

「だから、すいません」

 夕子は目を瞬かせた。

 たっぷり一分くらい時間使って、ようやく自分はふられたのだと夕子は悟った。

「ひどい」

 小さく言葉を返した。

「すいません」

 真澄の口調は淀みなかった。

「いつから、気がついてたんですか」

「最初から」

 真澄は平然と言い返した。

「私は魅力的な人間だから」

「すごい自惚れだわ、それ」

「そうかな」

「そうよ」

 夕子は言いながら目を細めた。瞑ると、涙が零れてしまいそうになるのが自分でもわかった。だから、笑おうと決めた。

 眩しいものでも見るように真澄を見つめた。

「ありがとう」

「…謝って、お礼を言われたのは、はじめてだかもしれない」

「お会計するわ」

 バックから財布を出そうとすると真澄は首を横にふった。

「前、余計に貰った分があります。……奢りますから、もう一杯、飲んでください」

 真澄の申し出にピンクの液体を夕子は見つめて、洟をすすった。

「仕方ないわね」

 カクテルは、思いのほかに甘かった。甘すぎるくらいだった。


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