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せんぱいがた

 腹筋に力を入れないように、俺はお腹を押さえながら鷹野さんの後ろを歩いた。

 はたから見れば、腰を低くして、鷹野さんの従者にでもなったのかと思える格好だ。


「鷹野さん、訊いていい?」

「どうぞ」

「あの、ピエロって何なんだ?」


 即答する鷹野さんに、ずけずけと俺は質問していた。

 どうやら彼女は、はっきりとしたものの判断というのを心得ているのか、質問の後のタメみたいなものがほとんどない。あのとか、えっとを連呼する俺とは大違いだ。


「あなた、ピエールランドの知識はどれくらい?」

「……テーマパークだというのと、人気なんだってことくらい」

「オーナーの名前は?」

「ピエールランドってくらいだから……もしかして、ピエール?」

「そ。あの化け物がこのテーマパークのオーナーであり、私たちの誘拐犯」


 鷹野さんは淡々と、抑揚の少ない声で答えていく。

 正直驚いた。あんなやつが世界有数のテーマパークで、さらに大絶賛されるようなこの場所を築いた男だって言うのか。信じられん。


「誘拐は文字通りの意味よ。私たちはこのピエールランドに閉じ込められたの」

「閉じ込められたって……そんな犯罪みたいなこと、というか今なら逃げられるんじゃないのか? それにそんなことすれば普通親族とかが捜索願いだすだろ」

「彼らが、普通に見えた?」


 思い返して、普通とかけ離れているあの状況に嫌気が差す。

 俺の顔を一目見ると返事を察したのか、鷹野さんは一息ついて、またそっぽを向く。流し目のようで、すこしうっとり。


「魔法、とでもいえばいいのかな。あのピエロには私達には知らない力があるの。それが何かはわからないけど、とりあえずろくでもない。私達を誘拐して食べるためにしてるんだから」

「……食べる?」

「この遊園地で、一回も遊具に乗らないまま何時間かいると、彼らが私たちを『孤独』と判断して、誘拐する。あなたの理由はわからないけど、ここに来て、あなたはどのアトラクションにも行かなかったわね?」

「たぶん、というよりもわからない」


 その間の記憶がないもので。


「とりあえずよ、そういう独り身の人間を探して、ピエロは私たちを誘拐するわ。しかも、誘拐されるともれなく誰も私のことを思い出さなくなる記憶消去つきでね」

「待ってくれ、ピエロは記憶消去なんてのまでやれるのか?」

「ピエロからの受け売りだけど、私たちを探そうとする人間がいないのは、世界中の知り合いが私たちのことを忘れているから。でも、思い出すかわからないから、忘れてるんじゃなくて消されてるのかも。どっちでもいいけど」


 さらっと、ショックなことを言ってくれた。これが本当なら、俺のことを知る人間がこの世にいなくなったということだ。


「本当?」

「私が、ここからでられない」 


 しれっと、鈴を鳴らすような声で即答された。


「あとは、ピエロたちの『食べる』という概念だけど。ピエロにとって、人を食料にすることが娯楽なのよ。冷蔵庫に入っているチョコを眺めるのが、楽しくてたまらないのだそうよ」


 鷹野さんの言うことは、魔法やら記憶消去やら、現実離れした胡散臭い話ばかりだった。でも、俺は信じることにした。もっと現実離れしたピエロや人形達を見てきたばかりだし、なによりも、鷹野さんの顔が真剣そのものだった。

 これでドッキリか何かだったら、俺は顔を真っ赤にして走り出すだろう。


「信じるの?」

「え、嘘なの?」

「本当よ」


 いや、心のどこかでドッキリだと思っていた分、少し期待をしてしまった。


「……」

「……鷹野さん?」


 鷹野さんは突然黙り込み、そしてじっと、俺のことを疑惑の目で見つめていた。

 あの言葉に、何か別の意味でもあったのだろうか。


「情けないぞ鳥乃啓二よ!」


 そのときだ、どこからか、精悍な声が響いてきた。しかも俺の名前を呼んでいる。


「だ、誰だ!」


 俺はとっさに身構える。あんなことがあった直後だ、警戒もする。


「……上よ」


 いつも以上に気だるげな鷹野さんの声が、ため息とともに漏れた。

 なんだろう。ピエロと会った時とはまた別の嫌そうな顔が、鷹野さんの顔に張り付いていた。

 俺は、その言葉通り上を見る。


「かぁあああつ!」

「な……!」


 また変なやつが出た!

 そいつは、立ち並ぶ外灯のひとつに両腕を組んで、天辺で爪先立ちをしていた。しかも絶妙なバランスで立っているのか、震えひとつしていない。

 見るに、その姿は上下黒いライダーススーツに身を包み、その屈強そうな体を覆う赤いマントも見える。そしてその姿の異常性をさらに際立たせるように……鳥顔のマスクをしていた。


「わしの名はホーク、キャプテン・ホーク!」

「キャプテン・ホーク?」


 なんだこれ、鳥顔マスクのこいつも怪物なのか?


「彼は人間よ、たぶん」

「……そうなんだ」


 そんな俺の心を察したのか、鷹野さんの補足説明が入る。


「そんなことはどうでもいい!」


 キャプテン・ホークの声には、明らかに怒気の混じっていて、なおかつ芯があった。


「啓二よ、人を信じることは、確かに美しい行為だ。だが、それと何も考えずに受け入れるのとではまったく意味が違う!」

「説教し始めたよ、えっと――」

「馬鹿者がぁあ!」

「うおぁ!」


 びりびりと、叩きつけるような大声が上がる。それだけで、俺は後方に後ずさり、尻餅をついた。これはもしかして、一喝というやつなのだろうか。


「人の話は最後まで聞かんか!」

「すいません」

「いいか、人の本質を探るためには、疑うことも重要だ。現に貴様は、自分に信用を重ねすぎて、他人からの信用を軽くしている」


 たしかに、さっきの返答で鷹野さんが疑いを持ったけど。


「信用するなとは言わない。ただ、他人を自分の都合のいい人間に仕立て上げ、それを信用とするな」


 それを言うと、キャプテン・ホーク、略してホークはきびすを返して、外灯から降りた。


「外灯って、三メートルくらい高さあるよな……」

「五点着地だ」


 はっきりと言う。あんなのネットでしか見たことないぞ。


「俺が一度、本当かどうか鷹野さんに尋ねたけど」

「それで、貴様の顔が満足してしまっていた。その情けない行動を見て、わしは貴様が浅いと感じたのだ。精進せよ、成長は反省の申し子だ!」


 言いたいことは言い終わったのか、マントをなびかせ、つむじ風のように走り去っていく。


「帰ったわね」


 ホークが見えなくなってから、鷹野さんが口を開いた。


「私よりも前からピエールランドにいる、変な人。マスクをしているからピエロ同様顔もわからないし、寒風流っていう、知らない拳法をやってる」

「カンプー?」

「私もよく知らない」


 苦虫を噛むような顔のまま、鷹野さんはしなくてもいい説明までしてくれる。


「でも、信用できない」

「どうしてだ?」

「むやみに人を信用してはいけない」


 たしかにホークもそう言ってたけど、彼女のそれは俺と違う気がする。

 鷹野さんは、もしかしてホークが嫌いなのだろうか。

 詮索するのも引けたので、俺は好奇心を抑えて黙っている。無言でいると、また鷹野さんは歩き出した。


「なんかなあ」


 すこしだけ、俺はこの鷹野さんの意見だけは、彼女と食い違っていた。

 ピエロ同様インパクトが強すぎたけど、ホークは悪意ではなく、善意で俺に話しかけてくれた気がするからだ。

 悪い人には見えない。それが、キャプテン・ホークに対する奇妙な第一印象だった。



 目の前に赤十字のマークがついていると、医務室に来たんだという気持ちと同時に、怪我なんてして、後々面倒くさいことになったなあという、二つの感情を抱く。

 お腹の痛みは思ったほど長引かなくて、あのホークが出てきたときには忘れていたほどだ。このまま治療しなくても、自然に治ってしまいそうだけど。


「面倒?」

「あ、いや、そんなことはない」

「その方がいい。怪我の後で熱でも出されれば私達じゃどうにもならないから」


 俺の悪い癖を見つけられたようで、すこしだけ恐縮する。浅はかでした。

 鷹野さんは出来の悪い俺を嗜めると、肩をすくめて医務室の扉を開けた。


「入って」


 見たところ、なんてこともない。どこにでもあるような医務室だ。白いベッドに薬品の詰め込まれた棚。ただ、窓が普通よりも小さいくらいか。


「あれ? お客さんかなー」


 そこに、普通の女の子よりもちょっと高めの声が、部屋の中から響いてきた。

 どたどたと、医務室ならぬ足音を立ててこちらに近づいてくる女の子がいる。たぶん、その子が声の主だろう。


「鳩さん、患者よ」


 鷹野さんは大して驚きもせず、女の子に俺を紹介した。


「えっと、鳥乃啓二です」

「こんにちは、鳩です!」


 鳩と名乗る彼女は、俺よりも小さい身体に、パッチリ開いた両目。肩の上辺りまで伸びた、ウエーブのかかったふわふわした髪の毛から、なんとなく愛嬌を感じる。小型犬を見ている感覚とでも言えばいいのだろうか。よく見るとヘアピンにも子犬の飾りがついている。

 鳩さんは俺の手をつかんで、上下にぶんぶんと振り回す。


「で、啓君はいったいどこの啓君だい?」

「千葉県から出荷してきました」

「おお! ピーナッツ味か」


 鳩さんが愉快な発想をしているが、それは偏見だ。

 テンションの高い、明るい子だと、ひと目でわかった。そう感じる相貌と、声をしている。


「彼女の名前は――」

「まってまって、鳩に紹介させて」


 鳩さんは鷹野さんの言葉を止めて、そのあと笑顔で手を振ってから、俺のほうに向き直る。


「鳩の名前はぱばと……羽鳩らいおん!」

「ぱばと……らいおん? はと?」

「変な名前でしょ、というかその目は思ってるね。だから鳩でいいよ」

「鳩……ですか」

「敬語は禁止だよ」


 俺を指差して、羽鳩らいおんと名乗った少女は俺をまっすぐ見つめていた。


「自己紹介はこれくらいで、どっちが患者かな?」

「彼が、お腹を怪我してる」

「え、まって、この流れは」

「鳩が見よう……あ、いま『マジで?』って顔したね。失礼だねー」


 鳩さんは口をすっぱくした感じで俺を見た後、鷹野さんの方を見る。

 視線を受け取った鷹野さんは、何かを察したらしく、うなずいた。


「彼女はこんな言葉遣いだけど、ちゃんとした医学の知識があるの。私、ホーク、そして鳩さんとあなたを含めた四人が、今いるこのピエールランドの被害者よ。その中に医者がいるのが、幸運といえば、幸運かもしれない」

「医師免許もってないけどねー」


 あっけらかんに言ってみせる鳩さんだが、手に職があるのは、すごいと思う。

 そう考えているうちに、ベッドに押し倒されて上着をまくられる。もちろん、いやらしい意味じゃない。鳩さんは見た目美人だけど。


「むう」


 乱暴な手つきで傷を圧迫していた布を取り払うと、鳩さんは傷口をまじまじと見て、


「童貞ね」

「なんですと!」


 めちゃくちゃ、俺を驚かせた。


「いやいや怒らないで自然に思っただけだから、だからあんまり怖い目で見ないでくれるとうれしかったりごめんなさいごめんなさい」


 だからを二回言っても、許されない気がする。

 ただ、初対面である手前、落ち着いて深呼吸してみる。不思議と落ち着いた。


「……ふぅ、こわかったよー。茜ちゃん、包帯とって」


 茜ちゃん……ああ、鷹野さんのことか。そういえば、苗字しか聞いてなかった。

 鷹野さんは、言われるよりも先に包帯を用意していたようで、手早く鳩さんに渡す。一方の鳩さんは包帯片手に、簡易的な傷薬を塗って、すぐに包帯を巻きにかかった。


「大丈夫、脂肪のところだけ器用に切り取られたみたいだね。本当にお腹切られたら、出るのは血だけじゃすまないよ。というよりも、傷がもう塞がってる」


 あっさりとした診断なだけに、少し拍子抜けする。本当に大丈夫なのだろうか。

 包帯が巻き終わると、鳩さんは一仕事終えたようなため息をひとつ。


「そ」


 そして鷹野さんはただ一言、見届けることで肩の荷が下りたかのように、出口のほうへと歩いていく。どこにいくのだろうか。


「あの……」

「私は、もう寝る。夜も遅いから」


 それを捨て台詞に、扉を開けてどこかへいってしまった。

 俺はお礼もいえずに、ただその背中を見送った。気の利いたことを、何一つできなかった。

 こんなんだから、人と交流なんて取れないのだろうか。


「……経験がすべてじゃないよな」

「童貞のこと、気にしたのかな? あ、泣かないで、鳩がわるかったから!」



「傷口に細菌が入ってないとも言い切れないし、今日はこの部屋のベッド使ってもいいよ。それで明日には、ピエールランドの中の塒は自分で決めてね」

「はあ」


 あれからしばらく、結局のところ何をするにしても、俺は明日を待つことにした。夜に出歩くのは、ピエロがいるという意味でも危険らしい。


「あのピエロ君は、昼間はお客さんがいるからあんまり出てこないよ。派手なことができないからね。だからそのうちに探すのが一番だよ」


 隣のベッドで、ベッドのバネを体重で弾ませてジャンプしながら、楽しそうに鳩さんは言った。彼女も俺と同い年くらいなのだろうが、なんだか幼い人間と錯覚しそうなくらい輝かしい。

 ずっと鳩さんを見ていると、見られている鳩さんがじっと俺を見て、


「ただ、こっち側のベッドにはこないでね。鳩が寝るから」

「……はい」

「その初々しくこちらと目を合わせようともしない顔なら、鳩の処女は守られそうだね!」

「さいですか」


 うん、やっぱり鳩さんは女性だ。なんというか、俺より一枚上手なのが。


「もし、お昼探索も心配なら、ホーくんに護衛でも頼むといいよ」

「ホーくんって……ああ、キャプテン・ホークのことか」

「ホーくんは強いよー。ピエロに勝つのは無理そうだけど。人形ならなんとかなるからね」

「それなら、女の鳩さんのほうが危ないんじゃないのか?」

「鳩が? うーん、そこまで危なくないと思うよ。私、逃げ足は速いんだよ~」


 と言いながら、鳩さんはベッドのばねを使ってトランポリンみたく何度も跳ねている。

 少し、ホークのことを思い出してみる。あいつは結局、俺に何を言いたかったのだろうか。人を疑えって。

 目の前にいる。鳩さんを見る。彼女はいまだにベッドの上ではしゃいでおり、可愛さ相まって愛おしい。本当に犬みたいだ、鳩なのに。

 ふと、そこで思った。


「それって、嘘なんですか?」


 ただ、俺は何気なく言っただけ。

 だけどこの一言が、この場所の空気を変えてしまった。


「……正解」


 すると突然、明るかった鳩さんの顔から、笑顔が消えた。ベッドの上ではしゃいでいたのが、まるで嘘のように。


「うん、敬君はわからないと思ったんだけどね。鈍そうだったし。どうしてそう思ったの?」

「え、え?」


 俺はわけがわからなくて、動揺するばかりだった。それを見て、鳩さんは俺に笑顔を見せる。さっきまでいた女の子の笑顔じゃない。別の、笑顔だった。


「ふふっ、本当にさっきまで普通の子に見えたんだけど、面白いなあ。あたしはね、本当はこんな子なの」


 鳩さんは両手を広げて、とても楽しそうに、ゆっくりとベッドへと倒れる。

 ようやく状況の理解できた俺が、恐る恐る、彼女に聞いてみる。


「えっと、ぶりっこですか?」

「当たり。あたしね、小学校のころは根暗で根暗で、本当に友達がいなかったの。だって両親も兄さんもいたし、必要なかった。ただ石の当たるとこにいる人って、必ず石が当たるんだよね。名前も変だったし。だからかわいくなって、盾になってもらって、それで生きてきたの」


 髪の毛についていたかわいいデザインのヘアピンを、鳩さんは無造作に振り回している。まるで今の自分を、あざ笑っているみたいだ。


「別に深いトラウマがあったわけじゃないし、そこまで辛くもなかったけど、私は要領よく生きたかったから……それだけ」


 それから鳩さんは、数秒目を瞑る。そして何かと決別するようにパッチリ目を開けると、俺に向かってにっこり笑った。


「だからねーそこまで深く考えないでいいよ、人を見て態度を変えるわけじゃないからさ、鳩に平和はあっても差別はなし!」


 外したばかりのヘアピンを付け直す鳩さんの姿からは、さっきの面影などどこにもなかった。

 テンションの高い、明るい子だと、一目でわかった。

 そんなことを思っていた自分は、どれだけ愚かなのだろう。


「いや、ごめん」

「大ジョブ」


 人の心に踏み入った俺は謝って、それに対して何事もなかったかのように振舞う鳩さん。

 彼女はただ、合理的な生き方としてこの方法を選んだのだ。その行動は、友達もできない俺にしてみれば、尊敬することだ。


「ただ、ココではあんまり意味がないからね。一人くらいにばらしてもいいかなーって思っただけだから。なんちゃって懺悔です!」


 そうかもしれない。普通ならあんな台詞、シラを切って切り抜けても全然問題ない場面だ。やっぱりピエールランドは、人を閉じ込める場所なんだろう。

 明日調べることだが、本当にこのピエールランドから出られる気がしなくなってきた。


「ねえねえ、啓君に聞いていい?」

「いいよ、なに?」


 考え事をしながら、俺は気軽に答えてみる。


「啓君は、これからどうするの?」

「これから……とりあえずこのピエールランドから出られないか、抜け道を探してみる。それか、人形がいなくなった隙でも探して、出口をまっすぐ通る」

「無理だよ」


 えへへと笑いながら鳩さんは言うけれど、俺はその言葉を聞いても、笑えない。


「なんで、無理なんだ?」

「そこは自分で確かめるのが一番だよ。あ、あと人形と戦わないほうがいいよ。彼ら刃物で切れないみたいだし、三体集まるだけで戦車よりも強いらしいからね」

「……誰が言ったんだ?」

「ホーくんが」


 戦車の強さがよくわからないんだが、俺が三人いても戦車には勝てないことくらいわかる。


「わかった。心に留めておくよ」

「賢明だね。鳩はうれしいよ」


 にっこりと笑って、鳩さんは俺と目を合わせるけど、恥ずかしくて俺がそっぽを向く。鳩さんはからかうようにまた笑うが、ここは無視で押し通す。


「なあ、そろそろ眠いのだが」

「あれ? 鳩はまだ目がぱっちりだよ。大丈夫」

「啓君は大丈夫じゃありません」


 かまわず、俺は入り口にある電源らしきものへと向かう。口ではああ言ってるが、鳩さんは別に止めることもしないので、おそらく反対ではないだろう。

 電源を切れば、病室は窓から差し込む外灯の光だけになった。カーテンを閉めれば、ほとんど真っ暗だ。

 ……そういえば、今何時だろう。


「鳩さん」

「なんだい敬君、鳩の子守唄が聞きたい?」

「現在時刻って、わかります?」

「七月十五日。午前零時二十分だよ、よい子は寝る時間だね。敬君は悪い子だー」


 零時過ぎか、じゃあ目が覚めたのも――


「無視は傷つくよー」

「……七月?」

「むー……ん? どうしたのかな」


 こちらを除き見るために、鳩さんはベッドから身を乗り出す。たぶん、俺と鳩さんの顔には、はてなマークがたくさんついていることだろう。

 なぜなら、俺が思い出旅行に行った日は、二月。


「鳩さんは、医者ですよね」

「そうだよ、なにかななにかな」

「記憶喪失って、わかります?」


 俺は、五ヶ月もの間の記憶が、なくなっていたのだ。


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