さいごじゃない
そこで、俺が見ているスクリーンは途絶えた。
まるで実際に、そこにいるかのような臨場感をシアターは持っていた。その感覚が抜け切らないまま、終わった瞬間に、また窓のない小部屋へと姿を戻した。
俺は内容以前に、ホークに聞きたいことが山ほどあった。
「あれがわしの、いや、俺の記憶だ。このシアターは人の記憶を映像に残すことができる。だが、人に知られたくないという思いが、この場所を隠すように作られた」
シアターに出てきた男のように、俺は拳を握り締める。
「ここは懺悔室のようなものだ。お前の言う夢は、ここから得た記憶なのだろう」
「お前が、茜の父なのか?」
「知られるわけにはいかなかった。口調を変えて、仮面も付けた。できるだけ接触も避けた」
だが、茜は知ってしまった。
俺は行き場所のない力を、さらに拳へと篭めていった。
「原因は、昨日の食事会か?」
「いや、直接の原因などないのだろう。茜は、うすうす俺に気づいていたようだ」
今まで、なんで茜がホークのことを信用していなかったのか、冷たい氷が解けるように、その理由がわかった気がする。
だがそんなこと、どうでもよかった。
「責めはしない。茜は本質を知ろうとしただけだ」
「だからどうした」
俺は、振り向きざまに拳をホークに向けて、怒りをぶつけるように殴った。だが、ホークの身体能力は俺を上回り、片手でいなされる。ホークは黙って、俺の言葉を待っていた。
「俺の記憶は、どうなったんだ?」
「おそらく、偶然ここに入り込んだのだろう。そしてまだ誘拐されていない啓二は、俺達の記憶を残すことができない。しかしこのシアターは、人に見せることで意義が成り立つ。そのピエールランド同士が産む矛盾が、記憶を混乱させたのだ」
「聞きたいのは、そんなことじゃない」
俺が暴力を振るおうと、障害とも見なさないホークを見る。ホークは俺を見守るように、まるでかわいそうな子犬を助けるような目で、俺を見ていた。
「見てきた記憶が、俺の今までの想いが、ただ他人の受け売りだったのかよ!」
俺はあの悲劇を回避したくて、このピエールランドで戦い続けた。
「はは、何の関係もない俺が、ここでなにしてるんだよ」
だけど、今までの行動は皆嘘で塗り固められていた。嘘が消え、俺には何が残るのだろう。
馬鹿らしくて、笑うしかなかった。
「……啓二」
「あんたはいいよな、大儀があるじゃないか。だったらあんたが何とかしてくれよ! 俺はただの被害者だ。こんな場所がなければ俺はコンナ目にあわずにすんで――」
「馬鹿者が……」
その瞬間、衝撃から壁に叩きつけられるまで吹っ飛んだ。ホークが、俺を殴ったのだ。
「圧倒的だよ。力でかなうはずがない。力のない俺が頑張ってナンになる」
ホークはただ俺を見て、哀れむような出で立ちでそこにいるだけだ。
俺は居心地が悪くなって、痛む背中を無視して立ち上がる。
「……今夜、俺はピエロに戦いを挑む。もし俺が勝てなければ――」
「大丈夫だよ、そんときは全部終わりだ」
ホークに勝てないのに、俺で勝てるわけがない。
俺は逃げるようにして、そのアトラクションを後にした。
「どうしたの、啓二。お昼には来なかったし、心配したのよ」
「ん、ああ」
夕方、俺はあえて時計塔の上ではなく準備中の看板のついた、入口で待つことにした。俺にはもう、あの場所に行くような勇気が、なかった。
「まあ、仕方ないわね。こんな状況だもの」
「はは、そうだよな」
「もしかしてなにかあったの? 本当に変よ」
俺の肩に手を当てて、茜は心配そうに俺の目を覗き込む。その瞳はとても綺麗で、よく見るとその目には俺が映っている。俺はどうしようもない、情けない顔だ。
「なにもないよ。俺が一人芝居をしてたってだけなんだよ。ははっ……」
「啓二……?」
「ホントに情けなくて、自分勝手で、なにもできなくて……ここに来た理由だって」
「もしかして、記憶が戻ったの?」
茜が、すこし的のずれた聞き返しをする。
確かに記憶は戻った。今まであった別の記憶が外れ、本当の記憶が元の位置に帰ってきた。
「啓二……啓二!」
肩を揺らして、茜は俺のことを本当に心配そうに見つめる。
すごいよこの人は、こんな時だって、俺を心配する余裕があるんだ。
「俺は、そんなに強くないんだよ! なんで君はそんなに強いんだ!」
「きゃ!」
俺は力余って、彼女を押し倒すようにして倒れてしまった。
「茜……」
二人で倒れるように重なり合うと、まるで二人の心臓が一つになったように、鼓動が重なる。
俺は腕を使い少しだけ上体を起こして、彼女を見下ろした。
どくんと、心臓の音が鳴る。
倒れるときに驚いたのだろう、茜は肩を上下させながら、息を荒げている。よく見ると、襟の辺りから下着が覗いていた。たどるように胸を見て、一昨日のシャワー室での彼女の透き通った肌の輪郭を思い出す。今まで見た中でも、一番官能的な茜の体を、意識する。
俺の心臓は、狂ったように暴れ始める。
もし、ホークが負ければ、どうせ皆死んでしまう。
なら、いっそ――
かちゃ
金属と、肌のこすれる音がした。見ると腕時計のついた手は震え、地面と擦りあっている。
あれは、俺の渡した腕時計。なぜ、震えて……。
俺は、気づいた。
彼女が、俺を見て怯えていることに。茜は恐怖に震え、口を紡ぎ、潤んだ瞳で俺の目をじっと見つめ、行動を待っていた。瞳の奥を覗くと、獣のような誰かの顔が映りこんでいた。
俺はそこで、手を引いて立ち上がった。
「……ごめん」
「……」
茜は、しばらく立ち上がらなかった。俺から目を背けるようにして、それに併せて俺も目を背けて、それから立ち上がる。
「……っ」
茜は、抵抗しなかった。抵抗しようと思えば、突き飛ばしたり、暴れたりもできたはずだ。
もしかしたら、信じていてくれたのかもしれない。なにもしないんだと。
だとしたら、俺はその信用を裏切った。何もしなかったのは、ただ怖気づいたからだ。
最低だ。
「啓二」
こんな俺に、茜は話しかける。いまはもう、とても遠い。
「あのさ、俺……もう帰るよ」
「…………そ」
長い沈黙の跡に、たった一言。その言葉に、何を思っているのかも解らない。気づいたときには、そこから逃げ出していた。
茜色の空は、俺を責めるように大地を照らす。
俺には、大儀もなければ、彼女と目を合わせる資格すらなくなっていた。
どれくらいそうしていたのだろう。俺は膝を抱えて、一つの部屋に閉じこもっていた。
風船でできた家。俺の心を模したアトラクション。
ここは、とても落ち着く。何度かここを訪れたことはあったが、ここがこんなにも居心地のいい場所だと、初めて知った。俺はあれからずっと、ここで何も考えずに、ただ包まれていた。
バルーンハウスは俺の心の象徴だ。誰も傷つけたくない、だから触っても衝撃を吸収してしまう風船が、この家を作る基盤になっている。
「もう、いいよな」
あれだけ人を傷つけて、得たものはやっぱり後悔だった。
大切なものがあったはずなのに、そんなものはすぐに崩れ去って、どこかへ消えてしまった。
「啓二さん……」
突然かかる、誰かの声。
いつの間にか、俺の部屋に別の人間が入り込んでいた。
「誰だよ」
「あのあの、静香です」
なぜ静香がここにいるのだろう。どうしてここを知っているのだろう。
「ずっと、探してました」
「……今、何時だ?」
「少し前に、午前零時が過ぎました」
ああ、もう日付が変わっていたのか。なのに、まだ俺は生きている。
「まだ、ピエロさんは出てきてないです」
「良い子はもう寝る時間だろ」
「わたしは、いつでも悪い子です」
えへへと、静香は苦笑いを浮かべて、手に持った荷物を俺に差し出した。
「茜さんが作られた、サンドウィッチです。もし見つけたら、食べさせてあげてほしいと」
「いらないよ」
「でも、多分昼から何も食べてないだろうって」
「いらない」
はやく、ここから出て行ってほしかった。静香まで傷つけたくなかった。
「……」
「け……啓二さん!」
その時だった。静香は両手で俺の手を掴み、俺を立ち上がらせようと手を引っ張る。しかし、静香の非力な腕力では俺の腰すら浮かない。
「静香、どうしたんだよ。まだ何かあるのか?」
「見せたいものがあるんです!」
力を入れすぎたのか、顔を真っ赤にしてまだ俺の手を離さない。
俺は申し訳なくなって、立ち上がってしまう。
「こっちです!」
俺が立ち上がると、静香は本当に痛くなるほど俺の手を握り返した。俺はそのまま、引っ張られるように風船の家を出て行く。閉園時間を過ぎたせいか、外は明かりも外灯もない。暗闇がピエールランドを包んでいた。
しばらくすれば、ピエロは動き出す。
いや、もう食事は始まっているのかもしれない。俺達の命は、蝋燭のともし火よりも危うい。
それでも、静香は悠然と歩みを止めず、一つのアトラクションにたどり着く。
「ぷ、プラネタリウムのお時間です」
「はは……」
静香の心を表したアトラクション。擬似的に星々を映し出す射影機を使い、天体観測をするための場所、プラネタリウム。
そういえばなぜ、静香のアトラクションはプラネタリウムなのだろう。
「けけ啓二さん、どうぞ」
前にも入ったことがあるのに、静香は緊張の面持ちで俺をこの中へ連れて行く。
和室に連れて行くわけじゃなさそうだ。中に入り、促されるまま座席に腰掛ける。静香は裏方のほうにトコトコと向って行って、今は見えない。
「ではこれから、あなた方……というよりも啓二さん一人ですけど……あああ違います違います! 今回は啓二さんだけに見てもらいたいんです!」
なにやら慌しいアナウンスが耳に入る。どうやら、ここのプラネタリウムを上映するらしい。
「ははじはじ……始まります!」
何もスピーチを考えていなかったようだ。そのまま舞台が暗転し、機材から光が漏れ始める。
「となり、大丈夫ですか?」
「ああ、かまわないよ」
走って戻ってきたのか、静香は少し息切れをしている。
「わ、わたしじゃなくて、上を見てください!」
「そうだな、すまな……」
少しだけ、驚いた。
天井を流れる星座の美しさではなく、その配列にだ。
何の変哲もない、日本の、夏の星空だった。
「これなら、外でも見れるじゃないか」
驚いたのは、この空が茜と見たことのある空だからだ。
「本物じゃないと、イヤですか?」
「そういうわけじゃないが」
「天の川の右側で一番光っている星が織姫です。斜め下にあるのが、彦星です」
「七夕か」
「えっと、それだけです。ごめんなさい。それ以外は、わからないです」
俺と静香は、何もしゃべることがなくなって、ただ作られた星空を見つめた。
そういえば、茜が星空の集まりを家族といっていたことを思い出す。これだけ沢山の星空を見ると、家族というよりも一つの街の集まりみたいだ。
「三年位前まで、わたしの家の近くにプラネタリウムがあったんです。三年前までなのは、こういう施設は儲からないようで、潰れたんです」
俺が思慮にふけていると、ふいに静香が口を開く。
「閉館日には、わたしも行きました。そのときは、沢山人がいて驚いた記憶があります。そして最期の講演は、みんなが感動するような素晴らしいものでした。でも可笑しいと思いませんか? こんなに感動する人がいるのに、人が来ないから、潰れるんですよ」
子供のような疑問だ。その人達は最後だから来たのであって、そのきっかけから感動する人も多かったのだ。最期の美しさを、この目に留めたからだ。
「最期だけの感動なんて、嘘っぱちです」
静香は、その最期の美しさを、素直に喜べなかったのだろう。だから、ここにプラネタリウムがあるのかもしれない。
それはとても、納得のいかない理屈を、諦めきれない……。
「俺の小学生のころのあだ名は、ゲロマンだった」
俺は考えるよりも、何か話すことにした。
それは俺にとって思い出すことも躊躇われる、それでいて忘れられない記憶だ。
「ゲロマンですか……」
「ああ、その名前で解ると思うけど、俺は小学校のころに一度、全校集会のときに、気分が悪くて吐いちまったんだ。別に子供ならいくらでもあると思うけど、そのとき俺は小学生の高学年だったし、全校集会のせいで、学校中の人間が知ることになった」
大人になれば笑い話になるようなことも、今の俺にはまだ重い出来事だった。
「別に、いじめられたとかそんなことはなかったよ。ただ、子供の友達って、入れ替わりがすぐに起きるだろ。丁度そのせいで友達グループからはずされて、それでほかのグループにも入りづらかった。そのせいで、友達がいないまま学校を卒業して、中学生になった」
俺はどうして、静香にこんな話しをしているのだろう。それでも静香は、俺の話から目を逸らさず、耳を傾けていた。
「中学生にもなれば、そんな年前の話で人を避けたりしないし、実際誰も避けなかった。だから、またすぐに元の生活に戻るかもしれなかった」
「……」
「でも、中学生になった俺は、どうやったら友達ができるのか、わからなくなっちゃったんだ。小さいころは自然と友達ができて、自然と遊びに付き合っていたのに。話しかける? 共通の話題を持つ? なにをすれば友達はできるんだろうって」
それ以来、俺に友達はいない。
何ヶ月かするとそれにも慣れてしまって、そのまま友達のいない人生でここまで来てしまった。きっかけは誰も覚えちゃいない小さな事件だけど、今も俺の足を引っ張っている。
「わたしは、静香は友達じゃありませんか?」
「そうだな、そういえば静香とは、友達なのかな……。だったら友達いない暦は打ち止めだ」
「それなら、なぜ啓二さんはそんなにも泣きそうなんですか?」
「泣きそうか……そうだよな」
なんとなくだが、解っていた。
俺は自分の記憶が嘘っぱちだとわかって、茜たちとの絆が見えなくなったのだ。まるでそれは薄っぺらい、代わりのきく子供同士の友情を見ているような気がして。
そして俺は恐怖と焦りで茜を責め、その絆を自分自身で壊してしまったのだ。
もう、元に戻らないほどに――
「啓二さん」
その時だった。静香が俺の顔を自分の胸に当てて、包み込むように抱きしめた。
「なにを」
「あ、あの、わたしにも友達と呼べる人なんて全然いなかったです。だから、泣いている友達に何を言ったらいいのか解らなくて。ごめんなさい、これはわたしが本当に小さかったころに、母に慰めてもらった方法です」
俺が静香を見上げようとすると、それを抑えるように静香がまた俺の顔を胸に当てる。
「なんで、こんなことを」
「友達だからです。泣きそうな啓二さんを、放っては置けません。茜さんがいたら、鳩さんがいたら、ホークさんでも、啓二さんが泣いていたら、絶対に黙って見ていないです」
「俺は、そんなことされる人間じゃ――」
「茜さんは、あのサンドウィッチを啓二さんの為に作ったんですよ」
俺が食べなかった。今日の分のサンドウィッチ。
あれはいつ作られたのだろう。 あれは本当に、俺のために作られたのだろうか。
「信じて、いいのか?」
「それは啓二さんが決めることです。啓二さんはどうしたいんですか?」
俺が、決めること。
静香は、俺がどちらを選ぶのか知っているのだろうか。
疑うことは、人との絆を作るのに必要なことだ。
信じることは、人との絆を確かめ合うことのできる、大切なことだ。
「わたしの両手は小さくて、啓二さんのすべてを包み込むことはできないけれど、あなたの不安を拭うことくらいは、してみせます」
俺は、信じたい。
「わたしじゃ、足りませんか?」
「いや……十分だ。信じてみようと、思う」
俺は、元に戻らないのだと、諦めきることができなかった。
「俺はずっと恐かった。大切にしていたものが、些細な出来事ですぐに壊れちゃうんじゃないかって。だけど、大切なものは俺が思っていたよりも、ずっと頑丈だったんだな」
「啓二さんが、そうしたんですよ」
静香はその両手から俺を解放する。涙は流さなかったけど、静香は俺の不安を拭ってくれた。なら、ここで泣くわけにはいかないんだ。
かっこ悪くて、情けない俺でも、励ましてくれる人がいる。
「なんで、俺をそこまで買いかぶるんだ?」
静香は俺にばつの悪い笑顔を向けて答えた。
「最期だけの感動は、嫌いなんです」
「だったら、明日も元気じゃないとな」
俺は立ち上がり、同じように俺を励ましてくれた。星空を見る。
「なあ静香」
「はい!」
「もしさ、星が人で、星空が人の集まる街だったら、家族は何を指すと思う?」
「へ?」
「たぶん、俺は太陽系だと思うんだ」
茜は、太陽が家族に手を伸ばしている姿を、夕焼けだと言っていた。
だったら、届いているんだ。
俺達の地球には、毎日のように茜色の空が輝き、そして俺達の目に触れている。
ずっと近くにいるんだ。地球だって、遠くから見れば小さな星のひとつなんだから。
茜は親を、家族をまだ諦めちゃいなかった。だからホークを見つけ、食事が始まった。
俺が諦めたら、彼女と同じ場所に立つことなんてできない。
俺が茜の隣にいたいのだったら、諦めの悪い奴ぐらいには、ならないといけない。
「啓二さん、友達の助言は助かりましたか?」
「ああ助かった。でも、友達じゃない。どうせなら家族って言ってやれ」
「ええ! ああああふ、不束ですが末永くお傍にいさせて……」
「いや、兄妹みたいなものだって」
ここからが、正念場だ。まだ俺達は生きている。ならば、ピエロと戦う。
しかし、ピエロにどう立ち向かう? あのホークの思い出を見る限りでは――
「思い出……」
俺はこれまでの事を順々にフラッシュバックしていく。ホークの記憶。ジェットコースターの事故。心を移すアトラクション。鳩さんが最初に消えた理由。ピエール・ピエロ。
すべてが歯車のパーツのように、頭の中で一つ一つ嵌っていく。
がこん、と俺の中で完成した歯車たちが、動き出した。
俺は歯車がすべての仕組みを持って、動いていることを知った。