はしれようじょ
ピエロの視線は、仮面をしているせいで俺達を見ているのかも判らない。ただ、こいつにしては珍しく、俺達の会話にも入らないでずっと黙っていた。黙ってくれるのは大歓迎だが、ただ動かないというのも不気味だった。
だけど今は、早く静香を両親に合わせたいという、焦る気持ちの方でいっぱいだった。
「茜、どうしたんだよ!」
しかし、俺が茜に賛同を求めようとした所で、茜はどこか無気力で、投げやりな態度をとっていた。俺の行動に、反対しているのだ。
静香をそこに行かせないように、俺とは反対方向の、静香の手を握っていた。
「啓二、もし静香ちゃんが両親に会えたとして、それでどうするの?」
茜は投げやりだが、反対の理由を明確に述べていた。
「両親はもう、静香ちゃんの記憶がないのよ」
明確に判断しているからこそ、今やっていることに疑問を抱いているのだ。
会えたとしても、それはいい結果を招くとは限らない。
もちろん、静香は俺達の会話の意味なんてわからないだろう。そわそわと、俺達の口論をただ見守っているだけだ。
「怖いのよ、私達は漠然とわかっているだけ、実際に自分のことを知っている人間に会ったことがあるの? もし会って、実際に忘れられていたら、啓二は傷つかないの?」
「……傷つくかもしれない」
「なら、なんでそんな傷をえぐるようなことをするの?」
茜の言うことはいつも以上に理にかなっていて、それでいて言葉は感情的だった。
でも俺は、茜ほど理にかなっていないけど、俺自身の考えを持っている。
「たしかに静香は、このまま両親に会いに行っても、後悔するかもしれない。でも、このまま行かなくても、きっと後悔する」
茜は、やさしく静香の手を握る。傷つかないように、転ばないように、茜が支えているのだ。
「後悔するなら、行かなきゃいけない」
俺は静香の手を強引に引っ張って、静香の体を引き寄せた。茜のやさしく握る手はそこまで強くなくて、静香の手から離れていく。
「えっと、茜さん、啓二さん?」
当の本人である静香は何も知らずに、その相貌は俺と茜を行ったり来たりしていた。
茜は、その静香を見て、また手を握り返そうとして……やめた。
「そ……もう、知らない」
茜はふくれ面で俺を一度見て、そっぽを向いてもう俺の方を振り返らなかった。最初に会ったときとは違う、無関心ではない。感情的なそっぽ向きだった。
「ごめんな」
俺はそれだけ言って、静香と一緒に走り出す。
「ああの、いいのですか?」
静香は置いていった茜が心配だったようで、何度も後ろを振り返っている。
「大丈夫さ、茜は茜で、案外理解のある奴だ。考えもなしに、やけっぱちな行動はしない」
「浮気される前の亭主みたいな台詞ですね」
「それは昼ドラの見すぎだ」
俺達はまた、満員電車のような人ごみの中へと潜り込んだ。迷惑なことに、入口と現在位置を挟んだところで、街頭パレードが行われているのだ。
パレードは、入口近くの広い道路をハリボテでできた大きな人形御輿で巡回する、祝日の午後に行われる一大イベントだ。もちろん人は多く集まるし、その芸術品のような御輿達を一目見ようと、道路の境界線ぎりぎりまで人が敷き詰めている。
「どいてください!」
どれだけ大声を出しても、その音は雑踏に飲まれてほとんどの人に届かない。これで一度も、混乱騒ぎが起きていないのが不思議なくらいだ。
「ど、どいてください!」
静香も、小さな体を押しつぶされないようにするので必死だ。あのピエロとの口論だって、一対一だからこそ響いた声なのだ。ここで力にはならない。
このままでは、確実にパレードが終わるまで入口に行くことができなくなってしまう。
鳩さんのことだから、しっかりと足止めをしてくれるとは思うが、心の中で心配の種が消えることなどなかった。終わってからゆっくり行こうなんて、安易な選択肢はなくなっていた。
「け、啓二さん……」
「待ってろ、支えてやるから」
だが、俺はともかく静香がばててしまいそうで――
「鳥乃啓二よ!」
そのとき、自分の名前を呼ぶ声が耳に届いた。自分の見知った声が、喧騒の中響く。
「キャプテン・ホーク!」
俺達のいる所から二・三列ほど離れた先に、ホークが座っていた。座っていたというのはその言葉通りで、地面に膝を突き、なにやら両手を前に出している。
「啓二! こっちに来い!」
明らかに入口から遠ざかる場所で、ホークは俺達二人を呼んでいた。事情を知らないあいつは、もしや『危ないからその列から下がれ』とでも言っているのだろうか。
「……」
いや、あの目は違う。
俺は今まで進んだ方向とは逆の、ホークへと向かって走り出す。
「啓二さん、どうしたんですか?」
「いや、なにか通じ合った気がする」
ホークの、鳥顔の仮面から光る目は心配よりも、どこか挑戦を促しているような目だった。
「どっちにしても、このまじゃダメだ」
なら、挑戦してみようじゃないか。
「静香、走るぞ!」
「は、はい」
人混みに入るのと、抜け出すのとでは速さが違った。俺達は追い出されるように、後ろから力をかけられて駆け抜ける。
「ぶ、ぶつかります」
ただ、威力が強かったのか、ホークの前で止まれなくて。ホークを踏みつけるように二人で片足を前に出して、
「どっせぇええええい!」
「え?」
「きゃあああっ!」
いつの間にか、俺達は宙に浮いていた。
一番高いところまで来て、ホークが俺と静香を投げ飛ばしたのだと気づいた。向かってくる足を、ホークはそのまま掴んで投げ飛ばしたのだ。
「無茶苦茶すぎる!」
たしかに五点着地とか人間離れしていたけど、人を投げ飛ばすなんてありえない。いったい何メートル飛んでいるのだ。
俺達は人混みの上空を飛ぶようにして、半ばミサイルのように通り過ぎる。
ただ、さすがに入口までは飛ばせなかったようで、
「ま――」
不味いと思っている最中にも、危機は迫っていた。
落ちる。
たしかに、この方法ならいくらかの人混みは避けられるだろう。だが、このまま地面に落ちれば、絶対に怪我だけじゃすまない。人の上に落ちでもすれば、大惨事だ。
俺はとっさに、まだ手を離していない静香を手繰り寄せ、全身を守るように強く抱きしめた。
「啓二……さん」
少なくとも、静香だけは守らないと。
そう思いつつも、衝突への恐怖から目を瞑る。心なしか、抱きしめる力が強まった。
バキリという音がして、何かが折れた。
ただそれは、俺の体ではなかったようだ。
「いたぁ……」
俺達は、パレードの目玉である、ハリボテで作られた御輿に衝突したのだ。しかもハリボテの骨組みはまるでトランポリンのようにやわらかく、俺達の突撃を受けてとめてくれた。
助かった。というよりまさか、これも計算してホークは投げたのか?
「静香、怪我はないか?」
答えを出すより先に、俺は腕の中で赤ん坊のように縮こまる静香に安否を問いかけた。見ると、顔を真っ赤にしている。もしや、どこかに頭をぶつけたのかもしれない。
「大ジョブ、です」
鳩さんみたいな場違いの発音と、上ずった声で静香は返事をする。俺の腕から離れるように立ち上がり、ふらふらと御輿から出て行く。足取りは、どことなくおぼつかなかった。
「ええい、無理すんな!」
「え、あのあの!」
俺は見かねて、静香を抱き上げる。肩と膝の裏に手を回し、いわゆるお姫様抱っこだ。
静香はさらに沸騰したみたいに顔を朱色に染める。恥ずかしいだろうが、我慢してもいたい。
俺はそのまま、御輿から出て行く。するとそこには、文字通り道があった。
どれだけの人混みがこのパレードを囲んでいようと、その多くの観客はパレードの中に入ってはこないのだ。御輿を動かすための道が、俺達の活路になる。しかもこのパレードの道は、入口へと続いていた。
「ナイスだ、ホーク!」
もはや聞こえない所にいるであろうホークに、礼を言う。
俺は静香を抱えて、パレードの中を駆け抜けた。
「あの、啓二さん!」
「どうした!」
やけくそ気味に、腕の中にいる静香に走りながら答える。
「恥ずかしいです!」
「俺も恥ずかしい!」
「恥ずかしいです!」
見れば、俺達は衆目の的だった。
ただでさえ、パレードの中に潜り込んだ一般人という目で見られている俺達は、乱入してさらにその中をお姫様抱っこで滑走している。一般の人にしてみればそれは不思議な光景を目の当たりにしているだろう。
しかもさっきから、俺の足が悲鳴を上げている。運動もしていない俺が、少女一人を持ち上げて走っているのだから仕方ない。
入口が見えてくると、途中で根を上げて静香を降ろした。
沢山の人が俺を見ている中で、その中にいるであろう鳩さんを探す。すると人混みの中で大きく手を上げ、ジャンプしている人影が目に付いた。
「鳩さん!」
「こっちだよー!」
鳩さん持ち前の高声が功を弄したか、すぐに鳩さんは見つかった。またパレードの中から人混みへ、俺達は無理やりねじ込んでいった。
「いやーどこの『駆け落ち! 王子様とお姫様』だったねー」
「恥ずかしかったです!」
「それよりも、両親は見つかったのか?」
俺は会話をぶった切って、鳩さんに話しかける。鳩さんは話を引っ張ることもなく、話題を変えた俺を見て、すこしばつの悪い顔をした。
「ごめん! 見つけてから入口にまでつれてったんだけど、この満員のせいで、いつのまにか隣にいなくて。ずっと探してるんだけど、人ごみが多すぎるよー」
両の手を合わせて、鳩さんは何度も申し訳なさそうに俯いた。
「じゃあ、まだ近くにいるんだな」
鳩さんをフォローするよりも先に、俺は首を動かす。どこかに、いるはずなんだ。
ただ、見回しても人人人。どれが両親かわかるのはこの二人だけだし、身長の低い俺では、数人確かめてその先は見えなくなってしまう。
どうすればいい。どうすれば見つかるんだ。
「み、見えないです」
ぴょんぴょんと、鳩さんと静香は揃ってジャンプしている。でもそれじゃあ、周囲を見渡すことなんてできないだろう。もっと身長があれば――
「……そうだ、ないなら足せばいい」
俺はとっさに、静香の背中に回る。それに気づいた静香が、なにか不審な目で俺を見ていた。多分さっきの抱っこから見るに、静香の体重は三十弱だ。
「啓二さん、なぜわたしなどの背後に?」
静香による、何回目になるかわからない。俺への問いかけ。
「肩車だ」
「え?」
俺はすばやく静香のわき腹を掴んで、頭を股座に突っ込んだ。
「け、敬君が……セクハラだー!」
「誤解だー!」
鳩さんの言葉に数人が俺の方を振り向いたが、関係ない。どうせすぐに俺なんて忘れられる。
俺はそのまま、腰をまっすぐに立てて――
「きゃ!」
俺の身長を、静香に足した。
「み、見えるか?」
もう俺に、静香の表情は見えない。ただ、肩車を嫌がって抵抗してくることはなかった。
「ナイスアイデアだけど、啓君はいきなりだねー強引だねー」
鳩さんは半ば感心して、もう半分は呆れたようにため息をつく。
ただ、鳩さんの言葉も尤もだった。さすがにいきなりはいけなかったかもしれない。
「すまない静香、イヤなら降ろすぞ」
「だ、大丈夫です。こっちのほうが、よく見えます」
「喜んでるよー。まさかの結果でよかったね」
ニヤニヤしながら鳩さんが口添えしてくる。本当に喜んでいるのだろうか。
「静香、両親は見えるか?」
「もっと、別の方向に回っていただけますか?」
立っているだけで精一杯だったが、一度やった手前断るわけにはいかない。腰が痛むのを承知で、少しずつ体の向きを変えていく。
鳩さんも俺が無理をしているのがわかるのか、微力ながら腰を支えてくれる。
「にしても、肩車なんて初めてだが、なかなか難しいな」
「昔、お父さんにもそんな感じのことを言われて、肩車をしてもらったことがあります」
上からかかる、小さな静香の声。
俺の額に脂汗がにじんだ、緊張と、人混みにまみれる夏の熱気に当てられたのだ。
「どうでもいいことで、ごめんなさい。でも、すこしだけ思い出したんです」
ただ、ピエールランドの魔法かなにかなのか、熱射病になるほどの気温ではない。
「俺は、親父に肩車されたことないよ」
「え、あの、ごめんなさい」
不思議な空間と、それに当てたられた俺の身体は、少しのぼせているようだった。
「でも一個くらいは、家族のことを思い出す出来事もある」
親父どころか、夏の良い思い出ですら、俺にはそんなに多くはない。
「だから、どうでもいいことじゃないさ、覚えてるんだから」
「……はい。そうですよね」
少ないからこそ、大切にするものもある。静香の思い出は、そんな大切なものなんだろう。
「お父さん! 啓二さん、見つけました!」
そんな中で、希望を掴み取るように、静香の声がかかった。
「どこだ!」
「そのまま前のほうです、お母さんもいます!」
静香が見失うわけにもいかず、そのまま前へと進む、鳩さんが効率よく道を開けてくれるおかげで、人にぶつかるようなことはなかった。
しかし、俺はその進む先に、出口の看板を見た。
そこはピエールランドから出ることのできない俺達の、境界線。
「まだです、まだ前にいます!」
かまわない。そのまま前に進む。俺は、諦めない。
ただ、その想いもそこまでだった。俺はこの大事な場面で足を引っ掛け、体が前に傾く。
「ぐあ!」
前から派手に転び、額が地面と衝突する。やばい、静香は大丈夫だろうか。
「し、静香」
見ると、鳩さんが静香を抱えている。鳩さんがうまく受け止めてくれたようだ。
静香はそのまま鳩さんの腕を離れて駆け出した。出口の方へと、どんどんと近づいていく。
……あ、ぶつかった。
それはあっけないほどに、簡単な挫折だった。ピエールランドの壁を、誘拐された静香は越えられない。静香は力いっぱいピエールランドの境界線を越えようと、その見えない壁を力いっぱい叩いていた。
どうしてと、静香は涙をこらえるような顔で壁を押して嘆いていた。
もう、静香はそれ以上進めなかったのだ。
周りの人間は奇異の目で、静香を見ている。何を嘆いているのかと、前へ進めないからに、決まっているじゃないか。
「静香……静香!」
俺は、あきらめない。たとえ、たとえ後悔したとしても。
「叫べ! 二人を呼ぶんだ!」
何もできなかった後悔だけは、させたくなかった。
俺の大声が、静香に届く。静香は一度だけ俺を見て頷くと、涙を溜めたその目を必死にこらえて、大きく息を吸った。
「お父さーん! お母さーん!」
せめて二人に届くようにと、大声で彼女は叫んだ。そして、そのまま静香は力をなくしたように、地面にへたり込む。
「……啓君、立てる?」
隣で見ていた鳩さんが、俺に手を貸してくる。俺は傷だらけの体に鞭打って、足を引きずりながら静香のもとに近寄った。
「静香……」
魂が抜けたように、へたり込んだその姿は、俺の声を聞くと、ゆっくりときびすを返して、こちらを向いた。静香の目は、涙で決壊しそうなくらい、潤んでいた。
「啓二さんあの……お父さんもお母さんも、二人並んで歩いていました。わたしは走ったんです。でも、届きませんでした。いくら走っても、前に進めませんでした。でも、でも」
涙が溢れまいと、静香は言葉を途切れさせない。
「啓二さんが叫べって言ったとき、わたしは本当に精一杯叫びました。もう二人は離れていたけれど、それでも届くように、叫んだんです」
「ああ」
「そしたら、一度だけ振り返ったんです! わたしの声が聞こえたみたいに、一度だけわたしのことを、見たような気がしました」
「……ああ」
「でも、それだけでした」
涙が、限界を超えて溢れ出す。
「ぐすっ、それ、だけで、した」
静香はそれを最後に、大声で泣いた。