ぷろろーぐ
かんそうほしい
「裏切り者!」
そこには、俺と彼女と夜の暗闇がいた。辺りはその暗闇で、俺には彼女しか見えない。
彼女は強い眼光で俺を射すように睨み、言い得ぬ怒りと涙を流していた。
「信じてたのに!」
何故だろう、彼女が声を張り上げるたび、俺はとても心苦しくなる。耳に届く嗚咽は、耳の中で膿のようにたまっていく。
俺が何をしたのだ、何もしていなかったんだ。
「シンジテタノニ?」
そのときだ、俺の耳から膿がはじけるように、暗闇から声が現れた。子供をからかうような、ふざけた声だった。
彼女はその声を聞くと、口を震わせ噛み合わない歯はがちがちと音を立てる。瞬きを忘れたように見開かれた目は、暗闇に向いている。
「シンジテタノニィ! いいねイイヨそのコトバ。心が恋で張り裂ケテしまいソウ!」
「あ……あ……」
彼女の口から、枯れたようなかすれた音が漏れる。
「レディースエーンドジェントルメン。ボクはそのどちらでもなーい!」
耳に届く声は、まるで暗闇そのものが喋っているような錯覚を覚える。その暗闇に包まれていること知ると、醜悪な匂いと、劈くような耳鳴りが俺の五感を駆け巡る。
暗闇そのものが、腐った空気のようになっていくようだった。
「あ……あ……」
「アイシテルト言いたいのカナ! だったら恋人ついでに聞きたいんだケド、君はショートケーキをイチゴから食べるタイプ? ボクは勿論イチゴちゃん! だっておいしいんだモン」
「あんたのせいで!」
彼女の口からようやく出た声が、俺に向けるもの以上に、憎悪に満ちていた。
ふざけた声はまったく相手にもしないで、ただ自分の話だけを延々と続けている。
「イイヨね、お腹って。ふんわりとした感じもイインダケド、さらにオンナノコは卵が入ってたりするモンネ!」
不思議な感覚だった。喋っている内容以前に、胃の中に虫が詰まるような、理屈じゃない嫌悪感を、その言葉が作っていた。犯すように、嬲るように。
そう、彼女に向かって……。
その感覚から逃げるように、俺は口を開いた。
「おまえは、なんの話をしているんだ?」
「わかってないなあキミは。ツウなら誰でもシッテル! お腹って言ったら――」
暗闇が言葉を言い終わる前に、彼女の体が一瞬びくんと、痙攣するように跳ね上がった。それと同時に、彼女の方から何か音がした。
音は、切れない包丁で無理矢理繊維を切り落とすように、ぶちぶちと――
「あ、あああああ!」
音の意味に気づいた俺は、目も覆うことができずに、ただ叫んだ。
「人間にキマッてるジャナイカ!」
彼女の上半身だけが、ぐらりと横に傾く。まるで積み木で作った塔の中心を、赤ん坊がふざけて押し崩してしまったように。
彼女は、食べられてしまった。
俺はその様子を、ただ見ていることしかできなかった。