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直線距離150km

 



 長い夜が、明けようとしていた。



 拘置所のそれと変わらないほど小さな窓から微弱な日光が差し、室内の明度を少しずつ上げてゆく。



 その窓の先、濃紺の空に刺激されてか、入口の扉に背中を預けて座る灰島新は数時間ぶりに思考を再開した。



 ――死にたい。



 最も端的な現実からの逃避。



 そこに向かう思考以外の全てを、全身が拒否しているのが知覚できる。



 ――死にたいよ。



 昨夜突如として脳髄へなだれ込んだ情報量は処理能力の限界を完全に超えており、新に思考の停止を選び取らせるには十分だった。



 ――死ねない。



 生物としての本能からか意志の弱さからか、“死ぬ”という動作を実行に移す代わりに、昨夜の記憶ばかりが頭の中に溢れ返る。



 死刑が確定した1年前と同じ、命の終わりがすぐそこに迫った瞬間の記憶が。


 



 ※




 「……いいでしょう。教えて差し上げます。今後数日のうちに、絞首刑に代わってあなたが受ける死刑、いや、あなたが執行する死刑は」



 立ち向かうつもりだった。



 ほんの僅かでも生きてゆける道が残されているのなら、今度こそ、どんなことをしてでも理不尽な現実に打ち勝ってやろうと、そう思っていた。



 「殺人犯の殺害です」


 けれど現実は、あまりに不条理だった。



 自分が越えようとしている壁の高さを、やっと思い知ったのだ。



 「……覚悟はしていた。『死刑執行人』と言うくらいなら、誰かを殺さなきゃいけないかも知れないって」



 それでも、その時はまだ、俺の両足は地についていた。



 「解ったよ、拘置所の奴らを殺せってことだろ……解ったよ」



 「私がいつ『拘置所の奴ら』などと言いました?」



 「どういうことだ」



 「確かにそれも面白い提案ではありますね。面倒な絞首刑での執行でなくて済みますし、死刑囚でない殺人犯にも命を奪って罰を与えることができます。ですが、世界はもっと残酷ですよ」



 何食わぬ顔で白は続けた。



 「私の言い方が簡潔過ぎたかもしれませんが、よく考えてみて下さい。あなたの想定していた方法では、私たちが手を下さない限りあなた自身が死刑にはなりません。そしてEDAも、死刑ではないにしろ既に罰を与えられている拘置所内の殺人犯に興味は無いのです」



 俺は、無意識のうちに自分が死ぬかもしれない可能性を排除していたのだ。



 「あなたを取り巻く世界の全てを、教えて差し上げましょう。決して、目を背けられないように」



 白はそう言うと、その長い両腕で左右から俺の頭を掴み、その青白い顔まで十数センチほどの距離にぐいと引き寄せた。



 間近に迫った両眼の紅く暗い色彩は、今なお網膜にこびりついて離れない。



 「灰島新、表の世界で死んだいま、あなたは罪人同士で殺し合っていただく為の一つの駒に過ぎません。殺人を犯してなお、罰せられることなく潜み続ける屑どもに奪った命の償いをさせる――いわば、絞首刑に使用される縄のような存在なのですよ」



 吐き気がした。



 この時にはもう、「立ち向かおう」などという勇敢な意志は挫けていたんだと思う。



 「“目には目を、歯には歯を”――私たちの定義するところの『死刑囚』、つまり殺人を犯した人間である相手の頸椎が砕けるのが先か。それとも、首を掴んだ縄であるあなたが千切れてしまうのが先か。殺し合いの末に、あなたの身体が細切れの肉片に成り果てようとも、私は監督者として最後まで見届けますよ。安心して下さい」



 畢竟、死ねということなのだ。それも、殺人を犯すような異常者と殺し合いをさせされて、むごたらしく。



 生き残れる訳がない。ついこの間まで普通の人生を送っていた高校生が、どうやって生き残れというんだ。



 何か奇跡でも起きて、最初の殺人犯を殺せたとする。しかしその地獄は、どのみち俺が死ぬまで永久に続くのだろう。



 そのことを理解した脳髄が警鐘を鳴らしていた。もうこれ以上そいつの言葉を聞いてはならない、これは人間ひとりが許容できる限度を超えている、と。



 「私たちは、秩序を乱す者に裁きを下すその崇高な責務を、〈断罪〉と呼びます。死刑囚による、殺人犯への死刑執行。どちらが死のうとも、正義は達成されるのです」



 「やめろ……」



 「あなたは不思議に思いませんでしたか? なぜ、特殊独房は2つあるのか。なぜ、あなたは人の気配の無い2号独房へ連れられたのか。なぜ、周囲に執行人がいないのか」



 「もう、やめてくれ……」



 「それらは全て、正義が為されてきた証なんですよ。1号独房と2号独房の振り分けの基準は単純で、真実の死刑囚であるかそうでないかです。あなたのような方々は人殺しの経験が無い為にどうしても生還率が低くなってしまいますから、このような状態になる訳です。始めは多くの執行人が居たのですが、自殺や〈断罪〉によって1人、また1人と――」



 「やめろよ!!」



 頭を掴む腕を引き剥がそうとして果たせず、あらゆる液体で視界もはっきりしなかった俺は、白の体躯めがけてただがむしゃらに、まるで幼い子供のように四肢を振り回した。



 蹴り出した右脚がロングコート越しに腹部を捉えた、と知覚した次の瞬間には、頭の左右にある2本の腕に握り潰さんばかりの力が込められ、瞬時に持ち上がった白の膝がみぞおちにめり込んでいた。



 「そうです、そうでなくてはつまりません」



 白の笑い声を、俺は強烈な痛みの中で初めて耳にした。



 甲高く響き渡った笑い声は、押し寄せる胃液に悶えていても鼓膜を突き刺したのだ。



 「〈断罪〉でもその調子で頑張ってみることです。もしかしたら首の皮一枚繋がるかもしれませんよ」



 そう口にしながら、白は既に階段へ向かって歩を進めていた。



 「それでは、私はこれで失礼します。〈断罪〉を行う日にまたお迎えに上がりますから、それまでお元気で。その前に死なれても困るので、食事は1食分のパンと栄養剤を、毎日早朝に構成員がお持ちします。そのほか、この色無村の中の物は人間以外であればご自由にどうぞ」



 「待て……!」



 込み上げてなお残る吐瀉物の熱を感じながら、俺はうずくまったまま白を呼び止めていた。たとえ返答がなくとも、ぶつけてやりたい憤りが腐るほどあったのだ。



 「ふざけるなよ……。お前の、お前らのやってることは無茶苦茶だ! 捕まってない殺人犯がいて、それをお前らが探し出せるなら、その情報を警察に流せばいいじゃないか! 俺は濡れ衣を着せられて死刑囚になった。俺だって、普通の人間だったんだ!」



 1段、階段を降りようと脚を踏み出したまま、白は歩みを止めていた。



 「警察では駄目なんですよ。警察による逮捕は根本的な解決ではなく、表面的な、形だけの物です。殺人犯の命が終わって初めて、その事件は本質的にひとつの終わりを迎えるのです。しかし現在、殺人犯が逮捕されたとしても、その内極刑たる死刑が適用される罪人はごくわずかになります。現代日本の法律では、数十年もすれば人を殺した人間が表の世界に戻ってくるのです。人殺しの屑どもに譲歩しているのです。だからこそ、EDAは救います。犠牲になった被害者の、その周囲の人間の、そして他者の命を奪った罪人の、報われない魂を。“目には目を、歯には歯を”私たちは、死には死を以て報います。死こそが救済なのです」



 言い切り、こちらを振り向いた白の顔に表情はなかった。



 ただ俺はその声色の奥底にほんの少し、感情の起伏を見た気がしたのを覚えている。

 


 「そして確かに、あなたは罪を犯さずしてここへ来た。なぜなら、あなたたちは正義を為すために必要な犠牲だからです。命は正義の前ではあまりに小さく、比較するに値しません。今日死に、人権も持たないあなた如きの命がここにあることで、世界は正しい方向へと進んで行くのですよ。あなたは『人間だった』のであって、もはや人間ではありません」



 白の発する一言一句が身体中に絡み付き、視界が瞬く間に暗黒で塗り込められていった。



 「『正義』……。何もしてない人間を巻き込んで殺すのが正義だっていうのかよ! その正義の為に自分たちの犯す罪は正当化して、そんなの、矛盾だ……」



 内心は諦め始めていた。



 どんなに喚き散らした所で、その声は世界の壁に阻まれて誰にも届きはしないのだから。



 それならば、生きようと思考すること自体が無意味なのだ、というのが辿り着いた結論だった。



 「正義とは流動的なものです。何を真の悪とするかによって、それ以外は悪ではなく必要悪として、正義の一部となるのです。あなたにとっての矛盾が、人々の総意にとっても矛盾とは限りません」



 狂っている。



 再び言葉を返すことは、遂にできなかった。



 沈黙した生贄に見切りをつけたのか、白は金属の軋む音と共に階段を降りて行く。



 「あなたを呑み込んだ世界を認められないのなら死になさい。あなたの信じる世界を認めさせたいのなら生き残りなさい」



 その声を最後に白の足音はみるみる遠ざかり、色無村の彼方に消えていった。



 またあの薄ら笑いを浮かべているのだろうことは、容易に想像できることだった。



 どうせ不可能だろうが、せいぜい必死に足掻いてみせろ。



 暗闇の中に独り残された俺には、そんな世界の声に聞こえていた。


 



 ※




 ――死にたい。



 俺はいったい何時間こうしているのだろう。



 今朝昇ったはずの太陽は既にその光を弱め、小さな窓から入り込んだ淡い橙色が、入口の扉にもたれる新に過ぎ去った時間の長さを教えていた。



 もうすぐまた、夜が来る。



 そうして昼と夜の交替を何度か繰り返す内に、〈断罪〉の日が来る。



 嫌でも、自分で手を下さなくても、この心臓が止まる時はやって来る。



 そうすれば、もうこんな思いをしなくていいんだ……。



 小さな蜘蛛が、床に垂らした右腕をせっせと登っていた。


 左の手のひらで、その蜘蛛を潰す。



 死こそが救いだと、白は言っていた。お前はこれで救われたのか?



 手のひらの上で、蜘蛛はもがいていた。



 脚をばたつかせ、懸命に死から逃れようとしていた。



 少し我慢すれば死ねるのに、なんで、生きようともがくんだ。



 まるで、昨日の俺じゃないか。



 蜘蛛は使えると判断したらしい数本の脚で体を運ぶと、手のひらの端から転げ落ちて行った。



 でも、無理なんだ。



 どんなに生きたくとも、抗う為の手足をもがれてしまった俺は、もはや手のひらの上で苦しみに転げ回るしかない。



 息の根を止めてもらえるその時を、ただひたすら待つしかない。



 「どうしろっていうんだよ……!」



 ぎり、と奥歯を噛み締める。



 何が「死にたい」だ。



 今こうして生きているのに、死にたい訳がないじゃないか。



 死にたくないけど、死ぬしかないから、早く殺して欲しいんだ。



 俺はどうすればいいんだ、どうすれば――。



 「生きたい」



 我知らず呟いた新の耳に、昨夜よりもずっと前、まだ拘置所にいた頃に交わした言葉がぼんやりと響いた。



 ――新、どうしてもやばい時ってあるだろ? どうしても気持ちが取り返しつかない時。そういう時はさ、どこからでもいいから空を見ろ、空を。



 ――なんでだよ。



 ――窓越しでも何でもいいからさ、一回やってみろって、な? 俺か柚か別の誰かか、お前を信じてる奴が必ずその時一緒に空を見上げててやる。



 ――空じゃなきゃ駄目なのか?



 ――駄目なんですね~それが。地面には邪魔なもんが多いんだよ。



 「……分かった。やってやるよ」


 


 もがれたはずの脚。立ち上がる力なんて、もうありはしないと思っていた。



 それでも、魔法でもかけられたかのように、どこからか力が湧いて来たのだ。



 手足はここにある。動かす力も残っている。こうして立ち上がることができる。



 俺はまだ、生きている。



 「まだ……まだ死んじゃいない。それなのに『生きたい』なんて、馬鹿だ」



 そうだよな、康弥。



 しばらくぶりに使役された両脚が、小刻みに震えている。



 まるで産まれたての子羊だな。



 扉に手をつきながら立ち上がった新は、自分の情けない有り様にそれこそいつ以来かというほどの笑い声を上げた。



 震える両脚が次第に足許を掴んで行くのが感じられる。伸びた脊椎が身体を支えているのが解る。



 何がそんなに面白いのか自分でも不思議でならなかったが、ただただ新は笑い続けた。



 空を、見なくては。



 昨夜ここに来てから初めて、薄暗い部屋をぐるりと見回してみる。


 部屋の奥の壁に嵌まっている窓からでも空は見えるはずだが、新は今立っている辺りから先へは立ち入りたくなかった。



 決して幽霊だとか呪いだとか、そういった類のものを信じている訳ではなかったが、この世の物ではない何かに心を絡め取られてしまいそうな、そんな気がしてならなかったのだ。



 外に出よう。



 ゆっくりと、背後にあった錆び付いたドアノブに手を掛ける。



 扉を開けるだけのこと、至極単純な動作のはずなのに、やけに扉が重い。



 ひとつ大きく息を吐いた新は、意を決して腕に力を込め、扉を開け放った。



 「! これは……」



 連れられてきた時にも嗅いだ、多種多様な匂いを雑多に内包する風が、全身に吹き付ける。



 しかし景色は昨夜と大きく異なり、2号独房が背にする森の木々の反対側には、山間に差す光に照らされた色無村の姿が一望できた。昨夜は張り詰めていたように感じた空気も、心なしか、今は息苦しく思えない。



 「こういうことか」



 こんなにも、世界は明るい。たとえその世界が、自分を殺そうとしているのだとしても。



 こんなにも、日の光は暖かい。たとえどんなに、自分の心が凍えていても。



 そしてこんなにも、見上げた空は広い。今自分の頭上に広がる空は遥か彼方まで繋がって、誰かの見上げる空まで続いている。

 


 だから、独りじゃない。



 新はぐんとひとつ伸びをした。朝、ベッドの上で目覚める時と同じように。



 「約束通り、見てるか?」



 ゆったりと流れ行く綿雲に向けてそうひとりごちる。



 新が室内同様に周囲を見回すと、後方へ動かした右足が何か固い物体の感触を伝えた。



 1年前の犠牲者の姿が突如ありありと蘇り、ぎょっとして振り向く。



 しかし足元にあったのは金属製の小さな皿ただ一つで、そこに乗った干からびた食パンとカプセル剤が2錠、手にとられる時を待っていた。



 そうか、構成員が食べ物を持って来るって言ってたな。



 この粗末な残飯もどきがそうに違いないのだろうが、扉を挟んだまさに目と鼻の先だというのに、今朝の自分は気が付かなかったのか。



 皿からカプセル剤を取り、口に放り込む。臍と背中がくっつきそうなほど腹は空いているのに、パンを咀嚼する気にはなれなかった。



 パンを左手に掴んだ新は、通路を歩いて階段のある方向――森に囲まれた色無村が続く方向へ向かった。特殊独房は案外と長い直方体だから、階段の辺りからのほうがより広く景色を見渡せるはずだ。



 「同じ世界なのか……」



 未だに実感が湧かない。



 網膜が受け取る情報のどこにも外界との繋がりを示す物は存在せず、広い、というよりは細長いと表現すべき村に点在する木造の民家が、まだ人間が多くいた頃の面影を残すばかりだ。



 その中のいくつかには、今も村民が暮らしているのだろうか。そうだとすれば、何か外部から来た物を見られるかもしれない。



 だからといって村民に接触を試みる勇気は無かったが、それほどに外との繋がりが懐かしく感じられた。



 地表へと続く階段をちらと見遣る。



 この下には何があるのだろう。上と同じように執行人の部屋が並んでいるのだろうか。



 ふと小さな疑問が浮かぶも、階段を降りて冒険に繰り出すほどの度胸は持ち合わせていなかった。ホラー映画の登場人物も、始めから怪しげな場所に立ち入らなければ怪奇現象に襲われることはないのだ。



 でも、ちょっと確かめるくらいなら。



 おそるおそる、軋む鉄板を数段降りた新は、1階の様子をその目に捉えるべく首を伸ばして覗き込んでみた。



 構造は2階と変わらないように見える。ただ日があまり当たっておらず、日向と比べると大分暗い。奥のほうは眼前の壁に阻まれて見えないが、手前と同様の部屋が続いているのだろう。



 そこまで確認して、片足をもう1段、ひとつ下の足場に踏み出す。



 その直後、金属の弾ける鈴のような音が下方から響き、新は息を呑んだ。



 まずい、怪奇現象の始まりを促してしまったか。



 しかしその音以外には何も起きることはなく、新はそれが亡霊の足音などではなかったことを悟った。



 だったら、一体何だったんだ?



 階段の手すりから上半身を乗り出し、眼下の地表を見下ろす。



 すると、繁茂する背の低い草の中に、陽光を受けて光るこぶし大の何かが見えた。



 「……行くか」



 ふう、とひとつ息を吐いた新は、意を決して階段をじわりじわりと降りて行った。



 横目で捉えた1階は奥まで大方思い描いた通りの姿で、倉庫か何かだろうか、一番奥の部屋にのみ他とは趣の異なる錆びた金属の扉が嵌められている。



 絶対に中は見ない。そう決めた。



 地面に降り立ち、特殊独房や森とは逆――村の開けた方向に回り込むと、先ほど階段から見た地表はすぐそこだった。



 近付き、雑草に埋もれるように落ちた“それ”の正体に気付いた瞬間、新は頭頂から爪先までを電流が駆け抜けるのを知覚した。



 どういうことだ? 白が落としていったのか? それがさっき自分が足場に乗った震動で落ちて――。



 鍵。それはまさしく、昨夜白が村の入口であるフェンスの扉を開ける際に取り出していた鍵の束だった。



 いや、でもまさか。そんなことが有り得るのか? あの白という男がこんな単純な失敗をするとは考えにくいし、今までそれに気付かず放置されているのも不自然だ。



 「どうなってる……」



 鍵の束を拾い上げた新は、24時間前にも見た橙色の太陽を振り仰いだ。



 時間がない。このまま村の中で夜を迎えてしまえば、恐らく俺は特殊独房から動けなくなる。それにもしかすると、今夜にも〈断罪〉の時はやって来るかも知れない。



 本当にフェンスの鍵なのか、鍵がまだ取り替えられていないのか。試すなら、今のうちだ。

 


 この鍵で扉が開かなければ戻ればいいだけのことだが、もしも開いてしまったらどうする?



 逃げ出す?



 そこに疑問符が現れたことに、我ながら驚いた。あんなに逃げ出したかった、いや、今も逃げ出したくて堪らない筈なのに、いざチャンスが目の前に迫ると先の分からない不安で尻込みしてしまう。



 「大丈夫だ」



 口中に呟く。



 EDAが異常な行為を行っているのは誰の目にも明らかな訳だし、こちらには“死んだことにされた”という武器がある。自分が生きていることを多くの人に知らせることができれば、一度「死んだ」と公にしてしまった奴らは事実の隠蔽を認めざるを得ないはずだ。



 だったら、逃げ出して初めに出会った人間にその旨を話して――って、それじゃあだめだ。信じてもらえるかどうかも定かではないし、沢山の一般人に同時に伝えなければどうせ直ぐに揉み消されてしまうだろう。



 公の機関は当てにならない。ここに蜻蛉返りというのが落ちだ。



 考えろ、考えろ、考えろ。こんなチャンスはもう巡って来ないんだ。



 実際、まだチャンスかどうかもはっきりしない。だけど、この小さな小さな希望に賭けてみたい。



 その思いだけが、新の身体を突き動かしていた。思考することを諦めさせずにいた。



 とにかく、人の多い市街地までは必ず辿り着かなければならないか。その後の行動は、今すぐに考えるべきことじゃない。



 そう判じた新はすぐさま昨晩と同じ道を戻ろうとして、待てよ、と一旦思いとどまった。



 でも、でもだ。脱出できたにしろできなかったにしろ、最初に感じた違和感が正解だったらどうする?



 これらが全てEDAの、白の自作自演だったとしたら――。



 ちくしょう、目的が思い付かない。扉が開かないとすれば俺を誘き出すことくらいしか理由が想像できないが、誘き出した所で何がしたい? 捕らえた虫をわざわざ籠の入口まで導く意味が分からないし、抵抗できないのだからこんな回りくどい方法を使わなくてもいい。それに、森の中に昨日の時点では何もおかしな物は見当たらなかった。



 扉が開いたとしてもその疑問は残る。執行人を外に放って得られるEDA側の利益が、ひとつとして浮かんで来ないのだ。

 


 やはり、この状況は不自然過ぎはしないだろうか。



 EDAにとって、自分が脱走を試みることにどんな意味があるのかは理解できないが、あまりに都合が良すぎる。



 その上、今まで気にかける余裕もなかったが、これほど極秘事項として隠されてきた――ましてや内部に殺人者を囲う為の場所に、見張りの一人もいないというのも納得がいかない。



 「それでも……それでもだ」



 残された爪の先ほどの可能性に、すがりたかった。



 仮に鍵が開いても、市街地までは果てしなく長い道のりになる。車内から見た景色がまだ脳裏に焼き付いているから、それは分かっている。



 それでも。



 鍵が開かなければ、戻ればいい。



 鍵が開けば、市街地を目指してひたすら進むだけ。



 これが何かの策略でなかったなら、神様がくれた最後のチャンス。



 何かの策略だったとしても、〈断罪〉がある以上命を奪われるようなことはないはず。このまま何もせずに朽ち果てるよりは、ずっとましだ。



 「本当に覚えた道を帰るかもしれないなんてな」



 この村に後ろ髪を引かれるようなことなどありはしない。



 ポケットに食パンを突っ込み、刻一刻と長さを増してゆく自身の影を見遣る。



 まだ、闇に呑まれる訳にはいかない。



 正か負か。双眸を見開いた新はおよそ1メートル、朱色の世界を移動した。


 



 ※




 春、とするには遅く、夏と呼ぶにはまだ早い。そんな6月の中頃の、燦々と陽光の降り注ぐ暖かな昼下がり。



 名織康弥は、駅の券売機横に備え付けられたベンチにひとり腰かけ、その時が訪れるのを待ち侘びていた。



 「……来ないか」



 約束の時間は12時30分。対して、現在時刻はもうじき13時。



 いくらでも待ってやろうと思っていたけれど、待ち合わせにはいつも柚が一番乗りだったことから鑑みるに、もはや今日顔を合わせることは望めないのかもしれない。



 どんなに俺と新が時間を守り抜く男子を演じて馳せ参じようとも、柚は必ず一足先に待ち合わせ場所へ来ていて俺たちのプライドを打ち砕くのだった。



 いつだったか、唯一柚を早さで上回ったのは、二人して1時間前から待ち伏せていた時、その1回きりだ。



 そう、その時はまだ俺の隣には新がいて、二人で馬鹿をやって、二人で反省して、二人で――。



 なんでだ。なんで死んだ。なんでお前が自分で終わらせなくちゃならなかった。



 そりゃあ俺には一生分からないような苦しみだったんだろう。だけどさ、あんな死に方、あんまりだろ。



 康弥は重い瞼を下ろしてゆっくりと息を吐いた。今でも、瞼の裏には新の最期の姿がしぶとく残っている。



 最期くらい、笑っていて欲しかった。



 ――その電話が入ったのは、昨日の朝のことだ。



 電話の先で泣いていたのは、新のお母さんだった。



 学校へと発つ間際だった俺は、もう新という存在がこの世にはないことを知らされたんだ。



 柚には学校で話した。



 昼休みになるまでずっと、どう伝えるべきか考え続けた。でも、上手く言えたかどうかは今になってもまだよく分からない。



 学校にいる間にあったことは全て、脳味噌を素通りして過ぎていった。覚えているのは、放課後に柚と向かった拘置所での出来事だけ。



 しばらくぶりに顔を合わせる新の家族に挨拶をした後、俺と柚は拘置所の一室で新と対面した。



 酷かった。どうすればあんなことになるのか、説明を聞かされた今でも納得できない。



 拘置所内で着ていた私服のスウェットなど、わずかながら同一人物だと判る部分もあったけれど、全身が焼けただれ、腫れ上がった“新だと思われるもの”は、もはや生きて動いていた頃の面影を残してはいなかった。

 


 柚には見せるべきじゃなかったのかもしれない。せめて、先に俺が部屋に入るべきだった。



 新に対しての侮辱に他ならず、失礼なことだと分かってはいるけど、“あれ”は新じゃない。正直、あの映像だけを記憶から消し去ってしまいたい。



 説明によれば、直接的な死因は舌を噛み切ったことによる窒息。全身を覆う重度の火傷は、通路に置き去られていた灯油を自分で被り、灯油と共にあったライターで火を点けたことによるものらしい。



 医者風の男は、新であると断定できたのは、歯形が一致したからだと言っていた。



 拘置所の管理がなっていないせいで、と一概には言えないのが悔しい。



 説明を聞きながら、拘置所としては“最後は舌を噛み切って死んだ”ことが大事なのかもな、とふと思った。灯油はきっかけに過ぎず、あくまで死を選んだのは新の意思であり、いくら素早く対応しようとも死は避けられなかった、という理屈。



 未だに信じられないし、信じたくもないけれど、新は確かに死んでしまったのだ。



 そんな光景を目の当たりにしても、柚は目から涙をこぼしながら俺と一緒に最後まで説明を聞いていた。



 新を通じてなのか、美希ちゃんと柚には多少の面識があったらしく、帰るまでの間しばらく話していたのを覚えている。



 そして、今日。



 昨日の夜に掛けた電話に、柚は出なかった。俺は待ち合わせの場所と時間、目的を打ち込んだメールだけをその後送って、今に至る。



 新のお母さんが教えてくれていた新しい番号。それを初めて使って掛けた電話の話だと美希ちゃんも学校を休んで家にいるようだし、あとは柚が来てくれれば一番なんだけど……。



 ちょっと、無理があったかな――。



 「康弥」



 やや離れた位置から飛んだ声に、康弥は閉じていた瞼を開けた。



 「……電話、出なくてごめん。それに、こっちの駅まで来てくれたのに、こんなに遅くなって」



 柚はこちらに向かって歩きながら、申し訳なさそうに頭を下げた。上げた顔の目元には、はっきりとした隈が現れている。



 「いいよ、気にすんなって。昨日の今日で無理に呼んだんだ、来なかったとしても俺は柚を責めないよ」


 「ありがとう」



 柚は弱々しく笑ってみせた。

 


 「……でもね、康弥が呼んでくれて、良かった。もし今日も昨日の夜のままだったら、私たぶんずっと内側に閉じ籠ってたと思う。それは、きっと美希ちゃんも同じはず」



 柚はベンチの横に立って、何か考え事でもするように住宅街の彼方に目を向けている。制服を着ているということは、一度学校に行こうとしたのだろうか。



 「そう言ってくれると助かるよ」



 立ち上がりながら、何気なく携帯を開いた康弥は少しばかりどきっとした。



 30分ほど前、柚から遅れることを謝るメールが届いていたのに、俺は気付いていなかったみたいだ。



 「どうかした?」



 「え? あ、いや、何でも」



 慌てて取り繕う。メールに気付かず、心中を察した気になって引き返そうとしていたなんて、格好悪くて言える訳がない。



 「……んじゃあ、美希ちゃんも待ってるかもしれないし、そろそろ行くか」



 「うん」



 (――まもなく、1番線に到着の列車は、13時9分発――)



 機会を伺っていたかのように、ずっと前から変わらないアナウンスが切符売り場にも降ってきた。



 一番辛いのは美希ちゃんのはず。それだけに、一番これからが心配なんだ。



 まず俺たちが乗り越えて、支えてやらないと――。



 「そうそう、言ってなかったけど、美希ちゃん迎えにに行ったら何か食えるとこ行くからな。俺のおごりでいいから、ガンガン食えよ! ……新が羨ましくなっちゃうくらいにさ!」



 不意に込み上げるものを感じ、咄嗟に晴れ渡った空を見上げる。



 自分で言っておいて、馬鹿か俺は。



 それでも、溢れ出す涙を止めることはついにできなかった。


 



 ※




 この1歩は、一体何度目の1メートルなのか。



 左右を埋め尽くす、木々や畑の鮮やかな緑が狂ったように明滅し、太陽もまた、この身体を屈伏させようと照りつけている。



 くそ、まともに歩けもしないなんて。



 長い一本道を往く灰島新は、数時間ぶりに歩みを止めて手近な縁石に腰を下ろした。



 休憩をとってしまうと、どうしても空腹や疲労が一層強烈に押し寄せてくる。



 「きついか……」



 村を抜け出した夕暮れから数えて、既に日が昇るのを3回見た。どれだけ進めているのか、正確な数値は知らないが、まだ白たちには追い付かれていない。



 これほど日数が経ってもEDAからのアクションが無いということは、あの鍵で逃げ出せたのは本当に幸運だっただけなのだろうか……。



 限界を訴える胃袋と、既に限界を超えて久しい両脚を取り敢えずさすりながら、新は置き去りにしてきた背後の景色を振り返った。



 その懐に色無村を隠しているのだろう山脈は、今は一番手前の小山の向こうにやや霞んでそびえ、歩んできた道のりの長さを物語っている。



 地図の上ではたったの数センチ、もしかしたらそれにも満たないほどの距離の出来事かもしれない。それでも、俺にとってそれはどんな定規よりも永い数センチなんだ。



 前進を止めておよそ5分。新たに手招きを始めた睡魔とも闘いながら、新はポケットから取り出した小ぶりなイモを一つかじった。



 芽とおぼしき部分は石で抉ったから毒は大丈夫だと信じたい。が、農家の無人直売小屋から失敬した分もこれで最後になってしまったようだった。



 どこか、近くの民家で頼み込めば何かしら食べさせてもらえるかも、とふと思い付く。辺りにはぽつぽつと家屋も見られるようになってきていることだし、そうすれば――。



 いくらでも理由をこじつけられそうなプラス思考はそこまでにして、新は、よく考えろ、と飢餓感に流されかけた意識を引き戻した。



 この体の状態では恐らく誰の手からも逃れることは不可能なのに、無闇に人と接触するのは避けたほうがいいはずだ。



 保護を依頼する為、それか不審に思われたりして警察に連絡なんかされたら、それこそ全てがぱあになってしまう。

 


 結局、進むしかないのか。



 先刻かじったイモを早速消化しようと音を鳴らす腹に、なけなしの力を込める。



 いつ追い付かれるとも分からない今、俺は辛くても苦しくても、前に一歩を踏み出すしかないのだ。



 「ここまで来て、捕まるもんかよ……」



 立ち上がろうと身体を前方に折り曲げた新は、持ち上がる筈の視界が地面へ向けてがくんと傾くのを見た。



 あれ?



 音もなく路面に倒れ込む。



 ぶら下がっただけの両腕は転倒への対処という役目さえも果たしてはくれず、顔面からコンクリートに激突した新は口中に拡がる血と砂の匂いを嗅いだ。



 身体が、動かない?



 正確に言えば、力を込めることはできる。しかし、それを維持して立ち上がることができない。



 「嘘だろ……」



 砂利にまみれた腕を伸ばし、腰かけていた縁石にしがみつくようにして上半身を起こす。大した動作は一切していないはずなのに呼吸が荒い。



 どうしてこんな突然に動けなくなったのか。



 混乱する脳髄とは裏腹に、弛緩した肉体だけは日の光に暖められたコンクリートの地面から仄かな安らぎを得ていた。



 ――思えば、太陽の下で体を横たえるなんて、ずっとできなかった。



 こんなに脱力するのはいつぶりだろう。



 マイナス方向にばかり働く思考が、だらしなく伸びた四肢から再起する力を奪ってゆく。



 そうだ。俺は、立ち上がれなくなるまで頑張ったんだ。



 もし、いつかまたこの瞼が開くことがあったなら、その時こそは。



 縁石の上に、そっと頬を置く。



 「今はもう、いいよね」



 そう自分に向かって問うたのを最後に、とうに曖昧だった新の意識は急速に霧散して――。


 



 「――い、おい! 聞こえるか!? おい!」



 耳元で響く男の声と、薄い皮膚の壁を透過して入りこんだ陽光に、新はうっすらとその瞼を開けた。



 「生きてるな? ちょっと待ってろ……」



 男の影が離れて行く。停めてある車に向かったようだ。



 まだ、死んでなかったんだ。



 日は傾いていないから、さほど時間は経っていないのか、それとも丸一日以上そのままだったのか。



 新は細い視界の中に薄汚れた手のひらを捉えた。弱々しくではあっても、ちゃんと指示通りに動いてくれている。



 「ほら、これ食いな」



 男が戻ってきた。



 その手には、コンビニで買ったとおぼしき飲料水とおにぎりが見える。



 自分という生物の奥底から、欲望の波が押し寄せて来るのが知覚できた。あれは、まだ普通の人間だった頃に食べたものと同じ――。



 いただきます、と発したつもりの言葉が、声になっていたかどうかは分からない。無我夢中で、新は目の前に置かれた食糧をただただ貪り続けた。



 全身が欲求の満たされた歓びに震えているのがわかる。現実に消化された訳ではなくとも、取り込んだエネルギーの塊を糧にして、残っていた力が身体の隅々まで伝播して行く。



 「……火事場の馬鹿力ってやつか? てっきり起き上がるのもできないのかと思ってたぜ」



 味覚を刺激する暇も与えずおにぎり2つを水で流し込んだ新は、後回しにしてしまった礼を述べるべく眼前に立つその男を見上げた。



 歳は20代前半といったところか。わずかな露出でも想像できる筋肉質な腕は、日に焼けた肌に覆われている。首から提げている物は……カメラ?



 「礼ならいらないよ。俺が勝手にやったことだ」



 長めで癖のある黒髪の上から頭を掻きながら、男は満足げに笑った。よく見るとその髪を黒いヘアバンドで留め、顎には不精ひげを生やしている。



 「ありがとうございます……!」



 礼はいい、と言われても、そう幾度となく繰り返す口を止めるつもりはなかった。この身に起きたこの偶然の出会いは、自分に残されていた奇跡なんだと思う。



 「だからいいって。俺の弁当はまだちゃんと車に残ってるし」



 そう言って男は車の方向を指差した。さっきははっきり認識できなかった、紺色の小さな軽自動車が路肩に停まっている。



 「でも、なんで……」

 


「なんで、顔も知らないような奴を助けたのかって?」



 うまく言葉を繋げられない新に代わって、男が口を開く。



 「そりゃあ勿論、俺がいい人だからに決まってるだろ?」



 康弥みたいだな、この人。



 そう冷静に思いながらも、新は自身の口元までつられて笑っていることに気が付いた。



 「俺、一応雑誌の記者やってるんだけどな、その取材の帰りに窓の外を見てたら人間が転がってるんだよ、人間が。最初は殺しでもあったのかと思って焦った」



 男が喋りながら、足もとの縁石に腰を下ろす。



 「だが、よく見てみると背中が呼吸で動いていた。車の中に食い物もあるんだ、そのままスルーって訳にもいかないだろ。……いや、俺のことなんかよりあんたはどうした? その様子で、まさか『日課の散歩中でした~』なんてことは無いよな」



 男の探るような目付きに、新は今しがた手に入れたばかりのエネルギーで脳髄を懸命に働かせた。



 どこまで真実を話せばいい?



 「あ、ええと、その……俺は、逃げて来ました……」



 この状況に至るまでの行動自体を偽ってしまえば、余計に疑われてしまうかもしれない。



 「どこから?」



 男からの問いは矢継ぎ早に飛んで来る。



 「じ、実は俺、ちょっと危ない人たちに絡まれちゃって……。その組織の事務所みたいな所に、監禁されてて……」



 今ここで本当のことを話すのは、やはりリスクが高い。チャンスは一度きりかも知れないのだから。



 真実は、同時に沢山の人に――そう決めたじゃないか。



 どれほど信憑性のある誤魔化し方ができたか定かではないが、新は事実と虚言を適当な割合で混ぜた言葉を口にした。



 「え、そんだけ!?」



 男が失望を隠せないといった表情を見せる。



 「よくあることじゃねえかあ……。なんだよ、せっかく面白いネタに出逢えたかもと思ったのにさ」



 「どういうことです……?」



 「え? ああ、さっき言った俺が記者やってる雑誌、オカルト系の雑誌なんだよ。取材ってのもこの地域周辺に『地図から消された村』があるっていう噂の情報集めだったんだ。でも記事の良い材料になるようなネタが全然出てこなくてよお……。あんた関係の話で記事を水増しできたらって思ったわけ」

 


 いつの間にか座るのをやめていた男はそう言うと、くるりと背を向けて車へと歩き出した。



 「飯食ったなら少しくらい歩けんだろ、そういう現実的なトラブルは自分で警察に相談してくれ。……でもまあ、あんたの話を聞いてたら記事に書く作り話が浮かんできた。助かったよ」



 早々と車の元まで辿り着いた男は、過ぎた時間を惜しむように腕時計を確認しながら頭を掻いている。



 ひどい勘違いだった。康弥とはまるで違う。



 悪い人ではないのだろうが、自分にとって利益にならないことにはほとんど興味が無い。



 「じゃあな、頑張れよ」



 最後に言い放った男はもうこちらを向くこともなく、運転席側のドアを開けて車に乗り込んでしまった。



 駄目だ。



 安っぽいエンジン音が発し、男が車のキーを回したことを伝える。



 このままあの人を行かせたら、駄目だ。



 エンジン音が空気を揺らす中、新は残された力を振り絞って、よろよろと立ち上がった。



 ここに座り込んだ時から、車を見たのはあの人の1台だけ。この機会を無駄にしたら、もう市街地まで達することなど不可能と思っていい。幸い自分は今、男の車の進行方向にいる。



 「待って下さい……!」



 ふらつく足を一歩一歩運び、車の前方を塞ぐように車道の中央で両腕を広げたまま直立する。



 「俺を、乗せて行って下さい!」



 図々しいことをしているのは分かっている。もし自分があの人の立場なら、相当面倒臭く感じるに違いない。



 だけど、それをしてでも、俺にはやらなくちゃいけないこと、行かなきゃならない場所がある。



 「そこをどけ!」



 窓を開けて顔だけ覗かせた男が苛立たしげに叫ぶ。



 「途中まででいいんです! お願いします!」



 「轢いちまうぞ!」



 「お願いします!」



 しばらくの間、男は車内で頭を掻きむしっていた。自己の内側の何かと戦っていることの表れなのか、葛藤がひしひしと伝わってくる。



 そして、不意にドアを開けて出てくるなり、ぶっきらぼうに言い放った。



 「あんたの為に寄り道はしねえからな」



 やっぱり、この人は悪い人じゃあない。



 「ありがとうございます!」



 途端に力が抜け、足もとのアスファルトにくずおれる。



 少しの間をおいて、安堵の溜め息をもらした新の元へ男が腕に何かを抱えてやって来た。

 


 「これに着替えろ。言っとくがあんた、かなり汚ねえし臭えからな。そのスウェットもどきの雑巾はそこらへんに捨ててけ。それが乗せる条件だ、安物なりに車は綺麗にしてんだよ」



 心からのものではなさそうだとしても、久方ぶりの他人の優しさが温かかった。



 手渡されたのは、黒い七分袖のTシャツと焦げ茶色のデニムパンツ。どちらも使い込まれた色の褪せ具合だ。



 「取材用の古着な。使い続ける車といらない服、当然犠牲にするならこっちだ」



 自分が着ているスウェットと生地を比べてみる。慣れてしまって――というより今まで気にする余裕自体が無かったが、並べるとそれはまさに雲泥の差だった。



 「着たんならさっさと乗ってくれよ。多分、あんたが行きたい場所よりも俺が帰りたい場所のほうが遠い」



 そそくさと車に戻って行った男の後を追って、香水の匂い漂う服に着替えた新は助手席側のドアへと向かった。目の前がゴールと思えば、まだ歩けないことはないみたいだ。



 「後で適当にシャワーでも浴びてもらう。シートに臭いがつくと厄介なんだ」



 ドアを開けて乗り込んだ新に、顔はフロントガラスの先に向けたまま、男が不機嫌そうな口を開く。



 車は外見と違わず内装も安物の軽、といった感じだが、それでも男の言葉通り細部まで小綺麗に掃除されているのがすぐにわかった。



 箱はあっても車中に灰皿が見当たらない所を見ると、車内では煙草すら吸わないのだろうか。



 何にせよ、この人はこうして俺を助けてくれた。そのおかげで、尚も道が閉ざされずに続いているんだ。



 「あの、本当に、ありがとうございます」



 「本当に俺から感謝されたいなら、今すぐ降りてくれよな。……まあ、元はといえば俺から首突っ込んだんだ、ある程度までは面倒見るさ。警察には行けない理由も何かしらあるんだろうし? 例えばあんた自身がちょっとやらかしちまった、とかな」



 男はそう言うやいなや、すぐさまアクセルを踏み込んで車を一息に発進させた。



 駆動音がその大きさを増すのに合わせて、窓外の風景がずんずん後方へと流れて行く。



 「で、どこまで行きたい? 通り道だったらその近くで降ろしてやれる。面倒に巻き込まれるのは御免だから、その場所までは行かないけどな」



 言いながらにやりと笑った男の横顔に隙の無さを感じつつ、新は勝手知ったる自宅付近の町を伝えた。

 


 「一応は通り道か……。わかった、その町の傍まで乗せてってやる。ただし俺には一つ用があるから着くのは順調に行って今日の夜中だ。それが嫌なら俺がホテル泊まってる間車ん中で寝て、明日の昼間まで待て」



 町に着いても動けない夜より、昼間に降ろしてもらえるのならそれが良いだろう。



 「分かりました、それでお願いします」



 この体にくっついた両脚で歩むつもりだった道のり。その何倍もの早さで移り変わる景色をぼんやりと眺める。



 そのまま沈黙してしまうことも出来たが、それもなんだか悪いような気がしてきた新は、男に他愛のない質問をしてみた。



 「……用っていうのは、あなたが記者をやっている雑誌の何かですか?」



 男がやや驚いたような顔を見せる。話かけられるとは思っていなかったようだ。



 「ああ、そうだ。都井って奴がいてよ、そいつの所に情報と交換で写真を貰いに行く。写真スタジオか何かやってるらしくて、雰囲気満点の良い写真をくれんだよ。あとその『あなた』っての気持ち悪いからやめろ。俺は的場 顕[マトバケン]だ。呼び方は『あなた』とかじゃなきゃ何でもいい」



 元々話好きな人なんだろうな、と新は感じ取っていた。こっちが投げ掛けた問いに対して、飾りをつけた答えで返してくれる。



 「それじゃあ、的場さん、もう一つ訊かせてください。今回取材されていたっていう噂、どんな噂だったんですか……?」



 少し前、的場の口からその取材について聞いてから、ずっと気がかりだった。



 訊いてどうしようという訳ではないけれど、事実と噂の間にどれほどの開きがあるのか知りたかったのだ。



 「ん? 『地図から消された村伝説』のことだな。もしかして、あんたも“そういうの”興味ある感じか?」



 的場が嬉しそうに白い歯を覗かせる。



 「まあ、話自体はよくある都市伝説だ。『昔から存在する、被差別身分の人々が作った法治の及ばない村……そこに立ち入った者は生きては帰れない』みたいなさ。ただ近くに心霊スポットも無いし、既に廃村になってるらしいのが専らの噂だから、こっちは劣化版犬鳴村伝説って所だな。もしあんたがそこから来てたんなら、俺の人生で一番の記事が書けたんだけどよ」

 


 やはり噂は噂。随分と端折られて伝わっているらしい。



 目の前にその都市伝説の真実を知る人間がいると知ったら、的場はどう思うのだろうか。



 「でも取材では、手がかりが見付からなかったんですね……」



 「その通り。嘘でも本当でも、何か一つくらいは見つかってもいいのに、それが今回は全くなかった。それこそ、逆に不自然なほどにな。……まあ、都市伝説なんてもんは大概作り話。事実が無いとは言わないが、そのほとんどが非現実への妄想と憧れから生まれたフィクションだ。俺だって毎回始めから期待はしてないし、記事にだって都合良く理由付けした空想を書いてる。実は結構人気あるんだぜ、俺の記事」



 再び笑みをこぼした的場の隣で、新は今度こそ口を閉ざして考え込んでしまった。



 証拠が見付からないということは、日本政府かEDAか、そういった大きな力が働いて情報を制限しているのかもしれない。



 少なくとも、機密に通じる情報を求め探していた的場でさえ何も掴めなかったのだから、一般人ならなおさらだ。普通の暮らしをしていて隠された存在に気付くことは、まず無いんだろう。



 そして的場の言葉通り、“都市伝説”という姿でわずかばかり表の世界に現れた真実への道も、その他大半の虚言に紛れて見えなくなってしまっている。



 確かに真実が存在していても、嘘とそれを判別できる“眼”を持っていなければ、意味はないのだ。



 “眼”を持つ者と持たざる者。俺は、どっち側の人間なんだろう。どっち側の人間になって行くんだろう。



 この世界は、本物?



 その答えが、他人の言葉を鵜呑みにして、自分で考え疑うことを放棄してきた脳味噌に導き出せるはずもなく、新は未だ緑の多く目立つ窓外を眺めたまま嘆息をついた。



 表と裏を行ったり来たり。もはや自分自身の色すら曖昧なのに、世界のことなんか認識できる訳がない。



 それでも、窓ガラス越しに見る広大な世界は、新の瞳に偽物の色を晒し続けていた。


 



 ※




 夜を迎えた空を地上から照らし、さらにはその夜空すらも覆い隠さんとする、人々の暮らしの寄り集まった幾本もの柱――屹立する摩天楼の間を縫うように走る道のひとつに、周囲の光を受けて艶かしく輝く1台の黒い車の姿があった。



 「白さん、本部からの連絡です」



 多種多様な車両が入り乱れる中をゆったりと進むその車の運転席で、喪服に身を包んだ運転手が後部座席に座る能鉢白へ向けて呼び掛けた。



 「例の執行人の動向に関しての報告のようです。イヤホンに繋いでもよろしいですか?」



 「構いませんよ。私が聴いているのは“音”であって曲ではありませんから。今度、あなたも聴いてみますか?」



 「いえ、遠慮させていただきます。以前同じ物を聴く機会がありましたが、音量と不協和音で耳が壊れそうになりました。電子音のようなパターンもあるようですがそれはそれで……。では、繋ぎます」



 (――こちら本部です。白さんから指示を受けて追っている灰島新の行き先について、最新の情報を報告します)



 白の両耳に挿し込まれたイヤホンから、鼓膜のある内部と同時に外部にも通信の音声が流れ出し始める。



 (山沿いに設置された歩道橋から乗用車での移動が確認された夕方時点での報告から、大きな動きはありません。その後田園地帯、コンビニエンスストア、コインシャワーと、監視カメラ等の映像からシステムが発見しており、現在は対象の居住していた都市から直線距離にして約70kmほどのビジネスホテル駐車場にて、車両と共に確認されています。運転手の男のみホテルへと向かったことから、対象は依然車内に残っていると思われます。何か、ご指示はございますか?)



 尋ねられた白は満足そうに微笑んだ。



 「いいえ、大丈夫です。そのまま追跡を続行して、明日の夕方までは行き先の報告をお願いします。灰島新の初仕事に関しては、私に任せて下さい。また、運転手の男についてももうしばらく様子を見ましょう」



 (承知しました。それともう一つ、報告があるのですが……。緊急性という意味では、こちらを先にお伝えするべきだったかもしれません)



 「何があったのですか?」

 


 (……1時間ほど前に色無村の管理棟から、膨大な数の監視カメラが次々と破壊されたと連絡がありました)



 「! それってどういう……」



 運転手の男が困惑した声を上げる。



 (急遽向かわせた宿直の構成員4名によりますと、第2入口扉が何者かの手によって爆破されており、内部では1号独房の執行人3名全員が殺害されていた模様です。もうひとり、2号独房の執行人1名は無傷でした)



 「侵入者には逃げられたのですね?」



 (申し訳ありません。現時点では侵入者どころかその残した足跡すら見付かっておらず……)



 「2号独房も含め、虱潰しに探せと伝えなさい。恐らく、私の予想する通りの侵入者であれば何かこちらへのメッセージを残しているはずです。私も明後日には村へ戻ります。進展があれば再度報告して下さい」



 (わかりました、それでは)



 報告の通信は、そこまでで途切れた。



 「白さんが村を離れた途端にこれということは、まさか……」



 空気を裂いて響いた白の高笑いが、車内にこだまする。



 「面白い、実に面白いですよ。そうですね、侵入者はおおかた私が村を離れる時を待っていたのでしょう。監視する者が監視されていたとは、滑稽な話じゃありませんか」



 「ですが、村の所在や監視カメラの配置を知る者自体ごく少数です。しかし今回裏切りだとか行方不明の報告は無い。一体外部の人間がどうやって……」



 「一人だけ、いるんですよ。外部に私たちの組織をよく知る人間が」



 「それは……本当なんですか? しかし、我々の情報を外部に持ち出した人間は、いつ何処へ行こうとも逃げ切ることなんて不可能な筈です。現に、その為の《白鳥》[S.W.A.N.S.(監視カメラ広域統合システム)]が、今も灰島新を追跡しているではありませんか」



 「そのシステムさえ掻い潜ってしまった裏切り者がいたとしたらどうですか?」



 「そんな、有り得ません……」



 「一方は僅かな可能性を辿って村を脱し、もう一方は贖罪が為に村へ戻って来るとは。やはり、よく似ていますね」



 車外の往来に向けられた白の紅い眼に、幾多の光とその色彩が入り込み、車体とはまた異なった鋭い輝きを放つ。



 「『有り得ない』とは、凡庸な人間にのみ当て嵌まる陳腐な言葉ですよ」



 運命がもたらす明日を捉えた瞳は、そこから始まる永い物語のごとき無常に染まっていた。


 



 ※




 (――全国高等学校総合体育大会ボクシング競技、ブロック予選第29競技、ウェルター級決勝戦の出場選手を紹介致します。赤コーナー、宮馬爽君――)



 決勝に進出を果たしたふたりのうち、一方の名前と学校名を呼ぶ女性の声がどこからともなく発し、天井の高い体育館に拡がってゆく。



 紹介された、赤いヘッドギアに赤いグローブ、赤いランニングシャツとトランクスを身に付けた選手は、体育館中央に設置された四角いリングへゆっくりと上がり、そして――。



 (青コーナー、名織康弥君)



 来たっ!



 すり鉢状に造られた観客席の遥か前方、リングサイドの部員たちが声を張り上げるのと同時に、科麻柚は観戦中の生徒や大人たちに紛れて精一杯の声援を送った。


 「名織先輩、頑張って下さい!」



 右隣の座席に座る美希も後に続く。



 声援がその背中まで届いたのか、落ち着いた様子でロープをくぐった康弥はこちらとリングサイドへ向け軽く片腕を上げて応じた。



 (――審判が、レフリー、中西。ジャッジ、奥原、中村、酒田、櫻井、山本。以上の6名です)



 アナウンスが響いたのはそこまでで、代わりにぴりぴりとした緊張感が立ち上がり、体育館の内部を満たしてゆく。



 両選手がセコンドと何やら会話を始め、会場もしんと静まり返った頃、リング上の動きを見詰めたまま美希が小さく口を開いた。



 「……先輩たちって、凄いですよね。いつも思うんですけど、なんて言うか、強いです」



 その声色には、自虐的なものが滲んでいる。



 「名織先輩だって柚先輩だって、毎日色んなことがあって忙しいはずなのに、ちゃんと前に進んでます。ここ何日か……お兄ちゃんが死んだと知ってからずっと、先輩たちは学校以外の時間を私の為に使ってくれていたのに、名織先輩はこうして大会を勝ち進んで、柚先輩も暗い顔ひとつ出さずに私を連れ出してくれて。それなのに私は……」



 すいません、と声もなく呟きながら、美希は力無く笑ってみせた。



 そうか。美希ちゃんはまだ気付いていないんだ。少し前まで、そんな強張った笑顔ですら作れなかったことに。そうして、ちゃんと前に進んでいることに。



 「謝ることなんて無いよ。もちろん私たちも寂しいし辛いけど、美希ちゃんは新の家族で、新の妹なんだもん。きっと、私たちよりもずっと大変な思いをしてるはず」

 


 美希はただ押し黙って、伏し目がちなその目をリングとの間に広がる空間へと向けている。



 「……それに、康弥はともかく私は全然ダメ。表ではこうやって格好つけてるけど、裏ではまだ新がいないことを認めたくなくて、ため息ばかりついてて。だから、私たちのどちらかが本当の意味で強いとしたら、それは康弥だと思うな」



 美希の曇った横顔に語りかけた柚は、再度その広い背中をリング上に見た。大きな四角形の中央に、康弥と対戦相手、レフリーの3人が集まっている。



 美希ちゃんは十二分に頑張っていると思う。前に進めていないのは、私のほうだ。



 こうしていつも、進み続ける康弥の背中をはるか先に見、現実を拒絶して同じ場所から動けないまま、私は今日まで生きて来てしまった。



 結局私には何も変えられず、どうすることもできなかったというのにだ。



 “現実を認めて次へ切り替えること”は、諦めることとは違うはず。分かっているけれど、それでも私は。



 「美希ちゃん、実は私ね――」



 続く告白を遮って試合開始を報せるゴングが鳴り響き、その余韻が残る中で、柚は吐きかけた言葉を心の内に棄てた。



 「……先輩?」



 多数の声援が再び飛び始める中、視線をリングとこちらの間で往復させながら、不思議そうに美希が問うてくる。



 「ううん、ごめん、何でもない。応援しなきゃね、応援!」



 言えなくなってしまって良かったのかもしれない。確証もなく、単なる一つの可能性でしかない要素なのだから、今も新のことを必死で乗り越えようとしている美希ちゃんからすれば、悪夢のような過去をただ蒸し返されるだけになる。



 「……この試合の名織先輩、準決勝までとは戦いかたが少し違う気がします。ボクシングのことは全然分からないですけど、こう、攻めあぐねてる、みたいな感じで」



 柚は、美希が口を開くのに合わせて、意識を目の前の試合に引き戻した。あのことは、ここで考えなきゃいけないものではないし、すぐに結論が出るものでもない。



 今すべきなのは、美希ちゃんの心を休ませ、康弥の覚悟を無駄にしないことだ。



 「確かにそうかも……。1ラウンド目だから様子を見てたりするんじゃない? って、私も全然詳しいこと知らないんだけどさ」



 「相手の人も強そうでしたからね……」

 


 言われてみると、美希ちゃんの言葉通り康弥はまさに「攻めあぐねている」ように見える。



 お互いジャブのように小刻みなパンチを打ち、防ぎながらリング上を動き回る光景は、準決勝までの康弥の試合ではあまり長い時間見られなかった光景だ。



 時折両者から放たれる力のこもったパンチも会場を湧かせるにとどまり、決定打にはまだ程遠い。



 柚は、いつの間にか先刻までのもやもやとした思案を置き去りにして、静かな、それでいて激しさをも内包した格闘に釘付けとなっていった。



 力と力、技と技、策と策がぶつかり合い、一瞬の隙が敗北へと繋がる闘争の世界――。



 と、大きな動きの無いまま、再度ゴングが第1ラウンドを打ち切って響き、柚は我知らず前のめりになっていた姿勢を小さな呼気と共に正した。



 「第1ラウンド、すごくピリピリしてましたね……。私、気が付いたら見入っちゃってました」



 美希が微かな笑みを浮かべながら口を開く。



 「ほんと、私も黙り込んじゃった。審判もまだドローが多いのかなあ」



 「そうですね……。どっちが有利になるのか、次のラウンドがちょっと恐いです」



 心なしか、美希ちゃんの表情がよりやわらかくなった気がする。



 とはいえ、さっきの会話は美希ちゃんに始めさせてしまった。もっと、私が積極的にならなくちゃ。


 「康弥はね、第2ラウンドで流れをつくる試合が多いから、次でエンジンかけてくるかも。あいつパワーあるから、うまくすればダウンも狙えるんじゃないかな」



 言いながら、柚はこれまでに観てきた試合を思い返していた。



 今回のような2分掛ける3ラウンドで決着がつく試合では、康弥は2ラウンド目から攻勢に出ることが多い。早い時では1ラウンド目のうちから攻めに回ることもあるが、序盤は様子を見るのがほとんどだ。



 逆に、素人の目にも分かるくらい切り替えがはっきりしているから、3ラウンド目に突入しても優位に立てない時は、苦戦を強いられていることの表れということになる。試合に負けるのは、大方そのパターンに当て嵌まった時。



 高校生の段階では、プロより遥かにKOなどの一発逆転が少なく、例え打撃力のある康弥といえども3ラウンド目だけで圧倒的な勝利を確定させるのは難しいのだ。

 


 「名織先輩としては、次のラウンドが勝負なんですね」



 1分間のインターバルが終わったのは、その美希の返答とほぼ同時だった。



 両コーナーから二人が立ち上がり、前ラウンドから引き連れた緊張感はそのままに、時計が第2ラウンド最初の1秒を刻む。



 始めの十数秒、戦況はあまり第1ラウンドと変わらず膠着状態にあるように見えた。しかし、その時間も長くは続かなかった。



 康弥がついに仕掛けたのである。



 手数のぐんと増えた康弥の見るからに重みのあるパンチが、繰り返し標的の身体を掠め、防御の腕を叩く。



 この試合始まって以来の展開にリングサイドからの声援も大きさを増し、ボディ、カウンター、といった指示の声も飛び始めた。



 ――けれど、どうもすっきりしない。



 幾度となく繰り出される打撃は次の瞬間にも標的を打ち倒さんとしていたが、なかなかその時が訪れることはなく、康弥の青いグローブが空を切る音ばかりが聞こえてくるようだ。



 パンチやフットワークを見る限り、調子が悪いようには思えない。準決勝までの康弥と変わらない、いつも通りの動きだ。ところが今、康弥の攻撃は相手選手を捉えていない、という事実がある。



 それはつまり、相手には火の点いた敵の攻撃をあしらうだけの力量と余裕があり、さらには、康弥がその手を緩めたならば替わって攻撃に打って出られることを示している、と考えていいだろう。



 これは、もしかすると、まずいかもしれない。



 じわりと汗ばんだ両の手のひらを、固く握りしめる。



 案の定、前に出る康弥を赤いグローブの選手はいなし続け、まともに入ったパンチは一発として見られないまま、無情にも第2ラウンド終了のゴングが鳴らされてしまった。



 ひとつ大きく息を吐き出す。美希もまた溜め息をついた後だったようで、横を見ると不安げな眼差しがこちらを向いて瞬いた。



 「まだ早いのかもしれませんけど、私、少し心配になってきちゃいました……。あまり、状況は良くないですよね」



 やっぱり、美希ちゃんも“嫌な予感”を同じように感じ取っていたんだろう。



 「あとは次の最終ラウンドでどうなるか、だよね……。相手がどれくらい攻めてくるのか、康弥があとどれくらい体力を残してるのか」

 


 「柚先輩も一緒に観た準決勝、相手の人すごい力押しの勝ち方してたじゃないですか。だから私、次は準決勝みたいな、かなりきつい攻撃がくると思うんですよ……」


 美希がもう一度小さな嘆息をつく。



 二人が険しい表情を並べて考え込む間に短いインターバルは過ぎ去り、とうとう第3ラウンド開始の時がやって来た。勝とうが負けようが、あと2分きっかりで一切が決する。



 「康弥ぁー! 負けるなー!」



 思わず叫んだ声援は、ゴングの響きと混じって体育館内の空気に溶けて行く。



 第2ラウンドの開始直後よりも一段と消耗したように見える康弥を視界の中心に見据えた柚は、またも身を乗り出して試合の動向に目を凝らした。



 最終ラウンドではあるが相手もすぐに猛攻を仕掛ける訳ではなく、序盤と似た不気味な時間が1秒、また1秒と流れてゆく……。


 だがその1秒後、赤いグローブの選手が数歩、足を進めた次の瞬間だった。



 その選手から高速の鋭い打撃が連続して繰り出され、内のひとつが、一手前の打撃を躱したところだった康弥の頭部を右側面から殴り抜いたのだ。



 言葉もなく、衝撃の一瞬に息を呑む。



 相手選手は、パンチの直撃のためわずかにふらついた康弥の隙を見逃さず、ここぞとばかりに攻撃を畳み掛けに入った。



 だめか。



 負けてしまうな、と柚は直感した。



 康弥は第2ラウンドでだいぶ体力を浪費してしまっているはず。試合終了までは耐えたとしても、このまま相手が主導権を握り続ければ判定で差をつけられることになる……。



 ところが、さらに1秒後、次なる展開が見せた光景は、柚の予想とは異なるものだった。



 相手にスイッチが入ったその一時こそ厳しい連打に圧倒されよろめいたものの、康弥は後方へ素早く下がって体勢を立て直しながら、守りの手薄になった相手めがけて反撃の打撃を浴びせにかかったのだ。



 それこそ、体力の面では下回るはずの第2ラウンドをも越えるほどの迫力で――。



 一息に激しさを増したリング上の激突に、リングサイドや観客席もこの試合一番の盛り上がりを見せる。



 今日は、今日だけは、絶対に負けられない。



 そんな心の声まで聞こえて来るような奮闘を目の当たりにした柚の心に、滾るようななにかが沸き起こってきていた。康弥の強さ、優しさ、覚悟、悲嘆、それらを背負った背中が生む、大きな大きな感動が。

 


 そこから先の試合は、序盤の静寂が嘘のような拳の応酬となっていった。



 両者共に重い打撃を食らい、また打ち込みながら、勝利を掴むべく残り少ない最終ラウンドを駆け抜けてゆく。



 柚には、汗の飛沫を散らす康弥と対戦相手の姿が、眩しいほどの輝きを放って見えた。



 ――俺は、俺が死ぬまで、新を信じるよ。



 時々、どこにもいない彼を励ますように康弥が呟く、決意の言葉。



 命のある限り、たとえ一方の肉体が灰になろうとも、自分だけは信じ続けるという、絆の言葉。



 今まさに、康弥は、私たち生きている者の選ぶべきありようを示し、康弥自身の選択を体現してくれているんだ。



 私たちは、前に進まなければならない。線を引いたように、すぐさまそう出来るかは別として、過去に起きたあらゆる事象は過去の自分に記憶させて、新しい自分で今この瞬間を精一杯、未来へと生きなければならない。



 問うべき人のいない今となっては勝手な解釈に過ぎないけれど、そうやって全てを過去としてしまうことは新に対して非道い行いなどではないと、そう思いたい。



 試合時間は残り10秒。



 柚はただひたすらに祈っていた。終了間際での優劣の印象は、ジャッジの判定に少なからず影響する……かもしれない。



 無論、残り時間が5秒を切っても、リング上の二人は互いに気を抜くことはなく、ついに最後のゴングが鳴らされるその時まで、執念すら垣間見える荒々しい打撃が止むことはなかった。



 リングサイドから早くも上がっている拍手の中、青コーナーへ戻った康弥は崩れるように椅子に座り込み、水分補給の為のスクイズボトルを口元で傾けている。



 ありがとう。



 柚は口中に呟いた。康弥のおかげで、少し世界が明るくなった気がする。



 うまくできるかはまだ分からない。それでも、まずは一歩踏み出してみようと思う。



 ずっと心の入り口に引っ掛かっていて、問題の難しさにペンを置いていた“宿題”にももう一回手を伸ばしてみて、解けそうなら終わらせてしまおうと思う。



 美希ちゃんに伝えるのはひとまず思い止まった。康弥は、一緒に解いてくれる?



 止まない拍手に包まれて、柚、そして隣の美希も唇を真一文字に結んで、判定の発表を待っていた。



 ボクシングの判定が決するのは、案外と早い。

 


 しかし、その短いはずの時間も、この時ばかりはひどく長く感じられた。まるで頭の先まで油にでも浸かっているかのようだ。



 無音。


 きっと、両者の健闘を讃える拍手喝采やアナウンスが体育館中に反響して飛び回っているのだろうが、柚にとって、その刹那は全くの無音だった。



 水を打ったような沈黙の中、白色のライトに照らされて、激闘を終えた拳がただひとつ、天高く掲げられる。



 青いグローブを嵌めたその拳は、眼前の世界に漂うわだかまりさえ全て吹き飛ばして、どこまでも真っ直ぐに伸びて行くようでもあった。



 偶然に見つけてしまった“宿題”――父を利用して、事件を再度調べるよう頼み込んだ結果、父は何も言わないけれど、公表されている事柄が真実とは限らない可能性があると判ってしまったこと――その釈然としない幻想さえも吹き飛ばして。


 



 ※




 ――携帯上だとこれが今いるコンビニだ。分かるな? で、地図を拡大すると……こうだ。ここがお前の行きたい街だろ? つまり、この目の前の通りを北へずっと進んで行きゃあ、勝手に目的地到着ってわけ。微調整は標識でも見てやってくれ。



 ――わかりました。あ……あとこのパーカー、お返しします。上着まで貰う訳にはいきませんから。



 ――んなのいいからさっさと降りて行け。一晩寝て飯も食ったんだ、街までの距離ぐらいもう大丈夫だろ。俺も千葉に人待たせてるからよ、少し急いでる。



 ――本当に、ありがとうございました! 的場さんが助けてくれたお陰でここまで……。



 ――分かったから、もう俺に話し掛けるなよ。何回も言うけどな、俺は得にならないことはしない主義なんだ。服を替えさせたのも、シャワーを浴びさせたのも、俺が損しないようにするためだ。他に理由なんて無い。



 ――それじゃあ、俺は行きます。お世話になりました!



 ――じゃあな、せいぜい死なないように頑張れよ。まあ、ちっとは楽しかったぜ。



 1時間ほど前に交わした会話。そのキャッチボールを、灰島新は繰り返し自身の脳髄に反芻させていた。


 

 進み疲れた脚を止め、顔の周囲から後頭部にかけてをすっぽりと包むフードの中から、住宅地とも市街地ともつかない中途半端な景色を見回す。



 正直なところ、一晩の安息を与えられたからといって、行き倒れになるまで酷使された身体が完全に回復するなどということはなかった。



 しかし、久しく触れていなかった他人の生の感情と、あとどれくらいだろう、見知った世界へと続いている足下の道、そのふたつの存在が今は確実に両脚を動かす力に変わっている。



 わずかに傾きつつある陽の光を網膜で受けながら、新は歩みを再開した。



 的場と別れたコンビニからはかなりの距離を歩いたはずだ。始めは広かった道幅も随分と狭まり、周囲には商店に替わってありふれた一戸建ての住宅が多く見られるようになってきている。



 街には、1年前まで住んでいた地域を内包して広がる南側から入るのだから、地図が間違っていた、なんてことがない限りそろそろ記憶に当て嵌まる地名やらが目に映ってもおかしくはないのだが……。

 


 時折横を過ぎる乗用車や周辺住民といった他人の目を気にしつつも、何か見覚えのある物がないか背伸びしてあたりを見回してみる。



 と、左半分の視界に映る建物の奥、一本隣の通り沿いと思われるあたりに、どこかで見たような色と形状のマンションを意識が捉えた。



 「行ってみるか……」



 この感覚の程度から察するに、恐らく身近にあったマンションではないだろうし、第一本当に見たことがある建物かどうかすらも定かではない。



 けれど、このままあてもなく歩き続けるよりは幾らかましな気がする。



 やや歩を速めた新は通りを横断して脇道に入り、隣の通りへ出るべく住宅の合間を抜けていった。



 やっとの思いでここまで来たんだ。足踏みなんてしている場合じゃない。



 身体に僅かな焦燥を纏わせて、黒光りする汚水のマンホールを踏み越えて行く。



 ところが、そんな焦りや不安、蓄積された疲労をも霞ませるような光景が、一時停止標識の先で新の両眼に飛び込んだ。



 視覚で受容した情報は爆発的な膨張を始め、それ以外の思考はみるみる内に認識の外へ押し流されていった。


 少なくとも、網膜が知覚した情報を大脳が理解すると同時に新は言葉を失い、息を呑み、その場に立ち尽くした。



 マンションの陰になった公園――その低い柵に囲われた中にある、街灯、遊具、ベンチ、桜の大樹。



 それはおよそ1年の時を経て再び視神経を刺激した光景であり、およそ4日間の逃亡によって辿り着いた場所であり、非現実のごとき村からおよそ150km、離れた世界でのことだった。


 



 ※




 負けなくて良かったな、俺!



 試合会場からの帰り道、とあるバス停に降り立った名織康弥は、ほんのり夕暮れの匂いに染められた空気を大きく吸い込んだ。



 試合の内容――とりわけ決勝戦に関しては手放しで喜べるものではなかったし、満足してはいけないと思う。



 けれど、柚や美希ちゃんの前で男としての意地を張り通せたのは気分が良い。今日見ることができたあの二人の笑顔は、きっと俺自身の成長にも繋げられるだろう。



 ずしりと重いエナメルバッグをぶらぶらと揺らしながら、バスの走り去ってゆく方向へ歩き始める。



 そのままバスに乗っていれば、間もなく柚がいつも使っている駅に着いたはず。自宅へはそこから一駅だから、体の休息を考えると、今とっている行動は少し効率が悪い。



 本来ならすぐにでも帰ってしまいたいと願う所だけど、今回に限ってはそうはいかない。効率なんかよりもずっと大切な、責任のようなものがこの先に待っているんだ。



 幅のある通りから、家々の間を縫うように走る路地へ右折した康弥は、もうじき視界に入ってくるだろうその場所で、どんな報告をすべきか熟考していた。



 やっぱり過去の出来事よりも、これからの決意みたいな感じのほうが自分の為にもなるかな……。



 3日前、美希ちゃんと別れた帰りに柚と訪れた時とはまた違った感覚がする。何と言うか、もうひとりの自分と対面しているかのようだ。



 ――新がもう同じ世界の何処にもいないなんて、未だに認められないし認めたくない。だけど時間は待ってくれなくて、あらゆる苦悩が、残された美希ちゃんを押し潰そうとしている。それならまず一つ、俺と柚ができることは、美希ちゃんを守り支えることだ。新が安心していられるように、俺たちで。



 それが、柚と来た時に伝えた話だった。その時は自分のことを深く考えていられる心境ではなくて、俺や柚については全く触れなかった気がする。



 だったら今日は試合の結果報告と一緒に、そういうような話を伝えるべきなんじゃないだろうか。

 


 将来の目標、その為に目指す場所、その為に今していること。



 この調子だと、公言するにはなんだか恥ずかしい話題まで思い付いてしまいそうだし、柚や美希ちゃんと別れて来たのは間違っていなかったかもしれない。



 数十分前に見た柚の顔が、瞼の裏に蘇ってくる。



 別れ際、何か言いたそうに口ごもっていたのがちょっと気になるけど、それは明日学校で会ったときにでも聞いてみればいい。なんなら夜にメールをしたってそれまでだ。接点の少ない美希ちゃんと違って、俺たちはいつでも相談というものができるんだから。



 それに何となく、柚と美希ちゃんはもっと言葉を交わしたほうが良いんじゃないかと思うんだ。男の俺なんかより、柚のほうが断然美希ちゃんに近い立場で話せるに違いない。



 「意味は違えど、一人の男を“好き”だった女同士……ってか」



 溜め息混じりにひとりごち、いまいち色恋に縁のない自分を顧みた康弥は、だんだんと姿を見せ始めた目的地にややその歩調を早めた。



 目的地――しだれ桜の公園までは、もう10メートルとない。



 新、今日も来てやったぞ。



 自己満足の湯船に肩まで浸かっている自分を感じながら、公園の入口に立つ。



 まあ、それでけじめがつけられるんなら、自己満足も悪くないよな?



 と、顔を上げて桜の大樹を見遣った康弥は、いつもの閑散とした公園とは少しばかり様子が異なることに気が付いた。どうやら今日は先客がいたようだ。



 公園の中央で細身の人物がこちらに背をむけて佇み、桜の太い幹に手を伸ばしている。歳は同じくらいだろうか? パーカーのフードを被っていて後頭部すら見えないから、何とも言えないのだけれど。



 不思議な感覚がした。その後ろ姿はなぜか、初めて見るものではないような気がしたのだ。



 どこか懐かしいような、切ないような……。そんな奇妙な感覚に囚われた康弥は、1年前、同じように手を伸ばしていた誰かの姿を十数歩ほど先の人物に重ね、無意識の内にその一歩目を踏み出していた。



 突然横に並んだりして、驚かせてはまずい。



 残り数歩と近付いた背中に、声をかけてみる。



 「……この公園、よくいらっしゃるんですか?」


 



 ※




 「この公園、よくいらっしゃるんですか?」



 「え? あ、ええと……」



 不意に背後から飛んだ声に言葉を詰まらせながら、灰島新は声のしたほうを振り返るべく桜の幹から目を離した。



 「いえ、今日はたまたまここに寄っただけ、で……」



 瞬間、身体中の細胞が叫びを上げ、跳ね上がった体温が血液を一滴と残さず沸騰させるのを新は知覚した。


 まさに一瞬、0コンマ1秒と経たないうちに、心臓が壊れんばかりに早鐘を打ち始める。



 なんで。どうして。なにを。どうやって。どこで。



 脳裏に浮かぶのは疑問詞ばかり。肝心なその先が嘘のように出てこない。



 それは目の前に立つ背の高い青年――名織康弥その人も同じらしく、無表情のようでそうでもない、何とも形容し難い顔を2秒ほど前から作っていた。



 時間が止まったと錯覚してしまいそうなほどの沈黙が、静かに流れて行く。



 そんな中で最初に言葉を発したのは、ただ口を開閉するのみだった新ではなく、異様な表情を崩さないままの康弥だった。



 「なんで……。なんでお前が、ここに」



 「それは……」



 「なんで、どうなってる? 有り得ないだろ、そうだよな? 有り得ない……だって」



 「実は俺、逃げ」



 「だって、新は、死んで……」



 そこまで聞いて、新はようやく自身の置かれている状況を再認識した。見知った人々の中での自分は、数日前既に死んでいるのだ。



 “灰島新”の生存。自分からすれば当然の事実でも、今となってはそれが、周囲にとっては「人類滅亡の予言」なんてものよりよほど有り得ない事象になってしまっている。



 康弥が受けた衝撃は、自分のそれとは比べものにならない大きさなのだろう。



 聞こえてくる言葉の中に、「夢」「幽霊」などと不穏な単語を耳にしてしまった新は、意を決して康弥の両肩を掴んだ。歓喜したり惑ったりするより先に、真実を説明する義務が、俺にはある。



 「康弥、聞いてくれ。……まず一つ、俺は死んでない。こうして生きているんだ。だから、いま目の前にいるのは夢でも幽霊でもなく、本物の俺だ」



 康弥は眉間に深い皺を寄せながら、ひたすらに黙して聞いている。



 「ほら、こうやって触れるし足もついてるだろ!? 康弥が今日どうしてここに来たかは分からないけど、それまでが全部夢な訳がないだろ?」

 


 「……けどよ、俺はお前の亡骸を見たし拘置所の説明だって聞いたんだぜ? 一から十まで何かの間違いだったって言うのかよ……」



 新はいつか白の言った言葉を思い返していた。その言葉を信じるならば、SF映画のように瓜二つのクローン人間で身代わりを、とはいかないはずだ。



 「その死体は、本当に俺と同じ顔をしてたのか? 同じ人間だってことを直に確かめられたのか?」



 「それは、ひどい火傷だったから、顔はよく分からなかったけどよ……。でも医者がはっきりお前だって」



 「多分他にももっともらしいことを言われたと思う。だけどそれは嘘だ、断言できる。現に、俺はこうして生きてる! 何ならキスでもしてやろうか」



 途端に康弥の顔の険しさが薄れ、がっしりとした身体が風船をしぼませるように縮こまってその場にくずおれた。



 「遠慮しとく……。そうか、こんな具体的な夢はおかしいし、こんな冗談を言う幽霊もおかしいもんな、そうか……」



 今度はなんだか泣きそうな顔になって、ひとり何かを呟いている。なんとか、現状を飲み込んでくれただろうか。



 「俺がなんでそんなことになってるのかって言うとな……」



 「悪い。ちょっと待ってくれ。もうちょいで頭が爆発しちまいそう」



 駄目だ、急ぎ過ぎている。康弥の立場になって考えれば、どれほど信じがたいことが起きているかなんて簡単に判ることだ。



 「ああ、そうだな……。ベンチにでも座らないか?」



 「了解。整理する時間をくれ、ごめん」



 そう言うと、康弥はエナメルバッグをずるずると引き摺りながら、ベンチの方向へ歩いて行ってしまった。



 「また、会えたんだよな」



 もしかしたら、俺はこうなることを心のどこかで望んでいたのかもしれない。だから、次の行動に移るでもなく、ついさっきまでこの公園に1人で……。



 一度は抑えた喜びや嬉しさが、再び込み上げてくるのを感じる。



 近付けば口が勝手に喋り出してしまいそうな気がしてならなかった新は、しばらくの間ベンチから距離をとって、康弥が落ち着くのを待つことにした。

 




 ――10分、もしかすると5分も経っていなかったかもしれない。思っていたよりも遥かに早く、康弥の脳内は整理されたようだった。



 桜の幹に寄りかかり、こちらもあれこれと思案していた新に、ベンチからお呼びがかかったのだ。



 「待たせたな。こっちに来てくれないか」



 先程までは身を屈め、頭を抱えるようにしてベンチに座っていた康弥が、今は少し力の抜けた様子で伸びをしている。


 いまいち丁度良い返事を思い付けなかった新は、内心何をどう伝えようか迷いながら康弥のもとへ向かった。



 「……よく見るとお前、かなりやつれてたんだな。拘置所で見た時よりも痩せこけてるし。すぐ気付けなくてすまねえ」



 そう詫びる康弥の左隣に腰掛けながら、返す言葉を考えてみる。康弥がいたのは、1年前に3人で座ったものと同じベンチだった。



 「いや、気にするな。死んだはずの人間が急に現れたんだから、そっちのほうが一大事だ」



 「そうなんだよな……。生きてるんだよな、お前。正直、まだ実感が湧かなくてよ。考えてる間、顔を上げたらまた元通りいなくなってるんじゃないかって思ってた」



 康弥は手のひらで顔全体を撫でながら、自らにも語りかけるようにゆっくりと言葉を続ける。



 「でも、どこからどう見たって、お前はちゃんとここにいる。それを否定するのは逆に不自然だ。……あ、勘違いするなよ? 俺は今、すげえ嬉しいんだ。だって、もう二度と話せないはずだったんだからな。けどさ、よく分からなくてさ……」



 本当に懐かしい康弥の笑った顔。「嬉しい」と言った瞬間に見せたその笑顔も、すぐさま割り込んだ戸惑いの陰に隠れてしまった。



 「さっき、少し時間くれって言ったじゃんか。けどな、俺の脳ミソじゃお前がここにいる理由がほんの少しも思い付かなかった。ただお前が死んでないことを認めるってだけで精一杯だったんだ……。だからさっき遮っちまった“理由”ってのをもう一回聞かせて欲しくて、すぐにお前を呼ぶことにした」



 新は既に、先刻の数分間で康弥に対する自身の在り方を決めていた。



 「ああ、分かった。俺が知っていることは全部隠さずに、何が起きているのかを話す。……ただ、その前に確認しなきゃいけないことと約束してほしいことがある」

 


 康弥が不思議そうな顔をする。



 的場の時とは違い、誤魔化すことはしないと決めた新ではあったが、そうすることの危険性は容易に推し量れることだった。毒草の芽は摘んでおかなければならない。



 「今から話すことは何から何まで、本来なら当事者以外知ることのない、知ってはいけない出来事なんだ。康弥にとって、今すぐ家に帰って全部忘れてしまうのが一番の選択かもしれないってことを分かっていて欲しい」



 「何いまさら言ってんだ、今日お前に会っちまった時点でそんなのは覚悟できてるさ。お前一人に背負わせるつもりはねえよ。で、『約束』ってのはなんだ?」



 康弥のやわらかな表情が、今はなぜかひどく胸を締め付ける。とある“気付き”が、自責の念を生み落とす。



 俺は“対等な友人として康弥を信頼しているから”言うのではない。



 “一人で抱え込むのが辛いから”“誰かに聞いて欲しくて”言うのだ。


 「俺から聞いたことを、身の回りの誰にも喋らないっていう約束だ。遺体偽装のことで察しはつくと思うけど、公的機関は敵と言っても過言じゃない。話が下手に広まれば、俺だけならまだしも話を聞いた全員がどうなるか分からない。だから、この問題が完全に解決するまでは、絶対心の中にしまっておいてくれ」



 「そういうことか……。よし、任せとけ。今度だけはしっかりやってやる」



 康弥の顔に笑みは残っていなかったが、眼差しは揺らぐことなくこちらを向いていた。



 「ありがとうな。じゃあ、始めから話していく。本当のこと言うとある程度は隠しておこうと思ったんだけど、よく考えたら康弥には簡単にバレそうだったからやめにした」



 「賢明な判断だな。俺はちゃんと聞いてるから、新の話したいように進めてくれ」



 康弥がゆっくりとベンチの背もたれに身体を預け、瞼を下ろす。



 康弥の優しさに甘えてしまっている卑怯な自分を顧みながら、新はひとつ息を吸い、口を開いた。



 「……何日か前、俺はまだ拘置所にいた。多分俺が死んだことになる前の日だと思う。そして、独房で寝ていた俺のところに1年前の事件の犯人がやって来た」

 


 「な……! どういうことだよ!?」



 目を見開いた康弥が、驚嘆の声を上げる。



 「あ、いや、悪い。続けてくれ……」



 「謝るなよ。それで俺は、その犯人たちの組織にどこかの山奥まで連れて行かれたんだ。よく考えてみると“拉致”ってやつだったのかもな」



 「……また口を挟むけど、そいつらは一体何なんだ? 犯人みたいな奴らがどうして拘置所に出入り出来るんだよ?」



 「俺も詳しくは知らないけど、名前はEDAって言って、それなりに力のある組織みたいなんだ。公的機関が向こうの味方ってことは、日本の政府と繋がっている可能性もある」



 「『EDA』……。略語か何かか?」



 「死刑執行人派遣協会……そう言ってた。そいつらの目的は死刑囚を拉致して、まだ捕まっていない殺人犯の所に送り込むことらしい。独自に動いている感じだったから、警察とはまた別の組織なんだと思う。俺が連れて行かれたのも、その“執行人”を監禁するための場所だったんだ」



 「……まだよく理解できてないけど、そいつらのやってること、矛盾してねえか? 殺人犯を何とかする為に殺人犯を偽装してどうすんだよ。いや、偽装しなければ良いって訳でもないけどさ……」



 「それは俺にも解らない……。何か理由があるのかもしれないけど、理由があっても許せることじゃない。現に俺は、こうして逃げて来なかったら今度こそ本当に死んでいたかもしれないんだからな」



 「そうだよな……。信じられないけど、お前、そんなヤバいことに巻き込まれてたのか」



 康弥は着々と橙色へ向かって行く空を見上げ、何事か考えを巡らせているようだった。こんな奇想天外な話、信じられなくて当然なのに、こちらの言葉をあくまで事実として聞いてくれているのだ。



 「俺が話せるのはこれくらいかな。……何回死ぬのを覚悟したか分からないけど、とにかく生きてここまで来れて良かった」



 上空を見上げたまま、ふいに康弥の表情に悲しげな色が混じる。



 「そんな“これで最後”みたいな言い方、するなよな。……これからどうするのか、それはもう決めてるのか? お前のことだから何かしら考えてあるとは思うけど」

 


 そう、真に伝えなければならないのは、今までよりも、これからについてだ。事実という重荷を康弥にまで背負わせておいて、黙って見てて、では済まされない。



 余計な心配をかけないためにも、必要なことだ。



 「これからのことは、確実な状態ではないけど一応決めてある。さっき康弥に口止めしたように、俺が巻き込まれた一連の出来事は、現実のルールに反するものだ。もちろん俺のことが、その罪を隠蔽しようとする奴らの耳に入ればまずいことになるけど、それより先に真実を沢山の人に知らせることができれば、いくら力のある組織でも言い逃れは出来ないと思う。俺は一度、死んだことにされてる訳だし」



 「でもよ、そんな発信力みたいなもん俺たちには無いよな。どうするつもりだ?」



 「……テレビの生放送だ。少なくとも俺には、それくらいしか思い浮かばなかった。ほら、夜の7時頃、駅前のほうで毎日短い生放送やってる番組があるだろ? 確かあれは周辺の何県かでは放送されてるはずだから、そこに割って入ってやる。映像を切られても、映りさえすればどうにかなる……そう信じたい。というか、いつ居所がバレるか分からないから、そうする他にやりようがない」



 無謀だと思ったのか、良い案だと思ってくれたのか、康弥はひどく驚いた様子だった。



 「確かに、俺にも他のやり方なんて思い付かないけど……。それに7時って、そんなに時間も無いじゃねえか! 今日、やるのか?」



 康弥が携帯の液晶画面を差し出してくる。16時13分、生放送が始まるまでおよそ2時間と45分だ。



 「ああ、今日やる。どのみち他に出来ることはないんだ、早く決着をつけたい。繰り返しになるけど、時間にも余裕は無いしな」



 「……歩きで行くのか」



 「そうする。人目に触れないに越したことはないし、別の手段も使いようがない」



 「もう、行くのか」



 「……ああ」



 俯く康弥から無理矢理に目を離し、新は一息に立ち上がった。これ以上同じ場所に留まるのは、どちらにとっても良くないことだと判断したからだった。



 「何か」



 俯いたまま、康弥が呟く。



 「何か、俺にできることはないのか」



 この期に及んでさらに甘える訳にはいかない。巻き込む訳にはいかない。



 「ならひとつ頼みがある。……食べ物を、買ってきてくれないか」

 


 康弥は顔を上げ、何かを言おうとした。しかし、その音声が空気を震わせることはついに無かった。



 「確かこの公園、ちょっと行くとコンビニがあったよな? ろくに食べられてなかったから腹と背中がくっつきそうでさ」


 「……任せとけ」



 その一言と共に、康弥の長身もベンチから立ち上がる。おそらく、答えの意味も理解してくれたのだろう。



 「お前身体疲れきってんだろ、無理しないでバス使えよ。すぐそこの駅前から街中行きのが出てる。バスならそんな人目にもつかないだろうし」



 「もう迷惑はかけられない。気にするな」



 「こっちはお前がそう言うの知ってて言ってんだよ……あ、そうだ」



 ベンチにのせたエナメルバッグの中に財布を探しながら、康弥が思い出したように声を上げた。



 「聞くのに一生懸命で、俺から言わなきゃいけないことをすっかり忘れてた」



 財布の中から五百円玉と何かを取り出してこちらに向き直った康弥が、手を出せ、とジェスチャーで合図をする。



 「まずはこれだ。お前に返す」



 開いた左の手のひらに、康弥の手から冷たく小さな何かが硬貨と共に落とされた。



 覚えのある感触、きっとそうだ。間違いない……!



 「お前が死んだってことにされた後、お前の母ちゃんから渡されたんだ。警察から返ってきたらしい。ネックレスのほうは、柚にしばらく預かっててくれって言われてな」



 「ありがとう。それと……すまない」



 懐かしい感触を確かめるように、シルバーのリングを右手の薬指、星形のネックレスを首元にそれぞれつけてみる。



 繋がりの証。全てを共有し、互いを識ることのできる人たちとの絆を示す、かたちあるもの。



 新は、失った時間でさえも取り戻してしまえそうな、あたたかな感覚に満たされていた。



 「五百円なんて唐揚げ串を1週間我慢すればそれでチャラだ、気にすんな。まだあるぜ……ほらよ、これも貰っとけ。データ化の時代に1年以上前のプリを持ち歩く俺、流石だろ」



 再び手渡された小さな長方形のプリクラの中には、数時間後から始まる苦しみをまだ何も知らない自分たち3人の姿があった。柚は今、どうしているだろうか。



 「柚にはお前のこと、言わなくていいのか」

 


 康弥のストレートな一撃が、虚をついて飛んでくる。完全に心を読まれてるな、これは。



 「お前が伝えたいってんなら、電話くらい今すぐにでもできるんだぜ」



 康弥は多分、俺が柚に会いたくて仕方ないことを分かって言っている。その上で、俺がどうしたいのかを聞いているんだ。


 

 「いや、いい。生放送のことが成功すれば、結局は知れることだからな。もし俺が失敗した時、その時は“生きていた”ってことだけを伝えてくれたら嬉しい。俺の家族にも同じだ。それ以上のことは、康弥に墓場まで持って行かせることになる」



 康弥は笑った。再会して初めて、以前と同じように。



 「分かったよ。人間、正直が一番だな! でも『失敗したら』なんて言うな。必ず帰って来い。お前が画面に映ったら、ありとあらゆる方面に問い合わせの電話を掛けてやるからよ」



 「頼んだ」



 「おう! お前が帰って来るまで、柚と美希ちゃんは俺が預かっとくから心配するなよ。こっちのことは気にせず行ってこい」



 財布だけを手にした康弥が一歩、公園の外輪へ向けて大きな足を踏み出す。



 新は思わず待ってと言いかけて、慌てて代替の言葉を自分に喋らせた。



 「借りパクするなよ、康弥の得意技だからな」



 「まあ、それはお前次第かなあ」



 また、また離れていってしまう。また独りになってしまう。



 歩みを止めることの無い康弥の後ろ姿はみるみる遠ざかり、既に公園の出口に近付いている。



 また会えるさ、すぐにだ。すぐに。



 「またなあ!」



 公園を出たばかりの康弥に向けて、新は我知らず叫んでいた。



 そう、「さよなら」じゃなくて「またね」なんだ。きっと、また会えるはずなんだ。



 康弥は片腕を上げて応じながら、マンションの先へと消えていった。確かに康弥は、行ってしまったのだ。



 康弥という存在を失った世界はたちどころに体積を膨らませ、6月にしては冷た過ぎる風を頬に吹き付けてゆく。


 この公園に辿り着く前、そして、的場に出会う前。たった独りの世界に立ち込める冷気は、こんなにも体の内奥を抉るものだったのだ。



 「こんなの、終わらせてやる」



 進み続けなければならない。そうしなければ、このふざけた世界に取り殺されてしまう。

 


 久方ぶりに生まれたように思える感覚を胸に、新は早足で前進を始めた。



 公園を離れても、路地の上を進んでいても、決して振り返ることはしなかった。



 路地を抜けたら広い通りに出る。通りを北に少し行けば駅に着く。駅前のバス停から街中へ向かったなら、もう全ての結末は遠くない。



 左ポケットの五百円硬貨を握り締め、胸元の星形を身体に押し当てながら、ただひたすらに両脚を踏み出してゆく――。



 ただの数秒後まで、その瞬間までは、新の行く手を遮るものなど世界には存在しなかった。



 目前に近付いた細い路地の出口、幅の広い通りの方向から、こちらへ左折して侵入してくる高級車が1台。



 艶やかなその車体に夕暮れ時の淡い陽光を受けながら、その車は新の真横につけるまでホイールを回し、緩やかなエンジン音と共に停車した。後部座席の位置にあたる場所にあるはずの窓はなく、井戸のようにぽっかりとした大きな空洞が穿たれている。



 「お久しぶりです。随分と休暇を楽しまれたようですね」


 車内からなめらかな声色で不快な言葉が響き、深い穴の底からプラチナブロンドの髪が覗く。



 「遅くなってしまいましたが、お迎えに上がりましたよ」



 黒光りするドアが忘れかけていた命の期限と同時に開き、するりと這い出した白の長身が屹立すると、その長い腕はさも当然のように車内の暗黒を見せ、客人を促した。



 ――終わってしまった。死神は抱いた希望を嘲笑うかのように訪れ、夢想はほんの一瞬輝いたきり、すでに霧散して形を成すことはない。



 不思議と感情が昂ぶる気配はなく、脱け殻のごとき肢体は諦念の中で微動だにせず立ち尽くしていた。



 「賢明な判断です。あなたに、私をどうにかできるだけの力も資格も存在しません」



 違う。動かないのではなく動けない。



 これは、恐怖よりもずっと理性的で簡易な論理によって誘発される、最も安全な挙動なのだ。



 そのはずなのに、この先に明るい未来が待つことはない。けれど、身体は完全に静まり返って奮い立つ気配もない。それなのに――。



 「わかってる……。わかってるから、早く俺を車に乗せろ」



 呟くように言葉を繋ぐ。白は少しの間をあけて、にやりと口元を歪めた。

 


 「そうですね、そうすることにしましょう。自殺は選びたくない、ということですね」



 伸びた白の左腕が右手首を掴み、放り込むように、車内へと体を導かれる。暗黒の淵に落ちて行く新の頭の中で、記憶の切れ端が現在と重なって蘇った。



 まただ。また同じ景色が広がってしまっている。ただひとつ、希望が残されていないことが、あの時とは違うのかもしれないけれど。



 「では出して下さい。宇野がいつ潜伏先を変えないとも限りません」



 左側で車のドアが閉ざされ、前方から運転手の応答が耳朶を打つ。



 静かに動き出した車体は、数分前までの希望に満ちた何者かを遥か彼方置き去りにして、断頭台への道程を進み始めた。



 何なのだろう。この心境は。



 一体何だったのだろう。先刻までの歩みは。



 「……ちくしょう」



 あるべき場所へ戻ったような、そんな感覚。



 安堵か諦めか、まとわりつく倦怠感を連れて来たその感覚が、全身をやわらかなシートに縛り付けてゆく。



 黒い窓ガラスの向こうへ眼球のみをすべらせた新は、通り過ぎて行く景色の中に桜の大樹を見、思いがけず体を捻ってその姿を追い掛けてしまった。



 「あの公園、いや、あの桜に、何か思い入れでもあるのですか」



 横に座る白が細く開いた口から言葉を流す。



 「だとすると、神はあなたの頑張りを見てはいなかったようですよ。あの巨木は、もうじき切り倒されるそうです」



 つい数秒前まではっきりと視界の中に在った桜の枝葉は、次々とせり出した家屋に隠されて見えなくなってしまった。



 「傍に集合住宅があるのは知っていますね? あの桜が切り倒されれば、日当たりは格段に良くなることでしょう。……念の為に補足しますが、このことと私共との間に一切関係はございませんので勘違いなさらないように」



 「そんな……」



 もとより弛緩し切った四肢が、物理的限界を超えて脱力しつつあるのがわかる。



 俺からまた一つ、この世界は奪い去ってしまうのか。何物にもかえられない、心のよすがを――。



 「さて、こうして執行人が無事に戻ったことですから、私たちもまた本来の業務へ戻ることにしましょう」

 


 白の一言に、そうか、と新は合点した。



 「以前にお話しした通り、私共がお迎えに上がった日、すなわち今夜、〈断罪〉が執り行われます。現在この車が向かっているのは、村ではなく“死刑囚”の潜伏先です」



 そうだ、今さら何を奪われようともそれは大した意味を成さない。俺はもうすぐ、下手をすれば明日を迎える前に、殺されて死ぬのだから。



 「最後の犯行からおよそ1週間、現在死刑囚はとある県の山中に身を隠しています。私たちの手の届かない場所まで逃亡される前に、罪を償わせなければなりません。また、これらの情報は独自に得たものですから、昨日やっと罪人の存在を知った警察の目に対する心配は無用です」



 窓外の景色と同様、ただ受け流しているつもりだった白の言葉に対し、一つ疑問が口を突いて出る。



 「……警察より先に犯行を知ったって言うのか?」



 「ええ、今回の罪人――宇野匡平[ウノキョウヘイ]は、些か特殊な立場にあるのです。いくらあなたや宇野といった、逃げる人間を探し出せる手段を保持していても、同じ方法で殺人の存在自体まで発見するのは難しい。通常ならば、警察から事件の情報がリークされると同時に罪人を探し始めます」



 「だったら、何で」



 そこまで口にして、新は我にかえった。そんな疑問、答えを得たところで、何にもならないじゃないか。自分を殺すかもしれない人間の身の上なんて、知りたいはずもない。



 「そうですね、彼について少しだけお話ししましょうか。宇野匡平という人物を知れば知るほど、〈断罪〉も行い易くなるでしょう」



 ふと、沈黙を恐れている自分に気付く。



 俺は、今から耳にする情報を知りたいとは思わない。けれど、声のなくなった空間から続く絶望への道筋、それを見たくないと思っている。そして、そこを塞いでくれる他者の声――白の声色に、安堵の感情を覚えてしまっている。

 


 「宇野は数年前まで、とある新興宗教団体との間にわずかながら繋がりを持っていました。その団体の手足として、見返りを貰うかわりに暴力的な恫喝等を行う役割を請け負っていたのです。宇野の過去を掴んだEDAは、雇い主の団体が消滅し信徒が分散した後も、その動向を監視し続けていました」



 窓ガラスに頭をつけて目を閉じた新は、何を考えるでもなく、鼓膜を震わせる宇野匡平という男についての言葉をただ黙して聞いていた。



 「そんな中で、遂に先日宇野は殺人を犯してしまったのです。EDAが警察に先んじて犯行を知ることができたのには、そういった経緯があります」



 太陽を失いつつある風景は着々と姿を変え、もはや住宅街の面影など無いに等しい。この体がまた、見知らぬ世界へと引き摺られて行く。



 「さて、それでは本題に入りましょう。宇野がどのような罪を犯したか、どのように命を奪ったのか、についてです。それを聞けば、憤り、または不快感と共に、あなたが果たすべき責務の崇高さや必要性を実感していただけるかと思います。車の中にいられるここからの数時間は、あなたにとって平常心を保てる最後の時間かもしれないのですから、有意義に過ごさねばなりませんね」



 固く瞼を閉ざした新は、現実と妄想の狭間をゆらゆらと漂っていた。



 白の声を聞き、テレビや新聞などよりもずっと詳細に語られ始めた殺人の鮮やかさに肌を粟立てる自分も、確実にいる。だけど、本当の自分、“生きている”自分は、今この車内にはいない。あの場所、桜の大樹のある世界に、置き去りにして来てしまったのだ。



 康弥は今ごろどこにいて、何をしているのだろう。



 何も起きるはずのないテレビ番組の生放送を、待ってくれているのだろうか?



 身体から引き剥がされてゆく熱を持った世界が、冷気の壁の向こうに瓦解しながら消えてゆく。



 銀のリングを指先でなぞった新は、鬱屈した空気の底で小さく鼻を啜った。



 

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