地図から消された村
新。起きて、新――。
ぼんやりと、柚の呼ぶ声が聞こえる気がする。
そうだ、今日は柚と康弥が来てくれるんだった。早く、起きないと。
あれ? でもなんで声なんだ? 起床の合図は放送で流れるはず……。
「灰島新。起きなさい、時間です」
徐々に本来の形を現した声は柚のそれではなかった。
中性的ではあるが男のものと分かる、不思議な響きを持った声だ。
そんなことを感じながら、ひとまず重い身体を起こす。
改めて声の主を探すまでもなく、起き上がった新の正面、鉄格子の外にその男の影は立っていた。
独房にも外光が届いているから、日中には違いないはず。今は、何時だ?
「すいません、起床時間を過ぎてしまいましたか?」
微動だにしない男の影に向かって問う。
逆光で顔はよく見えないが、服装から察するに看守の1人だろう。
「今日のあなたに起床時間はありません。さあ、ついて来て下さい」
感情の読み取れない声で全てを言い切ると、鉄格子の鍵を開けたその男は、滑るように歩いて壁の先に消えた。
「……待って!」
いつもなら目覚める筈の放送が今日あったとは思えないこと。
聞き慣れない声の看守が立っていたこと。
なぜか鍵が開けられ、出るように促されたこと。
いくつもの疑問が“あるはずだった今日”と矛盾し、互いに頭の中で絡み合っていた。
とにかく、本当に鍵が開いているのであれば追わない手はないだろう。さっきの男も、格好自体は何らおかしい物ではなかったのだから。
この期に及んで、なおも鉄格子の内に留まらせようとする理性をどこかへ押しやる。
立ち上がるついでにちらと独房の隅に目をやると、デジタル時計が15時過ぎの時刻を示していた。
こんな時間に独房を出て行う行動なんて、今日は絶対にないはずだった。
分かる。今この瞬間に、何かが変わろうとしている――。
鉄格子に駆け寄り、本当に鍵が開けられているのを確かめた新は、どきどきと高鳴る自身の心音を聞いた。
この選択が、どんな結末を運んで来ようとも構うもんか。
変えることができるなら。このどうしようもない閉じた世界に、ひとつ小さな穴を開けることができるのなら。
幾度も自分に言い聞かせる。何も間違ってない、これが今できる最良の選択なのだ、と。
鉄格子にかけた手に力を込めた新は、金属のひやりとした感触を両の手のひらに感じながら、それを力強く引いて開けた。
重い鉄格子の動くがらがらという音が、不気味なほどに静まり返った細長い廊下に響く。
鉄格子の外はこんなに明るかったのか。
風呂などのために度々外には出ていた筈なのだが、なぜだか今回だけは極端に世界が開けて感じられる。
独房からゆっくりと一歩を踏み出して廊下全体を見回すと、出入口のある方向とは逆の突き当たりを右に曲がるあの看守の姿が見えた。
「待って下さい!」
再び視界から消えてしまった看守の背中を追って、長い廊下を駆け足で走る。
今になって気付いた。今日はこの周囲の様子からして何かおかしい。
自分が独房に初めて入れられた時から、周りに他の囚人が拘置されているような気配は全くなかったが、今日のように看守まであの男以外には見当たらず、物音ひとつしないというのはあまりに不自然だ。
後ろへと流れて行く空っぽの独房を視界の端に見ながら、考えを巡らせる。
突き当たりまで走った新が右側に続く廊下に目をやると、またしても視界から消えようとしている看守の姿があった。
「追いかけっこかよ……」
口中に呟き、今度は左に曲がって見えなくなった背中をもう一度追う。
とにかくあの看守の後を追い、追い付けば、全てに答えが出る――そんな気がした。
ほとんど変化のなかった距離を次こそは縮めるべく、前にも増して強く床を蹴る。
新は、辿り着いた地点で看守と同じく左へと曲がった。看守の背中が見える代わりに、廊下の先で静かに扉が閉まる。
「……こっちは走ってるんだぞ?」
――角を曲がり、扉をくぐり、まるで他の人間から遠ざかってゆくようにその後もいたちごっこを繰り返すうち、新は3つ目の扉をくぐったところで全く趣の異なった空間に足を踏み入れた。
拘置所に来てからの約1ヶ月間で体力も随分落ちていたのだろう。上がった息を整えながら、ぐるりと辺りを見回してみる。
それまでの見慣れた拘置所の景色――コンクリートや白いタイルといった物は全く見えない。
木造らしきこの薄暗い空間に代わりにあるのは、ちかちかと明滅する蛍光灯や錆び付いた工具、ドラム缶など用途の分からない物ばかりで、ここだけを見ると山奥の倉庫にでもいるかのようだ。
扉ひとつ挟んだ先にこんな空間があるとは、囚人たちは誰一人として知らないに違いない。
小さく歩を進めた新は、確かにここへと通じる扉に消えたはずの看守を雑多に積み上げられたがらくたの陰に探した。ガソリンか灯油か、オイル独特の匂いが鼻をつく。
と、突然自分を囲む空間の外から車のエンジンと思われる音が発し、反射的に周囲を見回した新はある一方の壁に目を奪われた。
「あれって……」
すぐさま駆け寄り、単なる見間違いではないことを確かめる。
同じ木材で作られた壁と同化していて気付かなかったが、小さな扉の形にわずかながら外光が漏れていた。車のエンジンらしき音もこの向こうから聞こえる。
これで最後の扉だ。
なぜだか新にはそんな理由のない確信があった。
錆びた鉄製のドアノブを強く握り、思い切り押し開ける。
一瞬、眩しい外光に目を瞑ってしまった新だったが、徐々に慣れるとそれも沈み行く太陽が放ったやわらかな光であることが分かった。
その陽光と外界の景色を背に新を待ち受けていたのは、高級車なのだろう黒光りした平たい車と、制帽の影で顔の見えないあの看守――。
背後の扉と空間は裏口のようなものだったのだろうか? いつの間にか施設の端から外へ出て来てしまったようだ。
外とは言っても、未だ敷地内――拘置所の一部であることに変わりはないのだが。
「待っていましたよ、灰島新」
三度耳朶を打った声と、冷たい風がいっしょくたに新の身体を撫ぜて過ぎる。
とは言えやっとこの男に追い付いた。これで何かが、この逼塞した世界を変えることのできる何かが得られるはずだ。
走ったからではない。それとは異なった理由で心臓が高鳴っているのが知覚できる。
しかしその0コンマ数秒後、瞬く間に新の全身は絶望とも怒りともつかない薄暗い感情に飲み込まれていった。
「さあ、死刑執行の時です」
陽光を受けて輝くプラチナブロンドの髪が、ゆっくりと取られた制帽の中から現れ、その隙間から覗いた蛇のごとき切れ長の紅い眼が、微かな嘲笑を含んで新の両眼を見据える。
「新しい命のはじまりですよ」
※
「ったくどうなってんだよ……。な~んか、あの受付係の対応もそっけないしさ!」
ほんのり橙色を帯び始めた街並みの中、数歩前を歩く康弥が右手に掴んだバックパックをぶらぶらと揺らしながら不満げな声を上げる。
すぐ後ろにそびえる拘置所の施設を恨めしそうに見上げ、康弥は巨大なその建物に向かって下品な手つきをしてみせた。
「……変なことしないでよ」
今にも大声で何か叫び出しそうな康弥に念をおす。
ふと、康弥の身に迫る危険に気付いた科麻柚は、後ろ向きに歩く康弥の後方を指差しながらもう一度口を開いた。
「康弥、うし……」
「なら柚は悔しくないのかよ。新に会えなかったんだぜ? こういう時結構女って打たれ強アイタッ!?」
ごつんという鈍い音と共に背中から電柱に激突した康弥が、打ち付けた頭を抱えながら苦悶の表情を見せて呻く。
「言ってよ……」
「言ったのに康弥が無視して話し続けたの! 頭大丈夫だった?」
柚はふらふらとよろけながら前に向き直った康弥に尋ねた。
「う~ん、ただでさえ少ない俺の脳細胞の悲鳴が聞こえる……」
冗談を飛ばすあたり、頭は無事のようだ。
「てかやっぱり柚は冷静だよな。俺はそれが不思議で仕方ないよ」
今度は軽く振り返るだけにとどめた康弥が続けて問う。
「だって俺たちは面会したいって連絡もちゃんとしてたんだ。それが来てみたら『本日は既に弁護人の方が面会されたので申し訳ありませんが』っておかしいだろ?」
今日、数週間振りに早く学校を終えた柚は、康弥と共に電車を乗り継ぎ隣県にある拘置所までやって来たのだが、納得のいかない理由で門前払いを食い、こうしてすぐさま引き返すことになったのだった。
「確かにおかしいとは思うよ? 私も悔しいけどさ」
わずかに強まった語気を感じてか、康弥がやめたはずの後ろ歩きを再び始める。
「弁護人の人が面会したならもしかすると大事なことを話したのかも知れないし……私たちならまたすぐに面会できるでしょ?」
そうだ、またすぐに会える。今日会えなかったからといって、もう二度と会えなくなる訳じゃない。
自分にも言い聞かせながら、柚は先ほどぶつけた後頭部を掻きながら聞いている康弥の反応を待った。
「まあ、確かにな。……わかった、弁護人が何か良い報せを持ってきたのを信じて、今日のところは大人しくするよ。よく考えれば俺より柚が悔しくないはずないもんな」
康弥が冷やかしを口にする時特有の顔を見せる。
「いっつも言うけど、俺はまだ諦めてない。何かが見つかれば、新が犯人じゃない証拠が見つかればってずっと思ってる。だっていくら死刑が確定してても、犯人じゃない奴を殺す訳にはいかないじゃん?」
柚もまた同じ思いだった。だって、新が人殺しなんてするはずがないのだから。
「俺は俺が死ぬまで、新を信じるよ」
そう。だからせめて私たちだけは最後まで、他の全てが敵になっても新の味方でいたい。
学校では全国模試での知名度も相まって様々な憶測が生まれ、「恐怖のガリ勉殺人鬼」の存在を誰もが信じて疑わない。なぜか、疑おうとしない。
その人がどんな人物だったか。それをテレビや新聞の報道で全部知った気になって、非日常への入口に期待してしまうから、そんなことを平気で信じられるし、口にできる。
「ねえ、柚ってあいつと仲良かったんでしょ!?」
「やっぱりちょっとおかしい所とかなかったの?」
「何か変なこととかされなかった……? もう大丈夫だからね」
普段はとても安らぐはずの友人たちの顔も、この時ばかりはあまりの気持ち悪さに見ていられなかった。
――だから私は、生まれて初めて父の立場を利用するような頼み事をした。
私たちにはどうしようもないことでも、父の立場なら何とかできるかもしれないと思った――。
「お~い柚、大丈夫か?」
康弥が心配そうな顔で様子を伺ってくる。
「あ、大丈夫大丈夫!」
「あんまり考え過ぎるなよ? 俺みたいにプラス思考でね!」
歩きながら考え込むうちに、我知らず険しい表情になっていたようだ。
康弥はそう言っていつもと変わらない笑顔を見せるが、今回の事件の被害者の中には康弥の弟の同級生やその家族もいたらしい。私とはまた違った状況の中で、思い悩むこともある筈なのに。
「そうだよね。ありがとう……って康弥、うしろ!」
「え?」
なぜこいつはこんなにも後ろ歩きが下手なのか。
電柱への激突を挟んで2度目の後ろ歩きを続けていた康弥は、車の行き交う赤信号の横断歩道へ今にも踏み出そうとしていた。
「……!! やばいっ!」
すんでのところで踏みとどまった康弥の背中を掠めて、黒光りした高級車が走り去っていった。
「もう、何やってんのよ……」
泣きそうな顔でしょぼくれる康弥に駆け寄る。
「俺、今日から注意力を手に入れるまで後ろ歩きは封印しようと思います。もう少しであのお高そうな車を血で染める所だったぜ……」
濃さを増した橙色の冷めた空気に、過ぎていった車の残した灰色の排気が溶けて消えていくような気がした。
※
いつからか閉じられていた瞼を細く開けると、頭の寄りかかっているガラス越しに夕暮れ時の街並みが流れていくのが見えた。
柔らかい車の後部座席に座った身体をなめらかなエンジン音が包み、そして自分の左隣の座席には――。
「お前は……!?」
力を込めた途端、生まれた鈍い痛みがみぞおちの辺りを襲う。
「……なんでここにいる!」
その言葉は目の前にゆったりと座る白い男へだけでなく、自分への問いでもあった。
「まだ痛みますか。あなたが先程のように五月蝿いと、もう一度気を失うことになりますよ」
前方へ向けた青白い顔はそのままに、長い前髪の間から覗く紅い眼だけを動かして白い男が口を開く。
今はもう看守の制服を着ておらず、その中に着ていたのだろう全身黒一色の服に身を包んだ白い男は、いつか駅の構内で見た時から変わらず黒いイヤホンをし、切れ長の目をただ前へと向けていた。
「そうだ、お前らが」
全てを壊した。
後に続くはずの言葉が、喉元まで込み上げた怒りやら憎しみやらがごちゃ混ぜになった感情の塊に塞がれて消える。
こいつらがやったんだ。
あの事件も、裁判での証拠の捏造も、この車へ連れ込んだのも、俺の人生を狂わせたこと、全て。
なら、なんで俺が選ばれた?
頭の中の思考をぐるぐると回した灰島新は、その内の一つを行動として選びとるべく、必死に脳髄を働かせていた。
訊きたいことは山程ある。だけど、この人間たちと同じ空間にいることを身体中の全細胞が拒絶しているのが分かるんだ。
なら、またあの虫籠の中に戻るか?
第一戻れるかどうかも定かではないし、結局戻ったところで死ぬのを待つだけじゃないか。
確かに始めから――今日、ここにいる白い男の声で目覚めた時から、助かる確証なんてどこにもなかった。それなのに淡い希望を抱いて、告げられた「死刑執行」の言葉と行き先の分からない不安に、勝手に打ちのめされているだけだ。
なら、俺はどうすればいい?
完全に、八方塞がりだった。どの行動をとろうとも最良の選択肢というものは存在せず、一寸先には死が待っている。
「一体何なんだよお前らは!? 何で俺を選んだ? 何で俺を連れてきた!」
堰を切ったように、頭蓋の中いっぱいに溜まった澱みが開いた口から流れ出す。
すぐに答えが返ってくる訳がないと分かっていながらも、新は白い男の横顔をめがけてひたすらそれを吐き出し続けた。
ほんの少しでも前進した気になる為には、そうすることしかできなかった。
「俺はいつ殺される? この車は、どこに向かって走っている!? 俺は――」
不意に視界の外から長い腕が伸び、巨大な手のひらと蜘蛛の足のごとく細長い指が、口を塞ぐように顔の下半分を鷲掴みにする。
抵抗する間もなく新の頭は体ごと背後の窓ガラスに叩きつけられ、じわりと鼻の奥に拡がった血のにおいと激突の衝撃が五感を刺激した。
「もう少し静かにできませんか? あなたの知りたいことは全て、遅かれ早かれ私がお話しします。その為の移動時間でもあるのですから」
表情も顔の向きも一切変えることなく白い男が続ける。どんなに引き剥がそうと力を込めても、すらりと長い腕はびくともしない。
「せっかちなあなたの為に、早速話を始めましょうか。……そうですね、まずは私が名乗るべきですね。それが礼儀というものです」
そこまで言い終えて、白い男はようやく顔を掴む腕から力を抜いた。顔を鷲掴みにして叩きつけるのは、果たして礼儀を重んじる人間の選ぶ手段なのだろうか。
やっとのことで腕から逃れた新を尻目に、再び白い男の口から言葉が流れ始める。
「私は能鉢白[ノウバチマシロ]、死刑執行人派遣協会EDAの構成員です。私の役割は、あなたがた執行人に選ばれた死刑囚の皆さんを導き、管理することにあります」
新は数秒間ほど、白い男の言葉を日本語として理解できなかった。こいつは何を言っている?
「あなたは今回の事件で死刑判決を受けました。こうして選ばれた理由はそれだけです。今後あなたには、絞首刑などより遥かに世の役に立つ死刑を執行される人間として、日本の為、社会の為、正義の為、そしてあなた自身の為に、その命を使っていただきます。……たとえ、その罰せられるべき罪が、真実ではなかったとしてもです」
常に微かな嘲笑を浮かべている白い男――能鉢白の唇が、一層の嘲りを湛えて歪む。
その発言の意味を理解した刹那、新の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。
やはりこいつは、こいつらは、あの事件が偽りのものであることを確実に知っている。たった今、それを自らの口で認めたんだ。
そして、あの時と今の状況双方に存在し、両者を繋ぐことのできる人間はただひとり――この白[マシロ]とか言う男だ。
「やっぱりお前らが……! そうなんだろ!?」
白は肯定も否定もせず、うっすらと不敵な笑みを見せるのみだった。
「お前らなんかに……お前らなんかに、殺されるもんか! 降ろせ! 拘置所に戻れ!」
どんなに強く蹴っても、叩いても、恐ろしく強固な窓ガラスにはひび一つ入らない。
「降ろせ! 降ろしてくれよ……!」
「あなたはまだ自分の置かれている現状が理解できていないようですね」
ドアに頭をつけて嘆いた新は、背後から背中を震わせる冷徹な声を聞いた。この男の声は常にひやりと冷たい響きを抱えていて、あたたかみというものが微塵も感じられない。
「私たちはあなたをここで降ろすことも、拘置所まで引き返すことも一向に構いません。例えば拘置所に引き返したとしましょう。戻ったあなたに与えられる物は、食事も、独房も、何一つありませんよ」
振り向いた新をよそに、白が続ける。
「解りませんか? 既にあなたは今日、死んだのです。分かりやすく言えば戸籍上での死亡、つまり、表の社会にあなたはもう存在しません。あなたが生きていることを証明する物はひとつとして無いのです」
訳が分からなかった。
俺がもう死んだことになってる? 何勝手に殺してるんだよ。信じてくれている人もまだいるのに。会いたい人もまだ沢山いるのに。
「仮にここであなたを降ろしたとしても同じことです。あなたは金銭を持たないため遠距離移動のできる手段を持たず、もし誰かに助けを求めたとしても、最終的に辿り着くのは警察など公的機関になります。勿論その先には私たちの組織がありますし、こちらはあなたやあなたをかくまう人間を探し出す手段も持っています」
自ずと、このまま車に乗り続けること以外の選択肢が失われて行く感覚に打ちのめされる新の横で、首をわずかに動かした白が窓外の景色に目を向ける。
「確かこの周辺は、あなたの通っていた学校のある街でしたね。見知った人々を、あなた個人の不幸に巻き込みたくはないでしょう?」
白の一言に、目をきつく閉じてうなだれていた新は顔を上げた。
「ここは……」
今までなぜ気が付かなかったのだろう。
窓外には見覚えのある学校近辺の風景が広がり、橙色――というよりはもはや朱色と呼ぶべきその風景に、何本もの電柱が並んで長い影を落としている。
歩道を歩き、繰り返しの毎日を過ごす人々の中には、葱のはみ出したスーパーのレジ袋を手に持つ女性やジャージ姿で自転車を漕ぐ中学生、そして1年前まで自分が着ていたものと同じ制服に身を包んだ高校生の一団、それぞれの日常があった。
大切なものは、いつも失って初めて気付く。“何も変わらない”ことは、“何も変えられない”ことより遥かに幸せで、尊いことだったのに。
俺は、こんな所で何をしているんだろう?
ふいに、景色がぼやけて見えなくなってしまった。
ずっと見ていたいのに、死ぬまででも見ていたいのに、込み上げる涙で視界が塞がれてしまう。
「ここを通ったのはサービスなどではありません。ですが、今のうちに目に焼き付けておくのも良いでしょう。もしそう望むのであれば、あなたの制服を何らかの形でこちらへ回すことも可能です」
しばらく沈黙していた白の声が車内に響く。
「また、この車の目的地は表の世界には一切極秘の場所です。本来であればそこまでの道のりを、面倒事を避ける為にも見せるべきではありません。しかしあなたがいつかそういった行動に出たとして、後悔するのはあなた一人であることを忘れないで下さい。あなたの為にも大切な事です」
一連の言葉の最後に白が見せた嘲笑は、これまでの中で最も不快なものだった。
――どうやら、自分に選択する権利など始めから与えられていなかったようだ。
この後生きるのか死ぬのかすらも分からない。たったの一つも納得できることなんかない。
だけど、それでも、今自分はまだ生きている。生きたい、とは言えなくても、まだ死にたくないと思える。柚も康弥も家族もみんな、同じ世界のどこかで生きているのだから。
最後に残った、微かな希望にしがみついた新は、次々と生まれてくる感情を全て押し込めて、白に対して一つの問いを絞り出した。
「……教えてくれ、俺はいつ、どうやって殺されるんだ」
白が何かに気付いたように、それまでとはどことなく異なった嘲笑の失せた表情で答える。
「それはあなた次第です。細かい話は追々することになると思いますが、結論だけを述べれば執行人は1日で死ぬことも、寿命まで生き長らえることも可能です。死に方に関しては、極端な話、今この場で自殺するのも自由です」
事細かく問い質したい思いが頭の中で叫んでいるのが分かる。
その執行の方法とはどんな物なのか。生き続けることが本当にできるのか。できるとすれば、その為には何が必要なのか。
しかしそれらを矢継ぎ早に問い、先刻の二の舞いを演じるべきではないと判じた新は、いつの間にか止まっていた涙のあとを拭って次の質問を口にした。
「……もう一つだけ訊く。お前の言う『表の世界』で、俺の身の回りの人間と俺の死はこれからどう扱われる?」
少しの間を置いて、白が再び返答を返す。
「あなたの周囲にいた方々には、よほど特殊な事が起きない限り私たちの手が及ぶことはありません。そしてあなたの死亡についてですが、恐らく今日中には身代わりの死体を使った全ての偽装が完成し、御家族に連絡が向かうでしょう。容姿での遺体の判別を難しくするため、死因は焼死などが使われるはずです。少々強引ではありますが、看守の落としたライターを使ってなどと何かしらの理由を拘置所の方でこじつけて、且つ歯形や血液型さえ揃えてしまえば、案外と隠し通せてしまうものです」
確かに偽装と知っていれば無理があるように感じるが、それを公の職員や医者が行うとなれば話は変わってくる。焼死体になった我が子をまともに見られる親も、そうそういるとは思えない。
「だから面倒なんですよ。家族を残しての偽装は」
その言葉を最後に車内から人の発する音は途絶え、1秒、また1秒と、静かなエンジン音の中で引き延ばされた時間だけが過ぎて行った。
その間、白が自発的な動きを見せることは全くなく、新は不気味なほど変化のない白の表情を視界の端に見ながら、ただただ外の景色を眺め、頭に叩き込み続けた。
いつの日か、この足で帰ることができるように。その時に、決してチャンスを逃さないように。
――数時間は経っただろう。市街地や広大な田園の中を抜け、ひとつ峠も越えた車は、先刻から両脇に樹木の生い茂る山道へと入っていた。峠越えの道路までは点々とあった街灯の灯りも、今は完全に消え失せている。
舗装されていない道の上では、いくら高級車といえどもがたがたという揺れからは逃れられない。上下に細かく震動する窓ガラスが、輪郭のはっきりしない自身の顔を映していた。
こうして窓の外に延々と広がる真っ暗闇を見ていると、その奥に引き込まれてしまいそうな恐怖に駆られる。
いや、むしろ得体の知れない何かがこちらを見ているような感覚と言うべきか……。
全身の肌が一斉に粟立つのを感じながら、新はフロントガラスの向こう、頼りない車のヘッドライトに照らされた前方の山道に目をやった。
この先に、どんな苦痛が待っているのだろうか。
極力考えないように努めていたことだったが、沸き上がる恐怖や不安がそれを許してくれない。
「もう間もなく到着です」
しばらくぶりの白の声に虚をつかれつつも、落ち始めた車の速度を感じた新は、一層のこと前方の様子に目を凝らした。
「では降りましょうか」
白が扉に手をかける。
それと同時に車はゆっくりと停車し、白が開けた扉からは周囲の動植物からたちのぼる、山中独特の匂いを持った外気がびゅうと流れ込んできた。
淡い黄色を帯びたライトの光が照らす先にはいくつか看板のような物が見えるが、車内からでは書いてある文字まではよく見えない。
これが目的地なのか、それとも、このさらに奥へと進んだ所こそが――。
突然、自分の右にあった扉が開き、新は扉を開けた白に腕を掴まれると、強引に車外へと引き摺り出された。
「遅いですよ。ここから車両は進入出来ないので少し歩きます。ついてきて下さい」
いつ着たのか、初めてその姿を目にした時と同じ暗い褐色のロングコートを風になびかせながら、白がひとり進んで行く。
「……待て!」
車から引き摺り出された際に体に付いた、湿っぽい土や草を払いながら、新は数時間前と同じく白のすらりと長い背中を追いかけた。
もうここまで来たのなら、進むしか道は無い。たとえその道が、断頭台へ続く階段だったとしても。
すれ違いざまにちらと見た運転席には黒い喪服を着た男が一人、表情の無い顔を真っ直ぐ前へと向けていた。
「ここから先の一帯は、ご覧の通り間違っても一般人が足を踏み入れないよう、全域に渡って封鎖されています。このような地域の物理的な隔離は数十年前から全国で始まっていたので、航空写真など一般人の目に触れる物に関しては手を加えて隠蔽することが、今では暗黙の了解となっている訳です」
新から数メートルほど離れた所で立ち止まった白が、何かをポケットの中に探しながら目の前に現れた異様な光景の理由を語り始める。
「このことを下手に洩らしてしまえば、自分たちの身が危ないと知っていますからね。勿論、この中へ侵入してもそれは同じです」
車の停まった場所から幅のある獣道をいくらか進むと、先ほど車内から見えた看板たちが徐々に近付き、ヘッドライトを受けて浮き立つそれらが何を意味する物なのかも分かってきた。
が、異様と表現すべきなのは看板ではなく、その看板の貼り付く3メートルはあろう不自然に高いフェンスだ。
狭い夜空へと枝を伸ばす木々に隠れるようにして、忽然と暗闇から出現したそれは、錆か塗装か、赤茶色の姿で新と白の眼前にそそり立っている。その頂上部には拘置所と同様の有刺鉄線まであるようだ。
白の口にした「数十年前」の単語と看板に見られる錆の具合から察するに、このフェンス自体もかなり古いものなのだろう。
新は、乱雑に取り付けられた看板のひとつに手を触れてみた。
看板は大きい物から小さい物まであり、色も白や赤、警告色の黄色と黒など様々だが、みな一様に「この先に入るな」という旨を見る者に伝えている。
字体に言葉遣い、言語もバラバラで、一般的な標識を連想させる丁寧な日本語の文言があったかと思うと、英語などの外国語で書かれた文章もあり、赤いペンキで「ハイルナ」とただ殴り書きにされただけの看板もある。
それらはどこか陰鬱で禍々しい雰囲気を生み出しており、新はまた全身が総毛立つのを感じた。
「ここに見えている部分はほんの一角に過ぎません。柵は、向こう側の地域を囲む直径1キロメートルほどの円を描くように、途切れることなく設置されています。ただし、入口としての扉があるのはここと反対側の2ヶ所だけです」
白はそう語りながら、獣道から外れた木々の陰でポケットから取り出した鍵の束に目当ての一つを探している。
「……『向こう側』には、一体何があるんだ?」
新は身体中に纏わり付く不快感に、今にも震え出してしまいそうな声を懸命に制して白に問うた。
これまでも、自分の意思はまるでゴミのような扱いを受けてきていた。
それなのに、ここでまた奴らに見下される屈辱は死んでも御免だ。例えうわべだけの虚勢でも、もうこれ以上踊らされている姿を晒したくない。
「怖いですか。そうですね、無理もありません。良いでしょう、どのみち直ぐ知る事でしょうが教えて差し上げます。簡潔に言えば、向こう側にあるのは“村”です。曰く付きの、ですが」
そんな虚栄心など見透かしていると言わんばかりに、紅い眼がこちらを向いて嗤う。
「あとは進みながらお話しします。こちらへどうぞ」
白が促した入口は人ひとりがやっと通れるほどの粗末な扉で、ことに夜とあって完全にフェンスの一部と化しているように見えた。
ちくしょう。怖い。
でも、どんなに怖くても、行くしかない。
踏みとどまろうと抗う両脚になけなしの力を込め、早くも「向こう側」の暗闇に消えていった白の後に続く。
「空気が変わったでしょう。踏み入ってはならない場所というのは、得てしてそういう物です」
フェンスにぽっかりと開いた細長い入口をくぐると、草木が揺れる音も鳥が鳴く声も一斉に途絶え、新にその場が異常な空間であることを知らせた。
不自然なほど静まり返った世界に、自分の踏み出す足と背の低い草が擦れる音だけが響いてゆく。どこからかやってきたぬるい風が、木々の間をすり抜けて顔に吹き付ける。
人が立ち入らないせいか極端に狭くなった獣道と、より樹木が鬱蒼と繁茂しているように感じること以外はフェンスの外と何ら変わらない筈なのに、何かがおかしい。
ふと振り返った新には、目に映った入口の穴がひどく遠くにあるように感じられた。
「いくらも行かない内にこの森は抜けますが、続きをお話ししましょう。」
白はこちらの様子など見向きもせずに先へと進んで行く。必死について行かないと置き去りにされてしまいそうだ。
「『色無村[イロナシムラ]』、それがこの森を抜けると現れる村の名前です。江戸時代以前より、今なお部落差別問題などで取り上げられる被差別身分は存在していました。その被差別身分となった国民のさらに一部は、こういった人気の無い山中に外部との関係を一切遮断した集落を作ったのです」
そんな都市伝説のような村が同じ世界、同じ日本に実在しているというのか。いや、第一それが自分のこれからと何か関係があるのか?
「そうして全国にいくつか生まれた集落も、時が経つにつれて徐々に減っていきました。しかし、この色無村のように近代まで残り続けた集落もごくわずかながら存在したのです。数百年に渡って陸の孤島だったそれらには独自の慣習や規則、そしてそこで暮らす人々がありました」
「待て……それと俺の死刑に何の関係がある?」
度々進路を塞いでしだれる細い枝を腕で避けながら、ついに堪え切れず尋ねる。
「想像力の欠如した人間は嫌いですね。そこで私たちはそういった村のひとつに目をつけました。日本の行政記録や地図から完全に抹消されていたそれらの地域は、一般国民に存在を知られてはならない私たち組織が利用するには絶好の条件だったのです」
車中で白から聞いた、拘置所をはじめとする公的機関との繋がりといい、色無村のような機密事項を国と共有している事実といい、死刑執行人派遣協会――確かEDAとか言ったか――は、ただ頭のおかしい連中が作った矮小な組織ではないのかもしれない……。
「お前ら、まさか日本の政府と――」
「今現在、色無村に村民は数世帯ほどしか残っていません。私たちが使用するにあたって村自体を解体したからです。今後、あなたは執行の時をこの村で待つことになります」
新の一言を押し退けるようにして白が説明を終えた。丁度時を同じくして森の終わりが近付き、茂る木々の隙間から開けた空間が垣間見える。
「あなた方執行人の皆さんが死を待つための“特殊独房”が、ここ色無村にあるのです。村の両端にある独房のうち、あなたはこの森を抜けてすぐ目に入る2号独房に向かっていただきます」
死を待つ……。今すぐ何かが行われる訳じゃないのか?
多少心が軽くなるのを感じた新は、それでも白の吐く一言一言に対する疑問の数々が、不安となって頭蓋を埋めて行く感覚を味わった。
「そこの建物です。私は次の業務がありますのでたらたらしないでいただけると助かります」
最後の邪魔な枝を押しやり、おそらく白に色無村と呼ばれていた場所の土を踏む。新は一段と澱んだように感じる空気が、押し込めた筈の怯える心をざわざわと刺激するのを知覚した。
電気が通っていないのか、月明かりすら厚い雲に隠されて見当たらない夜の色無村は暗闇の底に沈んでいる。全体像を把握するのは昼間でないと難しいだろう。
ただ、雑草の生えた細い道が自分の足元から伸びていること、両脇には畑とおぼしき人為的に加工された地面が広がっていること、その数十メートル先に白の言う建物があること程度は辛うじて識別できた。
畑の土の匂いが漂う中を、白と共に特殊独房へ歩を進める。なぜだろう、息がするのが辛い。奇妙な圧迫感を感じる。
近付くにつれはっきりと見えてきた特殊独房の姿は、「独房」と聞いて想像していたものとは大きく異なるものだった。
木造なのだろうその建物は、例えるならば取り壊し寸前のアパートといった所で、2階へと上がる階段にのみ使われている錆びた鉄が、入口の看板と同じく風雨にさらされて来た年月を感じさせる。
夜の闇も相まっておどろおどろしい姿を見せるその建物も、目の前にすると大きさはさほど無いことが分かった。
こんな建物で、まだ人が暮らすことなどできるのだろうか。
呆然と立ち竦むうちに、白は早々と階段を上って行く。
ためらいながらも、ぎいぎいと音を立てる階段を上りきると、一列に並んだ部屋のうち奥から二番目の扉の前に白の姿があった。
「ここに至るまで随分と時間を食ってしまいましたが、ここの一室が今日から死ぬまであなたの居場所です。刑の執行を行う際には私がお迎えに上がります」
白の脇を過ぎて部屋の扉へ近付き、軋むそれをゆっくりと開ける。鉄製のドアノブについた錆のざらざらとした感触が右手に伝わった。
「元来この建物は私たちが村に関わるよりずっと以前に、村を外界と同化させる第一歩として、調査の為に国が建てた物です。その際には、ここに駐在していた役人が皆殺しにされた為計画は頓挫したようですが、現在でも電気や水道、ガスは通っているので安心して下さい」
言葉の節々がオナモミの果実の如くやたらとひっかかった。皆殺し? 安心?
中は真っ暗で数歩先も見えず、黒い世界に小さな窓だけがぽつりと浮かんでいる。
ここで暮らせというのか。人殺しのあった場所で。
「……ここで執行を待つのは分かった。どうせ俺が何を言ったところでこの部屋を使うのは決定事項なんだろうからな。だけど、俺はまだ一番知らされるべき執行の方法を聞いてない」
新は数時間前から延々こんがらかり続けている思考の中から、最も状況を好転させるはずの行動を選んだ。
無理にでも、既に自身を飲み込んでしまった濁流の存在を認め、行く先に広がる大海の彼方に一隻の船を探した。
「……教えろ」
たとえそれが何処にも見えなくても、虚無の空間から希望へと続く道を見付けるべく、ただひたすらに進み続けること――それが、この1年で壊れない為に作り出した、新の生きる術だった。
「私は言わずにいたいのです。できることなら執行の日までね。あなたが絶望して、勝手に自殺などされても面倒ですから」
白が一歩、新に迫るように足を踏み出す。
一瞬の沈黙ののち、白は新を見下ろし、また嗤った。
負けてたまるか。こっちはどんなに希望がなかろうとも、死を望まれ覚悟しようとも、今この1秒まで狂わずに生きてきているんだ。
それなのに、他者を見下し、命じるばかりのお前らなんかに舐められるものか。
俺は底を見た。人の精神が押し潰されずに辿り着ける、心の海の深淵を。これまで以上の絶望など、決してありはしない。
生きて、死んでやる。自分自身の手で。
「……いいでしょう。教えて差し上げます。今後数日のうちに、絞首刑に代わってあなたが受ける死刑、いや、あなたが執行する死刑は――」
絶望に底などない。そう知った瞬間だった。
※
峠を越えて続く街灯の少ない道を、一台の黒光りした高級車が走っている。
「……お言葉ですが白さん、執行人の彼にあんな焚き付けるようなことをして大丈夫だったんですか?」
ハンドルを握る運転手の男が、後部座席に座る人物、能鉢白に声をかけた。
「何のことです?」
「車でのことですよ。あれじゃあ、逃走経路を教えてやってるような物じゃないですか。わざわざ彼の見知った土地を通ったりして。確かに、『逃げても得はない』と話されてはいましたけど……」
時折擦れ違う対向車のヘッドライトを紅い眼で追いながら、白は口角を引き上げた。
「ああ、あれはね、面白いじゃありませんか。逆に言えば、ただ私たちの提供する絶望だけではつまらない。もし彼が今なお折れない意志を持っているのであれば、何か私たちを煩わせるようなトラブルを起こして、その報いとして自らの首を締めていただきたい」
運転手が小さな溜め息をつく。
「そのトラブルが、私は心配なんです」
「車の中でも話した通り、彼が起こし得る波風など私たちには水槽の中での出来事に過ぎませんよ。それが彼にとっては大きな犠牲になって返るのですから、私は面白いと言ったのです。そう言えば、先ほども彼にヒントを与えてきたばかりですね」
運転手の男が、軽く後部座席を振り返った。
「ヒント……。刑の内容を教えた、などでしょうか」
「それは先に彼から聞かれてしまいましたよ。〈断罪〉の話のみを教えても必要以上に追い込むだけなので、私は希望に形を変え得るある物を彼に渡して来ました。もっとも、彼がそれを私が故意に与えた物だと分かっているかは知りませんが」
運転手の低い笑い声が車内に響く。
「なるほど、白さんの考えていたことがだいたい理解できましたよ。そして気付いた、凡庸な我々とは全く別種の人間だ。本当に罰せられるべきなのは、白さんなのかもしれませんね」
「私は罪を背負うべくして生まれてきた人間です。そういう運命なのですから。そう遠くない未来、その罪には相応の罰を与えるつもりです」
白は走る車の遥か後方、色無村を隠して広がる山々を睨むように振り返った。
「彼も私と同種の人間ですよ。何処まで死なずに進めるか、実に興味深いです。覚えているんですよ、鎖川竜吾[サガワリュウゴ]を連行した時にも似たこの感覚を」
黒のグラデーションで塗られた夜空から飛来した雨粒が数滴、車窓にその体を散らしていた。
※
〈雨だれの前奏曲〉
そう表示された携帯音楽プレーヤーの画面だけが、明かりを消した室内にぼんやりと浮かんでいた。
ショパンの生んだ曲の中でも特に有名な前奏曲のひとつ――イヤホンを通して流れ込んでくるそのピアノのメロディの彼方に、本物の雨音が微かに混じる。
そういえば、夜は雨が降るって天気予報で言ってたっけ。
あの日と同じ、針のような冷たい雨が――。
小さなベッドの上で布団にくるまった灰島美希は、右耳のイヤホンを外しながらひとつ寝返りをうった。
この安いアパートに引っ越してからは、何となく以前の家よりも雨を近くに感じる。もし兄が帰ってきたら、同じことを感じるのかな。
“もし兄が帰ってきたら”
我ながら、未だ現実を受け入れられない自分に辟易していた。
恐らく、兄の無実が証明されることはないだろう。始めは正義の勝利を信じていたけれど、その後の1年がそんな物は夢物語だと教えてくれた。
当たり前に時は過ぎて行き、兄は妹の私よりも遥かに早くその生涯を終える。
それが、1年前に確定した運命だ。
もちろん、諦めるつもりは毛頭無いし、諦めてはいけないことも分かっている。
だからこそ、兄が本当にいなくなってしまうその前に、現実を一度認めなくてはならないんだと思う。
それはこのままその時を迎えてしまえば、その瞬間を境に私たち家族はバラバラに壊れてしまう気がしてならないから。
でも、不可能なのだ。
頭では解ったつもりでいても、もっと奥、自分を形作る人格の本能のようなものが、最後まで認めまいとして譲らない。
「ごめん」
私には、どうしようもない。家族を守れそうにない。
だから、お願いだから、帰ってきてよ――。
またひとつ寝返りをうった美希は、仰向けになって暗い天井を眺めた。
こうして、夜寝る訳でもなしに音楽を数時間ひたすら聴くのも最近は習慣になってしまっている。音だけに意識を向けることで、私は現実から逃げているんだ。
兄は、今の私を見たらどう思うのだろう?
命の継続を保障されていて、こうやって逃げることのできる場所もある。それなのに、逃げてばかりで現実と向き合えない弱い私を。
私は努力した。精一杯頑張っても、無理だったんだ。だから――。
「ごめん」
そう吐き出して、自分なりの結論を出した気になること。
自分を誤魔化すことばかり巧くなってゆく。
行き場の無い無力感だけが、天井と美希の間をふわふわと漂っていた。
〈乙女の祈り〉
次なる曲を音楽プレーヤーが無作為に選び出すと同時に、耳慣れた高音が鼓膜を震わせる。
祈り、か。
音楽プレーヤーの選曲には虚をつかれるから面白い。実は意思があるのではとさえ思えてくる。
何かを祈るのなら、今の私は自分の願いなど後回しにしてしまうだろう。祈るは兄の事件が冤罪と証明されること、それだけだ。
実際、その一点が全ての始まりだから、それが叶えば私の願いも大半が叶ってしまう。
そう、私の願い事――あの事件が発端となって起こったことの全ては、兄にはどうしても伝えられなかった。
投石や脅迫が絶えず引っ越しせざるを得なくなり、私も転校するしかなかったこと。
父の仕事が無くなり、今は母と共に安い給料でアルバイトのような仕事に就いていること。
そんな状態でも兄との面会は絶対に欠かさず、いつでも帰って来られるようにと、引っ越し先も以前の地域からそう遠くない町に決めたこと。
それらを一から十まで包み隠さず伝えてしまえば、間違いなく兄は自らを責める。自分のせいで家族を巻き込んだと、さらに心を追い込み、押し潰してしまうだろう。
私も父も母も、それだけは避けたかった。ひどくやつれ、見たこともない表情を浮かべる強化ガラスの向こうの兄に、これ以上の苦痛を味わわせたくなかったのだ。
兄も子供じゃない。もしかしたら、そんな状況だと分かっていて敢えて訊かずにいるのかもしれない。
だとしても、私は、兄の苦しみを考えたら口を閉ざす他なかった。
「ごめん」
今はそれしか言葉にできない。
こんな現実は消えてしまえと心の底から憎んでいるのに、自分には何一つ変えられない。もはや、何をして生きて行けばいいのかも分からなくなってしまった。
出口の見えない思考の迷路に迷い込み、それからも逃げるように両の瞼を一度きつく閉じた美希は、再び開けた目で音楽プレーヤーの画面の隅、現在時刻の数字に目を遣った。
「もう11時……」
リビングにいる母は何をしているだろう。眠くもないし喉も少し渇いたから、ちょっと様子を見てきてみようかな。
ベッドから起き上がって部屋の照明を付ける。久方ぶりの光が痛いほど眩しい。
考え込むのは今日はここまで、と踏ん切りをつけた美希は、耳からイヤホンを外して音楽プレーヤーごと布団の上に置いた。
飲み物は何が良いかな。太らないような物……麦茶、は嫌だから……ぶどうジュースってまだあったっけ?
無造作に置かれた音楽プレーヤーの画面には、まだ〈乙女の祈り〉の文字が消えずに残っている。
すぐに戻るつもりだった美希は、停止ボタンを押していなかった。
よし、決めた。ジュースがあればジュースにしよう。
そう決断し部屋の扉へ向かって歩き出す。
その時だった。リビングのほうから馴染みの甲高い電子音が響き、美希はわずかに心臓を跳ねさせた。
電話なんて、誰だろう? こんな夜遅くに。
電子音がぷつりと途切れる。母が受話器を取ったようだ。
――リビングに行くのは後で良いか。電話してるんじゃあ、行ったって飲み物を飲むだけになるし。
再びベッドに腰を下ろした美希は、ふと手元の音楽プレーヤーを視界に入れた。
〈別れの曲〉
どうやら、さっき見た直後に曲が変わっていたらしい。それも、〈雨だれの前奏曲〉と同様ショパンの楽曲だ。
プレーヤーから伸びたイヤホンを美希がまたその耳に戻そうとした刹那、不意にどたどたという足音が部屋の外で発し、音の響きやすい床板がその震動を足の裏にも伝えた。
母のものと思われる足音が部屋の前で立ち止まったかと思うと、扉がゆっくりと、かつ弱々しく開く。
扉のあった場所には、今はげっそりと青ざめた顔の母が立っていた。数時間前に見た母よりもずっと年老いて見える。
「美希……」
その声は今にも消えてしまいそうなほど小さく、震えていた。
「ど、どうしたの!?」
刻々と、壁掛け時計の針が恐ろしく長い1秒を刻んで行く。
顔をくしゃくしゃにして言葉を伝えんとする母の沈黙が、美希には永遠にも感じられた。
「美希……新が……」
さらに続けようとして果たせず、母がその顔を両の手のひらで覆い隠す。
膝から崩れ落ち、涙をぼろぼろとこぼし始めた母の姿を見、美希は直感的に何が起こったのかを感じ取った。
「え、嘘でしょ……?」
イヤホンから微かに流れ出るピアノのなめらかな旋律が、ちょうど楽曲の半分ほどを奏でた頃のことだった。