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ハッピーバースデー




 見慣れた広い校庭には、白い石灰で陸上競技用のセパレートコースが作られ、灰島新はそのスタートラインに立っていた。自分は一番内側のコースだ。



 走らなくては。



 そう判じた体がクラウチングスタートの姿勢をとり、白線ぎりぎりに両手をつける。



 ちらと右を見てみると、同じくスタートの準備をする選手たちがどこまでも並んでいる。



 最も自分に近いコースには康弥が、その隣には柚の姿がある。その先も友人や家族、親戚と、見知った顔が延々と続いていた。



 突如空気を震わせて弾けたスタートの合図に、並んでいた全員が一斉に走り出す。



 第1コーナー、第2コーナーと行くにつれ、先頭を行く新と後続との間に、徐々に差が開き始めた。



 次々と、最後尾から暗い影に消えて見えなくなり、ついには数えるほどの人数しか残らなくなる。



 いやだ。待って、待ってくれ。俺を置いて行かないで。



 新の足は止まらない。



 始めはすぐ隣にいた、柚や康弥までもが暗い影の深淵に沈み、走るのはたったひとり、新だけとなった。



 遠く背後にあったはずの影がゆっくりと迫り、視界の全てを覆い隠す。



 新は泣いていた。何も見えない中で、ひとりきりで走り続けていた。



 次の瞬間に踏み出した足の下に地面は無く、心臓を縮み上がらせた新のその手のひらが、虚しく虚空を掻く。



 どこまでも、ただ果てしなく続く穴の底に、新の小さな体は瓦解した地面の欠片と共に落ちて、なす術もなく飲み込まれていった――。





 06:52




 ――遠くで何かが鳴っている。



 なんだろう。鈴――?



 遠くにあったその音は次第に近づいて形を現し始め、こちらも鳴り出した携帯の目覚ましアラームと混ざり合って、毎朝恒例の不快な不協和音を奏でた。



 布団の中から腕を伸ばして、まずは携帯の電源ボタンを連打する。



 アラームを瞬く間に止められ、不満げに沈黙した携帯を離した後は、そのまま目覚まし時計へと腕を伸ばした。



 設定されていた筈のスヌーズ機能ごとアラームを絶たれた時計が鳴りやむと、早朝の自室に再び静寂が舞い降りた。



 「どんな夢だよ……」



 まだ覚えている夢を反芻しながら、体に滲んだ嫌な汗に気付く。



 あまり良い夢ではなかった。どうなってるんだ、俺の深層心理は。



 さすがに今日はもう寝る気が起きない。今日は教師陣の会議だか何だかで午前授業だし、さっさと面倒な学校は済ませてしまおう。



 カーテンを開けて初めて、新は、今朝は朝日がなかったことに気がついた。



 空はどんよりとした暗い灰色の雲に覆われ、今にも雨が降りだしそうだ。



 そういえば、天気予報で夜から雨が降るとか言っていたような。17歳の誕生日にこの天気とは、何となく幸先が悪い。



 そんな思考をまだ目覚め切らない頭でもてあそんだ新は、ぐんとひとつ伸びをすると、ベッドから降りて冷えきった床に足をつけた。 

 


 制服へと着替え、授業変更が無いことを確認しつつ、バックパックに必要な物を入れて行く。



 2階での準備を済ませて階段を降りた新は玄関にバックパックを置くと、洗面所での一連の支度を、まだ呆けた自分の顔と向き合いながらこなした。



 リビングに入る。窓から見える外の薄暗い景色が、新の気分を心なしか憂鬱にさせた。



 部屋には母しかいないようだ。ダイニングのテーブルでコーヒーを飲む母に、おはよう、と声をかける。



 「おはよう、今日は寝坊しないのね」



 「まあね。ふたりはもう出掛けた?」



 「そうよ、お父さんの仕事が今日は早くて、美希は学校で友達と朝勉強するんだって」



 母の言葉を聞きながら、テーブルに置かれた分厚いサンドイッチを頬張る。



 美希は受験生としてやる気を見せているようだが、今ある燃料はいったいどこまで持つだろうか。



 リビングの壁にかかった時計を見る。なかなか良い感じだ。



 歯磨きに突入した新は、いつ振りかと思えるほど久しく、朝のソファーに腰を下ろした。



 少しばかり早く起きれば何のことはない朝の準備だが、“できない人”にはその「少し」がどうしようもなく難しい。



 テレビでは朝のニュース番組が「今日のイチメン!」と題して、直近の大きなニュースを報じている。



 灰島家の朝のニュース番組は、バラエティでも見かける有名司会者がメインを務める番組で、その司会者の横で美人アナウンサーがニュースの原稿を読み上げていた。



 (――4月16日『今日のイチメン!』最初のニュースです。住宅地で自身の家族を含む多くの住民を無差別に殺害し、検察側から死刑が求刑されていた17歳の少年の裁判が行われていましたが、きのう、少年に一審での死刑判決が下されました。未成年の犯した犯罪に対する判決としては異例、また異例の早さでの判決となりました)



 映像が切り替わり、法廷の様子を描いたスケッチのような絵が映され、裁判の進行を解説するナレーションがテロップと共に流れる。



 歯磨き粉でいっぱいになった口をゆすぎながら、ナレーションを聞く。それによると、どうやら犯人の「少年A」は、最後の最後まで自身の犯行だとは認めなかったらしい。



 悪あがきもいい所だ。潔さが微塵も感じられない。



 映像が街の人々のインタビューへと切り替わる。皆口々に、安心した、恐い、といった主旨の言葉を口にしていた。



 本当に同い年の人間のしたことなのだろうか。同じ人間とは思えない。



 言うなれば、“怪物”か。



 「確実な証拠も出たんでしょ? 人を殺したなら殺したほうだって、相当の刑を受けるべきなのよ」



 ちょうど新の頭に浮かんでいたことと全く同じことを、お菓子の小袋を開けながら母が代弁した。



 映像は再びスタジオに戻り、幼い頃から画面越しに観てきた60歳か70歳程度と見える司会者が、評論の口を開く。



 (うーん……。ついに死刑判決となってしまいました。まだ若い少年がこんな犯罪を犯す、哀しいものです。……なんだかやるせないですね、渡邊さん)



 コメンテーターらしき人物が画面に映される。眼鏡をかけた小太りの男性だ。



 (そうですね……。最近はこのように未成年の犯す殺人であったり、無差別殺人などの凶悪犯罪が増えてきていますからね。今回の少年は友達とも仲良く付き合い、勉学やスポーツにも励む好青年だったようですが……注意が必要だと思います。この頃ではカルト教団の話題も絶えないですし)



 (……次はその話題のニュースになります。最近よく耳にする「アゾラ」という名前ですが――)



 ニュースは続いている。



 同年代の人間が関わり、同じ日本のどこかで起きた出来事に、心なしか興味をそそられた新だったが、自分とは無縁の世界の話、と割り切って学校へ向かうことにした。



 「いってらっしゃい、気をつけてね」



 背負ったバックパック越しに母の声が背中を叩く。



 確か今日は、康弥と柚が誕生日を祝ってくれると言っていた。午前授業ではあるが、帰りは早くないだろう。



 「いってきます、明日になる前には必ず帰るよ」



 冗談混じりに返し、玄関の扉を開け放つ。広がる灰色の景色が、滞留するぬるい空気を新に吹きかけた。



 扉の閉まる鈍い音を後ろに聞き、仄暗い世界に足を踏み入れる。



 新には、なぜか先刻の母の言葉の外に、あなたまで居なくならないで、と続いた気がしてならなかった。



 「……俺は居なくならない」



 主を見送り、洗面台にどこか陰鬱な影を落とす歯ブラシが1本、置き去られた世界の端で小さな音を立てた。





 07:47




 ――結局、駅に着く頃には、走ることなく登校できるぎりぎりの時間に達していた。



 康弥は先に行ってしまったのだろうか。それとも、また遅刻寸前の電車で登校か?



 背後からの不意打ちを心の端で警戒しながら、ホームへと続く階段を降りてゆく。



 長い階段の中腹に差し掛かったところで、自分とは逆に階段を上る一団から聞こえた会話が耳朶を打った。付近の私立中学校に通う女子生徒たちだろうか。



 「――ねえ、なんかさっきの気持ち悪くなかった? 降りた所のベンチに座ってた人」



 「あ! それ私も思った……。なんか外人ぽくない? 目は完全に危ない感じだったけど」



 「えっ、私気付かなかったんだけど! 見たかったなあ……」



 「多分まだいると思うよ? 髪とかめっちゃ真っ白で目立つし。……ほら、あそこ」



 真っ白?



 既にすれ違い、自分の後方になってしまった女子生徒の指した指につられて、新もまたその人物をホームに探した。



 なるほど、少し離れた所にある備え付けのベンチにただひとり、明らかに周囲とは“ずれた”雰囲気を纏う人物が見える。



 女子生徒の言葉通り、真っ白なプラチナブロンドの髪が、暗い褐色のロングコートに映えていた。恐らく若い男には違いないが、その顔はこちら側に流された前髪に隠れてよく見えない。



 心なしか、衣服や長めの髪の合間から覗く素肌も、全体的に薄い色をしているようだ。



 あまりに浮き世離れした風貌のためか、そもそもその男の持つ全く異質な本性のためか。そこにだけ異なる世界を嵌め込んだように浮き立っていた。



 長い両腕をベンチの背もたれに伸ばし、足を組んで座るその男に女子生徒たちも気付いたようで、遠ざかるその声から発した歓声とも悲鳴ともつかない賑やかな音が、背後から新の鼓膜を震わせた。



 あの男は日本人なのか? 無論どんな性格かは知らないが、世の中には色んな人がいるんだな。



 そんなことを思いながらホームに降り立ち、毎朝の定位置に並ぶ。



  (――まもなく、2番線に、下り列車が参ります。危ないですから、下がってお待ち下さい)



 響いたアナウンスと同時に、ポケットの中の携帯が、メールの受信を知らせる振動を新の体に伝えた。



 徐々に近付く電車の走る音を聞きながら、携帯を取り出して受信したメールを開く。康弥からだ。


 


 

 [Date] 4/16 7:51

    名織 康弥

  [Sub](non title)



今日は授業終わったら1階の掲示板前に集合な!


そして俺は今日も走って登校(笑)

 




 やっぱり先じゃなくて後だったのか。



 メールを読んだ新は、思わず顔がほころぶのを感じた。



 実際自分にとっても、いつもならばその「後」こそが正常な状態で、今朝のような状態のほうがよほど異常だ。現に、「後」にすら間に合わなかった回数なら、康弥を軽く上回っている自信がある。



 姿を見せ始めていた電車の車輛と、音楽でも聴いているのか頭をゆらゆらと揺らす、あの白い男の後頭部を後方に気にしながら、新は返信のメールを送信した。




 

    名織 康弥

  [Sub]Re:



了解!


先に行ってるぞ~(笑)

 


 


 送信の完了を知らせる表示が携帯の画面に映されるのと同時に、ホームに入った電車の先頭車輛が、新の眼前を速度を落としながら通過していった。



 ホーム内のあらゆる音を掻き消しながら停車した電車の扉がブザーと共に開き、新を先頭にした乗客の列が、降車する人々を待って動き始める。



 毎回毎回、よくもマーク丁度に合わせて停車するものだ。



 ふいに浮かんだ思考をもてあそびつつ、閉じた携帯を元のポケットへ戻した新は、最後に降りる乗客とすれ違うようにして、車輛に一歩を踏み入れた。



 座席は既に全て埋まっており、吊革に手をかける乗客も多く見受けられる。



 その間を縫って少し進んだ新は、つい先刻まで自分が立っていたホームの方向を向いて、吊革に指を通した。



 (――電車が発車します。ご注意下さい)



 発車時特有のメロディがアナウンスと共に耳朶を打ち、扉の開閉を知らせるブザーの先で、ホイッスルが甲高く響く。



 大きさを増したエンジン音に呼応するように、ゆっくりと動き出した車輛の中で、ふと、新はその顔を上げた。



 それは、刹那の出来事だった。



 そこに明確な理由は無い。網膜が窓外の景色を欲したのかもしれないし、それまでの首の角度に飽きただけなのかもしれない。



 ただなぜか、流れ行く2番ホームの景色のその一点だけに、新の見る世界は集約されていった。



 ――眼。にやりと歪んだ、紅い眼。



 絵の具のようなパステルカラーの赤ではない。その人間の内を流れる、血そのものの暗い色――。



 いつの間にか、より新に近いベンチへと移動した白い男の細長い眼が、確かに電車に合わせてするすると動き、新を舐めるように見詰めていた。



 紅い虹彩の奥、心ですらも飲み込まれてしまいそうな瞳の暗黒に、いつかこの手が掻いた虚空を重ねた新は、1秒、2秒と時が経つにつれて鼓動が加速して行くのを知覚した。



 すぐそこにいる、自分とは異なる世界を棲み処とする人間――。


 

 次の瞬間、突如として視界に割って入ったコンクリートの壁に弾かれ、釘付けになっていた新の目は久しく動いた。



 飴のように引き延ばされていた時間は、いつもと変わらない1秒を刻み始めている。



 駅のホームは既に遠ざかり、今は窓にうっすらと映った自身の両眼だけが、新を見詰めていた。



 ガラスに映ったその瞳はどこか虚しく、網膜に焼き付いたあの暗い瞳が鮮烈に蘇る。



 ――白い男は、嗤っていた。



 窓外には、太陽を忘れた灰色の街並みだけがどこまでも広がり、等間隔でやって来る細長い影が、過ぎ行く時間を数えていた。





 12:58




 学校の呪縛からいつもよりずっと早く解き放たれた生徒たちが、楽しげな表情を浮かべ、笑いながら、目の前を過ぎて行く。



 朝のメールで知らされた、1階の掲示板前にいち早く駆けつけた新は、知り合いが通りかかる度に繰り返す挨拶に辟易しながら、その往来を眺めていた。


 1階に、ホールのように広く取られたスペースの端、下駄箱近くに置かれた掲示板の前からは、様々な目的地へと向かう全校生徒が一望できた。



 誕生日だからといって、祝ってもらう当人が集合に遅れたんじゃあ、話にならないよな。



 ぐるぐると昼食を催促する胃袋の辺りをさすりながら、新は恐らく2人が降りてくるであろう、2年生教室に続く階段に、その姿を探してみた。



 少し幅のある階段には、教室に向かう生徒や、家路につくべく下駄箱へと急ぐ生徒など、特に同級生の姿が多く見える。



 しばらくして、制服に身を包み、革製の学校用バッグを持った柚が、遠目にも分かるポニーテールを揺らしながら階段を降りて来るのが見えた。



 1階のフロアに降り立った柚と目が合うのを待って、少し大きめに手を振る。



 柚もそれに応じて手を振ってくれはしたが、どこか様子がおかしい。目線も落ち着かないし、なんだか、やけに良い笑顔だ。



 様々な憶測が頭の中で膨らんだが、次の瞬間に首元で炸裂した不快感が、それら全てを吹き飛ばしていった。結局、「いつもの」じゃないか。



 粟立った肌を収めるように首元をさすりながら背後を振り返ると、例によって康弥の筋肉質な制服姿がそびえていた。表情はなぜか平然としている。



 「よう、新」



 いや、よく見ると口元だけが笑いを堪えるかのようににやついている。新は出かかった言葉を丸々要約して、康弥のその左脚に蹴りを一発見舞った。



 「分かった、分かったって! もうしないから、な?」



 絶対に分かってない。それはもはや確信というより事実だった。何より今の康弥の、とても嬉しそうな笑顔が証拠だ。



 「ごめんごめん、待った?」



 背後から柚の声が飛ぶ。振り向くとすぐそこに柚は立っていた。変わらず良い笑顔だ。



 「康弥がさ、回り込むだとか新の目を引き付けろだとか、色々うるさいから時間掛かっちゃった」



 本当に、柚がバランスを保ってくれている気がする。自分と康弥の2人だけではどうなることやら。



 大丈夫だよ、と柚に返しながらふと思い付く。



 「なんだよ、柚も面白がってたじゃんか」



 不服そうに言った康弥の言葉に柚は、まあね、と言うような表情を見せた。



 その柚の先刻からの笑顔が、全て自分に向けられたものであったなら、どんなに幸せだったか。



 新は、始めはまさにそれを期待していた自分が少し恥ずかしくなっていた。



 「おっし、時間も少ないしそろそろ動くか! なんてったって今日の主役は新だからな」



 ひときわ張り上げた声で、康弥が誕生日会の口火を切る。



 「まずはメシだろ」



 そう言いながら、康弥が1階ホールを横切って歩き出す。柚と新は後からその背中を追いかけた。



 「俺も柚も金欠だからさ、学食食べ放題で勘弁しろよな」



 半分振り返り、財布があるのだろう制服の尻ポケットを軽く叩きながら、康弥が笑顔で言う。



 柚も、ごめんね、と苦笑いでそれに続いた。



 今しかない。改まったようで少し気恥ずかしいが、直接言わなければ。



 「……ありがとう、な?」



 一瞬だけ、空気がその流れを止めた。少し言い方がたどたどしくなってしまっただろうか。



 「……まあ俺の誕生日になったら腹一杯ラーメン食わせてもらうけどな!」



 食堂へと向かう足は止めずに、康弥が憎まれ口をたたく。



 「それより、この後はどうするよ。まずはプレゼント買いに行くだろ? その次はカラオケかな……。せっかくだからプリも撮りたいし……」



 「だから先に決めてようって言ったのに……。康弥が考えあるって言うから計画立てなかったんだよ?」



 ひとり悩む康弥に、背後から柚が噛みつく。



 「考えならあるよ? こういうのは無計画のほうがドラマチックになるんだって!」



 呆れた、と言わんばかりに嘆息をついた柚が、静かに康弥の反論をいなす。



 「……それを考えてないって言うの」



 2人の言い合いは、食堂に着き、康弥が強引にまとめるまで続いた。



 「とにかく! 過去には戻れないんだから今を楽しもうぜ。今を生きよう、うん!」



 厚い雲の切れ間から束の間の太陽が力強く輝き、煌々とした陽光が昼下がりの食堂を照らしていた。





 20:40




 すっかり夜の闇に包まれてしまった住宅地から背後を振り返ると、たとえ小さな駅の周辺でも、こちらに比べると明るいのがよく分かった。



 うちの近くの駅も、こんなに明るかっただろうか。


 そんなことを思いながら、前方に続く住宅地と、ふたりの背中に再び目を向け直した新は、心配そうに柚に向けた口を開いた康弥の言葉を聞いた。



 「まさか、道忘れちゃったりしてない……?」



 学校の最寄り駅から、3人の自宅とは反対方向へさらに1駅――この周辺でもっとも多くの高層ビルが建ち並ぶ市街地での行動を終えた新たち一行は、今日一日の締めに、と柚の案内で「いい物」を探し歩いていた。



 つい先ほどまで背中を照らしていた、駅の灯りを挟んだ向こう側の住宅地に柚の自宅はある。



 それが理由で、柚は幼い頃から知っていた場所らしいのだが、その柚から「いい物見せてあげる」程度の情報しか出てこない以上、自分と康弥には目的地に何があるのか分かるはずもなく、ただ柚の道案内に任せるほかなかった。



 「ちょっとひどくない? 私だって家の近くの道くらい忘れない……はず」



 康弥の疑う言葉に、失礼ね、とばかりに柚が反論する。しかし言葉の後半が、消え入りそうなほどに小さくなっていたのは確かだった。



 「まあ俺達の家もここから1駅だけだし別に良いんだけどさ」



 きょろきょろと辺りの住宅やアパートを見回しながら康弥が返す。



 柚は基本的にはしっかりしているのだが、たまに抜けている所があるから怖い。今回の道案内がその落とし穴でなければ良いが。



 「それより、今日は結構歩いたよな!2人とも革靴だったから足疲れたんじゃないか? ……なあ、新」



 背後を振り返った康弥はそのまま後ろ向きで歩き出した。



 確かにそう言う康弥の足元には、ごつごつとしたボリュームのあるスニーカーが、街灯の少ない光を受けて白く輝いていた。



 「こんなに歩くって分かってたら、俺だってスニーカー履いて来たよ」



 半分笑いながら康弥に言う。



 カラオケと夕食を除く、ほとんどの時間を歩き続けた新の足の裏は、今この瞬間も固い地面と固い靴底による鈍痛に苛まれていた。



 「なんせ行きたいとこ全部行ったからな! カラオケも行ったしプリも撮ったし……。まあ、それくらいしか行ける所が無いのも悲しいけど」



 康弥が自虐的な笑みを浮かべる。



 東京や神奈川など、日本を代表する大都会にでも住んでいれば、遊びやデートに使えるアミューズメント施設も多くあるのだろうが、そうでない限りは少ない遊び場で工夫する他ないのが現実だ。



 「でも今日は悪く無かっただろ?婚約指輪も買えたしさ」



 言葉を続けた康弥が、ひらひらと顔の近くでその右手を動かしながら白い歯を見せる。



 「大事にしろよ?」



 新は、自分の右手の薬指に嵌まった、銀色に光る康弥からのプレゼントを改めて眺めてみた。柚とおそろいのシンプルなリングだ。



 数日前、プレゼントを渡す、との予告を受けてからというもの、様々なプレゼントの襲来を想定してはいたが、これは全くの想定外だった。



 元より、同性、特に男友達からのプレゼントにまともな物を期待するほうがおかしいが、ここまでレベルの高いボケを用意して来るとは思わなかったのである。



 そのかわりに、柚がくれたトップが星形のネックレスは素直に喜べたし、実はおそろいのリングも、自分にとってはそれなりに嬉しかったのだが。



 「……ああ、大切にするよ。あんまりつけられないけどな」



 新の言葉を聞いた康弥は、嬉しそうにいつも以上の笑顔を見せた。



 自分は間違いなく、この2つのプレゼントを大切にするだろう。全てを共有できる数少ない人たちとの、繋がりを示す証拠なのだから。



 「ほんと、つけられないプレゼントってどういうセンスなの? 何気に私のネックレスより高いし……」



 汚名を返上するべく、脇目も振らずに「いい物」を探していた柚が不満そうに呟く。



 そう言う柚の右手にも同じリングが光っていることに気付いた新は、悟られないようにこっそりと喜んでおくことにした。



 「まあ、俺の愛の勝ちってことだな!」



 この男、他人を困惑させるのが楽しくて仕方ないのだ。



 「多分そろそろ着くと思うんだけど……。ほら、あのマンションの陰になってる所」



 康弥を一切無視して続けた柚が、数十メートル先のマンションを指差す。



 なるほど、自分たちの右手にそびえるマンションのさらに先、ちょうど陰になっている場所に、公園だろうか、広いスペースが見えた。



 「あれって公園か?」



 正面に向き直った康弥が、暗闇に目を凝らすような挙動を見せる。



 「さすがにここまで来たら『いい物』が何か教えてくれても……」



 その先に続く康弥の言葉が発せられることはなかった。



 マンションの陰から現れたその姿に、3人とも一瞬ばかり呼吸を忘れてしまったのだ。



 「……なるほどね、これは読んで字の如く『いい物』だな」



 康弥が呟く。



 柚が今日一日の最後に、3人で見たかったもの――。



 それは満開に咲いた、樹齢数百年にもなるのだろう、しだれ桜の大樹だった。



 公園に入り、桜の木の全体が見えてくると、その幹がいかに太く、大きいかが理解できた。背丈は公園の街灯をゆうに超えている。



 公園の中心から少し外れた場所にただ1本根を下ろすその桜は、周囲の街灯に下から照らし出され、幾百、幾千の鮮やかな桃色の花々を、夜の暗闇に浮き立たせていた。



 「どう? ……少しは感動できた?」



 「「ああ……凄いな」」



 心配そうに尋ねた柚に、2人は全く同じ返事を返した。



 ごつごつとした幹に近づくにつれ、優雅だが力強いその“迫力”のようなものは増して行く。



 「あれ? でもさ、しだれ桜が咲くのってもう少し早くなかったっけ? 他のしだれ桜は3月の終わりには咲いてたような……」



 足下に散らばる桃色の花びらを踏まないようにするためか、奇怪なステップを踏みながら康弥が尋ねる。



 「そうなの。この樹だけは昔から一足遅く咲くみたいで、『遅桜』って呼ばれてるんだって」



 「へえ……。自分だけ取り残されちゃったのか。どれだけ綺麗に咲いても仲間の目には届かないって訳だな」



 良いこと言ったよね、と言わんばかりに、誇らしげな表情を見せた康弥を視界の端に見ながら、新は間近に迫った桜の幹に触れてみた。



 岩のように固い部分もあれば、驚くほど滑らかな部分もある。新は、祖父母の皺だらけの手のひらを思い出した。



 この桜は何百年もの間ずっと、仲間とは少しずれた世界を孤独に生きてきたのかもしれない。



 悲劇の主人公気取りで自分を投影するのは嫌だったが、どこか通じるものを感じずにはいられなかった。



 「おい、新! こっちにベンチあるぞ!」



 少し離れた所から康弥の声が飛ぶ。



 「帰る前にひと休みしてこうぜ。スニーカーでも足は疲れるからさ……」



 1つの長いベンチに、柚を真ん中にして3人で座る。女の子は守るもの、という理由から生まれたフォーメーションだったが、柚はどうも落ち着かない様子だ。



 「いや~今日は楽しかったよな! ……あ、そうだ!」



 今日一日で何度聞いたか分からない言葉を繰り返した後、康弥は何か思い付いたように、ベンチの暗い褐色の背もたれに向かってがりがりとやり始めた。



 「……私怒られたりするの嫌だからね」



 器物損壊の現場をおさえた柚が康弥を諫める。



 「やっべ、警察官の娘が横にいたか。俺このあと科麻本部長に捕まったりして」



 カッターを動かす右手は止めずに、康弥が怯えるような口調で返す。落書きに出動する警察本部長というのも少し面白いかもしれない。



 「……よっし、出来た! これくらいの大きさなら見逃してくれるだろ」



 康弥が背もたれから手を離すと、握りこぶし1つ程度の範囲に、日付と3人の名前が彫られているのが見えた。



 紙に書く文字ほどではないにしろ、意外と綺麗に削られている。



 この男、見かけによらず器用である。



 「新の“島”の字とかはさすがに彫れなかったけどさ、柚の漢字なんかはなかなか上手いだろ?」



 カッターの刃をぎりぎりと鳴らしながら、康弥が満足げに胸を張った。



 「……また、来ようね」



 少しの間をおいて、目は落書きから離さずに小さく柚が呟く。



 両脇に座る2人の男は目を見合わせると、同時におう、と頷いた。



 3人とも深くベンチに座り直し、再びしだれ桜の大樹を仰ぎ見る。



 「来年も再来年も、また見に来よう」



 新の言葉と共に吹いた夜風が、また桜の花びらをひらひらと散らし、3人の頭上に桃色の雪を降らせてゆく。



 静かに忍び寄る雨雲から最初の雨粒がひとつ、降り積もった花びらの絨毯に落ちて、音も無く消えた。





 21:44




 雨が降っていた。



 しだれ桜のある公園から駅へと向かう途中にも、顔に小さな雨粒が落ちることはあったが、電車を降り、この改札まで来て初めて、まともな雨に変わっていたことに気が付いた。



 柚はこの雨に振られる前に帰れただろうか。



 またね、と手を振って別れた柚の姿を思い返しながら、ふと思い付く。



 「あーあ、ちょっと桜の所で喋り過ぎたかな……」



 トイレを済ませて来た康弥が、恨めしそうに暗い夜空を見上げながら、新の横に並ぶ。



 新は康弥が用を足すのを、雨の当たらない改札口の傍で待っていた。



 「新、お前折り畳み傘持ってるか?」



 尋ねた康弥に、淡い希望を打ち砕く返答を返す。



 「そりゃそうか……。男らしく濡れて帰るしかなさそうだな」



 ちらと目を合わせた2人は、覚悟を決めて一歩を踏み出した。



 土砂降りというほどではないが、まだ冷たい春の雨がざあざあと2人の身体に降り注ぐ。



 「寒っ! こりゃ下手すると風邪ひくな……」



 2人の歩調は自ずと早まっていった。



 「――んじゃ、またな」



 いくらか歩いた所で、康弥と手を振って別れる。今考えてみると、康弥はいつもより少し“こっち側”へついて来てくれていたようだった。



 「風邪ひくなよー!」



 雨粒が路面を叩く音に混じって、遠くから康弥の声が新の鼓膜を震わせた。



 「康弥もなー!」



 自分も離れた康弥まで届くようにと返したが、次の声が聞こえることはなかった。



 おそらくこの雨だ。別れた後は走って家路についたのだろう。



 康弥のいなくなった帰り道は、雨の匂いも相まってどこか物寂しい。



 夜空を見上げても、月や星々は暗く厚い雨雲に隠されて見えず、少ない街灯の光を受けた雨粒が、一瞬流れ星のように煌めくばかりだ。



 自宅まではあと数分ほどだろうか。



 朝にやんわりと伝えてあるとは言え、帰りも遅くなっている。誕生日だからといって何かを期待する訳ではないが、さっさと帰らなければ。



 道路の端を流れる雨水の音を聞きながらそんなことを考えた新の脇を、ライトを点けた1台の軽自動車が通り抜けていった。



 こんな夜道で出くわす数少ない自動車は、人の存在を感じさせてくれるから好きだ。



 やはり何歳になっても、暗い夜道ではついつい背中のほうが気になって――。



 ふいに点灯した住宅の防犯用ライトが、虚をつかれた新を右側から照らし出す。



 その淡い光が濡れたアスファルトへ落とした影には、自分のものと、間近に迫る黒い影がもう1つ――。



 次の瞬間、すぐ後ろから聞こえた足音に気付いた時には、もう遅かった。



 振り向く間も無く長い腕に背後から押さえ付けられ、新の鼻と口は、湿り気のあるガーゼのような物で塞がれていた。



 力で抵抗することもできず、叫ぶこともできず、未だ言いようの無い恐怖を実感することさえもできずに、身体は両膝から崩れ落ち、周囲を埋め尽くす雨音だけが頭蓋で反響して思考を満たしていった。



 両膝を冷たい雨水が濡らすのを感じ、ゴムのように弛緩した両腕が垂れ下がるのを感じ、心臓が不可解な間隔で脈動するのを感じた新は、朦朧とした、消えゆく意識の中で、確かにその“声”を聞いた。



 「……今日からお前の時間は止まる。命は新たな段階に進むんだ」




 ――誕生日おめでとう、新。




 

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