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始業日

 



 小さな右手が、我が家の門を押して開ける。



 今日のサッカーは楽しかった。また康弥は泣いたけど。



 今日の晩ごはんは何だっけ? カレーだったようなシチューだったような……。



 玄関の扉に手をかけると、家の中から靴をはいた足音が聞こえた。



 自分がその扉を開けるよりも早く、制服に身を包み、不自然なほど大きな鞄を持った兄が玄関から出てくると、やけに驚いた顔で外に立っていた弟を見下ろした。



 「お……新か。……サッカー楽しかったか?」



 不思議なことを聞く。いつもなら帰ったことにすら気付かないのに。



 「うん。楽しかったけど……。兄貴はこれからどっか行くの?」



 しきりに家の中を気にするように、眼鏡の奥の瞳を動かしながら、兄が答える。



 「ああ。ちょっと先生の所に行ってくる。呼ばれてさ」



 「先生って、新しくなった先生?」



 「そう、菅野先生」



 そこまで喋ると、兄は急ぎ足で外の門を開けて出ていった。



 「いつ帰ってくるの?」



 最後にこちらを振り向いた兄に向かって問いかける。



 「あー、すぐ帰る! 聞かれたら母さんにも言っといて!」



 「わかった!」 



 それを最後に、兄の姿は塀の向こうに見えなくなった。そういえばカレーの匂いがする。



 玄関の扉を閉めると飛んできた母の声にただいま、と返し、靴を脱ぎ捨ててリビングに飛び込む。初秋の冷え始めた外気に冷やされた頬が、じわじわと熱くなってきた。



 「兄貴、先生に呼ばれたって言って出掛けたよ」



 キッチンでカレーの入った鍋をかき混ぜる母に言う。



 「都井先生に?」



 「別な新しい先生だって」



 「そっか、もう菅野先生だもんね。まだ慣れないなあ」



 現在、兄の高校の教師で担任でもある菅野雅人先生は、つい先日、前任の都井睦雄先生と突然の交代をしたばかりだった。



 「黙って出掛けたんでしょ、怒らないの?」



 母に尋ねる。



 「言えって言ったっていつも言わないんだから。もう諦めた」



 笑いながら母が答える。



 「悪いことさえやらなきゃいいよ。でも新は言いなさい」



 靴下を放り投げて飛び乗ったソファーに寝そべりながら、曖昧な生返事を返す。



 ふう、と一息ついた途端、急に頭をもたげた睡魔が、瞼を下ろした新を深い眠りの淵へと引きずり込んでいった。


 



 07:03




 ――遠くで何かが鳴っている。



 なんだろう。鈴――?



 遠くにあったその音は次第に近づいて形を現し始め、こちらも鳴り出した携帯の目覚ましアラームと混ざり合って、毎朝恒例の不快な不協和音を奏でた。



 布団の中から腕を伸ばして、まずは携帯の電源ボタンを連打する。



 アラームを瞬く間に止められ、不満げに沈黙した携帯を離した後は、そのまま目覚まし時計へと腕を伸ばした。



 設定されていた筈のスヌーズ機能ごとアラームを絶たれた時計が鳴りやむと、早朝の自室に再び静寂が舞い降りた。



 朝が来てしまった。春休み中も部活やアルバイトがあったとはいえ、やはり久しぶりの通常授業は気が重い。



 春の冷たい空気から逃げるように布団にくるまった新は、まだはっきりと目覚めない頭で考えてみた。



 今から準備して30分から1時間。駅まで走って10分。電車に揺られて15分。駅から走って5分。



 かかっても大体1時間と少し。そして今は7時過ぎ。登校時間はいつも通り8時半だから――。



 微妙にまずい。高2の初日から遅刻は嫌だ。しかしまだあと10分ほど、この冷気から逃れられないこともない。



 これもまた毎朝恒例の葛藤を繰り返した新だったが、次に気がついた時には手遅れになることが経験から予測できた。



 体を起こして、ベッドの横についた窓のカーテンを開け放つ。



 体の芯まで冷やしてゆく春の空気とは裏腹に、暖かく眩しい朝日がゆっくりと目覚め始めた全身を照らした。



 ここからは無心になろう。



 そう決めた新はぐんと伸びをすると、ベッドから降りて冷えた床に足をつけた。



 制服へと着替え、机上に散らばる勉強道具をバックパックに手当たり次第詰め込んでから、階段をかけ降りる。



 バックパックを玄関に放り投げた新はそのまま洗面所へと向かい、洗顔から始まる一連の動作をぱっぱと済ませた。



 リビングに入る。窓から入り込んだ、きらきらと輝く陽光が部屋全体を満たし、とうに始まっていた朝を新の目にも伝えた。



 朝食の食器を洗う母と鏡に向かって髪型を気にする妹、朝刊を流し読みする父、そしてテーブルに一人分だけ取り残された冷たいピザトーストが新を出迎える。



 おはよう、と誰に言うでもなく呟いた新は、それぞれ返ってきた返事も聞かずにトーストを口いっぱいに詰め込むと、脇に置かれたコップ一杯の牛乳で、驚異的な粘りを見せるパンの塊を流し込んだ。



 瞬時に空となった食器を下げる流れのまま、コップと歯ブラシを手にとった新は、迅速かつ念入りに歯を磨いていった。



 「もっと早く起きればいいのに」



 やっと足がひとところに落ち着いた兄を見てか、顔は鏡に向けたままで妹、美希が呟く。



 言葉を返そうとして、もごもご唸るだけとなった新は、口をゆすいで反論した。



 「疲れを中学生と一緒にするな」



 大口を開けて目薬をさす兄に、再び美希が声を上げる。



 「私受験生なんですけど」



 「それも今月からだろ」



 なおも上がった反論を背中に受けながら、玄関に転がるバックパックを背負ってローファーに足先を入れる。



 「いってらっしゃい」



 聞こえた母の声に応えた新は、重い玄関の扉を開け放つと、暖まり始めた朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。



 駆け足で外の門から飛び出す。なぜかここに来て、今日見た夢の断片が脳裏を掠めて過ぎた。



 あの日、兄貴もこうしてこの道を通ったのだろう。



 バックパックを右肩にだけ預けて、駅への道を駆け足で走る。十字路が現れる度、ここで兄貴はどの道へ曲がったんだろう、と考えてしまう。



 何回も見せられた夢だったから、不快に感じることはもう無い。だが、あの日――兄、灰島馨[ハイジマカオル]が忽然と姿を消した日の記憶は、拭いようのない喪失感を新に幾度も反芻させるのだった。



 花をつけ始めた桜の木々が、強く吹いた一陣の風にその枝を揺らしていた。


 



 07:56




 ――街中に比べればとても小さな駅に着く。白っぽいコンクリートが多く使われた駅舎は、伸びた線路で住宅街を分断するようにそびえていた。



 時間は思ったよりもだいぶ早く着くことができたようだ。余裕をもって起きられた日とさほど変わらない。



 アルバイトでこき使われた時間をためらいもなく吸いとって行った改札機を恨めしく思いながら、2番線の乗車口マークに立ち、下り列車を待つ。



 何か飲み物でも買おうかな、と思い付いたその時、背後から伸びた何者かの腕が鎖骨の脇、首の根元にできる2つのくぼみを同時に抉り、新は大きな呻き声を上げて飛び退いた。



 「おはよう、新」



 まだ鳥肌が残っている首元をさすりながら声のした背後を振り向くと、そこには見慣れた顔の短髪男が声を出して笑いながら立っていた。



 「やっぱりだめなんだな、そこ」



 出勤する会社員や登校する学生、その他大勢の視線を一身に感じたが、新は何も無かったような顔を作って、その男――名織康弥[ナオリコウヤ]の笑った顔に、何回言ったか知れない一言を返した。



 「やめろっていつも言ってるだろ。本当苦手なんだよ」



 「わかったわかった。悪い」



 絶対に分かってない。確信を持ちながら、いつの間にか軽く見上げるほどの背丈になってしまった康弥が続ける言葉を聞いた。



 「今日は遅刻しないのか?」



 「まあ初日だからな。次からは運まかせだけど」



 「差別だよなあ……。勉強も運動も悪いとこなきゃそれで良しってことだろ? 俺みたいな奴の遅刻は命取りだから」



 康弥が、こめかみに貼った大きな白い絆創膏の上から頭を掻く。



 彼なりのこだわりがあるのか、初めて会った小学生の頃からその絆創膏を取った所は見たことがない。というより、頑なに取ろうとしない。



 「そうでもないよ。呼ばれる時は呼ばれるし。第一さ、康弥が遅刻ギリギリなのって毎朝必ずロードワークやってるからだろ? 結果だって残してるんだし、学校も少しくらい目瞑ってくれてもいいよな」



 (――まもなく、2番線に、下り列車が参ります。危ないですから、黄色い線まで下がって――)



 いつもと同じアナウンスが、いつもと同じホームのがらんどうに響き渡った。


 



 08:21




 改札を抜け、学校へと続く道を一目散に駆け抜ける。市街地に近付くほど多く見られるようになった、現代風の洒落た店々が次々と後ろへ流れてゆく。



 たかが電車一本のずれが、これほどに余裕を奪うとは。



 走るのは毎度のことだが、あと10分もしないうちに新しい教室に飛び込まなくてはならない。



 「もう少しゆっくりでも間に合うって!」



 背後から康弥の声が聞こえる。



 「間に合わないよりはマシだろ? ボクシング部期待のエースがへばってどうする」



 「足の速さならサッカー部のほうが上に決まってんだろ……」



 8時半まであと5分くらい。そして校門は目の前だ。



 「またやってるの?」



 校門の手前でついに力尽き、息を荒げる2人の横から、歩いていたポニーテールの女子生徒が声をかける。



 「初日くらい早起きしなよ」


 あきれた、と言わんばかりに嘆息をつく女子生徒に、康弥がむせながらも反論の声を上げる。



 「俺らはゆーちゃんみたく出来てないんだよ……。親父だって普通の会社員だし」



 「学校で練習試合の時日の出前からアップしてたのは誰よ」



 康弥が「ゆーちゃん」と呼んだ女子生徒、科麻柚[シナマユウ]が笑いながら返す。彼女の父親は、警察官の中でも上層部の人間だった。



 「新も常習犯なんだから今年は気をつけなよ」



 あれは俺じゃない、などと騒ぎ始めた康弥を無視して、柚が続ける。



 「あんまり関係ないとは思うけど、遅刻なんかで行く大学変わったら許さないからね」



 将来の職業を未だに決めかねていた新と柚は、就職に有利と思われる近辺の国立大学をどちらも目指していた。



 「分かったから、2人はもう結婚しちゃえって。俺は孤独に警察学校目指すからさ」



 新の返事を遮り割って入った康弥が、2人の肩を掴んで歩き出す。



 声を揃えて反論した新と柚だったが、その言葉は気にも留めない様子で康弥は続けた。



 「そんなことよりあと2分で新しい教室まで行けるかな? 俺のD組はともかく、お前ら2人は端っこのF組だろ」



 忘れていた時間が再び動き出し、また走る羽目となった足が硬い地面を蹴った。


 



 19:12




 昼間と比べると生徒の大半がいなくなった校舎2階の長い廊下に、自分の足音が響く。先日まで長い間1階で生活していただけに、まだ2階の雰囲気に慣れ切っていない。



 チームジャージに身を包み、まだ乾き切らない汗を拭う新を、もうほとんど沈んでしまった春の太陽の代わりに薄暗い蛍光灯が照らしていた。



 始業日ということもあるのだろう。部活の無い所もあったようだし、ほとんどの部活が長引くことなく終わっている。



 もちろんサッカー部も例外では無かった。それに始業日くらいはやはりすぐにでも自宅に戻りたいと考える生徒が多い。



 連なる教室の明かりがひとつ、またひとつと消え始め、疲れ、喜び、憂鬱、それぞれの表情を浮かべた生徒たちが、自分とは逆の方向――より下駄箱に近い階段の方向へと向かって脇をすり抜けてゆく。



 知り合いが見当たらない。部活の友人もそのまま部室から帰ってしまったのだろうか。



 そんなことを考えているうちに、新は今年の自分のクラス、2年F組の教室に着いてしまった。



 まだ中に誰かいるのだろうか。明かりが点いている。



 後ろの扉を開け、中の様子を伺いながら教室の中へと足を踏み入れる。想定外の人物に、新は少しどきっとした。



 「あ、新……」



 教室の窓際にひとり残っていた柚もまた、驚いた様子でこちらを向く。



 「部活、終わったの?」



 黒いケースにテニスラケットをしまいながら柚が尋ねる。



 「ああ、さっき終わったところ。机に古語辞典忘れててさ。柚も部活終わり?」



 何か話を繋げなければ、と判断した脳味噌が質問を引き出す。何でもない日常では自然にこなせることが、どうも1対1だと難しくなる。



 「そう、今日はいつもよりちょっとだけ早くて。ゲームはやらないでボレーとかストロークの練習ばっかりだったから」



 古語辞典を掴んだ新の腕が動きを止めた。



 まずい。テニスの用語なんて全然分からない。テニスの話題で話を広げられる可能性はおそらくゼロ、だ。



 ごくごく小さいイレギュラーバウンドだったが、それを取りこぼすほどに新の脳の回転はひどく滞っていた。



 第一、今まで柚と2人きりで話すことがあっただろうか? 1年では違うクラスだったし、会うときは必ずと言っていいほど康弥が間にいた。



 そんなどうしようもなく行き詰まった新の心中を知ってか知らずか、柚が言葉を続けた。



 「そういえばクラス分け、同じクラスになるとは思わなかったよね! びっくりしちゃった」



 新は内心ほっとしながらも、表情を変えずに応えた。



 「去年は俺と康弥が同じクラスだったからな。まだこのクラスにも慣れないよ」



 「私もまだ。……去年の話で思い出したんだけど、全国模試、すごかったんでしょ? 羨ましいなあ」



 1年生の年に全校生徒が受けた全国模試で、新は学年別の全国順位トップ100入りという、かなりの好成績を残していた。



 新自身が周囲に語ることは無かったのだが、いつのまにか噂は広まり、トップ50、ひどい物ではトップ10入りらしい、という尾ヒレも付いて、瞬く間に新は学校中にその名を知られることとなったのだった。



 「柚も聞いてたのか……。柚に褒めて貰えるようなことじゃないよ」



 自分自身、そうして生徒たちに名前を知られることにいい気分はしなかったし、「天才」などと揶揄されることにもうんざりしていた。



 「すごいことだと思うよ! もっと威張ってもいいのに」



 笑顔で柚が応える。荷物の準備を終えた柚は、今はトレードマークのポニーテールを結び直していた。



 意外と長かったんだな、髪。



 ありがとう、と何のひねりもない言葉しか返せず、思わず窓外の暗闇に浮き立つ柚の姿に見入ってしまった新は、心の中で自分を叱った。



 康弥のいない感覚は柚にも似たものを感じさせていたのか、柚は今まで触れることのなかった話題を切り出した。



 「……意外と、こうやってちゃんと話すこともなかったから聞いてみるんだけど、お兄さん、行方不明なんだよね……?」



 なぜだ? なぜ柚が“その話”を知っている?



 嫌だったら別の話しよ、と謝りながら付け足した柚の優しさを感じながら、新はこれまでの友人関係を顧みた。



 兄の失踪の件は、今となっては親戚の他で知っている者自体少ないし、自分も高校に入学して以来、周囲に話したことすら無い。



 それは失踪当時手がかりを求めて話した人々が、何年もの間模範的な生活を続けてきた結果であるし、自分たち家族が以前ほど聞き回らなくなったからでもあった。



 諦めた、という訳ではないが、そのことで同情をされ続ける毎日が嫌になったのかも知れない、という思いも僅かながらあった。



 それほどまでに兄に関する情報は乏しく、警察にこそ届け出てはいたが、どこかで情報がダムのようにせき止められているのでは、とさえ思える位に、自分たち家族の元には1つの手がかりも入ることはなかった。



 自分にとってかけがえのない人たちに、必要以上に兄の失踪の話を吹き込んでしまったら、知った彼らとの間には“同情”や“哀れみ”という橋がかかる。



 その橋は、時に互いを結びつける必要不可欠な繋がりにも成り得るが、時に踏み板が腐り、互いの溝を浮き彫りにする障害にだってなるかも知れない。



 そんな、ある種の恐怖とも呼べるもののために、これまで柚にも“その話題”を伝えることは無かった。



 しかし柚はそのことを知っている。驚きというよりは焦りの思いがじわじわと沸き起こっていた。



 もしも何かひとつでもボタンをかけ違えてしまったら、柚との間に縮めることのできない“距離”が生まれてしまうかも知れない。



 「……そうだよ。康弥から聞いたのか?」



 小学生の頃からの友達だ。今現在話せるほど中身を知るのは康弥くらいのものだろう。康弥は失踪前の兄との面識だってある。



 それに、自分と柚が知り合う以前から、柚の友人でもある。話していてもおかしくはない。



 新はなるべく陰鬱な印象を与えないよう、慎重に言葉を選んで返した。



 「うん……。でも康弥は嫌がってたの。俺が話すようなことじゃない、話す話さないは新の意思が全てだ、って」



 やっぱり康弥か。



 だが康弥は自分の話さない心の内の感情までも理解してくれていた。



 新は感謝した。康弥と出会えたこと、その偶然に。同時に付き合いが疎遠になっていった多くの友人たちの、哀れみを含んだ笑顔が記憶の底から這い上がる。



 「……でもごめん、私が無理矢理聞き出したの。そんな経験の無い私には新の思いなんて解るはずないかも知れない。けど、それでも、私は……」



 わずかに語気を強めた言葉の終わりには、柚の本物の感情が滲んでいた。少し潤んだようにも見える柚の大きな瞳が、頭上の蛍光灯の光を映して輝く。



 沸き起こった衝動の波に呑まれ、我知らず新の足は動き出していた。



 柚の小さなその顔がゆっくりと近づいて、感情のままに抱き締めた自分の胸に収まる。触れた瞬間、柚が石ように身体を硬直させたのが直に伝わってきた。



 これほど近くでその存在を抱くと、こんなに小さかったのか、とさえ感じてしまう。彼女を中心に拡がる香りが、思考を満たしてゆく。



 「……ありがとう。絶対に、居なくならないで」



 居たんだ。まだこの自分を、灰島新というひとりの人間を、“本当に”識ろうとしてくれる人が。



 「……絶対に、絶対……」



 何度も繰り返す。だからこの話はしたくない。強く繋がってしまえば、失った時の傷口を必要以上に拡げてしまう。



 もしも康弥を失って、もうひとり柚まで居なくなってしまったら、その瞬間に他人の中の「灰島新」は本当の自分では無くなる。



 それは、“死”とも呼べるものだろう。



 「うん、居なくならない。……絶対に」



 強張っていた柚の身体も徐々に元の柔らかさを取り戻し、おずおずと伸びたその両腕が、腰の辺りでそっと交差した。



 顔を上げた柚と視線がまっすぐに重なる。吸い込まれそうなその瞳がゆっくりと近づく。重なり合った鼓動が互いに早さを増す。



 信じてるよ、と2人の思考が共通の言葉を絡ませて――。


 


 「うわ、危ねえっ!」



 騒々しいばたばたという物音と共に、分かりやすい康弥の悲鳴が教室の外で響き、敏感に反応した2人はすぐさま離れて互いの荷物が待つ席へ戻った。



 少しの間を置いて、開いたままだったらしい後ろの扉から、先ほどの騒音の原因であろう教科書やノートを両腕いっぱいに抱えた康弥が、恥ずかしそうに笑いながら入って来た。



 「失礼しまーす。お、やっぱりここに居たか! 部室にもいないんじゃあ、帰ったか教室のどっちかだと思ってさ」



 ポケットから携帯を出してみると康弥からの着信があった。



 まだ完全には収まり切らない鼓動を感じ、熱を持った頬を気にしながら、康弥に言葉を返す。



 「ごめん、着信に気付いてなかった。……さっきの悲鳴は?」



 並ぶ机のひとつに抱えていた物を置き、自分の置き勉用のエナメルバッグに押し込みながら、康弥が答える。



 「いやあ、ジムワーク終わって部室から教室にこいつら運んで来たんだけど、そこの階段で躓いちゃって」



 その言葉が言い終わらない内に、教室前方の扉を開けて数人の生徒がぞろぞろと入って来た。委員会か何かで遅くなったのだろう。



 お疲れ、と戻ってくるクラスメイトたちに言葉をかけながら、新は内心胸を撫で下ろした。



 さっきまでの光景を見られなくて良かった。本当に康弥はタイミングが良いんだか悪いんだか。



 そこまで考えて、新ははっとした。もしかして、康弥は――?



 柚と話していた康弥が視線に気付き、その白い歯をこちらに向ける。



 「なんだよ、そんな目で見て。……すっかり夜になったし、ちゃっちゃと帰ろうぜ」



 すっかり闇に沈んだ外の景色に染まった窓ガラスが、荷物を背負い始めた新たち生徒を、鏡のように映していた。


 



 20:14




 「じゃあ、またな」



 駅の改札を抜けたところで、駅付近のマンションに住む康弥が手を振って別れる。柚はひとつ前の駅で降りていった。



 ついに最後まで、康弥は教室でのことに触れる気配すらも見せなかった。



 「最近色々物騒らしいから気を付けろよー! 何だっけ、あのアヤシイ宗教団体……」



 またな、と別れの返事を返した新に、少し離れたところから康弥が笑顔で呼びかける。



 「アゾラだろー?」



 「ああ、それそれ! まあ俺は平気だけどお前はケンカ弱そうだからな!」



 「うるせえ!」



 結局馬鹿にするためだったか。その掛け合いを最後に、康弥の笑い顔は角を曲がって見えなくなった。



 まあ楽しいからいいんだけどな。



 康弥を見送った新は、朝とは景色の違った暗い帰路を歩き始めた。



 住宅街の割には電灯が少ない。そのおかげというべきか、夜空の星々は比較的に良く見える。



 暗く高い空を行く雲をするすると滑らせた春の夜風は、背後で空き缶の転がる音を鳴らし、新の首筋を粟立たせて過ぎた。





 ※




 塀の陰に捨てられていた缶コーヒーの空き缶が、気付かず踏み出した左足に蹴られて転がり、耳障りな音を立てる。



 僅かながら首筋に滲んだ汗を感じつつ、再び、先を歩き続けるその背中を追う。

 十数メートル先を行く灰島新の背中が、少ない電灯に照らされて短い影をアスファルトの地面に落としていた。



 

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