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【覚醒篇】

 

「切り裂きジャック」は、1888年にイギリスで発生した、未解決連続猟奇殺人事件の犯人の通称。


少なくとも売春婦5人をバラバラにしたが、1世紀以上経った現在も犯人は不明。


「ジャック」とはこの場合、呼び方の定まっていない男性を示す名前である。

 

 



 「――以上の諸事情を考慮し、異例ではあるが、灰島新[ハイジマシン]被告を主文の通り――」



 何ひとつとして理解できなかった。時間ってどうすれば止まるんだっけ。



 「――死刑とします」



 裁判官の低い声が、張り詰めた空気を震わせて最高裁判所に響く。



 人ひとりの命を終わらせるにしてはあまりに小さく、抑揚の無い言葉だった。



 自分という人間の持つ全て――「生きたい」という望みすらも押し潰して進み行く世界。



 あまりの“ずれ”に考えることを放棄した灰島新の脳髄で、「死刑」の2文字がくるくると回って消えた。



 俺は、死ぬのか。



 ふと思い付いた思考が、身体中に嫌な汗を滲ませてゆく。



 別に、自分は死なないとか、不老不死になろうとか思っていた訳じゃない。だけど。



 突如として眼前に迫った“死”が、今ここに存在するひとりの自己の“終わり”が、頭からそれ以外の全てを追い出し、流れる時間を何倍にも引き延ばしていった。



 しばらくぶりに動いたかと思える一対の眼球がゆっくりと滑り、自分を取り囲むようにしてそれぞれの表情を見せる人々を見回した。



 泣き崩れる母と、顔を覆って俯く妹。死刑囚となった息子をただ見つめる父。そして眼鏡を載せた眉間に深い皺を寄せる、まだ若い国選弁護人の織田草五郎。



 そのわずか4人を除く、大多数の人間たちが共通して覗かせるのは、裁判所の中心に立ち尽くす、たったひとりの人間に対する激しい怒りや憎しみ、また、その死に歓喜し安堵する表情だった。



 この現代、それも先進国とされる日本で、これほどたくさんの人間たちが、なにかの死を歓迎する瞬間があったのか。



 被害者の遺族なのだろう人々が向ける、そこに立つ自分ではない狂った“怪物”への、葛藤に満ちた眼差しを視界の端に見た新は、目を合わせて幾度となく叫んできた言葉を口にした。



 「……俺は殺してません」



 他に声にするべきことなど無かった。



 叫ぶ気力なんてものはとうの昔に使い果たしてしまっていたし、無駄だということも理解している。けれどそれだけは、たとえ判決が変わらないとしても、訴え続けていたかった。



 罪を着せられることに対する不満は、もはや身体の一部になってしまった。だから「犯人じゃない」とは言わない。



 それでも、「人殺しじゃない」とだけは伝えたかった。負けたくなかった。



 一瞬の静寂ののち、周囲を取り囲む人間たちがざわざわとどよめき、検察官でさえも隣の同業者と何事か耳打ちを始める。



 一層の怒りを湛えた目でこちらを睨む人に呆れ顔で嘆息をつく人。傍聴席の後方でくすりと笑う人に、驚いた様子で素早くペンを走らせる記者。



 「死刑判決を受けてもなお、反省の色すら見せない史上稀に見る凶悪少年殺人鬼」とでもニュースキャスターに読ませるのだろうか。



 「……けるな」



 先ほどまで目を合わせていた遺族の男が発した小さな声に、ざわつき始めていた傍聴席が再び静まりかえってゆく。



 「ふざけるな!」



 怒鳴った男が椅子から立ち上がり、真っ直ぐに新の両眼を見据える。



 その声と眼差しは、怒りや憎しみよりも悲哀に満ちていた。



 「お前のせいで、お前なんかが生きているせいで、俺の親父やお袋、姉の家族だって皆死んだんだ。そう決まったんだ……!」



 そう。もう決まってしまった。



 テレビの生放送でもない、この閉ざされた場所でどんな言葉を口にした所で、何も変わりはしない。ここに滞留する空気を、汚く掻き回すだけだ。



 自分の死は、自分が今生きていることと同じくらい確実に目の前を覆い尽くし、その不変の存在を揺らがせることはない。



 新は半ば他人事のように、続く言葉を聞いた。



 「それなのに、あんな証拠まで出されたのに、なんでお前は認めようとしないんだ……! お前を恨まないで、私たちは誰を恨めばいいんだ!」



 少しためらう様子を見せながらも、立ち上がっていた男を警備の数人が制して椅子に座るよう促す。



 にわかに、沈黙して聞いていた傍聴席から美しい拍手が沸き起こり、よく言った、という男の声も微かに新の鼓膜を震わせた。



 この数ヶ月間、腑に落ちることなど何ひとつありはしなかったが、提出された身に覚えのない証拠ほど、不条理に思えたことはなかった。



 誰がどうでっち上げたのかは知らないが、検察側が証拠として提出したテープと映像。



 被害者の家に備え付けられた監視カメラのものとされる映像には、不鮮明ながらも自分の姿が映されており、隠し撮りと思われる映像と音声の証拠には、横柄な口調で自身を犯人だと語る自分と、その言葉に戸惑う様子の織田が記録されていた。



 所詮は別々の映像と音声の組み合わせ、偽造できないこともないだろうが、その証拠が提示された瞬間から全てが悪い方向へと傾き始めており、ついに死刑という最後の手段がこの身に下される結果を招いていた。



 死刑と決まってしまった今、この罪状で死刑はどうか、などという論議も意味をなさないだろう。



 しかし、この耳に届く拍手を含め、灰島新という存在の全てを否定しながら、自分を流れの端に置き去りにして過ぎる時間が、その死刑で死ぬことよりも辛く、苦しく感じられるのだった。



 さっさと死んでしまうほうがよほど楽なのかも知れない。もういっそ、つまらない意地を張るのは止めて、全ての罪を認めてしまおうじゃないか。



 そう思わせる力がこの最高裁判所、いや、この世界にはある。



 ふいに、流れ出した涙が頬を伝って落ち、鳴り止まない拍手の中で小さな音を立てる。



 それは後から後から流れ落ち、この世界で唯一、新が身を委ねることのできる流れとなった。



 やっと泣けた。



 ようやく現れた生身の感情が、自分を生かしてきた世界の鳴らす音に掻き消されてゆく。



 今、この死刑囚の姿が世界にどう見えているのかは分からないが、それでも、この場で泣けたことがただ嬉しかった。



 ――そうだ、あの桜はまだ咲いているだろうか?



 頭に浮かんだそんな思考がただひとつ確かな熱をもって、全身を汚すぬるい空気を押し退けていった。



 あの日見た桜の色が、2人の笑顔が、血の海が、1年前の記憶を形作り、最後のよすがとなった過去の自分を甦らせて――。


 

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