ラブホテルに泊まったことがない
ラブホテルに泊まったことがない。
三十八歳の近田守はそのことが残念でならなかった。医者に胃癌を宣告され余命は四ヶ月。
直後、三十二歳の妻を誘ってみたが、にべもなく断られた。そうだろうな、妻には若い恋人が居る。
お節介にもラブホテルから出てきた妻とその若い男の話を密告したのは妻の親友の裕子だった。
裕子には私の余命は伝えていない。妻の浮気を知ったのは癌の宣告の後だったので受けたショックは思いの他軽かった。夫婦間の愛情は当の昔に冷め切っている。
それでも死ぬ前にどうしても一度、ラブホテルに行ってみたかった。妻を誘ってみたが断られた。
「いまさらこの歳でラブホテルなんて恥ずかしくて嫌よ」
顔色一つ変えずに嘘をつける女、これが十三年間連れ添った私の妻だ。
「ラブホテルがどんな所なのか入院する前に見てみたい」
「本気なの?ばかね。もっと自分の身体を大切にしなければ駄目よ」
「どうせ死ぬんだから付き合ってくれないか」これが切札になる言葉だと思っていた。
「だから嫌よ、見てみたいだけなら一人で行けば」私たちの愛はとっくに死んでいたのだ。
そう言われてからの私は無性にセックスがしたくなった。
私たち夫婦は子供には恵まれなかったが、それは妻の不妊症のためだ。
私は他の女に子供を産ませてやろうと思った。
ラブホテルでセックス三昧の挙句に遺児を置いてこの世を去りたくなった。
死は厳格にその命の尊さを感じさせる。この世から命がひとつ消えかけている。
それは私の命だ。
俺の命と引き換えにもうひとつの命をこの世に誕生させてやろう。
帳尻は合う、私はそう思った。
とは言え、私の周りにはラブホテルに誘ってすぐに付いて来る女なんて居ない。
暫く考えて裕子の存在を思い出した。
この女は人の不幸を親切ごかして楽しむという節操を知らぬ女だ。
良いじゃないか、丁度良いじゃないか。そんな女に私の子を産ましてやろう。
だいたいからして、親友の浮気を亭主に告げ口をするような軽薄な女だ。
人の平和や安穏に無神経なでしゃばり女だ。ばかな女だがその分、ばか特有の色気のある女だ。
私は裕子の携帯に電話した。
「相談したい事があるので会いたいんだ、出来るだけ早く会いたい」
裕子は独身の身軽さと持て余す退屈さで、いとも簡単に私の誘いに応じた。
「へえ、近田さんの誘いなんて珍しい。良いわよ、明日の六時ね。でも相談って何?」
会う約束をしてから本題の相談の内容を尋ねる、順序が違う。裕子はそんな女だ。
「うん、とにかく会ってから話す」
「解った、で、何処で会いますか?」
「ラ・カーサでどう?」
「そこってファミレスでしょ。もっと美味しいものご馳走してよ」
「例えば?」
「そうね、ワインの美味しいお店が良いな」
お酒を飲むつもりなのか、得も知れぬ私の相談事をまったく軽く考えている。
しかも裕子は私の誘いに乗じて私を誘っている。
「ワインってイタリア産が良い?フランス産が良い?」
「やっぱ、イタリア」
何処の国でも私には拘りなどなかった、ワインなんてワインでしかない。
ネットで美味しいワインの飲める店を探すと、そんな店はいくらでも近隣に有った。
どうせ味なんかどうでもいい、あんな物は雰囲気と気分次第だ。
値段よりも地理的に都合のいい店を選ぶ。
いきなりラブホテルへ行かれる流れにはならないだろうが、こっちの方は概ねの見当は付いている。国道沿いにはそんな看板が乱立しているエリアがある。時々その前を通過する際に料金まで確認している。道一本曲がるだけで怪しげな空間が存在するのだ。
海外旅行は何度もしたが、そのエリアへは足を踏み入れたことがない。そこへ行くと思うと僅かな緊張感と興奮が湧いた。案外身近なところに見知らぬ世界はあるものだ。
土曜日の夕方、妻には気分転換と称して家を出た。何処へ行くのかとも聞かれなかった。
私鉄に乗り二つ目の駅で降りて、駅前の型スーパーの店先で裕子と待ち合わせをした。
「その方が返って目立たないのよ。平凡な夫婦に見えるだけ」
裕子はまるで私の心を、全てお見通しのようなことを言った。加えてこういう事に慣れている口調が何となく寂しかった。私には残された時間は少ない、そうそう贅沢は言っていられない、先ずはラブホテルに行くことを最優先しよう。
裕子は私を探すような視線で、改札口の方向を見遣っていた。
買い物の途中とも、会社帰りの途中とも見えぬその身なりに、三十路を僅かに過ぎた女の落ち着きと衰えきらぬ美しさを滲ませていた。
「約束の時間よりも早く来ちゃった」裕子は笑顔で私を迎えてくれた。
取り敢えずのお目当ての、ワインの美味しいイタリアンレストランに向かう。
「ねえ、良美にはなんて言って出てきたの?」歩き出すとすぐに裕子が聞いてきた。
「気分転換をして来るって言って来た」
「あら、私は気分転換の道具なの?」
「ただの口実だよ」
裕子には妻に内緒の行動が楽しそうで、悪びれもせずに
「良美には秘密にしておくわね」と言った。
レストランに着いて、前菜から始まる料理と裕子の勧めるワインを食前酒に注文する。
「近田さん、少し痩せたんじゃないですか?」
テーブルを挟んで正面に座った裕子が私の顔をまじまじと見てそう呟いた。
「良く気づきましたね。そうなんだ、最近仕事が忙しくてね。不規則な食事と慢性の睡眠不足で少し痩せたかな」
「あまり無理をしないでくださいね」
痩せたことは事実だが、その優しい言葉は何処までが本心かは疑わしい。
とにかく裕子の気分を良くして、打ち解ける雰囲気を作ろう。
最初の一杯目のワインをウエイターがグラスに注いで去った。
「裕子さんは確か良美と同じ歳でしたよね。何だか若く見える」お世辞ではなく見たままの感想だった。
「私は一人身だから生活感が軽いんですよ、もしも若く見えるならそのお陰」
小さく乾杯をしてグラスを傾けあう。裕子はグラスに付いた口紅をさりげなく親指で拭き取った。それがマナーなのか自然な仕草だった。裕子とは何度も顔を合わせてはいるが二人きりでお酒を飲むのは初めての事だった。
前菜が運ばれ何気ない会話も進み、ワインを注ぎ合った。
「ねえ、近田さん。相談って何ですか?酔いきって仕舞わない内に伺いたいわ」
確かに裕子は酔い始めている。ほぼ私と同じ量を飲んでいるのだから、酔い始めている自分と照らし合わせても頷ける事だった。
「そうですね。実はくだらない様で真面目な話しなんです。相談というよりもお願いかもしれませんが、怒らずに聞いてください」
私は自分の本心の一部だけ裕子に伝えることにした。
「実は私はラブホテルという場所に行った事がないのです。それがなぜか無性に残念で仕方ないのです。一人で行くのも可笑しなものだし、裕子さんにお付き合いをお願いしたい。
いかがでしょうか?」
裕子は落ち着いた表情で聞いている様に見えた。持っていたグラスをテーブルに置くと、白いテーブルクロスの上に左手で頬杖を付き、私の顔を上目遣いで見つめた。
「近田さん、それって私を口説いているんですか?」
それは小ばかにした様な目付きではなく真剣な眼差しに見えた。
「そうなります」
「それ、良美への仕返しですか?」
「多分にそれは有るかも知れませんが、それとは別にラブホテルでセックスがしてみたい」
お酒の力を借りての事なのかあっさりと、しかも落ち着いた声で言えた。
裕子が笑みを含ませた顔で私を凝視していた。私は無言のままその凝視を逃げることなく受け取っていた。
「良いわよ、付き合わせてもらいます。理由なんてどうでも良いわ」
意外でもなんでもなかった。断られても意外でもなんでもなかっただろう。
世の中とはそんなものなのだろう、何も恐れることはないのだ。
死を覚悟するという事は、世の中に充満する恐が本当は何の重さもない事に気づく事だ。
望むことを言葉に変えられないのは、永遠と恥を引きずったまま生きてゆく自分を想像してしまうからだ。
私にはそんな永遠はない。明日が決してやって来ない日が近づいているだけだ。
ワインを一本、レストランで買った。当然、料金は高い。そんなことも気にならなかった。
このワインはラブホテルで裕子と改めて乾杯するためのもの。
タクシーに乗って国道沿いに並んだラブホテルに向かった。
タクシーの車窓から街並が流れてゆく。
束の間の風景の中にとてつもなく無駄に生きている自分を感じた。
繁華街を抜け歩く人影のない車道に出ると、裕子が当然私の顔に覆いかぶさり私の口を吸った。
どうも、この女のすることは予測できない。
私も応じるように裕子の口を吸った。これは最早キスではない。
裕子の胸を服の上から掴んでみた。布地の硬さと胸の柔らかさのちぐはぐさに私の指先が戸惑いがちに震えているのが解る。
私にとって裕子が最後の女となるのか?
こいつは案外、面白い女かもしれない。
チラリと死にたくないな、と思った。
ラブホテルまではもう少しの距離。