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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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見学コース

作者: 髪流
掲載日:2026/08/16

 なぜ、そこへ行くことになったのか。


 あとから思い返しても、どうしても、その部分だけがうまく思い出せなかった。


 何かの許可を取りに行くついでだったような気がする。


 仕事に必要な資格だったかもしれないし、役所へ提出する書類だったかもしれない。


 ともかく、わざわざ休みを取ってまで出向くほどの用事ではなかった。


 せっかく近くまで来たのだから、ついでに見学でもしていきませんか?


 たしか、そんなふうに言われたのだ。

 誰に言われたのかは覚えていない。


 それでも、断る理由もなかった。


 施設は、街の外れにあった。


 駅からバスに乗り、住宅地を抜け、古い工場が立ち並ぶ一帯をさらに進んだ先。

 錆びた金網の向こうに、灰色の建物がいくつも並んでいた。


 研究所、と呼ぶには古びていた。

 工場、と呼ぶには窓が少なかった。


 正面玄関の横には施設名らしきものが掲げられていたが、塗装が剥げていて、最初の数文字しか読めなかった。


 受付には年配の男性がひとりいた。

 

 俺が名前を書くと、男は帳簿と顔を何度か見比べた。


「見学ですね」

「はい。たぶん」


 妙な返事をしてしまった。

 だが男は気にしておらず、机の下から一枚の紙を取り出し、いくつか印をつける。


「手続きがありますので、少々お待ちください。202が空いております」

「202?」

「そちらで」


 指さされた先に、薄暗い廊下が続いていた。


 それ以上は、何の説明もなかった。

 俺も、なぜか聞き返さなかった。


 202というからには、二階の二号室ということだろう。

 そう思ったのに、階段を上がる必要はなかった。

 廊下の突き当たりに、扉があった。

 小さな札に《202》と書いてある。


 中へ入る。

 

 倉庫だった。

 少なくとも、俺にはそう見えた。

 窓のない部屋に、古びた段ボール箱が積み上げられている。

 

 木製の棚。

 埃をかぶった瓶。

 黄ばんだ紙の束。

 瓶の中には液体に沈んだ何かがあった。

 魚の骨のようでもあり、植物の根のようでもある。

 ほかにも、用途のわからない標本がいくつも並んでいた。

 鼻を近づける気にはならなかった。


 奇妙な場所だった。

 けれど、不快ではなかった。

 むしろ、少しだけ懐かしい。

 

 小学校の理科準備室。

 授業中、先生が標本を取りに行くときだけ開いた部屋。

 廊下から覗き込むと、薄暗い棚の奥に、知らない世界が詰まっていた。


 そんなことを思い出した。


 椅子はなかったので、壁際に立って待った。

 時計もない。

 

 携帯電話を見ようかと思ったが、なぜか持っていなかった。

 家に忘れてきたのだろうか。

 それとも受付で預けただろうか。

 

 よく覚えていない。

 どれくらい待っただろう。


 突然、ガン、と大きな音がした。


 びくりと身体が跳ねた。


 ガン。

 今度はもっと強く。


 壁の向こうから、誰かが叩いている。


「……なんだ?」


 ガン、ガン、ガン。

 古い棚の瓶がかすかに震える。

 壁を眺めて、ようやく気づいた。

 

 切れ目がある。

 壁だと思っていた場所に、縦長の継ぎ目が走っていた。


 その端に、小さく数字が書かれている。

《202》

 さっきの扉にも、同じ数字があった。

 

 試しに壁を押してみる。

 壁は、思いのほか軽く動いた。

 そのまま奥へ開いていく。


 向こうに女が立っていた。

 白衣を着ている。

 三十代くらいだろうか。

 髪を後ろでひとつに束ね、胸元に名札をつけていた。


 文字は小さくて読めない。

 名札は意味を成していなかった。


「お待たせしました」


 彼女はそう言った。

 俺が返事をする前に、踵を返した。


「こちらです」


 どうやら、ついていこいということらしい。


 壁の向こうは細い通路になっていた。

 床も壁も灰色で、照明は白い。

 さっきまでの理科準備室とは、まるで雰囲気が違う。


 研究施設。

 実験場。


 そんな言葉が頭に浮かんだ。


 壁に何本もの配管が走っている。

 天井から垂れたケーブルの隙間を、白衣の女は迷いなく進んでいく。

 俺もその背中を追った。


「こちらでは何を?」


 聞いてみた。


「いろいろです」

「いろいろ」

「見ればわかりますよ」


 素っ気ない。

 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。

 

 彼女の歩く速度を知っているような気がした。

 三歩歩いて、少しだけ左へ寄る。

 曲がり角では必ずいったん速度を落とす。

 白衣の裾が揺れるのを見ながら、そんなことを考える。


 俺はこの人を知っているのだろうか。


 いや。

 初対面のはずだ。


 通路を抜けると、空気が変わった。

 

 湿っている。

 暖かい。


 そして。


「うっ」


 生臭い。


 魚市場の裏側にでも迷い込んだような匂いだった。


 塩と血。

 腐りかけた海藻。

 それらを全部、ぬるい水で溶かしたような臭気が鼻を突く。


「マスクをしてください」


 女が言った。

 壁に透明な袋がいくつも吊られていた。

 

 俺はMサイズを取り、袋から出して、耳に紐をかける。

 少しきつい。

 耳の裏が引っ張られる。


「これ、Mですよね」

「はい」

「こんなに小さかったかな」


 女は振り返った。

 一瞬だけ、何かを言いかけたように見えた。


「……個体差がありますから」


 変な答えだった。

 だが、そのときにはもう、俺の注意は別のものへ向いていた。


 水音がする。

 大きな生け簀があった。

 プールほどの大きさ。


 濁った水の中で、何かが動いている。

 最初は巨大な魚かと思った。


 違った。

 赤黒い肉の塊だった。


 皮膚がない。

 剥き出しの筋肉のような表面が、濡れた光を反射している。


 魚に似た形ではある。

 だが、頭部には目が六つあった。


 左右に三つずつ。

 口は縦に裂けている。


 尾の代わりに、細長い脚のようなものが束になって生えていた。


 それが水を掻くたび、生け簀の縁に濁った飛沫が散る。


「うわ……」


 思わず声が出た。


 ゴムの長靴とエプロンをつけた職員が、生け簀の脇を歩いていた。

 魚市場の人間みたいだった。

 手には大きなバケツ。


 中身を見ると、赤く、どろどろしている。

 肉片に、ミミズや小さな虫が混ざっていた。


 職員が柄杓ですくい、生け簀へ撒く。


 水面が爆発した。

 赤黒い魚たちが一斉に群がる。

 

 音を立てて餌を貪る赤黒い魚たち。

 勢いよく餌に群がったためか、飛沫がマスクにかかった。


 そのとき。


 口の中に、何かが触れた。


「ん?」


 舌に細長いものが絡みつく。

 

 反射的にマスクを外し、吐き出す。

 床に落ちたのは、小さなミミズだった。


 しばらく、動いていた。


「……え?」


 俺はマスクを見る。


 破れていない。

 顔にもしっかり密着していた。


「どうしました?」

「いや……これ」


 足元を指した。

 白衣の女はミミズを見た。


「ああ」


 それだけだった。


「新しいものに替えますか?」

「いや……いいです」


 自分でも、なぜそう答えたのかわからない。

 気味が悪いはずだった。


 なのに。


 どこかで、こういうこともあると思っていた。

 

 俺は新しいマスクをつけた。

 今度もMだった。

 やはり少しきつい。


 ◇


 施設は広かった。


 生け簀はひとつではない。


 奥へ進むほど数が増えていく。


 透明な水。

 黒い水。

 泥のような液体。

 

 中にいるものも、さまざまだった。


 骨だけで泳ぐもの。

 水面から生えた無数の指で、水底を歩くもの。

 内臓を身体の外側に垂らしながら、ゆっくり円を描いているもの。

 鱗の一枚一枚に、小さな人間の顔のような模様がついているもの。


 どれも、地球にいる生物には見えなかった。


 けれど。

 

 驚かなかった。


 最初の生け簀を見たときこそ息を呑んだ。


 だが、その驚きの奥、自身の胸の中では別の感情があった——むしろ、安心した。


 ちゃんといる。

 そんな気持ちだった。


 理由はわからない。

 これらがいるべき場所に、いる。


 それだけで、ひどく落ち着いた。


「こっちは水温、高めなんですね」


 気づくと、そんなことを口にしていた。

 女が振り返る。


「わかりますか?」

「え?」

「いえ」


 生け簀の端には温度計があった。

 29.7度。


「表示を見たので……」

「そうですか」


 少し先に進む。

 別の水槽では、黒い影が底に沈んでいた。


「これは、共食いするから個体を分けた方がいいんじゃ……」


 言ってから、口を閉じた。

 女がこちらを見る。


「そう思います?」

「いや」


 どうしてそんなことを知っている。

 俺はこの生物を見たことがない。

 名前すら知らない。


 それなのに。


 わかる。


 水温は28度から30度。

 餌は三日に一度。

 脱皮前は絶食。

 隣の個体と同じ水を使ってはいけない。


 急に、知識が頭の中に浮かんだ。


 浮かんだ、というより。

 

 ずっとそこにあったものを、思い出した。


 そんな感覚だった。


「ああ……」


 思わず生け簀を眺める。


 大変なんだよな。

 こいつらを管理していくのは。


 餌の量も湿度や温度で変えなくてはいけないし、水質のチェックも必須。

 季節ごとの温度調節に、増えすぎた個体の処分。


 職員が指を失くす事故も少なくない。気を付けるように標語を掲げたが、あまり効果はなかった。


 いや。

 待て。

 俺が?

 俺が管理していた?

 そんな記憶はない。


「どうしました?」

「……いえ」


 こめかみが痛んだ。

 目を閉じて、記憶を探った。


 俺は——どこで働いていた?

 今は何の仕事をしている?

 今日、ここへ来たのは何のためだ?


 何かの許可。

 そうだ。

 許可を取りに来た。


 何の?

 わからない。


 目を開けた。


 目の前を、白衣の女が歩いている。

 彼女の後頭部を見た。

 髪に白いものが混じっている。


 昔はなかった。


 そんな考えが、ごく自然に浮かんだ。


「……昔?」

「何か?」

「いえ」


 俺は首を振った。


 ◇


「今日は数が多いですね」


 また、口が勝手に動いた。


「そうですか?」

「この時期は、もっと少なかったでしょう」


 女は答えなかった。

 足音だけが続いた。

 

 床が濡れている。

 天井の蛍光灯が、水面に長く反射していた。


 何十という生け簀。

 何百という生き物。

 

 あるものは眠っている。

 あるものは暴れている。

 あるものは、こちらを見ていた。


 そのどれもが、正しかった。


 これらがいる。


 それは、とても重要なことだった。


 この世界が世界であるために。

 地球が地球であるために。

 いなければならないもの。


 何を馬鹿なことを。

 そう思う自分もいる。

 同時に、それが当然だと知っている自分もいた。


 水がある。

 空がある。

 昼と夜がある。


 それと同じくらい自然なこととして、ここにはこれらがいる。


「最近はどうです?」


 俺は聞いた。


「何がですか」

「管理」


 女の肩が、ほんの少しだけ止まった。


「順調ですよ」

「ああ。それならよかった」


 なぜ安心したのだろうか。

 わからなかった。


 ◇


「人魚の競り、見ていきますか?」


 女が言った。


「人魚?」

「ちょうど今日なので」


 人魚。

 その言葉だけなら、童話の中の生き物だ。


 美しい女性の上半身。

 魚の尾。

 海の底で歌う。


 そういうものを想像した。


「せっかくなので」

「では、こちらへ」


 大きな扉を抜けた。


 冷たい空気が流れてくる。

 広い場所だった。


 市場。


 そう呼ぶのが一番近い。

 床には排水溝が走り、壁際に何人もの職員が立っている。


 長靴にゴム手袋。

 長い棒。


 奥から台車が運ばれてきた。

 その上に、何かが積まれている。


 人魚だった。


 ただし。


 俺が知っている人魚とは違った。


 大きな魚の身体に、人間の頭だけがついている。

 魚の腹から、白い腕が一本だけ伸びている。

 尾びれの横に、人間の脚が二本生えている。

 顔だけが背中に並んでいる。


 その中に、ときどき、物語に出てくる人魚に近いものも混ざっていた。


 腰から上が人間。

 下が魚。

 若い女の顔をしている。

 濡れた髪が頬に張りついていた。

 

 目が開いている。


「……生きてる?」

「はい」


 台車が傾けられた。

 人魚たちが床へ落ちる。


 びたん。

 びたん。

 びたん。


 赤い血が跳ねた。

 人間の腕が床を掻く。

 魚の尾が激しく打ちつけられる。


 口が開く。

 声は聞こえなかった。


 職員が長い棒を使う。

 先端が鉤になっていた。

 

 それを身体に引っかけ、一体ずつ穴へ落としていく。


 穴はいくつもある——仕分けだ。


 そう思った。


 頭だけ。

 腕だけ。

 脚だけ。

 形が悪い。

 傷が多い。

 人間の部分が少ない。


 そういうものは端の穴へ。


 人間に近い形をしているものは別の穴へ送られる。


「グレード分けですか」


 俺が聞いた。


「はい」

「やっぱり、人の部分が綺麗な方が高い」


 女が俺を見る。


「ご存じなんですか?」


 知っている。

 その言葉が、喉まで出かかった。


 俺は目の前の人魚を眺めた。


 若い女の上半身。

 腕が左右揃っている。

 顔立ちも整っている。

 皮膚に傷が少ない。

 

 あれなら、かなり上だ。


 ただ、髪の色がよくない。

 需要を考えるなら——。


「……ほとんどは食肉用ですよね」


 自分の声が聞こえた。

 妙に落ち着いた声だった。


「そうですね」

「形のいいものだけ、別に回す」

「はい」


 知っている。

 私は知っている。


 そうだ。

 昔からそうだった。


 人魚は捨てるところが少ない。

 肉は食える。

 脂も使える。

 鱗は加工品になる。

 骨は砕けば飼料になる。

 人間に近い個体は値が上がる。


 特に顔が整っているものは——。


 頭の奥で、何かが軋んだ。


「……俺は」


 違う。

 私は。

 いや。


「どうしました?」


 女の声が聞こえる。

 私は、ここで。

 

 ここに。


 二十——。


「少し、気分が悪いです」

「外へ出ましょうか」

「お願いします」


 ◇


 非常階段を上った。

 

 鉄の階段だった。

 

 一段上るたび、靴音が乾いて響く。


 上へ。


 上へ。


 上へ。


 どれくらい上ったのかわからない。


 施設の中は、外から見た建物よりずっと広かった。


 それも、今になって気づいた。


 途中で窓があった。


 外が見える。


 夕方だった。


 来たときは昼だった気がする。


 何時間、ここにいたのだろう。


 あるいは。


 もっと長かったのかもしれない。


 最後の扉を開く。


 風が吹いた。


 屋上だった。


 空が広い。


 薄い雲。


 遠くに街。


 こちら側には、工場の煙突。


 見慣れた景色。


 見たことのない景色。


 両方だった。


 柵のそばまで歩いた。


 白衣の女も隣に来た。


「どうでした?」

「どう、って」

「見学です」


 そうだった。

 今日は見学に来たのだ。


 何かの許可を取りに来たついでに。

 施設を案内してもらった。


 変な場所だった。

 おかしな生き物がたくさんいた。


 人魚もいた。

 

 それなのに。


 嫌ではなかった。


「……必要なんでしょうね」


 俺は言った。


「必要?」

「ここが」


 柵の向こうを見る。

 夕日に街が染まっていた。


「ここにいるものも。この施設も」


 自分でも、不思議なほど確信があった。


「これがあるから、地球は地球なんだと思います」


 女は何も言わない。


「でも」


 少し笑った。


「俺には無理かな」

「何がです?」

「ここで働くの」


 風が吹く。


「大変でしょう。あれだけの数を管理するのは」


 なぜか胸が苦しくなった。


 寂しい。

 そんな感情に近かった。


「だから、他の仕事を探そうと思います」


 その言葉を口にした瞬間。

 胸に痛みが走った。


「え」


 比喩ではない。


 本当に痛かった。

 熱いものが身体を突き抜けた。


 足元を見る。


 赤い。

 服が赤く染まっている。


 胸の中央に——穴が空いていた。


「……あれ?」


 膝が崩れた。

 女がこちらを見ている。


 白衣。


 その顔を、私は——知っている。


 名前を。


 名前は。


「——」


 声にならなかった。


 身体が倒れる。


 空が横になった。


 女の顔が遠ざかる。


 いや。

 違う。


 若い。

 

 若かった。


 この人は。


 昔は。


 ずっと――。


 ◇


 男が動かなくなった。

 白衣の女はしばらく見下ろしていた。

 それから、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。


「こちら、屋上」


 数秒置いて、応答がある。


『どうぞ』


「所長のドッペルゲンガー、処理完了しました」


『了解。状態は?』


「停止しています。回収をお願いします」


『記憶再現は』


 女は足元の男を見る。


 胸に大きな穴が空いている。


 それでも顔だけは、ひどく穏やかだった。


「かなり進んでいました」


『具体的には』


「飼育個体の温度管理。隔離条件。人魚の選別基準。施設内部の構造も、部分的には覚えていたようです」


『自己認識は?』


「最後まで、自分を所長だとは思っていませんでした」


『では失敗か』


「はい」


 風が白衣を揺らした。


 女は柵の向こうへ目を向ける。


 夕日に染まった街。


 二十年前も、この屋上から同じ景色を見た。


 もっとも、あの頃はあんな高いビルはなかった。


 工場も、半分ほどしかなかった。


「なんというか」


『何です?』


「懐かしかったですね」


 端末の向こうが黙る。


「二十年前を思い出しました」


『所長がいた頃ですか』


「はい」


 女は笑った。


「私も若かったですよ?」


『存じています』


「嫌な言い方ですね」


 足音が聞こえてきた。


 回収班だろう。

 非常階段の扉が開く。

 ゴム製の作業着を着た職員が二人、黒い袋を持って現れた。


 女は少し場所を空けた。


『次回試験はどうします』


「記憶の連続性を上げましょう。今回の個体は、過去と現在をうまく接続できていなかった」


『人格の方は?』


「そこもですね。自分を別人だと思い込んでいた」


 職員たちが死体を持ち上げる。


 片方の腕がだらりと垂れた。

 指先が、床を擦った。


「ただ」


 女は言った。


『ただ?』


「施設への愛着は、かなり正確に再現されていました」


 黒い袋の口が開く。

 男の身体が、その中へ収められていく。


「人魚を見ても、安心していましたから」


『そうですか』


「ええ」


 袋の口が閉じた。

 ファスナーの音がした。


「次は、もう少しうまく作れると思います」


『製品化できますか?』


 女は少し考えた。


 黒い袋が運ばれていく。


 二十年前。

 同じ屋上で、所長はよく煙草を吸っていた。

 健康に悪いですよ、と言っても聞かなかった。

 施設内は禁煙ですよ、と言えば、屋上は施設の外だと言い張った。


 しょうもない人だった。

 仕事には厳しかった。

 人魚の品質にはうるさかった。

 魚類第三群の給餌量を、毎週自分で確認していた。


 死んだのは——ずいぶん昔だ。


「そのための実験ですから」


 女は答えた。


『了解しました』


「はい」


 通話を切る。


 屋上に、ひとりになった。


 少しだけ、夕日を眺めた。


 それから白衣の袖を整える。


 もうすぐ夕方の給餌時間だった。


 魚類第三群は、今日は量を少なめにしなければならない。


 明日は人魚の追加搬入もある。


 やることはいくらでもある。


「……本当に」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


「管理するの、大変なんですよ。所長」


 風だけが答えた。


 女は屋上をあとにした。


 扉を閉める。


 錆びた鉄扉の裏側には、小さな札が貼られていた。


《見学コース 終了》


 その下に、さらに小さな文字で、


《次回試験個体 準備中》


 と記されていた。

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