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妹の身代わりで五年間、あなたの婚約者を務めておりました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/19

「明日でようやく、本物の妹が戻って参りますのね」


 母の声は、5年分の荷を降ろしたみたいに軽かった。


 わたくしは答えず、夜会用の手袋をひとつひとつ外した。右手から5本、左手から5本、合計10本。毎晩同じ順番で外してきた。今夜が最後だ。


 夜会の名目は、ヴィオレの回復祝い。実のところは、公爵家嫡男エドガー・フォン・リヒター様との婚約披露だった。


 婚約者はヴィオレ。わたくしの妹で、7歳までは健やかで、7歳からは寝台で過ごした16歳の令嬢。


 そしてこの5年間、エドガー様の隣に立っていたのは——わたくしだった。



「お姉様、あのね、明日の髪型、昔のお姉様みたいにしたいの」


 ヴィオレは寝台に座って、枕に頬を寄せて笑った。病は退き、頬には色が戻っている。たぶん、わたくしより美しい。骨の太さも、瞳の色も、声の高さも、ヴィオレの方が整っている。


「お姉様がエドガー様の前に立っていた、あのやり方を教えてほしいの」


「ええ、もちろん」


 わたくしは、手袋を畳んだ。


 教えて差し上げようと思った。5年間、妹の身代わりとして覚え込んだ一切を。妹の笑い方、妹の歩き方、妹の挨拶の仕草。


 ——本当は、それらは最初の半年しか「妹の真似」でいられなかった。残りの4年半は、わたくしが自分の呼吸で、自分の足でやったことだ。エドガー様と話すうちに、真似ることを忘れていった。


 でも、それを言ってもしょうがない。わたくしはもう、ただの姉に戻るのだから。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 最初の半年は、衣装係のハンナが奇跡を起こしてくれた時期だった。


 12歳のわたくしは14歳のヴィオレより、背丈が指4本分低かった。袖丈と靴底で誤魔化す作業は熟練の呪術のようだった。ハンナはわたくしが歩くたび小さく呪文を唱えていた気がする——あの人には本当に、家宝の勲章を授与すべきだと今でも思う。


 ラインゲート家の家宝は3種の勲章しかないが、そのうちのひとつはハンナに渡すべきだった。父に申し出て、却下された。残念である。


 エドガー様との初めてのお茶会で、わたくしはヴィオレの声真似を致しました。半音高い、鼻にかかる発声。姉妹で20年暮らしていれば、声真似は呼吸するより簡単だった。


「——ヴィオレ嬢」


 エドガー様は、そう呼んだ。


「ご体調は」


「今日はとても良いのです」と、ヴィオレの声でわたくしは答えた。


 あの日、エドガー様はほとんど無表情で、庭園のバラを見ていらした。わたくしのことも、見ていらしたかどうか分からない。


 けれど半年後の、6度目のお茶会のときだった。


 わたくしが紅茶を啜ると、エドガー様は使用人に合図をされた。「濃い方の茶葉にしてくれ」と。


 ヴィオレは、薄い茶が好きだった。濃い茶は苦手だった。


 わたくしは、濃い紅茶が好きだった。


 偶然だ、と当時は思った。


 けれど1年目の冬、エドガー様は、わたくしが退出するときに必ず、右側の扉を開けられた。エドガー様のお屋敷には両開きの扉が3つある。わたくしは左利きで、右側の扉の方が開けやすい。ヴィオレは右利きで、左側の扉の方が楽なはずだった。


 2年目の春、エドガー様は、庭園のバラ園を案内されるとき、わたくしの歩幅に合わせてゆっくり歩かれた。ヴィオレは、病の影響で歩幅が狭い。わたくしは、姉として急いで育ってきたせいで歩幅が広い。エドガー様は、後者に合わせていらした。


 3年目のある日、エドガー様は、わたくしが階段を上るときに、3段目だけ軋む古い階段を避けて来られることに気付いた。正確には、エドガー様が先に昇って待っていらして、その3段目だけ踏まないでお立ちになっていた。


 ヴィオレは病気で、階段を上らない。


 わたくしだけが、あの3段目の軋みを知っていた。


 わたくしは、茶葉のことも扉のことも歩幅のことも階段のことも、気付かない顔で済ませた。5年の契約だ。それを越えるものは、ないことにした方が身のためだった。


 もし、エドガー様がわたくしを「妹ではない」と見抜いていらっしゃるなら、わたくしは5年のうちに、ヴィオレの婚約者を奪ったことになる。


 だから、気付かない顔をするのが、姉の仕事だった。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 4年目の冬、雪の朝だった。


 エドガー様のお屋敷の玄関で、わたくしは靴の雪を落とした。ヴィオレは病弱で、雪の日は外出しない。本来、冬のお茶会には出られないはずのお嬢様だ。


 けれどエドガー様は、玄関で、わたくしの靴の濡れに目を止められた。侍女を呼んで、乾いた布を持って来させ、わたくしの靴を替えさせた。


「濡れたままでは、お嬢様がお風邪を召されます」


 それは、「ヴィオレ嬢」への台詞ではなかった。雪の日に出歩くアリスへの、台詞だった。


「——ありがとうございます」


 わたくしは、小さく礼をした。


 その日、お茶会のあいだ、エドガー様は一度もヴィオレの名を呼ばれなかった。ただ「お嬢様」と呼ばれた。


 わたくしは、その呼び方に、救われてしまった。救われてしまってから、救われた気持ちを、必死に押し戻した。


 これは姉の仕事だ。姉の仕事に、救われていい理由はない。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 4年目の秋、お茶会の席で、エドガー様が珍しくお茶を零された。


 綺麗な手つきが、その日は、紅茶のカップの縁で、少し乱れた。わたくしはとっさに、卓布を押さえた。その動きで、手袋の端がめくれて、薬指の古傷が覗いた。


 10歳のころ、妹の薬瓶を割ったときにできた傷だ。ヴィオレは病弱で、薬瓶には触れない。薬瓶を割るのはいつもわたくしの仕事だった。


 エドガー様は、それを、1秒だけご覧になった。


 それから、ご自分の手袋で、わたくしの手袋の端を、そっと元に戻された。


「——お怪我を、なさらないように」


 そう仰った声は、わたくしに向けられていた。ヴィオレに向けられていたのではない、と、そのとき分かった。


 でもわたくしは、やはり、気付かない顔をした。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 夜会の朝、ヴィオレはまるで初舞台の役者のようにはしゃいでいた。


「お姉様、わたしの手の取り方、ちゃんと見ていてね。昨日練習したとおりにやってみせるわ」


「ええ、ヴィオレ」


 わたくしは、侍女の地味な制服に着替えていた。母が「念のため控えていなさい」と言った。念のためではなく、ただ、5年分の代役を務めた道具をすぐに手の届くところに置いておきたかったのだろう。


 もし何か失態があれば、わたくしがまた裏から声真似でもして助けるつもりだったのかもしれない。姉が姉のままであることを、家族はたぶん、ずっと期待していた。


 大広間の入口に、わたくしはヴィオレを送り出した。ヴィオレはドレスの裾を、右手で摘んだ。右手で。


 ——ああ、と思った。


 わたくしは裾を、いつも左手で摘む。エドガー様とダンスをするとき、右手を彼の腕に預けられるように。


 ヴィオレは、知らない。


 教えていなかった、わたくしが。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 大広間は、シャンデリアの光で蜜みたいに濃くなっていた。


 エドガー様は、入口の向こうに立っていらした。黒い礼装。ご家紋の花剣。髪を後ろに撫でつけ、いつもより僅かに、瞳の下に疲れが見える。


 ヴィオレが進み出た。


 わたくしは、大広間の脇の給仕用の扉から、細い隙間で覗いていた。給仕達と並び、盆を持ち、目立たぬように。


 ヴィオレは、エドガー様に向かって、膝を折った。挨拶の仕草。昨日、わたくしが教えた通り。


 エドガー様は、礼をお返しになった。


 そして——


 手を、差し出さなかった。


 ヴィオレは、右手を差し出した。わたくしが教えた通りに。しかしエドガー様の手は、動かなかった。


 ヴィオレの手は、空を掴んで、ゆっくり下がった。


 大広間が、静かになった。


(空振り、1回目)


 わたくしは、盆を構え直した。


 エドガー様が、口を開かれた。


「——ヴィオレ嬢」


「は、はい」


「香水は、ご自分でお選びになりましたか」


 ヴィオレは、少し誇らしげに微笑んだ。


「ええ。エドガー様がお好きな、白百合の香りに致しましたの」


 エドガー様は、一歩後ろへ下がられた。


(空振り、2回目)


 白百合は、エドガー様のお苦手な香りだ。わたくしは3年前、偶然そのことを知って以来、白百合を避けて、薄い菫の香りだけをつけていた。薄いと言っても、鼻を近づけないと気付かない程度の。ヴィオレが髪に結っているリボンより、控えめに。


 ヴィオレは、知らない。わたくしが教えていない。


 大広間のざわめきが、高くなっていった。お祖母様——ルートヴィヒ家の女主人——が、眉をひそめていらっしゃるのがちらと見えた。あのかたは、耳の聡い女性で、お嬢様方の違いを歩幅で聞き分ける。


 わたくしは控えの間で小さく祈った。どうかお祖母様、今日だけは聡くあらせられませんように。祈りの効果は、残念ながら、薄かった。


 エドガー様は、3歩目を踏み出された。


 ヴィオレの方ではなく、大広間の端へ。給仕用の扉の方へ。


(空振り、3回目。——控えていた私は、密かにカウントを取っていた。カウントが便利なのは、数を数えている間は、余計なことを考えないで済むからだ)


 エドガー様は、真っ直ぐ、扉の前に立たれた。


 そして、扉の向こうに立っていたわたくしに、手を、差し出された。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「——アリス嬢」


 扉越しに呼ばれた声は、初めて聞く呼び方だった。


 5年間、エドガー様はわたくしを「ヴィオレ嬢」とだけ呼ばれていた。一度も、わたくしの名前を呼ばれたことはない。


 わたくしは、盆を下ろした。


「エドガー様」


「その制服のままで構いません。どうか、こちらへ」


 扉が開いた。


 シャンデリアの光が、わたくしの地味な制服を舐めた。大広間の視線が、わたくしに集まった。給仕の衣装に、しみの目立つエプロン。手袋もしていない、剥き出しの指。


 エドガー様は、わたくしの掌に、ご自分の掌を重ねられた。


 その重ね方は、3年前の11月から変わらない。指先だけ、僅かに。わたくしの薬指の古傷を、避けるように。


「——僕の婚約者は」


 エドガー様は、大広間を真っ直ぐ見据えて、仰った。


「アリス・フォン・ラインゲート嬢です。5年前、このかたが僕の前に初めて立たれたときから、ずっと」


 大広間が、水を打ったように静まった。


 ヴィオレが、一歩、後ずさった。


「そ、そんな、お姉様、わたし——わたしは」


「ヴィオレ嬢」


 エドガー様は、穏やかに仰った。


「あなたが僕の婚約者だったことは、一度もありません。僕は、書類の上で妹君と婚約していたあいだ、一度も妹君にお会いしたことがない」


「で、でも、お姉様はわたしのふりをして」


「そうです。アリス嬢は、あなたの身代わりとして、僕の前に立たれた。——僕は、最初の半年でそれに気付きました」


 誰かが、小さく息を呑んだ。


 エドガー様は、わたくしの掌を、そっと持ち上げられた。


「半年で気付いて、なぜ告げなかったか。それは、アリス嬢が僕に、お茶の濃さを合わせ、散歩の速度を合わせ、腕の力加減を合わせ、庭のバラの棘を僕より先に見つけるかたであったからです」


 大広間の、どこかの令嬢が、小さく手袋で口元を覆った。


「アリス嬢は、僕の体調を合図なしで察し、僕が苦手な白百合の香りを避け、僕の右肩に息が当たる角度で椅子を引かれ、僕が昨日ご飯を食べ損ねたことすら、腕の重みで言い当てられるかたです」


 エドガー様の声は、大広間の奥まで、穏やかに届いた。


「——そのようなかたに5年の時間をいただいておいて、『気付かなかったふり』で返すほど、僕は卑劣な人間ではありたくなかった。ただ、名乗り出てくださる日を、待っていたのです」



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 大広間が、ざわめきに飲まれた。


 けれどそのざわめきは、ヴィオレを責めるものではなかった。むしろ、社交界の年長のご婦人方から、次々と声が上がった。


「やはりそうでしたの。——エドガー様の腕を取られる方は、いつも左手で裾を持たれる」


「挨拶のとき、膝の折り方が、ラインゲート家のお長女と同じでしたわ。末のお嬢様ではございませんでしたの」


「ヴィオレ様は今日が初めてのご登場でしたから、わたくし存じませんでしたけれど、5年間のお相手は別のかた、ということでございますわね」


「2年前のお茶会で、お嬢様が階段を降りる足音を拝聴しましたわ。軽快でしたのよ。ヴィオレ様のお足音とは、別でございましたわ」


 証言は、一つ、また一つと連鎖していった。


 社交界の記憶は、衣装や家紋ではなく、歩幅と裾と掌のかたちでできている。姉妹の別は、その細部で、すでに見抜かれていた。


 ただ誰も、それを「おかしい」と声に出す立場になかっただけだ。婚約者のお嬢様方のプライベートな特徴は、口にすべきことではない。——今宵までは。


 ヴィオレは、膝を折った。崩れるように。


「——わたし、お姉様がいないと、だめなのね」


 お父様が、静かに仰った。


「ヴィオレ。我が家の恥だ。エドガー様、——たいへんなご無礼を」


 エドガー様は、頭を下げられなかった。


「ラインゲート公、ご無礼はこちらでございます。5年間、アリス嬢を黙って務めさせたのは、僕の落ち度です。——ただし」


 エドガー様は、わたくしの指に、そっと口づけを落とされた。


「アリス嬢との婚約は、今宵をもって正式に、公に致します。王家には既に、お伝えしてあります」



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 エドガー様の後ろから、側近のルイス・フォン・ハルトマン様が、涼しい顔で進み出ていらした。


 ルイス様は、眼鏡を押し上げて、わたくしに深く礼をされた。


「アリス嬢。5年間、お見事な代役でございました」


「……ルイス様も、ご存じでしたのね」


「はい。——エドガー様がアリス嬢の髪を初めてご覧になった日から、毎朝毎晩、そのお話しかなさらなかったものですから、見苦しくてならず」


 大広間が、今度は笑いでざわめいた。


 ルイス様は、眼鏡の奥で真顔のまま続けられた。


「5年でございますよ。毎朝毎晩、5年。——私は、ご主人の婚約者のお嬢様ではなく、ご主人の独り言の方と婚約した心地でございました。先週の私の結婚式にエドガー様がご出席にならなかったのは、5年分の独り言の責を、おそらく無意識に取っておられるのだと、我が妻は申しておりました」


 エドガー様が、小さく咳払いをされた。


「ルイス。場をわきまえよ」


「わきまえておりましたら、この5年間はもっと短く済んでおりましたでしょう。私、エドガー様に『アリス嬢とヴィオレ嬢は別人ですと早く申し上げなさい』と、3度目のお茶会からお伝えしておりました。——3度目から、です。それを4年半、握り潰されたのはエドガー様ご自身でございますので、恨みは私にではなく、ご本人へ」


 お祖母様が、扇の陰で、はっきりと笑われた。


「大変けっこうですわ。誠実な男というのは、つまりこういう生き物ですのね」


 大広間中の笑いに、ヴィオレの嗚咽が小さく混じっていた。


 わたくしは、大広間の中央で、エドガー様の腕を取っていた。左手で、自分の裾を持って。右手を、エドガー様の腕に預けて。


 5年間、身代わりとして覚え込んだ所作で——いいえ、もう、身代わりではない所作で。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 王家のお使者は、夜会の最中に到着された。王太子殿下の直筆の書状が、開かれた。


「アリス・フォン・ラインゲート嬢と、エドガー・フォン・リヒター公爵令息の婚約を、王家の名において承認する。——なお、先に届けられていたヴィオレ・フォン・ラインゲート嬢との婚約は、当人同士の対面を伴わぬ名義上の記載として、ここに無効と致す」


 書状の読み上げは、短かった。


 ヴィオレの名前が消え、わたくしの名前が残った。


 ラインゲート家の当主であるお父様が、深く頭を下げた。


「——今後、ヴィオレには静養の場を用意致します。都にはしばらく、出させません」


 ヴィオレの嗚咽は、静かになっていった。本人が一番、分かっていらした。


 姉がいなければ、自分は何者でもなかった。いいえ、何者にでもなれた——けれど、姉の場所を欲しがったその瞬間に、自分の場所を失った。


 ヴィオレは、これから、姉の不在のなかで、自分の歩幅と自分の声と自分の香りを、ひとつずつ見つけていかなければならない。それは、本来、誰もが16歳のうちにやるべき仕事だった。ヴィオレだけが、姉の身体を借りて、その仕事を先送りにしてきた。


 けれど、それはもう、妹の仕事だ。


 わたくしの仕事ではない。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 夜会が引けて、わたくしは、庭のバラ園の脇に立っていた。


 エドガー様が、隣に来られた。


「——5年間、気付いていてくださったのですね」


「気付いたというより」


 エドガー様は、遠くの月を見て仰った。


「気付かない方が、難しかった。あなたはヴィオレ嬢のふりをされていましたが、3度目のお茶会の頃から、あなたはあなたの息の仕方をされていた。吐く息が、僕の右肩に当たる頻度で、あなたがいまどれだけ考えていらっしゃるか、僕には分かっていた」


「……それ、ずいぶんな観察でございますわね」


「ええ。——だから僕は、5年間、あなたの息を聞いて暮らしたのです」


 わたくしは、笑ってしまった。5年ぶりに、自分の声で笑った。


 エドガー様は、わたくしの手を、もう一度取られた。


「なぜ、名乗り出てくださらなかったのですか」


「ヴィオレが、快復するまでの約束でしたから」


「ええ。その約束が、あなたとヴィオレ嬢の間のものであったことは、存じています。——それで、どうしても果たされたかったのですね」


「はい」


「それを知っていて、僕はあなたを、5年待ちました」


「存じております」


「もうひとつ、僕がずっと申し上げたかったことが、ございます」


「——何でございましょう」


 エドガー様は、わたくしの薬指の古傷の上に、もう一度、口づけを落とされた。


「階段の3段目が軋む音と、あなたの足音が揃わない日は、僕は、その日一日、上手に呼吸ができませんでした」


 5年分の、わたくしのために引かれていた境界が、そこにあった。


 書物にも、帳面にも、署名にも、契約書にも残らない、身体だけが知っている、5年分の境界。


 わたくしは、泣いた。


 生まれて初めて、自分の涙で、自分の頬を濡らした。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 翌朝、わたくしは、ラインゲート家の玄関を、もう姉の顔で出なかった。


 公爵家から迎えの馬車が来ていた。エドガー様は、御者台の隣に立っていらした。運転手ごと、わたくしを迎えに来ると仰って、きかなかった。


 階段を下りるわたくしの靴音は、エドガー様の靴音と、同じ拍で並んだ。


「アリス」


「はい」


「今日から、名前を呼びます。本当の名前を」


「はい」


「朝食の紅茶は」


「濃いのを」


「存じております」


 わたくしたちは、階段を下り切った。3段目の軋みを、エドガー様は、昨日と同じように、避けて降りられた。


 わたくしは、今日は、避けなかった。


 軋みが、背中の方で、小さく鳴った。


 5年分の代役の、最後の音だった。



 ——ヴィオレには、後日、長い手紙を書いた。姉として。


 妹として、別の場所で咲きなさい、と。


 バラ園のバラは、枝を切り、土を変えれば、違う色で咲くらしい。ヴィオレは、たぶん、それができる子だ。姉の場所でなくても、自分の場所で咲ける。


 ——わたくしのように、5年かけて覚え込んだ誰かの足音を、ようやく返したあとの、自分の足音で。


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