提案
________たった数ヶ月前。
その日が来るまで、俺は世界一幸せだった。
右目にこの傷ができる前の話、と言ったら早いだろうか。
◇ ◇ ◇
雲ひとつない、暖かな春の日だったんだ。
「ねえ、ブライアン。今日はちょっと離れまでお散歩に行かない?」
マーガレット子爵家の一人娘、シンディ・マーガレットはひどく自由気ままな少女で。
周りの人々はそれに困っていたが、同時に魅力だとも知っていた。
「それはまたずいぶん急だな」
五年前、シンディが魔物に襲われているのを偶然助けたことをきっかけに、俺達は婚約者となった。
ただの平民でしかなかった俺の家にお義父さん______いや、子爵までやってきて『娘と婚約してくれ』なんて言ってきた日には、父が腰を抜かしたのを覚えている。
「ふふ。だってそういう気分なんだもの♪」
「……君が行きたいのなら、拒みはしないが。」
初めはただ『不思議な少女』でしかなかった彼女は、共に日々を過ごしていく中で、俺の全てになった。
「貴方のそういうところ、大好きよ!」
だからこそ。
その誘いを断っていたら、だなんて。
際限なく考えてしまうんだよ。
◆ ◆ ◆
「見て!子うさぎちゃんだわ。白いうさぎだなんて、うちの領地では見ないし__ふふ。何か良いことでもあるのかも!」
シンディは良い意味で貴族令嬢らしくない少女だ。
自然や動物を愛すだけじゃなく、木登りまでし始めた日には、お義父さんが泣いていた。
「ねえ、今度ピクニックに来ない?」
「シンディがまた卵焼きを焼いてくれるのなら、喜んで」
「ふふっ。もう……甘えん坊さんね!」
木漏れ日の揺れる森の中。
眩しい木漏れ日と笑顔に目を細めながら、右目のあたりを無意識にこすった。どうしてかその日だけ、少しだけ違和感があった気がする。
一緒に歩いて、シンディが豆知識を教えてくれて、ピクニックをして、たまに手なんか繋いで。
俺はこんな幸せがずっと続くと、本気で思っていた。
______「アナタ、すごク美しいわね!」
一瞬だった。
「っ?!」
「あら、ごきげんよう!先客がいらっしゃったのね」
「………離れろシンディ、そいつは………」
「“そいつ”だなんテ失礼しちゃウわ!」
純白のワンピースに、虹色のように輝く瞳に髪。 一見『変わった女性だな』で終わるように思えるが___
「(魔力量が半端ない……!)」
普通の人間じゃまずありえない。
聖女や勇者と呼ばれる存在だと考えるにも、魔力から放たれるオーラはあまりにも凶悪過ぎた。
「……ブライアン、どうしたの?」
「ごメンね、急に来タから驚かせチゃったカな?」
無害そうに微笑むソイツは、軽い足取りでこちらへ近づいてくる。
「(逃げたいのに……足がすくんで動けない)」
「落ち着いてブライアン。ごめんなさいね、私がこの前魔物に襲われかけてからずっとこうで………」
「ソれは大変!無理モなイわ、魔物だナんて汚らシイモノに、美しい貴女が傷つけられる所だったなんて!」
近づくな
近づくな
近づくな!
「ネえ、ソコでワタシに提案があるンだけど……」
「提案?」
お願いだ
お願いだから、
それ以上____
「魔族に預けテミる……ってイうのは?」
ぷちん。
刹那、シンディの髪紐が千切れた。
次第に指先から凍るように、シンディの身体が静かに、けれど確実に氷の中に封じられていく。
息を呑む暇もない。指のぬくもりも、声も、すべてが。
「___な、……んで」
「キミはもう少しカなあ。シンディちゃん?だけ先連れてっちゃうネ!」
「どこに連れていくっていうんだ!シンディは俺の………」
唇に触れた、ソイツの人差し指。
「魔王城♡」
「ワタシね、魔王様が大好きだかラ、四天王やってルンだあ♡ いつかキミもおいで。ジュースでも出しタげるよ〜」
____シンディを包んだ氷のかけらが俺の右目を裂いた。
今も、その傷が俺の視界に居座っている。
ずっと、彼女がそこにいるように。