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川に傾く

 最初に気づいたのは、初夏の真夜中。部屋の中で、ペンを机から落とした時だ。

 思いもかけずそれは意思をもったように床を転がり続け、壁ぎわに置いたラック下に吸い込まれてしまった。

 ようやく思うように描けて来たところだったのに、軽く舌打ちして椅子に座ったまま上体を前倒しに折る。見える位置だったらそのまま拾える。しかし、意外にも私はそのまま前のめりに椅子から滑り落ちた。えっ、そんなに体が硬かったっけ?

ようやくペンを拾い上げ、続きを描こうと机の前に座る。手描きイラストを送り合う約束を数人の『身内』としていた、次のチャットまでには仕上げたい……しかし、何かが気になった。

 机の端に置いたガラス瓶からビー玉を取り出し、そっと床に置く。

 思った通り、ビー玉はゆっくりと床を転がり始めた。

 家が傾いていたのだ、川の方に向かって。


 犬の散歩から帰って来ると、見慣れた白いバンが家の前の空き地に停まっていた。少し大きな川を背にずらりと一列に並んだ住宅地、そこを管理している五藤不動産の車は、ナンバーがすべて「510」だからすぐ判る。川の上流側にあたる数件先から、背の高い作業着の男が汗を拭きふき出て来た。すぐ顔をそらしたが、向こうも気づいたようだ。

「美咲、久しぶり」仕方なく立ち止まる。

 五藤薫、小学5年から中学までの同級生だ。彼は大股で近づいてきて、駆け寄ろうとする大きな雑種の犬に両手を広げ、ぐいぐいと全身を撫で回した。

「よーし、ラブ、相変わらず元気だなあ」いつもは他人に警戒心が強いはずなのに、犬は尻尾を激しく振っている。

「美咲も元気そうじゃん」見上げても逆光で表情が見えにくい、すぐに目をそらす。

「引きこもりだからもっと元気じゃないと思った?」

 いっしゅん、ことばに詰まったようだが、すぐに昔みたいなズケズケとした言い方になった。

「引きこもってんの? 高校は卒業したって聞いたけど」

「通信だけどね」

 4年かかって卒業はできたが、その後も何もやる気が出ずに、ずっと家にいた。

「仕事は? それとも大学行ってるの? また通信?」

 ムカッときて、彼をまともににらみつける。

「関係ないっしょ、アンタに」

 いやごめんそんなつもりじゃ、と口の中でもごもごと言っているようだ、犬にまとわりつかれて、その対応に追われているフリをしながら、薫は話題を変えた。

「鈴野さんちと、青木さんちに呼ばれてさ」

 並びの一番上手側が鈴野家、さっき薫が出て来た数件先が青木家、並びの一番下流側が私の家だ。全て五藤が管理している。

「外壁にヒビが入って段々ひどくなってきたんだって、他にもちょこちょこ」


 我が家の場所、川の並びの13軒は12年前に造成されて一斉に戸建て賃貸住宅が立ち並んだ一画だ。

 近隣は他にも五藤が管理する物件が多い。ガスや水回り、外装内装の業者にも顔が利くのでクレーム対応も早く確実で、顧客からも頼りにされていた。


 私が田舎町のここの小学校に来たばかりの時、同じクラスに薫がいた。

 人一倍アクが強く目に映った。いつも最新の服装や文具を自慢して、リーダーシップもあり、取りまきも多い。背も高く、勉強はそこそこだがスポーツが得意。女子からはよく苦情を受けていたが、バレンタインチョコの獲得率は常にナンバーワンだったようだ。

 転校してふた月ほど経った時の昼休みのことは忘れない。

 何かと付きまとっていた女子連が、私のそっけなさに愛想をつかし、少しずつ離れていった、そんな中私はひとり、空き教室で本を読んでいた。当時大好きだったシリーズものの最新刊、夢中になって読みふけっていた私は、背後からの大声に文字通り椅子から飛び上がった。

「おい、そんな面白いのか、それ?」

 五藤薫がにやけた顔で立っていた。

 自分の大切にしている世界に土足で踏み込まれたような気分だった。「面白いのか? 何て本?」

 突然ごつい手を伸ばしてきた彼を突き飛ばすように、私は振り払って外に飛び出した。


 それは中学に上がってからも同じだった。人付き合いが苦手な私には一番合わないタイプだ。なんでもズケズケと尋ねたり、こちらが嫌がることを勧めてきたりと、無邪気さと意地悪さとが常に同居していた。


 中三に入ってから学校に行けなくなった、原因ははっきりしない。でも、時々郵便受けに入っていた、切手の無い封筒を開けるたびに、相変わらずのガサツな文字で

「学校来いよ!!!」となぐり書きされているのを見て、ますます嫌な気分になった。

 そう、原因のひとつは確かにヤツだ、あんなあけすけで、気遣いもなく、ぶしつけで、自分は正しいと信じ切っているような奴が、ほんとうに嫌いだった。

 終いには封筒を開けることなく、卒業してから手紙が届かなくなるまで、ゴミ箱に捨てていた。


 たまに仕事ついでと言いながらこうして近所に顔出ししているようだったので、できるだけ避けていた。向こうも少しだけ大人になったのか、わざわざ訪ねてくることはなかったが。

 彼を前に、体が硬直してつま先は既に我家に向いている。

 その時、何か言いかけた彼の胸ポケットでスマホが軽やかに鳴った。あっ、じゃあな、と薫は片手を挙げてきびすを返す。「もしもし、はい」薫の声が遠くなり、私は、ほおっと大きく息をついて、家に戻った。


 家から少し下って左に折れると、小さな橋が架かっている。その橋げたにもたれ、我家のある川の上流をぼんやりと眺めるのが好きだった。

 左岸に並ぶ住宅地の裏側にはずっと緑色の土手がのび、春は菜の花、秋は彼岸花が華やかにそこを覆う。反対側の土手は桜並木で、工場や倉庫の多い景色を和らげている。

 その秋も、赤い彼岸花のじゅうたんを写真に収めようと、橋の上でスマホを構えた。画面の真ん中に傾きが表示される。傾きの数値がゼロになるよう慎重に合わせ、シャッターを切った。

 撮れた写真を見直して、今度はもう少し注意深く見つめる。

 隣の家、敷島さん宅の外壁は二階までまっすぐ見通せる場所なのだが、なんとなく少し傾いているように見えた。

 家に着くとパソコンを立ち上げ、先ほどの写真をダウンロードして、もう一度じっくりと眺める。念のために、昨年、一昨年、そのまた前に同じ場所から撮った画像も引き出してみる。グリッド表示でようやく、現在の壁が1度ちょっと川側におじぎしているのを確信した。


 氷が薄く川を覆う頃、五藤のバンはほぼ毎日のようにやってくるようになった。そして、背広姿の連中や作業服の一団も。

 その頃には、川に沿う家々のほとんどすべてが、『傾き』に気づいていた。

「原因がハッキリしてないようだけど」母がキッチンで片付けをしながら言った。

「もし立ち退きを要求されたら、どうしましょう」

「五藤は何て言ってるの」父はテーブルについて新聞を広げているが、足元の犬をよけ切れずに足をあちこちさ迷わせている。「こっちの責任じゃないしな? だったら金はもらえるだろうさ」

「でももし、立ち退きになってもどこに住めばいいんでしょうね」母がちらりと私を見たようだが、知らん顔でテーブルを拭いた。

「今に説明会やるんだろ? 五藤の他の物件に移れるかもだし」

「遠くには行きたくないな……」

 母は来た当初から、この庭付きの家が気に入っていた。母は花が好きで、川辺の景色も大好きだった。何なら買取ができないかな、と言っていたこともあった。

「おとうさん、説明会、ちゃんとあなたが出てくださいよ」

「ええ? 仕事があるからな」

「あと洗濯機の排水、早くみてくださいよ」

「こないだ調べたけど、分からなかったよ、修理頼めば?」

「パパ、新聞がジャマ」台拭きを滑らせて父の拡げた新聞をどかすと、片隅の記事が目に入った。

『地下水が原因? 村の全戸水没、深まる謎』


 桜がほころびる頃には、もう少し騒ぎが大きくなっていた。

 橋に行って、また写真を撮って家で確認する。傾きはもう2度ほど増えているようだった。

 何度も測量が入り、近隣住民への説明会もじきに二回目が行われるらしい、そんな折、久しぶりに510のバンが朝から空き地にやって来た。前のめりに止まり、あわただしくドアを開けて降りてきたのは、薫だった。

「よかった、今からラブの散歩だろ」時間を知っていて寄ったのか。

「父ならもう仕事に行ったけど」

「お前に話がある」真剣な目つきにどきりと胸が鳴る。

「あのさ……」言いながら薫は急に犬に目を落とした。それから意を決したように

「急ぐからあんま言えないけど、あのさ、この家から出てけよ、すぐ」

 は? とつい口調が尖る。ナニヲイッテルンダコイツ?

「あ、そのさ……ええと」また胸ポケットでスマホが鳴る。ちっ、と舌打ちして画面をみて、慌てて彼はこちらに目をやった。すでに車に向かっているがこう聞こえた。

「いいか、早く出てけよ」車に乗り込むと同時に電話先のどこかに「はい今行きます」怒鳴るような口調を向けている。

 ナンナンダアイツ? 犬も同じようなことを思っていたらしい、振りかけた尻尾が宙で止まったままだった。


 風呂にのんびりと浸かっている時でさえ、気づくようになっていた。

 頭側が高く、足側の縁が低い、川の方に向かって。

 私はなるべく肩を沈めようと頭を下げる。膝小僧が湯から出てしまい、ひんやりとする。

 はあ、と息を吐いてぼんやりと壁を眺めた。

 淡いベージュがかった渦巻や流線形の模様が浴室の壁を覆っている。引きこもった最初の頃はゲームばかりしていた頃、急にある晩、この壁の模様に、ゲームのキャラや画面がぴたりと当てはまって見えるようになった。慌てて母を呼び、壁を確認してもらったがそんな模様はひとつも見えない、と突っぱねられた。引きこもり生活に対しては甘く、いつも肯定してくれる両親だったが、この時には頑として否定された。恐ろしいものを見る色がわずかに母の目に見えてから、私はううん、気のせいかも、とごまかし、後は黙っていた。

 それからも、しょっちゅうそんなことがあった。壁の模様の濃淡が勝手に画像を結ぶ。見えるのは、その時にハマっていたゲームや趣味、ネット関連、PCやスマホの画面越しに目に触れる内容がほとんどだ。そのうちに、単に網膜の疲れから起こる現象だと気づいて、まったく怖さは感じなくなった。

 今夜もまた、壁には絵が浮かんでみえる。今では私の生活の一部となっているようだ。近頃は趣味をきっかけにSNSで知り合った『身内』で盛り上がっているアニメのキャラクター、それが微妙に歪んだ微笑みであちこちに浮かんでいる。グリッド線までついているように見える。それは最近ずっと、傾きを気にしているせいなのかもしれない。


 ペンを落としてそれに気づいてから、早くも1年が経とうとしていた。

 家々が徐々に静かにそれでも確実に川に傾いていく中、説明会は繰り返されていた。父も、母も時々夜に出かけて、ある時は目に怒りを浮かべ、ある時はうつろな表情で、またある時は吹っ切れたように明るい顔で帰ってきては、判で押したようにこう言った。

「どうしようもないね、ほんと」

 もちろん、どの話し合いにおいても、立ち退きについては一切触れられていなかった。

 その頃には全国的に話題になっていたのだから、どうしようもないというのは私ですら解っていた。

 そう、この国はどこもかしこも傾き、沈みつつあったのだ。

 私の住んでいる川沿いが、その中の最も早い方の一員であった、というだけで。


 対策会議室、と名のついた国のエライ人たちが、ぱりっとした真新しい作業服と真っ白なヘルメットで視察に来たのは夏の終わりで、その頃マスコミもよく訪ねてきた。

 510のバンが数台ついて来て、色んな人に色んな説明をしているのが遠目からも見えた。薫もその中のひとりに混じり、じりじりと照り付ける太陽の下で汗も拭かずに両手を振り回して何かを訴えていた。

 犬の散歩中にいっしゅんだけ、遠くからだけど目が合った。薫が駆け寄って来るのでは、と私は足を止めた。彼は、何か言いたげに口を半開きにしたがすぐに、目の前の訪問者に掛かりきりになってしまった。

 

 冬の間はまだ、お風呂に入ることはできた。春になって少し暖かくなった頃。

「ねえおとうさん……よいしょ」母が浴室から出て来た。浴室から出てくるのには居間に上る気分で足に力を入れる必要があった。

「お湯が出ないの、給湯器が壊れたみたい」

 裏庭に面した窓を開けると、土手の向こう側に川面がまともに見えるようになっていた。川はもともと水があまり多くなかったが、家が傾き出してから少しずつ、水量が増していた。そして、いつも濁っていた。

 固定していない家具は倒れ、床にひびが入った。

 近所も似たり寄ったりだった。そして、他所も多かれ少なかれ、被害が出始めていた。海辺のある地区は高波にのまれた、都市部に近い住宅地は液状化現象で家屋が次々と沈んでいった。私たちのように、土手が崩壊を始め、川に滑り落ちる家も多くなってきた。


 また夏がきた。ネットで知り合った『身内』6人のうち3人はすでに他所に避難したという。他のひとりは連絡が取れなくなり、もうふたりは今のところ、特に暮らしに変化はないらしい。「ななめってるけどねー、ウチも」一番年下のニキが、そう言って笑った。

 その日のチャットが、最後だった。


 テレビ番組も半分以上は放送休止となり、新聞も届かなくなった。電力供給は不安定になり、父の会社も来週から無期限休業だという。父は押し入れからラジオを出してきた。深刻な声音のニュース解説と、むやみに明るい音楽とが雑音の中、交互に流れていた。


 日曜日のことだった。テラスでお茶しましょう、と母が言った。久々のことだ。父がラジオを置いて、テラスのテーブルの脚をJAFから届く薄い雑誌を積んで揃え、きちんと水平に直した。私はカセットコンロの火を止めてヤカンを持ち上げた。キッチンはすでに使えなくなっていた。

 テラスから眺める前庭には青紫のセージがもくもくと咲き誇り、日当たりのよい場所にはカミツレが白い花弁を揺らしている。庭は平穏そのもので、ラジオからはボサノバが控えめな音量で流れていた。だから、家の中から時折聞こえる、ものの倒れる音や、どこかがきしんで折れる音をあまり気にしないで過ごす事ができた。更に目をこらして、前の空き地のさらに向こうを眺めると、今までは乾いていた場所、低いところにいくつか水たまりができているのが分かった。川だけではなく、今では水はどこにでも湧いて、領地を広げようとしていた。


 たぶん、この日曜がここで過ごせる最後の日曜なのだろう、と漠然と思った。もしかしたら、今日が最後の日なのかもしれない。それでも、父も母も家を離れるとは言わなかった。

 13軒のうち上手の6軒は既に流されていた。そのうち4軒は、家族を載せたまま流れていった。流される前にもう少し危なくなさそうな所に引っ越した家族もいた。そのうち1軒は海外だったが、父曰く「あっちは、治安が悪いからな」と。

 地面が悪いより治安が悪い方がまずいのだろうか、私はぼんやりと、かたわらに寝そべる犬を撫でながら、母の入れてくれた紅茶をすすった。氷もあまり作れないので生ぬるかったが、それでも体に沁みる香りだった。少し上流側からずん、と地響きがして、テラスの下に泥濁りの波がゆらりと押し寄せ、すぐに引いた。川の方を向かなくても分かった。また、上手の家が流されていったのだ。さようならあ、と遠くから声がしたような気がした。

「小島さんちね、さっきの」

 母がカップを宙にとどめたまま、遠くを見てつぶやいた。

 急に、犬が頭をあげた。小刻みに尻尾を振っている。

 目をやると、空き地に白いバンが滑り込んだのが見えた。ドアを開ける間ももどかしいように、中から小汚い作業着の薫が飛び出して、まっすぐ、こちらに向かって駆けてくる。

「あら、五藤くん」

 母が立ち上がる。「こんにちは、久しぶり、忙しそうね?」

 薫は息を切らしている。髪もぼさぼさで、もう少しとかせば少しは男前なのに、とちょっと意地悪な気持ちになってカップを差し出した。「お茶飲みますか」

「あの、山根さん、お宅は、」

「なんだい」父がのんびりと問い返すと、薫はごくりとつばを飲んで、ようやく続けた。

「ここから逃げないんですか?」

 父と母とは顔を見合わせる。母がとぼけたように首を傾げ、父が代表して答えた。

「出ないねえ」

「では、美咲さんはどうなんですか」

 ようやく、薫はまっすぐ私を見おろした。「美咲は出て行く気はないのか」

 答えられなかった。

 ここを出て行くという選択肢は、びっくりするくらい私の中に無かったから。でも、正直にそう言えばまた、問い詰められる。何故? と。

 それが怖い。真剣な彼の目が怖い。私は目を伏せた。犬は心配そうに私を見ている。薫ではなく、私を。

 ぎりぎりぎり、と連続した音が家の中心あたりから響く。みしり、と大きくテラスが揺れ、掃き出し口とテラスとの間がぱっくりと大きく裂けた。

「美咲さんを、連れて行ってもいいですか」薫が泣きそうな目で父と母に問う。早口になっている。「もう時間がありません」

「それは」父の口調は珍しく、きっぱりとしたものだった。

「美咲本人に聞いてもらわないと、なあ?」

 母は笑いながら、すでに家の中に入ろうとしていた。

「おとうさん、本棚だけでも押さえておかなくちゃ」

 父も続く。父の脇から母が覗いて、薫に言った。

「美咲が良ければ、ぜんぜん」

 私は顔を上げる。喉の奥が熱くて痛い。枯れた声で彼に問いかける。

「連れて行く、って? 一緒にいたい、ってこと?」

「もちろん」薫はごつい腕を伸ばす。「ずっと、ずっとすきだったから」

「犬は?」テラスと家との距離が更に開く。私は慌てて立ち上がり、犬を抱き寄せる。

「もちろん、」薫は犬をも抱えようともう一方の腕を伸ばした。

「ラブも、もちろん一緒に。来てくれる?」

 流れ出そうとしていた母屋から身を引きはがし、私は犬を抱いたまま、思いきり薫の方にジャンプする。


 そう、犬の名前をつけたのは小学6年の薫だった。空き地で仔犬を抱いて、珍しく泣いていた。気になって近づくと、急に振り返って言ったのだ。ねえ、美咲んち、犬飼えない? って。勢いに負けてついうなずいた。近いうちにどこかで犬を探そうか、と家族で話していた矢先のことだった。そこに、薫の泣き顔が割り込んだのだ。

「家じゃあ、飼えないって……ラブを」

 笑えるより先に、胸が締め付けられた。もう、名前までつけていたんだ、って。

 だからこの犬の名前を呼ぶのが、嫌だったんだ、ずっと今まで。


「うん」大きくうなずいて、薫の腕をとる。「ラブも、連れて行って」

 ラブもひと声、大きく鳴いた。

 白いバンに駆けて行く時、一度だけ家の方を振り向いた。既に父と母の姿はとぷん、と一度揺れてから大きな川へと流れゆく家の中に消えていた。




 周りを泥濁りの水に囲まれた高台、そこに私たちは住んでいる、薫と私、そして年老いたラブと。その地に残った人たちといっしょに舟を作りながら。

 不動産業を長くやっていた薫の父親は、自分が流される前に息子にその土地を教えたのだそうだ。

 それでも、いつかはここも沈んでしまうだろうな、と薫が静かに言う。

 でもそれまでには、間に合うよ。私は大きくなったお腹に手を当てて、ゆっくりと立ち上がる。

 うん、この子が生まれる頃には、もっと希望もあるかもね。そういう薫は今ではすっかり穏やかな口調で私の後ろに立ち、一緒に水面を眺める。

 渦巻く水の中に何かを見たような気がした。それはかつて夢中だったアニメのキャラだったのか? それとも。

 渦がつながって見える中に、確かに見えた気がした。

 遠い昔に流れていった我が家と、その屋根で悠々とお茶している父と母とが。

 コンロの下には相変わらず、JAFの冊子が敷かれていて、ラジオからはボサノバがひかえめな音で流れている。

 父がきまり悪げに片手を挙げ、母は微笑む。

 幻影はかなりはっきりしていたんだろう、薫は軽く手を挙げて応え、そして、ラブが短く吠えてぶんぶんと尻尾を振った。



(了)

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