瑠海ちゃんと小柳くん
『こやなぎくんのことが、すきです。
わたしのボーイフレンドになってください。』
私、古山瑠海がそう手紙に書いたのは、1年2組の顔と名前しか知らない男の子だった。
そもそもそんな手紙を玄関の下足箱に入れたのは入学して生活に慣れてきた2学期、仲良くなった友達の奈緒子ちゃんが最初に話題をあげたからだ。
「後藤くんってかっこいいよね!」
「わかる! ボーイフレンドにしたい!」
いつも一緒の美桜ちゃんは言う。
二人とも、多分私よりも心が成熟した子達だったんだと思う。
だけど小学校1年生。周りの子どもたちはみんな友達という認識しかない私に、ボーイフレンドというものは分からない。
そんな二人の会話から外されるのは嫌だと感じていた私は「瑠海はどう?」と奈緒子ちゃんに聞かれた時、答えてしまった。
「え? うーん、私は小柳くんの方が好きかな」
確かに後藤くんはかっこいい。
スポーツをやってて、色んな女の子から何故かキャーキャー言われているのを知っている。
今やっとその理由を知ったわけだけど、でも私は…同じ子を言うのも嫌だった。
だからと言って、どうして彼に白羽の矢を立ててしまったのかは分からない。
ふと他のクラスの男の子で浮かんだ子の名前を挙げただけだった。
「じゃあ手紙書こ! ラブレター!」
美桜ちゃんは言う。
ノートを破って、文章を書いて、可愛い柄を鉛筆で書いて。
そして皆で折り畳んで、下駄箱に入れた。
私にとっては嫌われないための儀式。
だけど結果は…予想外のものだった。
「お手紙、ありがとうって言われたけど…ごめんねって断られちゃった」
「私もー。瑠海ちゃんはどうだった?」
「えっと……よろしくねって、言われた…」
そう、快諾されてしまったのだ。
一人だけ人気から外れた男子を選んだ私は、小柳くんに呼ばれて「お手紙ありがとう。よろしくね」と笑顔で答えられてしまったのだ。
「そうなの!? 瑠海おめでとうー!」
「お付き合いするの? いいなぁー」
二人は言う。
でも当然『ボーイフレンド』が分からない私には『恋愛』も『お付き合い』も分からない。
ただ普通の友達ではない、という認識だけを持って小柳くんと遊ぶことになった。
小柳拓翔くん。
初めて一緒に遊ぶ日、家の場所を教えてくれた。
とても頭が良くて、色んなことを教えてくれた。
主夫のお父さんが居て、小柳くんと同じで笑顔が素敵な優しい人。
「へえ、ガールフレンド? 拓翔もやるねぇ。よろしくね、瑠海ちゃん」
思えばこのお父さんは、この時から分かっていたのかもしれない。
1年生という子供のお付き合いだから、遊びだということに。
毎日通って、遊んで。
私の分からないことを教えてくれて、よくクイズを出して。
拓翔くんもよく、私に付き合ってくれたと思う。
学校でも顔を合わせたらおしゃべりするし、お家に遊びに行くし、2年生になっても、3年生になっても、ずっと遊んでくれた。
だけど残念なのは、同じクラスになれないことだ。
奈緒子ちゃんや美桜ちゃんとは一緒になれるのに、何故か拓翔くんとは一緒になれなかった。
拓翔くんも習い事を始めて、少しずつ会う頻度が減って、4年生。
またもや同じクラスにはなれなかった。
私と拓翔くんは、どうやらそういう運命ではなかったらしい。
今年のクラス替えは今までと違ったからだ。
3年生からなんとなく感じていた。
忘れ物が多くて、宿題ができなくて、周りに意識を向けられない、人並み外れて"みんなと違う"私は少しずつ周りに嫌われていた。
その理由すらも、理解できなかった。
「瑠海ちゃん、最近大丈夫?」
案外長いとも感じるお付き合い。
4年生になっても、唯一一緒に遊んでくれる拓翔くんは言う。
「え? なんで?」
「だって、最近の瑠海ちゃん笑ってないから。学校、嫌?」
「ううん、そんなことないよ。楽しい!」
嘘だ。
でも、拓翔くんの前で正直に言えなかった。
自分が嫌がらせを受けてて、その理由が分からなくて苦しくなってて、自然と笑顔が消えていく自分に気付けなかった。
仲良くしてくれる拓翔くんにも嫌がらせが来たら嫌だなって思った。
だから、咄嗟に嘘をついてしまった。
「ならいいけど…何かあったら教えてね? 瑠海ちゃんの力になりたいから」
「うん、ありがとう」
この会話が、この日が、拓翔くんと最後。
私はこの日を境に…拓翔くんとは会えなくなった。
嫌がらせはイジメとなって、仲間はずれにされたり物を隠されたり、問題を間違えたらクスクスと笑われるようになった。
お前の言うことは可笑しい。間違っている。下手くそ。汚い。嫌な奴。
そんな風に嫌われるようになって、周りから人がいなくなって、私はあっという間にクラスの除け者になってしまった。
一緒に喋ってくれる美桜ちゃんは離れて、去年まで家が近くて遊んでくれた奈緒子ちゃんも転校して、私は完全に一人ぼっちになった。
他のクラスの人にも嫌われ始めた。
本格的に拓翔くんにも会えなくなった。
きっと、彼にも被害が及ぶと危惧してたんだと思う。
このイジメがいつまで続くか分からない。
それなら誰も、私と仲良くないほうがいい…本当は行きたくなかったけど、親は「お金を払ってるんだから行きなさい」って言うから。
私はずっと一人で過ごすことを選んだ。
中学生になった。
結局イジメは卒業するまで終わらなかった。
このままエレベーター式に上がって、他の小学校からも生徒が増えただけの中学校。
でも今までの生活は嫌だから、少しでも印象を良くしようと心機一転で学校生活に臨んだ。
自分はなんて浅はかな人間なんだろうなって思う。
だって上辺だけの自分を取り繕ったって、無理なものは無理。
ボロは確実に出るのだから。
6月の中旬、風邪を引いた。
ここ数日、気温が高かったり低かったりを繰り返して、耐えられなかったのだ。
結果、1週間ほど休むことになった。
だから学校にまた通えるようになった時、私はびっくりした。
だって仲良くなった友達は皆顔を合わせた瞬間嫌な顔をして背けたからだ。
私は知っている。
それは、貴方は嫌われているよという合図。
他が嫌ってるから、私には関わらないでという合図。
嫌な予感を覚えながら席に座って、ただ机を眺める。
クラスの何処かで、ヒソヒソ声が聞こえた。
「古山、わざと学校休んだんだってよ」
「まじかよ、ずりぃなあー」
「ゲーセンで遊んでるとこ見たらしいぜ」
誰かがそんな嘘を言ったのだろう。
このクラスには小学校の頃から私を虐める主犯格がいる。
だから私をまた標的にしようと休んでる間に広めたのだろう。
これがきっかけ。
私はまた、更に3年間一人ぼっちになることが確定した。
どうして友達が作れないのだろう。
どうして誰かと遊ばせてくれないのだろう。
勉強ができないから?
あんなにも熱が出て咳込んで苦しんでたのに、自分の身も守れないほど身体が弱いから?
もう拓翔くんの存在すら、完全に忘れていた。
仲のいい人なんて、いたっけ。
楽しい時間なんて、あったっけ。
いつからこんな事が続いて、いつになったら終わるんだろう。
そんなことばかり考えるようになって……私は決意をした。
「高校は絶対、皆が居ないところを選ぼう」
幸いにも、この中学は周りの高校が賢いところばかりだったから勉強のレベルも高かった。
当然最底辺だった私は勉強することすら諦めて、でも周りのみんなはそうじゃない。
学年が上がれば当然のように上の高校を目指そうとしている。
イジメなんて、勉強の休憩のようなもの。
自分が勉強に疲れるからその腹いせに起こすようなもので、学年が上がれば、勉強に必死になっていけば薄れていく。
部活もしているし、皆私に構ってる暇などないのだ。
私はずっと一人だけど、気にしなかった。
落ちこぼれや同じくいじめを原因に不登校になる子が集まる高校を目指すことを早くに決めたから、気が楽だったんだ。
2年に上がって、3年に上がって、その度に私は羽根を伸ばす。
自由気ままに、自分が底辺で全部諦めたことを棚に上げて。
皆は私が虐められていたことを忘れて、寧ろそんな余裕もないくらい必死になって。
その間に定時制高校の推薦入学で合格を貰い、一足先に高校へ余裕を見せていた。
性格が悪くなった私は、完全に周りのみんなを見下していた。
高みの見物状態だった。
「瑠海ちゃん」
そんなある日、自習をしていた私に誰かが声をかけた。
何年、誰も私に声をかけなかっただろう。
懐かしさも感じないくらい、ただ私に声をかけるなんて変わり者だなって思った。
「……何? …拓翔くん…」
だから、びっくりした。
高校の合格者だけが集まる教室。
自由に座れる席で、当然のように教室の一番後ろの端席に座る私の前に、拓翔くんはそれこそ当然のように前の席に座って、私に身体を向けていた。
「久しぶり、瑠海ちゃん。まだ名前で呼んでくれるの、嬉しいなあ」
当時同じような身長だった拓翔くんは大人びて、私よりも大きくて…声も低くなっていた。
それなのにその笑顔は拓翔くんのお父さんのように優しくて、こんな私にどうしてそんな顔を向けてくれるのか分からない。
「どう、して……ううん、どうしたの?」
「この前高校の推薦入学、合格貰ったんだ。瑠海ちゃんも貰ったの?」
にこりと拓翔くんは笑う。
かっこいい…よりは可愛い笑みだけど、今の私にはなんと罪深い。
寧ろ嫌われ者の私に笑いかけてくれるとも思ってなくて、きっと拓翔くんも私のことを忘れてると思っていた。
私も、話しかけられてやっと拓翔くんが懐かしいなって思ったから…。
「う…うん…一応ね…」
「そっか!瑠海ちゃんが楽しめる学校だといいね」
「え?」
「だって今までずっと同じクラスになれなかったでしょ?
ごめんね、守ってあげられなくて」
申し訳無さそうに目の前の男の子は笑う。
どうしてそんなことを思うの?
どうしてそんなこと言えるの?
混乱する私に、拓翔くんは言葉を続ける。
「ずっと気にしてたんだ。でも、瑠海ちゃんずっと僕を避けてたでしょ?
瑠海ちゃんは優しいから、僕を巻き込まないようにしてるんだって、気付いてた。だから…話しかけれなかった。瑠海ちゃんに守ってもらえてる自分に甘えてた。
ごめんね、瑠海ちゃん。今まで助けてあげられなくて」
「えっ…は…?えっ…」
拓翔くんの言葉に、視界が一気に歪んで目から零れ落ちた。
熱い涙が机に滴って、涙が溢れたことに気付く。
なんで泣いてんの?意味がわからない。
「…ごめん、泣かせるつもりは無かったんだ。これ使って。
ねえ瑠海ちゃんは、どこの高校に行くの?」
ハンカチで涙を拭われて、無意識に受け取る。
更に拓翔くんの質問が続いた。
「えっと…定時制高校…」
急激に、答えるのが恥ずかしかった。
知られるのが嫌だったからだ。
だって私は賢くないから、皆が居ない…逃げ場所を求めたから。
きっと拓翔くんのことだから、頭のいい場所に行ってる。
天と地ほどある差を見せつけられたくない。
嘲笑われるのが、嫌だったからだ。
でも私は考えるよりも先に、反射的に答えてしまった。
「そっか。良かった」
「え?」
それでも拓翔くんの表情は崩れなかった。
「高校からは皆バラバラだから、新しい高校生活が瑠海ちゃんにとって生きやすい場所だといいね」
「な、なんで…」
「ずっと瑠海ちゃんが苦しんでるの知ってたよ。
ずっと瑠海ちゃんが泣きそうになってたのも知ってたよ。
でも、助けてあげられなかった。ボーイフレンドなのに。
だけど、これからはたくさん笑って、友達に囲まれて、楽しい生活を送ってられたらなって思って」
優しい笑みを浮かべる拓翔くんはなんて罪深い存在だろう。
そんな風に思われてたなんて、知らなかった。
まだ、ボーイフレンドのつもりだったとは思わなかった。
自分が完全に遮断してただけ。
自分が自分一人で戦ってる気になってただけ。
本当はその背中を見てくれてる人がいたなんて気付きもしないで、一人ぼっちに自分がなってるだけだった。
「頑張ってね」って笑顔を向ける拓翔くんに向ける顔がなくて、涙がぼろぼろと落ちていく。
段々と胸が苦しくなって、辛くなって、絞り出すような声が出た。
「……ごめんね、頼れなくて。ごめんね、一人になることを選んで。ごめんね、拓翔くんの気持ち…知らなくて」
「ううん。僕は…瑠海ちゃんのことを見てることしか出来なかったから…。
でも、瑠海ちゃんが意地っ張りなところ、知ってるよ」
「うん」
「すぐ適当に返事して、それっぽく振る舞うのも知ってる」
「うん…」
「何でもかんでも自分で解決しようとするのも」
「うん…うん?」
「昔、バレンタインのチョコって言って渡してきたよね。『義理だから!』って。
でもあれ、手作りチョコだったね。素直じゃないなぁーって思うけど、嬉しかった」
「そ、そんなことあった…!?」
どれも全然覚えてない。
というか私、そんな風に見られてたの…?
でも言われてみれば確かにそうかもしれない…。
「だから高校では、あの時みたいな元気で明るい瑠海ちゃんで居て欲しいな。
僕はあの瑠海ちゃんが好きだよ。初めて手紙貰った時も嬉しかったけど…本当は友達に流されたのかもしれないけど…でも、僕にとっては大事な女の子だった。
大事な子だったのに…僕は守れなかった。だから…これからも遠くで応援させて。
『瑠海ちゃんに、素敵な友達とちゃんと瑠海ちゃんを守れる立派な彼氏が出来ますように』
……今まで、本当にごめん」
落ち着いた涙が、今までの比じゃないくらい溢れ出る。
拓翔くんは優しかった。
昔と変わらず、優しくて素敵な子だった。
全部全部頼れなくて、自分でなんとかしようと思ってた自分のせいだ。
自分のせいで、拓翔くんを傷つけてしまった。
「ごめんね…拓翔くん、本当に…ごめんね…」
あと2ヶ月弱で卒業する。
皆と別れて生活をする。
そんな折に、こんなにも後悔するなんて思わなかった。
こんなにも、胸が苦しくなるなんて思わなかった。
でも、一番に思ったのは……
「拓翔くん…声かけてくれて、ありがとう」
「瑠海ちゃん…」
「もう、こうやってお話するのは最後に近いけど…お話してくれて、ありがとう…」
「……瑠海ちゃん。瑠海ちゃんは、優しすぎると思う。こんな僕を、嫌わないでくれてありがとう」
二人で涙を溜めながら、笑顔を見せ合う。
こんな彼より、素敵な人はいるのだろうか。
ううん。そんなことより、もっと人に頼れる人にならなきゃ。
もっと友達を大切にできる人にならなきゃ。
拓翔くんみたいな別れ方、嫌だもん。
お互い傷を作ってサヨナラするのは辛いから。
諦めないで楽しい人生を送れるように、頑張ろう。
これは私が小学校と中学校を嫌いにならなかった物語。
ずっと忘れたくない罪の物語。
頑張って前を向いて歩こうと思う、甘く苦い後悔の物語。