茶飲み友達
今日は土曜日だから学校は休み。掃除機をかけ終わり縁側から少し前に襲撃に遭った林を眺めていると、隣に誰かが座る気配がした。誰かは見なくても分かる。
「こんにちは、テンちゃん」
「こんにちは。食べるか?」
テンちゃんが軽く揺らした紙袋には、「白餅堂」と書かれている。
「こっこれは予約が半年先まで埋まっていると噂のあの白餅堂では!?」
「好きなだけ食べるといい」
「ありがとう! テンちゃん大好き」
和菓子には渋めのお茶が欠かせない。濃い目の緑茶を二つ淹れて一つをテンちゃんに渡すと、「ありがとう」と微かに細められる紫の神秘的な瞳。風になびく絹糸のように細く綺麗な白髪は、いつも鬱陶しそうにする割に縛っている姿は見たことがない。前に「縛らないの?」と聞いてみたら、「やってくれないか」と紐を渡された。せっかくだから気合を入れて編み込みにして手鏡を渡すと「楽だな」と満足そうに微笑んでいた。また機会があったら縛ってあげとうと思う。
箱の包装を破くと、白餅堂の看板でもあるいちご大福が十個入っていた。手のひらの上にのせると、陽の光を浴びて上に乗った苺が輝いて見える。
「いただきます。……ん~美味しい!」
甘すぎないこしあんと滑らかなお餅、そこに加わるいちごの甘みと酸味。これぞまさに至福の一時。
「カンナはなんでも美味そうに食べるな」
「だってテンちゃんが持ってきてくれるお菓子、どれも美味しいから」
「ご満足頂けたようでなにより」
不定期にお菓子を片手に現れるテンちゃんは、自分が持ってきたお菓子を食べることはない。なんでも甘いものは好きじゃないのだそうな。それなら何故毎回甘味を持ってくるのか? これは聞かなくても分かる。賄賂だ。困ったことがあった時に「今までさんざん甘いものを買ってやっただろう?」と逃げ道を塞ぐために違いない。
「テンちゃん、もし助けが必要な時はいってね」
「? ああ。まあそんな日はこないと思うが」
本音をいえば苺大福を十個全部食べてしまいたかったけれど、五個食べて残りは明日のお楽しみにとっておくことにした。
「ごちそうさまでした」
ティッシュで口の周りに着いた粉を取っていると、不意にテンちゃんの白く長い指が私の右頬に触れた。春先の微かに汗ばむ陽気だというのに、テンちゃんの手は今日も氷みたいに冷たい。
私の頬に視線を落とすテンちゃんの眉間には、わずかに縦皺が刻まれている。
「ここ、どうした?」
「少し前に新入生歓迎会があったんだけど、そこでちょっとした騒動があってね。その時のだよ」
「こっちもか?」
そういって私の右手を取り、手の甲を示すテンちゃん。
「うん。ちょっとやらかした」
彼がね。
ふと目の前に影が差したと思えば、テンちゃんの顔が近付いてきて傷があるところに冷たく柔らかいものが触れた。テンちゃんはそのまま流れるように私の右手の甲にも唇を落とす。伏せられていた瞼がゆっくりと開いていく光景に、私はただただ魅入られた。美しい。それ以外の言葉が出てこない。白い睫毛が徐々に持ち上がる様はなんとも神秘的だ。
「きれい……」
まるで西洋の絵画に出てくる天使みたいだ。
「俺のいないところであまり怪我をするな。すぐに治してやれない」
「これくらい放っておけばすぐに治るよ」
「人間は脆い。カンナはそれをもっと自覚するべきだ」
「人間はって、面白い言い方するね。テンちゃんも人間なのに」
「……まさか気付いてないのか?」
「何かいった?」
「いや、なんでもないよ。それより、新入生歓迎会でなにがあったんだ?」
テンちゃんはお茶を飲みながら問いかけてくる。
「あそこに見える林の中で一人ずつ禊をしていくことになったんだけど、途中で餓鬼が乱入してきたんだよ」
「あの林は学校の敷地内だよな? なのに現れたとなると妙だな」
そう。きっと彼が呼ばなければそんな事態は起こらなかっただろう。恐らくこの学校全体を覆う形で悪鬼や悪妖を阻むための結界が張られているはずだ。もし仮に結界を破ることができても、その存在は瞬時に検知されて先生達によって即退治されるはずだ。けれど今回誰かが駆けつけてくることはなかった。鴇刀先生の指示で翡翠さんが理事長に連絡を入れなければ、たぶん最後まで誰もこなかっただろう。では何故あの時は餓鬼や羅刹が敷地内に入り込んだにもかかわらず検知されなかったのか? 答えはその事態を引き起こした張本人であるマルファスが一時的に結界を消失あるいは無効化させた上で餓鬼と羅刹を呼び寄せたから。それも結界をいじったことを学校関係者に一切勘付かれることなくなく、だ。改めて考えると末恐ろしい存在だ。意識だけで易々とそんなことをやってのけるのだから。
「そうなんだよ。それでその後に羅刹が出てきてね、」
「羅刹だと!?」
「う、うん」
珍しく声を荒げたテンちゃんは、湯呑を置くなり私のすぐ横に手をつき詰め寄ってくる。
「それで、どうなったんだ?」
私は距離の近さにどぎまぎしつつも先を続けた。
「鴇刀先生が退治してくれたよ」
「鴇刀? ……ああ、神凪のあいつか」
「神凪!?」
今度は私が身を乗り出す番だった。
「鴇刀先生って神凪なの?!」
「ああ。知らなかったのか? こっちの界隈では有名だぞ」
「知らなかった。先生も教えてくれなかったし」
「まああいつは自分のことを進んで話すようなやつじゃないしな」
「テンちゃん、先生と知り合いなの?」
「知り合いってほどの交流はない。何度か顔を合わせたことがある程度だ」
「そうなんだ」
世間は狭いとは正にこのこと。
「それで? 頬と手の傷はどういう理由で負ったんだ?」
「羅刹の血が飛んだんだよ」
彼が手で血を拭わなければ怪我は頬のみで留まったんだけど、私と彼、つまり人間と悪魔では羅刹の血の認識は異なるのだろう。人間からすると悪鬼や悪妖の体液は触れただけで怪我をするから浴びないように気をつけるけれど、悪魔にとっては無害なものなのかもしれない。結果的に彼のおかげで禊をせずにすんだわけだから、私としても強くはいえないのだ。
「血が飛んだって、そんなに近くにいたのか?」
「退治したと思ったら私の近くに落ちてた手首から再生してさ」
「神凪のくせに再生程度先読みできないでどうする。まあ次会ったら絞めればいいか。だが、そんなに近距離に羅刹がいてよくさっきの怪我だけで済んだな」
「うん。私運動神経いいから」
マルファスに体を貸して助けてもらいました、なんていえるわけないもんね。
「いや、羅刹は運動神経でどうこうできる相手じゃないぞ」
案の定テンちゃんは納得してくれない。けれどここは押し通すしかない。何か良い方法はないだろうか。……あ! こういう時は話題をすり替えてしまおう。
「それでね、私そこで鴇刀先生と契約してる人型の神様に会ったの。すごくない!? あんなに人に近い姿の神様なんて、きっともう生きてる間には会えないよ」
「ああ……そうかもしれないな」
どうやら話題転換は失敗だったらしく、テンちゃんはなんともいえない顔で歯切れの悪い相槌を打つ。絶対驚くと思ったのになあ。
『鈍いな、カンナ』
『なに、急に』
『いっそ目の前のそいつが哀れに思えてくるよ』
『どういう意味?』
彼の答えを聞く前に、ふと肺の奥から強烈な咳が込み上げてくる。慌てて口を両手で覆うと、むせた時のように激しい咳が出た。
「げほげほっ、ごほっ」
「大丈夫か?」
背中を撫でてくれるテンちゃんに大丈夫だと伝えるために浅く頷く。その間も咳は止まらない。結局肺が痛くなるまで咳き込んだ。もう出なさそうだなと判断して口から手を放したところで私は絶句した。両手にはべっとりと赤が付着していたのだ。一拍遅れて鉄の匂いが鼻をついたことで、ようやくそれが自分の体内から出た血なのだと悟る。
「カンナ、もしや持病があるのか?!」
目を見開いてそう訊ねてくるテンちゃん。
まあ普通は真っ先にそこを疑うよね。でも私は吐血するような病気には罹っていない。それどころか彼がいるおかげで普通の人より頑丈だ。
「とりあえず、これで拭け」
「ありがとう。洗って返すね」
ありがたく手の上に乗せられたハンカチで血を拭き取らせてもらう。
テンちゃんは心配そうな、それでいて不安でたまらないという眼差しで私を見ている。
思い至る可能性はないことはない。でも、それが正解だと思いたくない。
『マルファス、何か心当たりない?』
『あるよ』
……やはりそれ関係か。嫌な勘ほどよく当たるものだよね。
『僕達悪魔は、神に並ぶ上位種だ。上位種が下位の生物に寄生した場合、まず間違いなく依り代となった肉体は滅びる。悪魔が人間に憑依した場合も然りだ。けれどカンナは僕をその身に宿して尚、今もこうして生きている。それだけでも天文学的確率だが、カンナはその上更に僕と頻繁に意思疎通をはかり、少し前までは訓練と称して頻繁に僕と意識を交換していた。これらの行為は常に体力を始めとして多くのものを消費している。そして今持ち得る能力では間に合わなくなった場合、足りない分は寿命から捻出される』
『つまり、マルファスとなにかする度に寿命が削られていくってこと?』
『そうだ。新入生歓迎会では学校全体に張られていた広範囲の結界をいじったからな。それが祟ったんだろう』
『そんなに大事なこと、何でもっと早く教えてくれなかったの!?』
『何故って、そんなの聞かれていないからに決まってるだろう』
飄々といってのける悪魔がこの上なく憎らしい。でも彼はこういう性格だ。悪魔に優しさや心遣いを求めるのがそもそもの間違いなのだ。悪魔とは優しさとは対極の位置にいる、極悪非道で残虐を絵に描いたような存在だから。
「カンナ、大丈夫か?」
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめんね。むせたら少し前に食べたミートソースが出てきちゃったみたい」
苦し紛れの言い訳であることは百も承知だ。けれどこれ以外に上手い良い訳が思いつかない。急に寿命がどうこういわれて、動揺のあまり頭が回らなかった。
テンちゃんはなにかをいいたそうに唇を開いたけど、やがて浮かんだ言葉を飲み込むように「……そうか」と呟いた。
『ねえ、具体的になにをすると寿命が削れるの?』
『僕とこうして話す程度ならなんら支障はない。ただ人間と悪魔というのは、本来交わらない水と油のようなものだ。だがカンナはこうして僕を宿している。この時点で肉体にはかなりの負荷がかかっている。意識を交換した上で僕が悪魔の能力を行使するだけで、並の人間なら一秒と持たずに息絶える。でも幸い、カンナは身体能力を始めとして神子がみな持っている神力や悪魔と親和性の高い魔力なんかも高い。だから今もこうして生きている。僕もはっきりとは把握しきれていないが、まあ僕を表に出す度に寿命が削られて行くという認識でまず間違いはない』
『表に出す度に……。じゃあさ、今のままいくと、私は何歳くらいまで生きられそう?』
『まあ良くて二十歳じゃないか』
「二十歳……」
「カンナ?」
まあそうだよね。マルファス曰く上位種である悪魔の上から二番目を飼っているわけだから、大往生とはいかないよね。
「そっか。……そっか」
強くなるために、彼とその能力を完璧に制御するためにしていたあの血反吐を吐くような努力は、かえって逆効果だったわけか。
「ははっ、可笑しい。笑っちゃうよ」
私はマルファスの力を借りなければその辺にいる一般人と大差ない。つまり弱者だ。念願の神子養成学校に入学が叶って、これからだと思ったんだけどな。このタイミングで教えるなんて、マルファスは本当に性格が悪い。
「カンナ、どうした?」
テンちゃんが眉を潜めて私の顔を覗き込む。
なんでもない。そう紡ごうとした唇は、私の意に反して全く別の言葉を紡いだ。
「貴様ともあろう者が、哀れだな」
「なっ!? お前は誰だ?」
「さあ? 見当はついてるんじゃないのか? マルファス、もうやめて!」
「んなっ?!」
叫んでからしまった、と思った。彼が愉快といわんばかりに笑う声がする。最近は割と仲良くやれていると思っていたから油断していた。彼は悪魔なのだ。
「カンナ、今なんていった?」
もう嘘も誤魔化しも通用しない。私は覚悟を決めてテンちゃんの目を見つめ返しはっきりと告げた。
「マルファスっていった。幼い頃から一緒に暮らしてるの。私の中で」
「なっ!?」
「だから私は、ずっと神様に嫌われてきた。敵である悪魔の匂いとか気配が漏れ出てるんだろうね。それに悪魔憑きなんて普通じゃない。まあ嫌われて当然だよね」
「……知ってたよ。悪魔の気配は感じていた。その正体がよりにもよってマルファスとは思わなかったが」
「え? 驚かないの? 気持ち悪がらないの?」
「俺はそれくらいでカンナを見限るようなやつだと思われてたのか? 心外だな。でも嬉しいよ。やっと打ち明けてくれたな」
テンちゃんの顔は引きつるどころか、凪いだ海のように穏やかな笑みが浮かんでいる。こんな反応をしてくれる人は、これまでいなかった。人間も、彼の力の片鱗を見れば誰もが血相を変えて私を罵り、逃げ出した。
「私が気持ち悪くないの? 悪魔を飼ってるんだよ?」
「全く。過去にはそういう人間もいたみたいだぞ。もちろん数人だが」
私に白い目を向けるどころか、こんなにあっさり受け入れてくれるなんて。
「実はカンナがそいつの力を借りなくて済むようにお札を渡したというのもあるんだ」
「そうなの?」
「ああ。最近何回か使ったみたいだから、なくならないようにこれ渡しておくよ」
そういってテンちゃんが懐から取り出したのは新しいお札。結構な厚さがある。
「こんなにいいの?」
「備えておいて損はないだろ? 遠慮はいらない」
「ありがとう」
「それからさっきのカンナが神に嫌われてるという話だが、少なくとも俺は一柱そうじゃない神を知ってるよ」
「えっ誰!?」
「その内分かる」
そこで部屋の外からサクラの声がした。
「カンナ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど入ってもいいかしら?」
「あっ、ちょっと待って!」
テンちゃんの顔を見れば、「俺はもうお暇するよ」と腰を上げた。
「またね、テンちゃん」
「ああ。達者でな」
扉の方を向いて「いいよ」と声をかけて縁側に視線を戻せば、テンちゃんはもういなくなっていた。
「お邪魔するわね。あら、誰かきてたの?」
「うん。友達がね」
「あたしの用事はすぐに終わるから、そのままいてくれても良かったのに」
「恥ずかしがり屋なんだ」
「そうなのね」
サクラは風の噂で私が神代志望から神薙志望に転向になったと聞いてその真偽を確かめにきたらしい。
「うん、本当だよ」
「ならこれからは一緒に頑張りましょうね!」
同じ道を目指せると知り、嬉しそうなサクラ。
私も彼がいなければ喜べたかもしれない。とりあえず無難に「そうだね」と返したけど、私の心中は穏やかではなかった。脳は勝手にあの日へと記憶を巻き戻し、何度も夢に見た凄惨な光景を再生する。まるでこれから先の未来でまた同じことが起きると暗示するかのように。そうならないように神代を志望したんだけどな。
「今日はそれが聞きたかっただけなの。あら? カンナ、頬と手の傷、いつの間に治ったの?」
絆創膏もなにもしてなかったから、まあ気付くよね。
「ほら、私昔から怪我の治りが早いじゃん」
「そういえばそうだったわね。痕が残らなくて良かったわ。それじゃあまた月曜日にね。お邪魔しました」
強く目を瞑り、あの日の記憶を断ち切る。大丈夫、何のために血のにじむような訓練をしたと思ってるんだ。寿命を削ってまで重ねた努力を無駄にはしない。もう、あんな思いはたくさんだ。
『次勝手に出てきたら追い出すから』
『できるものならやってみるといい』