優しい嘘
冷たく澄んだ外気に白い溜息を吐き捨てたのは、終電を逃すまいと走ることをちょうど諦めた時だった。入社祝いに買ったロレックスの分針は時針を追い越し、日付が一つ繰り上がったことを告げる。不夜城の光を反射する文字盤は、その銘に釣り合う努力を怠った時を今もなお刻み続けている。
入社以来横這いの報酬の支給を半月後に控える男のつい一メートル横を、黒塗りの外車が豪快なエンジン音と共に走り抜ける。車窓から垣間見えた元同僚の背中は、今となってはもう見えなくなっていた。疲弊しきった男の重い足取りでは、左ハンドルを握りひたすらアクセルを踏む彼との差は拡がるばかりである。
分針が円盤の頂点を牛歩する時針を追い越してから二度目の溜息が、劣等感ともやるせなさともつかない不快感と共に闇夜に飽和する。溶け切らない吐心が今にも降り注ぎそうな曇天は、この街に移って以来七度目の冬の訪れを告げていた。
――今年こそと啖呵を切りながら、その今年もまた終わりか…――
何かを成す訳でもなく息を続ける為だけに消耗される身に、今宵の北風は特に堪えた。だが、財布に隙間風を吹かせては、一時の凍えは凌げても半月の凍えを凌げる自信がないため、客を待つタクシーの横を素通りせざるを得ない。落胆と背徳の白い息を闇夜へ放ち、落とし物でも探すような姿勢で眠らない帰路を歩いた。
――俺の将来は漫画家。書店の店頭はアニメ化が決まった新刊で埋め尽くされ、街はコスプレ衣装が闊歩する――はずだった。
幼き日に望た「創作で何者かになる」という終わりなき憧憬を視るには、天秤の片皿に要求された代償があまりにも大きすぎた。どうやら夢というやつは、歌舞伎町の頂点を争うキャバ嬢なんかよりも貢がせるのが巧いらしい。男も例外ではなく可能性という甘言に乗せられ、金や人間関係や労力といったグラスタワーに青年期の時間という一番高いシャンパンを注いだものだ。――真にキャバ嬢の隣を歩く条件を備えた人間でなくば、淹れたシャンパンは全て泡沫に帰すということも知らずに。
――こんなはずじゃなかった――
脳髄の奥で数年間燻り続けたであろう嘆きと現実逃避の定型文が、男の口を突いて出掛かった。一花咲かせたいと豪語しながら岐路の片方にあった安泰の暮らしに尻尾を振った結果に苛まれ、正解を知りながら不正解を取った自らの意思を棚に上げ、現実と理想とのギャップに嘆息する――アルコールに侵された大人たちが口ずさんだ呪詛を彷彿とさせるその言葉は、男が虫唾が走るほどに嫌悪して止まない敗者の言い訳だった。
だが今、理性にアルコールの侵入を赦してしまえば、自らその轍を踏みそうな気がして怖かった。
――いや、それは実際に行動にしていないだけであって、彼らと同じ思考に至っている時点で轍を踏んでいる事に変わりはないのかも知れないな…――
反面教師とした敗者になりつつある自分を嘲る薄ら笑いとは裏腹に、胸の底にはなぜか鈍い痛みが走った。だがそれが、今はアルコールと幻想への微睡みを赦してくれるような気がした。
外気よりかは生暖かい室温は、慌ただしい朝に平らげきれなかったコンビニ弁当の残り香を孕んでいた。施錠音の後に交わされるはずの挨拶がない虚しさも、締め切った部屋の淀む空気にも慣れ切った男は、冷蔵庫の奥で冷やされた缶ビールを片手にパソコンを起動させる。持ち帰った仕事を残飯と一緒に処理するのだろう。
プラスチックトレイを三分の一程度占拠する残飯を胃袋に流し込みながら、缶ビールのタブを起こした。炭酸が解き放たれる爽快な音に続くように、苦い液が喉の奥を焼く。
タイピングの合間に机の上の缶が増えた頃、比例するように男が瞼を擦る回数も増えた。きっとアルコールに疲労の影響も相まってのことだろう。どうしようもない瞼の重みに耐え兼ね、男はしばしアルコールの力に頼って微睡むことにした。幸い、明日から実に半年ぶりの連休を控えていたため、持ち帰った仕事は繰り越しても差し支えはなさそうだ。
机に突っ伏した体勢のまま、男の意識は感傷世界へと霧散した。
※
茜色の逆光が、いくら追っても越すことのできない二人分の影をアスファルトに映し出していた。涼風に並木の葉同士が干渉する音が鼓膜を心地よく擽り、流れてゆく雲には藍の気配と西日とが融け合っている。
喉元を圧迫する不快感に詰襟のホックと第一ボタンを外しながら、青年―帝塚 創―は数十センチ隣を横目で見遣った。伸ばせば触れる、縮まりそうで届かないもどかしい距離の向こうで、夕暮れを透過した長髪が涼風と戯れている。その映画のワンシーンに引けを取らない情景の見目麗しさたるや、身内贔屓なしに見惚れてしまう。
「どうしたの?」
幼馴染―夢咲 紗彩―の幼さを残した甘美な声に慌てて視線を泳がせるが、目が合った後なので誤魔化しがきかない。紗彩の眼はしかと創の双眸を捉えている。
「いや…馬子にも衣裳だなって思っただけ」
「どういう意味だよ」
咄嗟に出た言い訳から創の照れ隠しを悟ったのか、あるいは単なる冗談と受け取ったのか、紗彩の表情には笑みが刻まれていた。創の青い心の奥底では、こういう些細な日常を渇望して止まなかったのだろう。紗彩と笑い合う時を、紗彩の隣を歩む何気ない日常を、紗彩と共に刻む未来を。
だが、幼いころから夢に望ていた漫画家という存在に成るには、それらを犠牲にしなければならない。良い反面教師に恵まれたからこそ、望まない職に甘んじ、後悔だけはしたくなかった。
――言わなければ。
創は意を決したように小さく握りこぶしを作ると、咄嗟に紗彩から視線を逸らした。捉えたのは視界の端ではあったが、その一連の行動を紗彩は見逃さなかった。
「あのさ、俺、東京に行くよ。やっぱり諦め切れねぇ」
葛藤に揺らぐ創の語尾は、心なしか震えていた。唯一の理解者である紗彩の隣を歩む為に地元に残りたい想いと、表現者として大成するためにこの街を出たいという相反する想いが、未だに創を煩悶させていたのだろう。
「そんなに俯いて言わないでよ。漫画家、なるんでしょ?」
幼い頃から行動を共にしていた創の決意は対岸の火事などではなく、紗彩は紛れもなく当事者の一員なのだ。それでも凛然と放たれた紗彩の語気は、相反する感情に揺らいでなどいなかった。
当然、隣を歩みたいという切望は紗彩も胸の奥で燻り続けている。それゆえに引き止めたい衝動に身を灼かれたことだろう。だが、志半ばに悔恨に打たれる創の姿を見るよりは、晴れて漫画家と成った創との書店やネットでの再会を夢見て――淡く美しい思い出のまま青春に幕を引きたかった。
――私みたいな凡人の歩幅では、キミの進む速度には追い付けないから。
「…すまない。紗彩には辛い思いをさせてばっかりだな」
負担をかけてばっかりの自分は、君の隣にいる人間として不釣り合いだ。そんなニュアンスで、半ば自虐的に創は言った。
「夢、叶えるまでは絶対に帰らない。けど、夢が叶って・・・漫画家になれた暁には、紗彩を迎えに来たい」
今度こそ一片の迷いなく創の口を突いた決意は、以前のように震えてなどいなかった。
「なんで別れ際になって…希望を持たせるようなこと言うのかな・・・女の子泣かせるなんて、彼氏失格だよ。ばか」
「今の俺は紗彩を泣かせてしまうから…紗彩を泣かせずに済むくらい強くなる時まで、待っていてくれるか?」
「…気障すぎるよ。そういうのは漫画の台詞だけにしておいて。でも――待ってるから」
去り際に彼女の頬を伝った雫が茜日を反射したのを、創は見逃さなかった。その雫に込められた彼女の感情に想像が絶えない。決別への悲嘆か、将来への憂慮か、あるいは――再開を口実に未来を拘束した創を恨むがゆえの涙だったのではないか――幾度となくこの時の情景を反芻するも、未だにその答えは出ない。
だが、一つだけ解答があるとするのなら――息を続ける為だけに、自ら反面教師とした生き方に甘んじて消耗されるだけの創を嘲笑し、未来を奪うも同然の約束を持ち掛けた創への恨みを露にすることだろう。
――こんなはずじゃなかった――
敗者の言い訳と現実逃避の定型文には、判を押したようにIFの世界と妄想への微睡みが戯れるように続く。その在るはずのない世界線では、いつも創の隣で紗彩が微笑んでいるように――創が欲望し続けた輝かしい未来は、紗彩の隣で迎えることが前提で望た夢であったことを、この時の創は知る由もなかった。
※
壁を隔てた向こう側で雨粒が窓やアスファルトを叩く音に、意識を覚醒させる。
閉ざされた瞼を透過する橙色が、光の気配を報せていた。薄目で見渡した滲む視界の先では、15インチの青白い光が六畳間を仄暗く照らしている。ノートパソコンの電源を落とさずに眠りに就いていたことに何を思うでもなく、うるんだ視界の違和感を払拭すべく目元を拭った。それでも頬を伝い続ける感傷の雫は、堰を切ったように止まることを知らない。鼻の奥を突かれるような痛みと、喉の奥に何かが詰まるほどの激情に身を任せたのは一体何年ぶりだろうか。
――懐かしい夢を見たな。でも、何で今更…。
手放しかけていた未来像が、よりにもよって紗彩に一方的に押し付けた約束と共に蘇る。待ってくれと袖を掴んだ以上、あの日望た憧憬を桜色の夢で終わらせるのは彼女への甘えと冒涜に他ならない。それを戒めに頑張れたのは確かだが、これ以上は立ち上がれそうにない。それでも、頑固で意志を曲げようとしなかった紗彩が俺を信じているであろう懸念が、延々と煩悶させた。
左腕を飾るロレックスを外しながら、午前四時を指す短針を長針が越した頃だと悟る。折角の休日なので二度寝を決め込むのも悪くはないが、とうに眠気など冷めてしまっている。不眠症にも磨きがかかってきたのか、憑依するかのような倦怠感に苦笑を禁じ得ない。左手で首筋の凝りをほぐしながら重い腰を上げた。
粉末状のコーヒーを台所の戸棚から取り出しマグカップに移そうとすると、長い間放置したせいか瓶の底で粉コーヒーが固まっている。特に理由がなくても以前は頻繁に飲んでいたものだが、こうして見るとコーヒーを嗜む程度の余裕すらなかった期間が可視化されているようであった。
湯が沸くのを待ちながら、昨晩に捌き切れなかったメールに目を通す。複数の仕事絡みのメールに紛れ、何年も連絡を取っていない懐かしい名前から宛てられたメールがあった。
如月 魁翔――バンドマンとして自分を表現したいという意思のもと、音楽業界に飛び込んだ高校時代の先輩。分野は違うものの、明確な意思と自己を持つ彼には惹かれるものがあり、上京してからも稀に会っては相談に乗ってもらっていた。大学時代には既に画面の先の存在となっていた彼だったが、バンドの活動休止以来は音楽をやめて就職していたはずだ。顔も名前も明瞭に憶えているのに、何と呼んでいたかが思い出せずに不安に駆られた。
無機質な明朝体で「カーディナルが旨い店」と銘打たれた件名にカーソルを合わせる。そもそもなぜLINEではなくメールという回りくどい連絡手段を使ったのかと疑問を抱いたが、その答えは本文に記してあった。
帝塚 創くん
ご無沙汰しています。仕事一辺倒でパソコンに向かいっぱなしであろうはじめくんの性格上、LINEではなくメールの方が気付いてくれる確率が上がるであろうからメールを書かせてもらいました(笑)
題名にも書いたけど、この前偶然寄った酒場の店員さんが知り合いでさ、その人が作るカーディナルがすごく美味しいんだよね。久しぶりで語りたいことも絶えないので、今度一杯引っ掛けませんか?気が向いたら、折り返し連絡くれると幸いです!
追記:漫画は上手くいってますか?頑張ってください。応援してます!
如月 魁翔
電気ケトルが水蒸気を噴き出す音が、湯が沸いたことを報せていた。急いで台所まで向かい、電気ケトルの電源を切った。粉コーヒーが底面を覆うマグカップに沸いた湯を注ぐと、コーヒー特有の香ばしさが水蒸気と共に拡がる。淹れすぎたコーヒーが危なっかしく波打つので零さないように意識して運んでいると、自然と歩幅が狭くなる。メールの画面で止まったままのノートパソコンが占拠する机にコーヒーを運び終え、一口啜ると案の定熱いままだ。ひりひりと舌が焼ける感覚を残したまま、冷めるまで待つことにした。
突然の晩酌の誘いに何を思うでもなく、安直に今日か明日なら空きがある旨を返信する。後々になってから余裕をもって来週あたりを指定すれば、と後悔するも後の祭りだ。取り消せない内容を反芻しつつあれやこれやと考えていると、予想を上回る怒涛の速さで如月から返信があった。そこにはただ「今日の十八時、駅前で」とだけ記されており、約束事には慎重であった彼にはありえない性急さに疑惑の念を禁じ得ない。時間が時間なだけに早く済ませたかったのか、実情は「晩酌」という建前のもとで何か腹に一物抱えているのではないか――。
ついさっきまで感傷的になっていたことも相まってか、何事にも猜疑心を向けてしまっている。良くない癖だと内省しつつ、舌に馴染む温度になったコーヒーを一口啜った。
今日は描きたかった漫画に存分時間を割けると思うと本能的な高揚を覚えたが、なぜやりたくもない仕事を甘受しながら本当にやりたかった仕事を休暇を潰してまでやっているのかと疑問にさえ思った。そもそも自分は、本当に漫画家になりたかったのだろうか。
無意識で点けた画面の先では、若干十八にしてプロとして活動するイラストレーターの特集が組まれていた。嫉妬心に身を灼かれる思いだったが、嫉妬とはその対象に欲して止まないものがあるという何よりの証拠であり、若くして何者かでありたかったという願望の現れだ。だとすると俺は漫画を描きたかったのではなく、漫画家という称号を盾に、どの分野にも秀でることができなかった自分を誇張して見せたかったのかも知れない。弱い犬ほど吠えるとはよく言ったものだが、弱者ゆえの号哭が大衆に迎合する称号にすり替わっただけのことである。
――漫画家になりたいだけであって、漫画を描きたかった訳ではないのか…。考えれば確かに、空虚な自分を見透かされるのが嫌で、それを埋めるように描いていたのかも知れない。描いていることで、あわよくば漫画家という称号によって、中身のある人間を演じようとしていたのかもな。しょうもない自己顕示の為に紗彩を巻き込んでしまった。
電波越しにインタビューに応じる高校生イラストレーターは、結果至上主義に堕ちた仮面舞踏会のような社会を嘲るかのごとく、これまでの結果を「楽しいから」という行動理念の副産物だと照れ臭そうに語っていた。自分の存在意義が否定されているような錯覚を覚えた。小型モニターから流れる音声が聞くに堪えず、衝動的に電源を切った。
まだ目覚めには幾分かかかりそうな街は、当分止むことのない雨音が支配していた。
※
改札を通り、帰宅ラッシュの人混みを掻き分けて階段を昇ると、勢いの衰えた雨は粉雪に姿を変えていた。如月との集合場所には数分遅れて到着したものの、如月の姿はない。派手な銀色の頭髪は遠目から見ても如月だと解る特徴だったが、慌ただしく流れてゆく群衆の中に如月は居なかった。集合場所を間違えたかと不安を覚え、如月に電話を掛ける。
『久しぶり。今どこいてん?』
四度目のコールが途切れると、想像よりも低い声を久しく聞いた。向こうも人混みの中に居るのか、喧噪が声の合間を縫って聞こえた。心なしか、群衆を隔てた十メートル先のタイル張りの柱に寄り掛かる青年が電話を取るタイミングとコール音の途切れるタイミングが重なっていたように感じた。だが、彼の頭髪は群衆に調和した黒だ。
「あ、お久しぶりっす。今ですね、西口の…」
『あぁ、おったおった!こっちやで!』
被せるような如月の声が、どこからともなく反響した。声のする方へ視線を向けると、電話を取るタイミングが被っていた黒髪の青年が群衆を隔てた十メートル先で手を振っていた。銀髪でないことに違和感こそ覚えたものの、電波の先の如月と目の前の青年が同一人物であることは疑いようがない。
「久しぶりやねんな。随分と垢抜けて」
人混みを縫うように駆け寄る如月の目元にはクマが色濃く刻み込まれ、頬がこけている。元来溌剌としていて健康そうな印象との落差も相まってか、全体的にやつれてしまっているように感じる。
「髪色戻したんっすか。まだ銀髪のままだと思って、何度か白髪のおじいさんに話しかけそうになりましたよ」
わざと軽薄な冗談を言ってみたが、如月の笑いのツボは相も変わらず浅いらしい。笑い声の大きさに改札を抜けたサラリーマン風の中年男性がこちらを凝視してきたが、如月は気付いていないようだ。
「あんまりえげつないこと言わんといてーや。まだ気持ちは若いつもりなんよ。にしても、わいは髪色だけで判断されとったんか」
「近眼だけど眼鏡かけたくないんで、集まる時に助かってました」
駅を出てタクシー乗り場に行くと、二、三人の先客がタクシーを待っていた。最後尾に並ぶのも束の間、自動で開いたドアを抑えながら黒塗りのタクシーの後部座席に座る。如月も後部座席に座ったのだが、三人以上でないと誰も助手席に座ろうとしないのはなぜだろう。如月が運転手に目的地を指定すると、車窓の外の景色はゆっくりと流れ出す。
「今日は寒いですね」
ハンドルを握る運転手が、他愛もない雑談を持ち掛けてくる。
「いやほんまに。白い息出るのが珍しいもんやから、坊主みたいにはしゃいでしもた」
愛想のよさを振り撒く如月と運転手は、その調子で五分程度雑談に花を咲かせていた。目的や手段が不明瞭な――詰まるところ雑談を苦手とする自分が介入するのも興ざめだろうから、依然として流れる理路整然とした夜景を眺めていた。特に見入るようなものがある訳ではない。
そのままぼんやりしていると景色は流れを失い、如月が座る左側のドアがゆっくりと開いた。
「ほな、おおきに」
如月が握っていた小銭を受け皿に置くと、金属同士が触れ合う音が派手に響いた。レシートの受け取りを拒否して歩道へ乗り出すと、気温の差に臓物が震える感覚がした。
「すみませんね、タクシー代払わせちゃって。幾らでしたっけ?」
「ええって。後輩に何ぞ奢ってカッコつけるのが先輩の役目みたいな所あるし」
両手を擦り合わせて微かに暖を取りながら、如月はさり気なく言った。こういう恩着せがましくない懐の大きさが、如月が老若男女問わず人気を集める理由なのだろうと改めて感じる。その懐の大きさに安直に憧れを抱きながら、有難くその厚意に甘えることにした。
「メールで言ってた酒場って、どのあたりですか?」
「もう少しで着くと思うで。信号渡って角曲がったところ」
凍えるような寒さに速足で向かうも、タイミング悪く赤信号に捕まってしまった。もどかしさと堪えがたい震えを掻き消すように足踏みをするも、信号はなかなか変わってくれない。「うわぁ、タイミング悪う」と如月も苦笑していたが、間もなく人の群れは流れ出す。
案内されたのは表通りから離れた路地裏で、素行の悪い少年やホームレスが溜まり場としていそうな雰囲気こそあったものの、せいぜい水色のプラスチック製のゴミ箱があるくらいで無法地帯という訳ではなさそうだ。人目につかない所に拠点を構える、所謂隠れた名店というものなのだろうか。
「着いたで」
木目調の扉やレンガ張り風の装飾が施された壁には、いかにも西洋の昔ながらの酒場を彷彿とさせるだけのデザインの凝りがあり、コンクリート調の建造物が立ち並ぶ中で唯一浮いている雰囲気があった。
「なかなかええ雰囲気しとるやろ?わいの第二の家やねん」
自分の店でもないのになぜか誇らしげに先陣を切る如月に続き、木目調の扉に備え付けられたベルの音を響かせながら店に踏み入る。店員の愛想のない挨拶に呼応するように、重量のある音を立てて扉が閉じた。駅を出てから一度も使うことのなかった傘を傘立てに収納していると、如月は何やら店員と話し込んでいる。メールに記されていた、旨いカーディナルを作る知り合いの店員とは彼のことなのだろうか。
並んでカウンター席に陣取ると、如月と話し込んでいた店員が「少々お待ちください」とだけ言い残し、店の奥に消えていった。早速何か注文でもしたのだろうか。
「さっきの人が、言ってた知り合いなんすか?」
「いや、あの人はちゃう。なんならあの人が呼んできてくれるんやけど、多分はじめくんも知っとるからびっくりすると思うで」
そう言う如月の言葉に呆然とする。上京してきてからそれなりに交友関係は築いたものの、どれだけ記憶を絞っても酒場に転職していて且つ如月と共通の知り合いという二つの条件が付与されると、思い当たる節はなくお手上げだ。
「STAFF ONLY」と記されたプレートを下げた扉のノブが軋むと、そこには長髪を後ろで一つに纏めた女性店員の姿があった。俯きがちな歩き方も相まって表情は確認しずらかったものの、その出立は過去の記憶を呼び覚ますには充分な材料だった
「もしかして」
興奮が抑えられず、店内に響く声を上げてしまっていた。如月はそれを諫めるでもなく、再会を喜ばしく思っているのかただ笑っている。
「アンタの憂い顔見てすぐ判ったよ、創。何年ぶりだろうね」
 ̄音咲 紬 ̄二つ上の幼馴染で、実家が近所ということもあり小学生以来の付き合いだ。上京してからは如月も所属するバンドのボーカルとして多くの名声を得ており、その声はモニター越しに俺の暮らす六畳間にも届いている。だが、順調に思えたバンドは突然解散し、その報道もモニター越しに知る事となった。ついに電波を隔てずに聴くことが叶わなかった歌姫の声を、今こうして幼馴染という立場から聴けていることに、筆舌に尽くしがたい感慨深さがあった。
「紬姉がバーテンってどういう風の吹き回しだよ…。憂いがあるとするなら、喧嘩っ早い紬姉がちゃんと接客できるかってことだな」
「アンタの憎まれ口も変わんないねぇ。でも、酒出すくらいならアタシにもできるさ。何飲む?」
紬はカウンター席の端に立て掛けられていたメニュー表を俺と如月に突き出した。そこまで酒に詳しくない身としては、一部の酒を除いて聞き慣れない外来語が羅列されている暗号表のように思えた。
「じゃぁ、魁翔さんが言ってたカーディナルを」
「チッチッチ。これやからお子様はあかんねん。カーディナルは締めに飲むもんやから、先ずは手始めにジントニックを二つ」
なぜか得意げな如月に、俺も紬も苦笑を禁じ得なかった。
「はいはい、ジントニック二つね。ったく、カイトには調子狂わされるわ」
「酒にも飲む順番みたいのがあるんすか?」
「知らんかったの?酒にも料理みたいに前菜とか締めみたいのがあんねんで。度数低いかどうかとか、炭酸が入ってるかどうかとかで変わる物やねんな。せやけど、楽しみながら飲むものやし、あまり考えすぎんでええよ」
――考え過ぎなくて良いのなら普通にカーディナルを頼ませてくれよ――喉元まで出掛かった苦言を堪えつつ、適当に相槌を打った。
「なら、創にはカシスソーダ系で良かったんじゃない?」
「姐さん、はじめくんを口説いてるんでっか?」
「アンタの喧嘩を売る度胸と強い意志だけは認めてあげるけど、姐さんって呼ばないで」
「紬さん怒るとおとろしいから堪忍しぃ」
間もなくしてライムが刺さったロンググラスが二つカウンター上に並ぶ。初手に頼むくらいだから甘口なのだろうという想像を裏切るように、一口含むとアルコールの強さに咽てしまう。そのまま暫く談笑に花を咲かせていると、他の客からの注文を受けた紬が氷の入ったグラスにリキュールを注いでいた。
「そう言えばはじめくん、高校時代に夢咲紗彩って娘いたやろ?」
脈絡の薄い話題を切り出されたが、思い出話の一環なのだろうか。今朝のこともあって返答に窮していたが、なぜかその話を振った当人の眉間には怪訝そうに皺が刻み込まれている。
「はじめくん、あの娘から連絡とかもろてへんか?」
酒場の騒めきは時間の経過と共に増していたが、如月のワントーン落ちて真剣味を帯びたその声は、ステレオから響いているかのように明瞭と聞こえた。その間もカクテルを振り続けていた紬の手が不自然に止まるのが、視界の端で瞬間的に映る。
「上京してからは一切取ってないけれど、それがどうかしたんですか?」
「さよか…実はな…」
話題の核心に迫る如月の声を制するように、金属音ともつかない甲高く鈍い音が短く響いた。鼓膜を劈くその音の元へ視線を遣ると、俯く紬の手にはカクテルシェーカーが握られており、それが机面に叩きつけられた音だと悟る。意味深長な紬の制止に沈黙していると、紬の鋭い視線が如月を捉えていた。店内は賑わいに包まれていたにも関わらず、重苦しい沈黙が三人支配していた。
「魁翔…アンタは紗彩の気持ちを無碍にするつもりなの?アンタにとってはそれが正しい行動なのかも知れない。でも、紗彩の気持ちはどうなる?」
何かを噛み殺すような紬の声は落ち着きを払ってこそいたものの、怒気とも悲嘆とも名状しがたい激情を孕んでいた。紗彩の身に何か起こったのか、何か起こっていたとして、なぜ打ち明けようとする如月が紗彩の意思を無碍にすることになるのか。疑問と不安とが脳裏で肥大するが、それらを安易に解消できる状況でないことは火の目を見るより明らかだった。
「独りよがりの正義感に浸っとるっていうなら、否定はしまへんで。けれど、それは紗彩の意思を盾に自分が直接傷つけたくないだけなんやないでっか?それこそ一生癒えへん傷を負わせることになる」
「止めて。その話は前も、あの娘の意見を飲むってことでまとまったじゃない」
「感情の辛さには同意します。けれど、その場しのぎで今はどうにかなっても、彼は再起不能になるだけの後悔をせたろうことになる。それは紗彩が望んだ結果でっか?現に紬さんやって、目も当てられへん傷をせたろうとるやないでっか」
「もう…止めてよ」
項垂れながら独り言のように呟く紬の語気は叶わぬ嘆願のように儚く、喧噪に掻き消された。だが、紬は如月を説得することを諦めたのか、暗い表情のままこれ以上の抵抗を見せようとはしなかった。掴めない状況と二人の静かな激情に圧倒されながらも、紗彩に関して覚悟を要する話があるのだろうということだけは把握できた。暫しの沈黙と如月の溜息が事の重大さを物語っている。
「はじめくん、落ち着いて聞いてくれ。単刀直入に、紗彩はもう長くないみたいや」
刹那、酒場を包む喧噪がフェードアウトするような錯覚に見舞われた。胸の奥では左心房が大きく脈を打ち、その音が脳裏にまで響いているようだった。
「紗彩から聞いたよ。創、漫画家になって夢叶えたら紗彩を迎えに行くんだってな。・・・もし紗彩が長くないことを創が知っちまったら、創は紗彩の為に志半ばで夢を諦めちまうんじゃないかって。だから紗彩の余命のことは創に黙っておいて欲しいって…紗彩、そう言ってたんだよ。でも、それだけ時間がかかってもアンタなら絶対夢を叶えられる。その前借だと思って、紗彩に会ってみたらどうだ?…知っちまった以上、互いに後悔はして欲しくないからさ」
言いながら、紬は創の前にカーディナルが注がれたグラスを置く。オレンジ色の照明を反射する紬の左手薬指の宝石が眩しい。
夢は叶う。無責任な優しい嘘で創を慰める紬の姿を記憶の中の紗彩と重ね合わせながら、グラスの赤紫を呷る。
――自分の才能を信じるあまり盲目になり、紗彩の未来を束縛してしまったこと。それが凡人の罪状であり、既に背負っている後悔だ。
嘘と罪で割増されたカーディナルの味が、秘かにそれを物語っているようであった。
初めまして。絵と小説を描いたり書いたりしている朝桜 朔という者です。
今回初投稿になる本作品「永Q凍土」は、何者かに成りたいという願いと怠惰の狭間で煩悶する私の退廃的な日常から着想を得たものです。誰しもが一度は抱く「何者かでありたい」という願いは、「普通でありたくない」という、それこそありきたりな自己顕示欲からなるものであり、それが身の丈に合わない努力を自分自身に課しているのではないでしょうか。本作はそんなありきたりな価値観を抱きながら、理想と現実との埋められない差に絶望する青年の人間ドラマを綴りました。果たして創くんは夢を叶え、紗彩との約束を全うできるのでしょうか。また、非情な現実にどう立ち向かうのでしょうか。
乞うご期待です。