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リモートワーク中に会社に印鑑を押しに行った俺が少しだけ異世界に迷い込んだ話



 異世界の扉は、常に目の前にある。

 昔は、俺もそんなことを思っていた。そう、昔は。

 今は毎日、電車に揺られて会社と家を往復する日々。大学を卒業して東京で就職してからは、そんな日々を送っていた。


 しかし、そんな日常にある変化が訪れた。リモートワークだ。期限つきではあったが、緊急事態宣言を受けて、うちの会社もリモートワークが採用された。毎朝九時前後にPCでログインし、仕事をする日々。うちの会社は管理がゆるく、そこまで仕事内容を監視されることもなかった。

 満員電車に揺られる必要もなく、うちでコーヒーを飲みながら仕事をすることができる。終業後には、すぐにサブスクで映画やアニメを見る日々。

 控えめに言って、最高だった。


 何度でも言う。俺は、リモートワークを謳歌していた。

 ……もっとも、今週からリモートワークの日々はひとまずの終わりを迎えてしまったのであるが。


 そんなリモートワークの日々の、ある日のことを、記録として残しておこうと思う。



 あれは五月の初旬の頃。俺が会社へ出勤した、数少ない日のこと。そう、印鑑を押しに行った人のことだ。

 馬鹿げていると思いながら、乗客が数人しかいない電車に揺られ、俺は会社にハンコを押しに向かっていた。

 地下鉄の窓ガラスに反射するマスク姿の自分を見ながら。俺の頭の中ではずっと同じ考えがぐるぐるめぐっていた。

 この状況ではんこ押しに行くって何? 電子印鑑でよくね? ってか、サインでよくない? いや、これむしろ、もっと収束してからでよくない?

 しかし悲しいかな、しがないサラリーマンである俺は会社命令に背くことはできないのであった。

 会社の最寄り駅に着き、で改札を出る。Suica を使うのも二週間ぶりだった。道玄坂を出たところで、いつもどおり、会社へと向かう。

 ビルの間、閑散とした街を抜けていく。駅では片手で数えることができる程度の人数とすれ違ったが、いまは俺以外に人は見えない。車もいない。会社まであと1km ちょっと。それくらいのところで、急に空が曇り、雨が降り出した。

「嘘だろ、傘持ってきてねえぞ……」

 俺は一人愚痴った。仕方なく、ビルの軒下で雨宿りをした。


 雨宿りをしながら、今日は何のアニメを見るか考えていた時のことだ。

 俺の目の前を、猫が、歩いていた。いや、猫がいること自体は珍しくないのだが、普通の猫ではなかった。二足歩行する猫が、傘を手に持って歩いていた。


 俺は呆気に取られて、じっと見つめていた。

 どれくらいの時間だっただろうか。ごく短い時間だったとは思うが、俺は猫と目があった。すると猫が口をあけ、驚いたように見えた。猫は傘を持ったまま、二足歩行でビルの間へと走っていった。二本の足で。

 俺は気になり、周囲を見回して誰もいないことを確認した上で、猫の後を追いかけて走り出した。ビルの間を一つ抜け、二つ抜け、猫を追いかける。黒い街並みに、猫のさす赤い傘を追いかけた。


 路地裏の角を五つ、六つほど曲がったとき、猫の姿は見えなくなった。

「見失ったか……?」


 今のはなんだったんだろう、俺の見間違いか?

 この人のいない街の雰囲気に当てられただけだろうか? と考えていた。

 もう戻るか、と考え戻ろうとした時、あることに気がついた。


 今、俺は路地裏の四つ角に立っているのだが、ひとつの角に見える景色には、雨が振っていないのだった。

 俺はそちらに吸い込まれるように、足を進めた。


 ビルの間を一つ抜けたところで、雨が病んだ。振り返ると、雨一歩先には雨が振っている。

 ビルの間を二つ抜けたところで、風を感じた。

 ビルの間を三つ抜けたところで、足元が草原になっていた。

 ビルの間を四つ抜けたところで、視界がひらけ、草原が広がっていた。


 草原に一歩踏み出し、振り返る。後ろには、相変わらずビルの景色が広がっている。

「どうなってんだ……?」


 俺は草原の方へと視線を戻す。遠く向こうには山並みが見え、晴渡った空には鳥……鳥だろうか? 鳥が三、四羽ほど気持ち良さそうに飛んでいた。

 そして、ここから見える丘の上には、煉瓦でできているように見える建物があった。

「あら、お客様ですね」

 急に声がかけられた。

「どうぞ、寄っていきます?」

 そう話す彼女は、メイド服のような物を身に付けた、美人だった。強いて言えば、頭についている猫耳が本物のように見える意外には……。

「あたし、見つかってないよ」

 その声の方を見ると、その彼女の足に隠れるようにして、これまた小さな猫耳少女がいた。

「はいはい」彼女は優しくその少女をいなした。

「他の世界から、迷い込まれる方、よくいらっしゃるんです。あの丘の上に見える建物、私たちの店なんです。寄っていきます?」

「……お言葉に甘えて」

 俺はその二人についていった。


 その西洋風の建物はどうやら、俺の世界で言う喫茶店のようだった。中には多くの客がおり、繁盛しているようだ。エルフっぽい見た目の人や、いかにも冒険者っぽい人もいる。

「カウンターにどうぞ」

 俺は進められるがままに、カウンター席に腰掛け、目の前に出されたメニューらしきものを見た。

 読めない……。

 見慣れない文字。なんだっけ……強いて言えば、キリル文字っぽく見えるだろうか。うまく表現できないが、古代エジプト文字のような絵柄っぽいものではなく、これは字だ、という感じの形をしている。ひとつひとつの文字区切りがはっきりしている形態のようだった。

「じゃあ、これを……」と俺は指差した。

「かしこまり!」先ほどの少女が元気よく注文をとってくれる。


 注文した後でふと気が付き、先ほどの彼女に話しかける。

「そういえば、お代は……」

「ああ、いいですよ。今回はサービスです」

 初めて迷い込んだ人にはサービスするようにしてるんです、と彼女は笑った。


 俺は続けて疑問を口にした。

「日本語が話せるんですか?」

「まあ、ここはジャポンに近いーーあなたの言葉だと日本、でしょうか?ーーそう、日本が近いですからね。もっと他の国が近いところにもいろんな入り口がありますよ」

 だから、少しなら話せますよ、と彼女は言った。

「ここは、じゃあ、俺がいる世界とは別の世界なんですか?」

「そう、別の世界、という表現がしっくりくるかもしれませんね。もっとも、境界がはっきりしているのかどうか、私は知りません。今朝は、こっちの世界でも雨が降っていたんです。おそらく、あなたの世界でも降っていたんじゃないですか? だから、空はつながっているのかも知れませんね」

 彼女はそう説明した。


 俺がその言葉を反芻していると、「どうぞー!」という元気な声と共に、先ほどの少女が一つのカップを俺の前に置いた。カップからは湯気が立っている。

「いただきます」

 俺はカップを口に運ぶ。鼻孔へと抜ける豊潤な香り。

「これは……コーヒーに似てますね、美味しいです」

「まあ、世界間の交流は意外と多いですからね」

 その入り口に気づくかどうかは別としてね、と彼女は笑った。

「あなたはあまり驚かないんですね」

「いや、そんなのことはない。すごく驚いています」

「? そうですか、顔色にあまり変化がないものですから」

「……ああ……よく言われます」

 悲しいかな、これも身に付けた処世術である(と、思っている)。できるだけ、顔色に感情を出しすぎないようにする。同僚との間でも、取引先との交渉でも。


 俺は別の疑問を口にした。

「この世界に迷いこむ人は多いんですか?」

「んー、そうですね……」彼女は手を顎に当てながら考える。

「時折、紛れ込む方もいますね……短い時間でみれば稀ですが、長い時間、歴史、という期間でみれば、たくさんいらっしゃいますよ」

 彼女は言葉を続ける。

「二回、もっと複数回来られるかたもいますし、一回だけのかたもいらっしゃいますね。何がきっかけとなるかは私にはわかりませんが」

「なるほど……」

「あなたもまた来ることがあるかもしれませんよ! 迷い来む、といった表現の方が正確かもしれませんが……」

 彼女の視線に目をやると、俺の足元で先ほどの少女が俺の鞄をあさっていた。

「めっ、だめですよ、珍しいからってお客さんのものを勝手にさわっちゃ」

「かまいませんよ」どうせ大事なもんは持ってきてないし。

「これ、なにー?」と少女が手に持って尋ねてきた。

「ああ、印鑑だよ」

「印鑑?」

「そう、朱肉をつけて押すんだ」

 俺は、喫茶店の紙ナプキンに朱肉をつけて押した。

「すごーい!」

「ああ、そういえば思い出しました」彼女はぽん、と手を叩いた。

「ありますよ、うちの店にもありますよ、似たようなものが」


 彼女は店の奥から箱を持ってきて中身を取り出した。

「手を出してください」

「? こうですか?」俺は言われるがままに従う。

 彼女は俺の右手の甲に、それを押し当てた。

「はい、これでOKです」

 俺は右手の甲を見る。何か変化があるようには見えない。

「魔法のスタンプです。この世界に来た、という証です」

 目には見えませんがと彼女は付け加えた。

「ありがとうござます」

 テーマパークみてーだな、と俺は思った。


 カップの残りを飲み干し、俺は立ち上がった。

「そろそろ帰ります。ありがとうございました」

「またねー」

「おう、いつでも来いよ! 歓迎するぜ!」

 近くの席に座っていた、冒険者風の男が言った。顔が赤みがかっている。少し寄っているようだ。

「ありがとうございます」特に彼とは喋ってはないけど……。


 帰り道ですが、と彼女は言った。

「この道をまっすぐ降りて、あなたの世界の建物の間を抜けていけば、そちらの世界へと続いています」

「わかりました」俺はうなずく。

「では、また、いつか」

 俺は名残惜しい気持ちを胸に、草原の丘を下っていった。そして、ビルの狭間の前までたどり着いた。おれはその隙間へと歩みを進める。


 ビルの間を一つ抜けたところで、足元が草原からコンクリートに変わった。

 ビルの間を二つ抜けたところで、風の匂いが変わった。

 ビルの間を三つ抜けたところで、ぱらぱらと小雨が降り出した。

 ビルの間を四つ抜けたところで、街の雑踏が聞こえた。


 雑踏の音と言っても、人影は見えない。人もいなければ、車もいない。でも、なんとなく聞こえる。なんというか都会特有の、街の音だ。

 俺は最後のビルの隙間を抜け、通りへと出る。

「帰ってきたのか?」

 俺は誰にでもなく呟いた。

 あの世界に迷い込む前に降り出した雨は少し、小降りになっていた。俺は会社へむけて歩き出す。あと五百メートル前後の距離。

 会社に着くと、社員証のICで仕事場に入り、処理すべき書類に印鑑を押す。


 仕事終了!


 仕事が終わったらあとは帰るのみ。俺は会社を後にする。再び外へと出ると、もう空には晴れ間が差していた。

「いい天気だな」なんとなく俺は呟く。

 空はいつもより青い気がした。人の往来が減ると、やっぱり空気も綺麗になるのだろうか。雨が振ったことも、関係しているだろう。


 俺は辺りを見回して、車もなく、人もいないことを確認してから右手を空に透かす。

 そこに、異世界のスタンプが見えるような、そんな気がした。

 空は綺麗な青だった。



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