罪の毒と赦しの茨
成熟した美の愚かしさ
気が付けば、走って居た。
漆黒の闇が、荒々しく渦巻く中を。
既に、髪も息も乱れて、息苦しい。
気付けば 玉兎王国の装束も、顔も手足も、血と泥で酷く、汚れて居た。
でも、彷徨っては、居ない。
暗闇が吹き荒れる中、導く様に、微かな光の小道が、ずっと先まで続いて居たから、其の上を頼りに、走る。
闇から逃げる様に、光を追って、走っていたら、大きな境内社へと辿り着いた。
強大な光を放ち続ける境内社の御蔭で、荒れ狂う闇は弾かれ、追って来れない様子だった。
此れで、闇に呑み込まれずに済むと、一息付いた。
だが、境内社の近くに寄ると、奇妙な風が、足に絡み付いて来た。
まるで、其れ以上、女神が歩み寄る事を不快に思い、拒絶するかの様に。
だから、足を止めた。
そして、境内社を見つめた。
此処は、“至高の存在”の御霊が御座す、“聖地”だ。
見つめた先に、一際、眩い耀きを放つ、光の塊りが、存在して居た。
直視する行為すら、万死に値する、とでも言う様に、厳しい神気を浴びて、女神は、目も喉も臓腑すらも焦げ付く感覚に襲われ、苦痛に顔を歪めた。
「あの実を食したか…。」
「……はいぞよ。」
「其方は、唆されただけだ。ならば、今回に限り、目を瞑り、寛大な処置を施そう。」
「いいえ、其の必要は、ありませんぞよ。」
「“Sköll”と同じ、未来永劫に続く戦いに、身を落とす道を選ぶか。」
「はいぞよ。」
「先程の暗闇からも逃げ、此の己にも歯向かわん脆弱な女神がか。」
「はいぞよ。」
「笑えぬ。彼奴は、嬉々として暗闇を真っ向から捩じ伏せ、此の己すらも手に掛けんとした、異常で強靭な心身を持ち得て居る。其方とは釣り合いが取れぬ。」
「其れでも、脆弱な身なれど、男神同様、此処まで来る事が出来ましたぞよ。」
「……彼奴とは違う“強さ”が、其方に、有ると?」
「男神は、確かに強く、逞しい御方で御座居ますぞよ。なれど、女神には女神なりの、強さ…しぶとさが御座居ますぞよ。此処に到達出来た事が、其の証ですぞよ。」
「強さの種類の違いと申すか。ならば、此の実を、今度は自らの意志で、食して、其方の強さを証明してみせよ!!」
差し出されたのは、月宮殿を染め上げた血の様な、果実。
赤よりも、緋色に近く、人の肉の味するとされる、熟れた柘榴の実。
林檎の時と、同様に、手を付けて行く。
一口、齧り、粒を軽く、ひと舐めする。
身体中の、血が騒ぐ。
心の中が、高揚する。
心身の全てが、燃えて居る様にも、凍て付く様にも感じられた。
苦しくて、飲み込んだ矢先の喉から、焼け爛れて行く様な、激しい痛み。
「ぅ…ぐ……。」
そして、気付いた。
此れは、単なる柘榴の実では無い。
口に含んだ瞬間、分かってしまった。
此の柘榴の果肉や果汁は、死した月の同胞の血肉から出来た、黒不浄の塊りだ。
穢れが、女神を喰らい付くそうと、蝕んで行く。
まだ、柘榴の実は、半分も残って居ると言うのに、女神の顔色は、既に、血の気の失せた土色に成って居た。
“至高の存在”が、女神の限界を悟った様に、目を伏せた。
しかしながら、其の諦めは、直ぐ様、欠片等、微塵も残され無い程、木っ端微塵に裏切られる事に成る。
ピチャリ
チャプリ
食べる音が止まない事を、疑問に思い、伏せた瞼を持ち上げ、女神を見て、驚きに目を見開いた。
穢れに苦しめられて居る筈の女神は、辛そうに、グッと眉根を寄せながらも、苦笑とも、微笑とも、つかない色の滲んだ笑みを浮かべて居た。
そして、決意の色を、清く澄んだ光に変えて湛えた目の奥からは、憂いと、喜びと、優しさの、慈愛に満ちた、浄化の涙を、溢れさせ、泣いて居た。
パタタ……、
女神の大きな双眸の瞳からは、其の涙が、キラキラと、幾つも、頬を伝って零れ落ちる。
両の手にある柘榴にも、何度も、瞼を忙しなく瞬きさせたせいで、弾かれた涙が落ちて、浄化の雫を浴びた柘榴は、光の中に滲む様に消えて行った。
「……近う寄れ。」
“至高の存在”は、拒絶の意を示して居た神気の矛先を収める。
女神は“至高の存在”が手の届く所まで歩み寄ると、傅く。
神気を帯びた、指先が、ゆっくりと女神の額に近付き、触れる。
触れられた額が、光りを放ち始めると、“至高の存在”は、指先を離した。
其処には、烙印を押したかの様に、月と十字架と狼の形を1つに纏めて模った刺青の様な印が、浮かび上がった。
“ソレ”は、“至高の存在”が、女神を、男神同様、故郷の“星”を滅ぼしたと認める“罪の烙印”。
同時に“ソレ”は、此の世界の戦いに身を投じる事を許された、新たな“戦士”として、認めた証でもあった。
「其方の覚悟、確かに受け取った。“Hati”よ。」
「有難う御座居ますぞよ。」
柔らかな女神の返答に、“至高の存在”は、唇を、真一文字に引き結んで、黙った。
其の閉じた口許から、喉を通って胸へと、じわじわと、苦さが広がり、古傷が痛む様な、鈍い痛みに変わる。
そんな胸中を悟られぬ様、たった今、“Hati”と名付けた戦士の額辺りへと、手を翳す。
すると、“Hati”の身体は、キラキラと輝き始め、やがて、銀色の光の珠に、姿を変化させた。
“至高の存在”が、指先を、スイ…と、泳がせる様に振ると、光の珠は、上へ、上へと昇る様に飛んで行った。
And that's all…?
(それでおしまい…?)