キリヤ公国建国史 第13回 キリヤ公国とアマテラス神皇国地方・天下統一っ!! 1
マギアンティア世界統一暦・1555年・6月1日・午後14時45分頃のこと、播磨国の東部地方に在る三木地方を治めて居たと別所長治が頑強に抵抗を続けて居た。
この頃の播磨国は戦国騒乱の只中に在った。
旧主である細川元晴が織田・和紗・信長に討たれて以来、各地の国人衆達が互いに国土拡大を狙って争い合い、混迷を深めて行くが故に播磨国は、統治者の居ない群雄割拠の国と化してしまう。
此処を天下統一の為に、国土としようと考えるのは、アマテラス神皇国地方の最大勢力である織田家。
しかしながら、毛利大名王家国への侵攻がまじかに成って居る事を分かって居た第二の勢力を誇る毛利家は、自国の自衛の為に播磨国への介入を決意する。
播磨国内に散らばって国土を持って居る国人衆らは、毛利家と織田家に別れて、そん傘下で一進一退の攻防と言う播磨国の奪い合い戦争へと突入して行く。
黒田家前当主である黒田職隆は、御着地方を治める国人衆にして、播磨国御着城主の小寺政職の命令を受けて、織田家への使者を送る事に成る。
小寺家は混迷を深める播磨国の中で、黒田家の跡取り娘である黒田・雫・隆孝に、このアマテラス神皇国を統一するのは織田家の織田・和紗・信長公であると進言し、小寺政職も様々な角度から考えた末に、織田・信長こそが天下人である判断。
黒田・雫に岐阜に行くように命じる事に成る。
この時の黒田・雫は、小寺軍の中で様々な功績を上げて居り、小寺政職も絶大な信頼を寄せて居た。
そんな黒田・雫は、何時しか播磨国の秀才と謳われて居た。
その黒田・雫が岐阜城に赴き、織田・和紗と謁見し、小寺家の臣従を申し出ると、「だったら貴様が畿内と播磨国を纏めて見せろ」と言われ、その方面軍司令官として、羽柴・陽菜を採用した事もあり、雫はその補佐を命じられる。
その後は、近畿地方の平定戦での戦いに措いて、各地を陽菜と共に転戦し、その功績から羽柴家の軍師にも登用される。
しかしながら順風満帆な出世を続けて居た黒田・雫に不幸が訪れてしまう。
それは織田家の臣従する以前からの顔見知りでもあった荒木城の城主である荒木村重が、織田・和紗からの度重なる無茶苦茶な命令に疲れ、心労困憊な陥って居た所に、毛利家からの寝返りの誘い受けてしまう。
そんな荒木城へと降伏の使者へと赴く事が在った。
その時に村重の罠に掛かり、彼の手によって1年間の投獄生活を強要されて居た事も在るせいか、少々右足を悪くしてしまって居る。
この時に小寺政職も毛利家の誘いに乗り、織田家と敵対し、黒田家は小寺家と袂を分かつ決意をする事に成った。
この一連の策謀を考えたのは、毛利三姉妹の小早川・隆美・影長である。
更に小早川・隆美は、黒田家を窮地に追いやる為に、織田・和紗に雫が裏切って居るとの噂を流すと同時に、播磨国の国人衆を分断したり、毛利方に寝返らせたりして見せたのである。
この時、黒田・雫の父親である黒田職隆は、蒸すの窮状を和紗の目の前で弁明し、気に入らないのならば、黒田家一族尽く切り捨てられよと言い切ると、その啖呵を切る職隆の姿を見下ろして居た和紗は、『是非に及ばず』と言い切って、一刻も早く荒木城を攻め落とし、雫を取り戻せと羽柴・陽菜らに命じる。
程なくして荒木村重は、織田軍の猛攻に耐え切れずに逃亡し、村重に投獄されて居た雫は、荒木城から救出されて現在に至って居る。
この一連の戦いで窮地を脱して黒田・雫は、和紗と謁見した際に、播磨国を3月以内に切り取って見せると宣言。
羽柴軍は後詰め軍の三好・慶香・長慶、明智・十華・光秀、長宗我部・智華・元親らの協力体制を得て、播磨国各地を転戦して居た。
三木城と別所長治軍を包囲した羽柴軍は、その周囲を蟻の這い出る隙間も無いくらいに付け城で塞ぎ、誰も出入りが出来ないようにする。
後に三木城の兵糧攻めは、黒田の三木の干殺しと言われる事に成る。
三木家は、織田家と黒田・雫を裏切り、黒田家を窮地に追いやった播磨国の国人衆どもを許す積りは無く、徹底的に叩き潰す攻め方は苛烈を極め、ひもじい想いを散々にさせられた挙句に降伏させられ事に震え上がる事に成った。
その最後の決戦で、羽柴軍は毛利家の同盟大名王家、宇喜多直家軍と戦い、これを撃退して居る。
この日の戦は、竹中・半那・治重の総指揮のもと、全て蹴散らせてしまうのであった。
その中で松下・佳代・之綱は、自力で敵方を蹴散らしたと陽菜たちから絶賛したと言う記録が残って居る。
この三木城の戦いの結果、別所長治は羽柴軍の降伏。
処刑される覚悟で居た長治だったが、日干し攻めに遭って居た事から極度の栄養失調を直す為に、一族・家臣・領民達らと供に、ナデシコ自治統合海軍・第二戦隊の病院船へと移送され、治療を受けて居た。
戦後処理の沙汰は、播磨国地方とアマテラス神皇国地方からの国外追放処分とされたが、その引き取り先はキリヤ公国本国政府たる中央政府が引き取り、衣食住の全てを与えられ、身の振り方を決める事に成った。
その子孫たちらは、キリヤ公国統合連邦共和国の省庁内の官僚・職員に成ったと言う。
マギアンティア世界統一暦・1555年・6月1日
毛利軍を中心とした中津国地方連合軍は、宇喜多軍先鋒軍として、三木城救援作戦を展開する。
同時に羽柴軍は、美濃国州の天才とか、アマテラス切っての天才軍師と言われる竹中・半那・治重の総指揮の下で、三木城攻略作戦を展開するが、その結果は竹中・半那の大活躍により、羽柴軍の勝利が確定する、
三木城攻略作戦の目途が立った羽柴軍は、戦勝祝賀会を開く中で、毛利家三姉妹の三女、小早川・隆美・影長が、羽柴軍総大将である羽柴・陽菜・秀良との会談を申し出て来た。
小早川・隆美は、毛利軍の一軍である小早川軍を率いて播磨へとやって来て居たが、此処に来て、とある出来事が切っ掛けで、状況が一変してしまった事から、毛利家本国領である安芸国に居る姉である毛利・輝実・隆宗から織田家と停戦するようにとの命令を受けたからであった。
その原因はキリヤ公国連合国のナデシコ自治統合海軍艦隊が現れたからであり、移民公募と言う前代未聞の移民募集をアマテラス神皇国地方全土に向けて発信したからでも有ったからだった。
これにより毛利家と織田家は停戦。
更には毛利家は。キリヤ公国連合国への加盟を決めた為に、講和条約を締結し、織田家は播磨国を取り、代わり毛利家は但馬国を得て居るが、島津家による九州島地方戦役後のアマテラス神皇国地方の国土整理政策決定案に措いて、但馬国を変換して欲しいと申し出た。
これにより、キリヤ公国本国の国土の一部を毛利家に譲る代わりに、但馬国を山名豊国を支藩王とする与力大名王家を立ち上げる事に成功を収めて居る。
こうして織田家と毛利家は、キリヤ公国連合国のナデシコ艦隊の出現により、播磨国を織田家が治め、但馬国を毛利家が治める事で、お互い停戦をする事に成ったのである。
織田家はキリヤ公国連合国と成った毛利家領国である中津国地方への進軍を停止、四国地方と九州地方への侵攻計画へと切り替える事に成る。




