キリヤ公国建国史 第12回 キリヤ公国とアマテラス神皇国地方転換点と足柄室町幕府王朝の終焉っ!!
ゲルニアン帝国との戦争が控えて居るキリヤ公国連合国は、人手不足に困って居た。其処で勇治とキリヤ公国中央政府の首脳閣僚たちらは、キリヤ公国連合国中央政府として、アマテラス神皇国地方の全土に向けて、移民公募と言う前代未聞の公募を行った。
これはマギアンティア世界に措いて前代未聞の試みであった事を付け加えて置く。
そんな中で、キリヤ公国連合国中央政府は、織田大名王家領・羽柴家委任統治領国・摂津国・大坂市・大坂城を本拠地として居る羽柴・陽菜・秀良と接触する事に成った。
しかしながら、この頃の羽柴家は、毛利家との戦争の真っ最中で、アマテラス神皇国地方の覇権を巡っての勢力争いや播磨地方の国人衆らの陣取り合戦の駆け引き戦争に明け暮れて居た。
両者の実力と言うのは、一進一退の五分と五分の状態で、取ったり取られたりょ繰り返して居た。
そんな中でキリヤ公国連合国中央政府は、移民公募を行った事で状況が一変してしまう。
伊達家は、独眼竜と謳われる若き当主である伊達・藤枝・政実が、キリヤ公国連合国の国力と軍事力の高さを見抜いた事から、桐谷勇治とキリヤ公国連合国中央政府の傘下に入りたいと、キリヤ公国連合国へと連合加盟申請を行う事を宣言。
やや遅れて、毛利家では、キリヤ公国連合国へと加盟申請をしなければならない事態が発生してしまう。
それはキリヤ公国連合国によるアマテラス神皇国地方への介入が気に食わない事と、領内で潜伏生活や国外で毛利家に反抗を続けて居る尼子家残党の者達らが、キリヤ公国連合国へと渡海するべく、広嶋港を目指す者たちが領内通過を認めて欲しいと根回しをして来た事が気に食わないもと言う吉川・春美・隆春。
彼女は毛利家に惨敗して国を追われ、反抗活動を続けて居る尼子家残党らを徹底した取り締まりをして居た。
そんな理由から、尼子・勝美・久勝を始めとした尼子家残党達を広嶋港で捕えようとするが、寸での所でナデシコ自治統合軍に保護されたと言う諍いが発生。
この事が原因で、毛利家当主である毛利基就は、事態の責任を取って隠居を宣言し、新当主を毛利・輝実・隆宗と成り代替わりを宣言し、キリヤ公国連合国へと加盟申請をしたのだった。
また越後国の大名王家たる上杉家では、当主である上杉・剣信・輝清が、軍神・毘沙門天からの神託を賜ったと騒ぎ立て、そのまま彼女はアマテラス神皇国地方からキリヤ公国本国へと渡海してしまう。
その家督は、姉の息子である甥の上杉影勝に移り、一部の重臣と直臣。子飼い家臣を引き連れて越後を旅立って行ったのである。
それから3日後のこと、致し方無く上杉家の家督を急遽、継ぐ事に成った上杉景勝。
彼は新たな上杉家の当主を任される・・・・・・と言うか、丸投げをされてしまった上杉・剣信の甥に当たる上杉景勝は、この時18歳。
跡目を相続かるにはやや早い年頃とも言えた。
彼は上杉家のベテラン家臣団が立ち去った事で、若手家臣団で、景勝の直臣達が家老職を務める事に成った為、春日山城の評定所へと集まり今後の方針を決めようと集まる。
新たな上杉家の筆頭家老と成った直江・愛華・兼継と次席家老と成った 大国・七恵・実頼と共に集まった上杉家の評定衆達のメンバー達は、先代達から丸投げされた上杉家の運営を如何したら良いのかと頭を抱えてしまう。
何せ、引き継ぎ作業もソコソコして、上杉・剣信を追いかけて行ってしまったからだった。
上杉景勝は、其処からは母親のアドバイスを受けて、やけっぱちな感じに、上杉・剣信から丸投げされた上杉大名王家国の統治権問題をキリヤ公国連合国中央政府に丸投げ、詰まりはキリヤ公国連合国への加盟申請をしたのであった。
そんな情勢下であるアマテラス神皇国地方中で、マギアンティア世界統一暦・1555年・5月30日の事である。
キリヤ公国連合国の使者として現れた 第一連合自治方面軍・ナデシコ自治統合海軍・第二戦隊と、その艦隊司令官である南雲夕霧中将。
羽柴軍の2枚参謀看板軍師にして、播磨国州の秀才と謳われて居る次席軍師の黒田・雫・隆孝と会談。
この会談では、以下の交渉が話し合われた。
堺市港と大坂市港の利用を許可。
キリヤ公国連合国に保護下に入りたいと言う如何なる出自・事情・問題を抱えた人物であっても妨害をしない事。(例えそれが、織田家に取っての敵対勢力で有っても。)
各地の大名王との交渉調整の仲介。
足柄将軍王である足柄・一輝・宗輝との謁見の段取り。
港湾施設の利用料と各種仲介料に金塊100万本が支払われた。
交渉に当たった黒田・雫は、金塊100万本をポンと支払う余裕があるキリヤ公国連合国の国力の高さに驚愕し、目の前に現れた鋼鉄戦艦艦隊の実力のも舌を巻いたと言う。
また、彼女がキリヤ公国連合国との初接触をした際の感想は、逆らっていけない大国として、陽菜と和紗の二人に意見書を進言して居たと言う記録が残って居る。
マギアンティア世界統一暦・1555年・6月3日のこと、リヤ公国連合国の使者として現れた 第一連合自治方面軍・ナデシコ自治統合軍・第二戦隊司令官・南雲夕霧中将は、羽柴・陽菜と織田・和紗の仲介を得て、室町幕府・足柄将軍王御所殿を訪れていた。
足柄・一輝・宗輝とは?アマテラス皇国足柄幕府将軍王朝の一三代目将軍王のことで、アマテラス神皇国地方の国王に当たる人物だった。
しかしながら、この頃のアマテラス皇国足柄幕府将軍王朝政権は、平庵京の乱の影響で、既にガタガタの崩壊寸前の状態に有った。
事の起こりは、8代将軍王である足柄義教が守護大名家同士の政権争奪戦により、暗殺されてしまった事が発端である。
その犯人は不明のままと成り、その後継者に誰を押すのかで争う事に成る。
先ず白羽の矢が立ったのが、8代将軍王である足柄義教の長男である足柄義勝だったが、この義勝は9代足柄将軍王と成ったが、その後一年が経ったある日の事、僅か9歳と言う年齢でこの世を去ってしまう。
この早世に付いて、巷では毒殺では無いかとも囁かれた。
長男が無くなれば次男が選ばれるのは道理と言う物で、10代足柄将軍王と成るが、流石に8歳で跡目をと言うのは体裁が良くないし、将軍王も務まらないだろうとして、16歳まで就任を遅らせてから就任と成った
それから10年後のこと、その義政がとある問題を起こした。
足柄義政と言う人物は、とにかく芸事に傾倒するのが大好きな性格で、政治なんぞ二の次、三の次と言う性格。
25歳までに跡目を決めてさっさと将軍王を辞めたいと考えて居た。
これが平庵京の乱の切っ掛けと成った出来事である。
手っ取り早く後継者を決めるべく、義政が20歳の時に、一つ下の弟である足利義稙を後継者に指名するが、25歳の時に息子である足利義尚が産まれてしまう。
これに妻である足柄富子は、我が子が将軍王に慣れないと不満を漏らした。
その事に付け居ろとうと義尚の後援を申し出て、義政に後継者にするように迫ったが、義稙の後援と引き換えに管領職を任される予定だった細川勝元と細川政元兄弟が待ったを掛けた。
しかしながら、この後継者争いは、只の言い争いだけで済む筈も無く、両者はとうとう在領地の国元から大軍を率いて皇都・平庵京へと入京。
両軍は皇都・平庵京のど真ん中で激突し、平庵京の乱が勃発した。
更に厄介な事に、山名宗全は、味方すると言って来た大内政弘を引き入れた事により、其れならばと細川勝元と細川政元兄弟も手当たり次第に援軍要請をしまくった。
これにより平庵京の乱を切っ掛けにした第4次内戦たるアマテラス戦国時代の到来により、全国規模の内乱勃発が止まらなく成り、果ての無い戦いが始まって行く事に成る。
さて、北条家の祖である伊勢・新九郎・盛時は、平庵京の乱の時に何をして居たのかと言うと、10年間も皇都・平庵京で戦って居た東西軍に対して停戦を呼びかけ、取り敢えず足利義稙を10代足柄将軍王とし、その間に何か遇った場合は、その弟である足柄義澄を11代足柄将軍王とし、何も無ければ義尚に跡目を継がせれば良いのでは?と提案して、争いを止めたと言う。
その後足柄将軍王家では、義稙が病気を患って将軍王を退くと、足柄義澄を繋ぎに11代将軍王と成り、12代将軍王と成る予定だった義尚は、結局は病死。
12代将軍王と成ったのは、義澄の長女であった足利・阿子・義晴が就任するのであった。
この騒動を収めた功績で、伊勢・新九郎・盛時は、伊豆国の守護大名王に任じられ、伊豆へと下向して行ったのであった。
これが後の北条家こと、後北条大名王家と成って行く事に成る。
詰まり、この頃のアマテラス皇国足柄幕府将軍王朝政権は、何時ぶっ倒れても可笑しく無い状態だったのだ。
それを織田・和紗・信長が支援と保護をする事で、延命措置が取られて居るのだった。
その会談の席では、アマテラス神皇国の200年も続いた足柄室町幕府将軍王朝、そして足柄・一輝・宗輝政権も力が無く、次世代将軍王と別将軍王朝政権が求められて居るとした上で、第13代足柄将軍王である足柄・一輝自身が、アマテラス皇国足柄幕府将軍王朝政権を終わらせて、キリヤ公国連合国の国防大臣にならないでしょうかと誘ったのである。
突拍子もない誘いを持ち掛けられた足柄・一輝は、面白いと思い、その誘いを受ける事に成った。
足柄室町幕府王朝・第13大将軍王である足柄・一輝・宗輝は、足柄室町幕府王朝の閉じると言う電撃宣言をアマテラス神皇国全土に向けて発表し、多くの大名王家とアマテラス神皇国民達に衝撃を受けさせた。
足柄・一輝を庇護していた織田家は、急遽、足柄室町幕府王朝が抑えていた山代国・皇都・平庵京の防備と統治を近くを治めていた明智・十華・光秀に任せて行く事と決めたのであった。
この時からアマテラス神皇国は、戦国時代から新たな時代へと向かう事に成る。
一輝の将軍王の引退宣言は、安土・桜山時代の始まりを迎えた事を意味して居た。
そして、全国の大名王家は織田家を倒し、皇都・平庵京を取れば、次代の将軍王と成れると考え、更なる群雄割拠を深めて行く事に成った・・・・と思われたが、又もやキリヤ公国連合国の介入により、織田・和紗・信長が5代目の将軍王朝、織田安土幕府政権を確立した為、残る勢力である島津大名王家・武田大名王家・北条大名王家らは、キリヤ公国連合国と対立を深めて行く事に成ってしまうのだった。




